(562) “あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは1つだけです。”

 90歳以上の方々に行った調査で、「もう1度人生をやり直せるとしたら、自分の人生のどんなことを変えたいですか?」という質問に対し、ほとんどの方々の回答が次の3つのことにまとめられたそうです。  1.家族や友人たちともっとたくさん時間を一緒に過ごす。  2.たとえリスクを冒してでももっとたくさんの事にチャレンジする。  3.自分の死後、後世の人たちの益となるようなもののために時間と労力を使う。  私たちは「目先のこと」、また「その時その時の自分の利益になること」にあまりにも多くの時間を使い過ぎているのかもしれません。言い換えるなら「誤った優先順位」に従って生きている、と言えるのではないでしょうか。天地創造の神は、私たち1人1人を『特別な使命』とともにこの地上に送り出してくださいました。それを捜し、見出し、その一事に全力を尽くすことこそ『生きがい』に通じる道なはずです。  これを読んでくださっている方々のほとんどは、未だ90歳には至っていらっしゃらないと思います。まだまだ遅くはありません。たった1度きりの人生です。上記の3つのことを念頭に置き、「神が自分に与えておられる使命」を模索しながら、ぜひ残りの人生を悔いのないように過ごしていただきたいと思います。

(561) “イエスは言われた。「あなたがたの信仰の通りになれ!」”

 「幸福な人」と「そうでない人」とは、どう違うのでしょう?「お金や財産をたくさん所有しているかどうか?」「たくさんのことを知っているかどうか?」「多くの友人や家族に恵まれているかどうか?」もしそうだとしても、『多い』と『少ない』との線引きはどうやってするのでしょうか?『幸福な人』とみなされている人々でも、すべての点で成功し、あらゆる物を豊かに持っており、何でも知っているわけではありませんよね?  『幸福感』というものは、実はその人が「物質的・環境的に恵まれているか否か」とはあまり関係がありません。むしろその人の「人生に対する態度」に大きく関係があるのです。聖書は、「人とは、その人が『自分のことをどういう人間と考えているか』によって形造られるものだ」と教えています。  もちろん「人生に対する正しい態度」を持っていたからといって、全ての事がうまく運ぶわけではありませんが、「悲観的な態度」で取り組んだ場合よりも、間違いなく良い結果を生むでしょう。「幸福感に満ちた人」は、必ずしも『全ての良いもの』を持っているわけではありませんが、少なくとも「全てのものの良い点」を見出すのに秀でているのではないでしょうか?すなわち、他の人には喜べないことを喜ぶことができる術をわきまえているのです。  医者たちに「病気に対する『態度』は、あなたの患者の回復に影響がありますか」と尋ねたら、どんな答えが返って来るでしょう?また教師たちに「勉強に臨む『態度』は、あなたの生徒の成績に影響があるでしょうか?」と尋ねたら、どのような答えが返って来るでしょうか?間違いなく、「とても大きな影響があるに決まってますよ!」と答えるでしょう?  私たちは『神の作品』です。神は私たちを「豊かな人生を生きるように」とお造りになったのです。私たちが「正しい、積極的な態度」で人生に臨むなら、私たちは神の助けを体験できるでしょう。さあ、今日も張り切って前を向いて進みましょう!

(560) “選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。”

 人生に対する態度の中でも最も重要なものの1つは、「常に学ぼうとする姿勢」ではないでしょうか?「自分はもう十分知り尽くした。もはや新しく学ぶべきことは1つもない」と言うなら、その人はそれ以上成長する機会を逸しているのです。  ローマ時代の学者であった『マルクス・ポルキウス・カトー』は、80歳になってからギリシャ語を学び始めました。周囲の人々から「何故その年になってギリシャ語を?」と尋ねられると、彼はこう答えたそうです。「だって『今』が残された生涯で1番若い時じゃないか!」  多くの人は『学ぶ』ということを「人生のある期間に限られた1つの行為」と考えているようですが、実は『学ぶこと』というのは「生涯にわたる営み」なのです。ある調査によると、学校を卒業した『大人』のたった3分の1だけが、卒業後に最低1冊の本を読み通すそうです。何故なのでしょう?それは、多くの人が『学習』というのは「学生のためだけの営み」であって、「より良く生きるための道」とは思っていないからです。  「肉体はある年齢を過ぎると徐々に衰えて行くけれど、精神は『生きる態度』に比例して成長し続ける」ということが科学的に証明されているそうです。つまり「精神的に成長し続けるかどうか」は、「私たちが『学ぼう』としているかどうか」にかかっているというわけです。『精神的成長』は、私たち自身の『選択』によるわけです。  私は60歳を過ぎましたが、毎朝毎晩『聖書』をじっくりと読み、黙想します。そして私は自分の『思い』が日々強められていることを実感しています。「神は私を喜んでいらっしゃる。神はこの世界のために、まだ私を必要としていらっしゃる。」 そんな思いが私の心に湧いてきます。私たちはこのように、生きている限り『成長すること』を選び続けることができるのです。

(559) “あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。”

 『信仰』と聞くと、どんなイメージを持たれるでしょうか?「強い信念のようなもの」とか「人生に対する偏った考え方」、あるいは「本当は無いものを、あるものかのように信じ込むこと」などのように考える方もおられるかもしれませんね。  私なりの理解に基づいて言わせてもらうなら、『信仰』というのは言わば「神の様々な恵みや祝福に対する、私たちの応答のかたち」です。ある人たちは、それらの祝福を「神から与えられているもの」として、神に感謝をささげ、受け取ったそれらの祝福を人々の益のために用いようとします。一方、ある人々は神の存在を認めようとせず、それらの祝福を「当たり前のもの」とみなし、誰に感謝することもなく、単に自分のために独り占めしようとします。これらはそれぞれその人の『信仰』を表現しているのだと思います。  ある意味、『信仰』は私たちの日々の『選択』に現れます。ご存知のように、人生は『選択』の連続です。「何時に起きるか」「起きて初めに何をするか」「朝食を食べてから出かけるか、朝食抜きにするか」…などなど。あるものは無意識に、あるものは意識的に『選択』しています。そしてこれらの選択のうちの多くを、私たちは独自の「価値観」に基づいて行っています。『信仰』というものは、単に「お祈りする」「敬虔な生き方をする」「何らかの宗教的行事に参加する」ということに限定されるのではなく、「何を食べるか」「誰に話しかけるか」「どんなサイトや番組を観るか」など、生活のひとコマひとコマに関わってきます。  「信仰による選択」の故に得をすることもあれば、損をすることもあります。私の知っているある人は、務めている会社からあるちょっとした「不誠実な行為」を命じられ、辞職しました。これは彼の『信仰』の1つの現れでもあります。ある人は「そんな生き方は不自由だ」と思うかもしれませんが、自分の感情に振り回されたり、常に変化する周囲の状況に左右されるような生き方の方が「不安定で不自由」なのではないでしょうか?  誰でもなんらかの独自の『信仰』によって生きています。どうせ生きるなら、「全知全能の創造主なる神」に信頼する『信仰』によって生きる人生を送ってみませんか?

(558) “彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります。”

 皆さんは「数え年」というものを聞いたことがあるでしょうか?これは年齢の数え方の1つの方法ですが、生まれた時点で『1歳』とし、その後は元旦を迎えるたびに1歳ずつ年を取ると数えるのです。日本でも100年くらい前まではこの数え方が一般的で、私の父は12月末に生まれたので、生まれて1週間後には既に2歳になっていたわけです。  2024年を迎えて2週間が過ぎました。「数え年」で計算すると私たちは皆また1歳年を取ったわけですが、『誕生日』を迎えて喜ぶのは若いうちだけのような気がしていませんか?「また1つ大人になった」とお祝いしていたのが、「また1つ老いてしまった」とうつむいて行く。それってちょっと悲しいですよね?  聖書を読むと、「年を取って行くこと」をポジティブに描いている箇所が多いことに目が留まります。「白髪は冠である」とか、「年老いても実を結ぶ」「年寄りは夢を見る」などなど。つまり、神と共に生き年を取って行くことは、更に深く神を知り、また神への信頼を深めて行くプロセスなのです。  この世界は「何かが出来ること」や「生産性・能率性」を追求させようとします。確かにそういった目で人生を見るならば、「年を取って動きが鈍くなっていくこと」はマイナスにしか思えないかもしれません。しかし『人生の価値』はそのようなことで測られるものではなく、「1日1日をどれだけ完全燃焼し、充実感を持って生きられているか」なのです。そして「地上での残り時間」が少なくなって行けば行くほど、私たちはそのような生き方に目が開かれて行くものなのです。

(557) “あなたは…知性を尽くして…あなたの神、主を愛しなさい。”

 神は私たちを「日々新しい知識を得るように」とデザインし、創造されました。それは何も「学生時代だけ」とか「定年まで」とかではなく、「死ぬまで」です。このことを軽んじることは実に愚かなことです。人間の脳の平均重量はたったの1.4キロしかありませんが、神経科医たちの研究によると、私たちは皆毎秒新しいことを学ぶことを3億年間続けられるほどの「学ぶ力」が備わっているそうです。物凄いと思いませんか?もし『学ぶこと』をやめてしまったら、それはあなたの人生における損失なだけでなく、この世界にとっても大きな損失なのです。  よく「私たちは日常、自分の脳のわずかなパーセンテージしか活用していない」と言われますが、確かなことは、私たち1人1人は私たちが想像している『最高の自分自身』よりもはるかに優れた可能性を秘めているということです。それなのに何故それを生かせないのか?それはほとんどの人間が、それらの「未知の可能性」に注目しないで、「記憶(既に学んだ事)」に頼って生きているからです。「新たな事を学ぶ意欲」を失った瞬間、私たちはある意味「死に向かい始めて」いるのです。  聖書は「神を知ることが『知識』の初めである」と述べています。私はクリスチャンとしての歩みを始めて40年以上経ちますが、神のことを知れば知るほど「自分は神のことが全然分かっていない」と痛感させられます。そして「もっともっと神のことを知りたい」と思わされるのです。ある意味「自分が無知であることを思い知らされる」というのは『痛い経験』ですが、考えようによっては、「どれだけのことを知っているか」よりも「まだどれだけ知らないことがあるのか」ということを知る方が価値があるのかもしれません。  この新しい年の初めに当たって、「まだ知らないこと(特に『神』という存在について)をもっと知って行こう」という意欲をもって更に高嶺を目指して行きましょう!

(556) “どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。”

 貧富の差や能力の違いはあるにしても、すべての人間に等しく与えられているものがあります。それは『時間』です。私たちには皆、1日24時間(1440分,86400秒)が与えられています。これらの時間をどう使うかが、積もり積もって私たちが「どう人生を生きたか」ということにつながって行くわけです。  与えられている「限られた時間」というものを賢く使うための1つのヒントは、朝ごとに次のように自問自答することです。「もし明日私が人生の終わりを迎え、神の御前に立つとしたら、今からの24時間をどう過ごすべきだろうか?」 この質問に対する答えは、自分の『人生の優先順位』というものを反映しているのです。  ちょっと立ち止まって考えてみてください。もし今日あなたの車が盗まれてしまったとしても、また新しい車を手に入れることはできます。仮に財布を失くしてしまったとしても、銀行やカード会社などに電話をして問題を解決することは可能です。ところが、無駄に使ってしまった『時間』は、誰に頼んでも取り戻すことはできません。まさに「時間をどう使うか」は、「人生をどう生きるか」に直結しているのです!  この新しい年、次の2つのことを心掛けてみてはいかがでしょう?  ①すべての人に『Yes』と言うことをやめる   ・誰でも他の人に嫌な思いをさせることを好みません。しかしあなたの本心が『No』と叫んでいるのに、その人を喜ばせるために『Yes』と言うべきではありません。イエス・キリストの地上での歩みはまさにそのようでした。だからこそキリストは地上での生涯の終わりに、「父よ、わたしは地上であなたのみこころをすべて成し遂げました」と言うことができたのです。  ②『優先すべきこと』をはっきりさせ、それをキチンと優先させる   ・人間の「成熟度」というのは、『真に成すべきこと』を、たとえ気が進まない時でも全力で行えるかどうか、で測ることができます。今年の終わりにできるだけ「後悔すること」を減らすために、今こそ心を定めて1日1日を全力で生きて行きましょう!

(555) “「その名は『インマヌエル』と呼ばれる。それは訳すと、『神が私たちとともにおられる』という意味である。」”

 皆さんはこのクリスマス・シーズンをどのように過ごされていますか?  ニュージーランドで暮らすようになって気が付いた日本との1つの違いは、若い人たちにとって日本では「クリスマスは恋人と一緒に過ごす」というのが定番になっているのに対し、ニュージーランドでは多くの場合「実家に帰って家族と過ごす」というのが常識になっているということです。ちょっと日本のお正月やお盆と似てますよね?  では「我が家はどう過ごしたか」と言いますと、クライストチャーチには日本から短期でやってきている留学生やワーキングホリデーの若者たちがたくさんいるので、それらの知り合いの中で「クリスマスに一緒に過ごす相手がいない」という人たちを招いて『クリスマスBBQ』をしました。幸い晴天に恵まれたので、大変有意義で賑やかな楽しいひと時を過ごしました。  そもそも『クリスマス』は「イエス・キリストの誕生日」、もっと正確に言うならば「神がそのひとり子イエス・キリストを人として地上に遣わされたことを記念する日」です。この出来事は何百年も前から預言されていて、その預言の中でイエス・キリストは『インマヌエル』と呼ばれると書かれています。そしてその名前は、「神が私たちとともにおられる」という意味なのです。  「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、確かに私たちは順境では『神様』のことなどスッカリ忘れて日々を過ごします。しかし苦しみに直面した時、思わず「神様、助けて!」と叫ぶ人が多いのではないでしょうか?もしかすると、この「クリスマス・シーズンのお祭り騒ぎ」のただ中で、孤独感にさいなまれ、また悲惨なクリスマスの思い出に頭を悩ませている方もおられるかもしれません。そんな時、ぜひ思いを馳せていただきたいのです。『真のクリスマス』は、そのような「お祭り騒ぎの中」にあるのではなく、「神様、こんな私と共にいてください。私を支えてください」というような、差し迫った思い出神を求める心とともにあるのだ、ということを。  「クリスマス・スピリット」、それは、「神は私とともにおられることを私たちに知らせるために、ひとり子イエス・キリストを送られた」ということに思いを馳せることなのです。

(554) “人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。”

 聖書は『怒り』というものをコントロールするための3つのカギとなる要素を教えているので、ちょっと詳しく見てみましょう。 ①「聞くのに早くする」  ・相手の話の途中でさえぎったり、慌ててリアクションしたり、自分の思いで決めつけてしまわないように気を付けましょう。心を落ち着けて「相手が伝えようとしている『真意』」をしっかりと汲み取ることを心掛けましょう。そして祈り心をもって「神様が自分を通して相手に伝えようとしていることは何か」ということを思い巡らしましょう。 ②「語るのに遅くする」  ・自分の考えに確信が無かったり、相手にどう答えたら良いか分からない時は、素直に相手にそのままを伝えましょう。古い中国のことわざで、「何も言わないで周りから愚かだと思われる方が、間違ったことを言って自分が愚かだということを証明してしまうよりもマシである」というものがあります。その場しのぎのために「私は何でも知ってるよ」という顔をすることは、後に大きな代償を支払わされる結果を生みかねません。 ③「怒るのに遅くする」  ・聖書は「決して怒るな」などとは教えていません。ただ『怒り』というものを「真に怒るべきことのため」に、「ふさわしい方法」で、「正しいタイミング」に表現するように勧めているのです。  自分の『怒り』というものをしっかりとコントロールするためには、自分の心の中にある「傷やわだかまり」というものにしっかりと対処しておかなければなりません。これらのものはしばしば『怒り』をふさわしくない方法で表現させる引き金となります。またある人々は、「『怒り』を表現する」ということそのものを「悪いこと」と決めつけ、「表現できなかった『怒り』」を心の中に溜め込んでしまうことによって、かえって「自分自身」や「人々との豊かな人間関係」を台無しにしてしまうことがあります。  私たちをお造りになり、この地上に生み出してくださった『創造主なる神』は、私たちをこよなく愛し、私たちの『体』だけでなく、私たちの『心』のことを深く気にかけておられます。そして「あなたの『喜怒哀楽』の全てをわたしにぶつけていいんだよ」とおっしゃいます。このお方に全てをぶちまけることによって「スッキリした心」を保ち、平安な心をもって周囲の人々との豊かな関係を築いて行きましょう。

(553) “あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。”

 世の中には「素晴らしいもの」はいくつもありますが、その中でも最たるものがこの『人体の神秘』ではないでしょうか?  スマホに内蔵されたカメラは日々精度を上げていますが、未だに「私たちの肉眼」で捉える映像の比ではありません。それは私たちの網膜が毎秒100億もの識別活動を行っているからです。また私たちの『鼻』は、空気中を漂っている「1ミリグラムの百万分の1」のニンニクの匂いの成分を「1万種の異なった香り成分」の中から嗅ぎ分けることができます。  私たちの体を覆っている『体毛』は「髪の毛1本の1000分の1」の重みさえも感じ取ることができます。そしてまた私たちを形作っている1つ1つの細胞では「毎秒1兆もの化学反応」が起こっているのです!数えきれないほどの数量や確率を描写する時に『天文学的数字』という言葉を用いますが、正にそのような『天文学的な営み』が、毎瞬間私たちのこの肉体において現実的に起こっているのです。一体『人体』とはどれほどに驚異的な存在なのでしょう!  聖書は、この人体は「神の傑作品である」と述べています。私たちは日々「神の驚くほど偉大なみわざ」を身をもって体験しているのです。この『創造主なる神』をほめたたえずにはいられないと思いませんか?