(326) “幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。”

物に溢れている時代です。多くの情報に翻弄されやすい時代です。価値観が多様化している時代です。私たちは今や「1つのことに集中する」ということがとてもしにくい時代に住んでいるということができるのではないでしょうか? 聖書には「心を尽くして」という表現がよく見られます。「心を尽くして神を愛する」「心を尽くして主に信頼する」「心を尽くして神を捜し求める」などなど、どうやら神というお方は、私たち人間が「いろいろなことに関わりながらその片手間に求める」ことによっては見い出すことのできない存在であるかのようです。 本来人間は「真に価値ある物と向き合う時」には、脇目をふらず一心不乱に集中するようにできていると思います。妊婦が出産する時のことを思い描いてみてください(出産経験がある方には、その必要は無いでしょうが…)。出産のためにいきんでいる最中に、「そう言えば昨日の夕食に何を食べたっけ?」などと考える余裕があるでしょうか? 神はアナタの人生のために崇高なご計画をお持ちです。しかしそれを見い出すためには「心を尽くして求める」ことが必須です。ひたすら神に祈り求め、ひたむきに神のことばである『聖書』と向き合い、自分を周囲と比べたりすることなく、真っ直ぐ前を向いて、この新しい年を進んで行きましょう!

(325) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

前回に続いて「実際にあった話」です。 何年も前の話ですが、ペンシルバニア州にある1つのダムに関しての調査がなされ「数年の間に決壊する恐れがある」との結果が出されました。このダムの下流には数千人の集落があったので、直ちに調査結果が町の役所に報告されましたが、役人たちは「そんなことは大昔から言われているが、実際に起こったためしがないから信じませんよ。」と聴く耳を持ちませんでした。その1年後、再度調査が行われ、やはり極度の危険が確認されたため技術者たちが、今後は役人たちだけではなく住人たちにも「あなたがたはいつ大洪水に見舞われるか分からない。直ちにこの場所を立ち退くべきである。」と警告しましたが、それを聞いた人々はあざ笑いながら「そんな風に脅かしたって、誰もこの場所から出て行きはしませんよ。」と取り合いませんでした。その数ヵ月後、技術者たちは懲りることなく警告を発し続けましたが、やはり退けられました。その2週間後に、住人の1人である少年がダムに亀裂が入っているのを発見し、馬に乗って急いで町の中を駆け回りながら「大変だよ!ダムが壊れかけてるよ!急いで避難したほうがいいよ!」と叫んで回りましたが、住人たちは「そんな嘘をついて脅かそうったって、そうは行かないぞ」と笑い飛ばしていました。するとまもなく大洪水が集落に押し寄せ、たった30分もしないうちに3700人もの住民たちが流されて亡くなってしまったそうです。 新しい年がやってきました。この年を過去最高の1年とするために、ぜひ「人々からの忠告」また「聖書のアドバイス」に耳を傾けましょう。

(324) “わたしの恵みは、あなたに十分である。”

これは本当にあった話です。 アメリカの西海岸で『ゴールドラッシュ』が騒がれていた頃、1組の若いカップルもこの勢いに遅れを取るまいと、親から受け継いだ農地を含めた全財産を売り払って西へと向かいました。ところが、掘れども掘れども金には巡り会えず、とうとうすべてを失ってしまい、やむなくヨーロッパへと渡って再び初めから人生をやり直しました。何年も経ってから、彼らが再び新天地を求めてアメリカへと戻った時、以前自分たちが住んでいた古い農地はどうなっているだろうかと訪れてみたところ、何とその一帯は鉄条網に囲まれて堅くガードされていました。一体どういうことかと尋ねてみて分かったことは、実は彼らがその地を離れた後、彼らの農地の地下に「全米2番目の規模の金鉱」が発見されたということでした。そしてその地域一帯は現在政府の管理下となっていたのです。 「自分にもっと才能があったなら…」「もっとお金があったら…」「もう少し状況が整ったなら…」多くの場合私たちはそのように思います。しかし実際には神様は既にあなたに十分なリソースを与えてくださっているのです。ところが私たちはしばしばそれらを探ろうともせず『無い物ねだり』ばかりしているので、せっかく与えられているものを見つけることも、育てることも、活用することも忘れてしまうのです。多くの場合「神様から与えられている才能や可能性」というものは『種』のような存在です。その価値を見出し、注意深く育む必要があります。ところが私たちは初めから『完全形』のものを捜してしまっているので、せっかくの神様からの「素晴らしい贈り物」に気が付かないでいるのです。 この年末年始のお休みに、来年からの新たなスタートのための備えとして、もう1度じっくりと「自分に既に与えられているもの」を探ってみてはいかがでしょうか?

(323) “だれでも、手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません。”

「時は金なり」という言葉がありますよね。「時間はお金のように大切だ」という意味に用いられると思いますが、実際は『時間』の方がお金よりよほど大切です。何故ならお金なら失ってもまた何らかの方法で手に入れることもできるでしょうが『失われた時間』は2度と戻っては来ないからです。『偉大な決断』は立派ですが、それに『行動力』が伴わなければ何の価値もありません。 以前アメリカの名門エール大学において1つの実験が行われました。大学の講義で『破傷風』の予防接種の重要性が説かれ、学生たちに「校内のヘルスセンターで無料で受けられるから、自主的に受けに行くように」とアナウンスされたのです。何パーセントの学生が実際に受けに行ったと思いますか?何とたった3%だったそうです。学生たちは「確かに自分は予防接種を受けに行くべきだ」と自覚したにも関わらず、その決心を行動に移さなかったのです。ところが別の講義グループでは、予防接種の重要性を伝えると共に、キャンパスの地図が配布され、地図上のヘルスセンターの位置が赤丸で示されました。すると30%近くの学生が予防接種を受けに行ったそうです。 『後回しにする』というのは、想像以上の「悪癖」です。「完璧にこなせる保証がない限り挑戦しない」というような姿勢で人生を送るなら、もしかしたら何も成し遂げることはできないかもしれません。人生とは『失敗』から学ぶものです。『偉人』と呼ばれる人々は皆、数え切れないほどの失敗を重ねた後に、本に載るような偉業を成し遂げたのです。さあ、何もモタモタしているんですか!志が与えられたなら(それが邪悪なものでない限り)迷わずに行動を起こしてみましょう。もし初めからうまくいかなかったとしても、それは『失敗』ではなく『学習』です!

(322) “天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”

美しい星空や夕焼け雲を見て感動を覚える方々は多いと思います。そして聖書は、これらの美しさはその背後に『偉大な創造者(デザイナー)』がいることを想起させるためだ、と述べます。かの有名な物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。宇宙(大空)は聖書同様に創造者である神を分かりやすく証ししている、というわけです。 改めて考えてみると、全宇宙はこの「偉大なデザイナー」としての神を想起させるものに満ちています。例えば、私たちが生きているこの地球は太陽から約1億5千万キロメートル離れていますが、これが少しでも太陽に近ければ私たちは焼け死んでしまうし、遠ければ凍え死んでしまうのです。また誰もが知っているように地球は驚くべきスピードで自転していますが(何と時速およそ1700キロ!)、もしこれが半分のスピードだったりしたら、太陽に向いている側は焼け焦げてしまい、陰になっている側は凍ってしまうのです。 神を信じない人々は、これらすべてを「偶然」とか「進化」などと呼ぶようですが、「背後に偉大なデザイナー(神)がいる」と考えた方がはるかに妥当であると言えるのではないでしょうか?

(321) “神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。”

先日母が他界しました。『他界』ということは「別の世界へ行った」ということですよね。実際、母は「死んでしまって『無』に帰してしまった」わけではなく、私たちが生活している『この世』よりもずっと素晴らしい「悩みも苦しみもない『天国』」へ移されたわけです。実に羨ましい限りです。 神は私たち人間を「滅ぶべき者」としてではなく「永遠に存在する者」としてお造りになりました。本来私たち人間は「永遠に神との親しい交わりの中に生かされ、愛と喜びと平和に満たされて生きるべき存在」でしたが、私たちが『神』よりも『自分自身』を人生の王として生きることを選んだため、神と隔絶されて「この世の与える『一時的な満足』に慰めを見い出す存在」へと成り下がったのです。 ところが神は私たちへの深い愛の故に、私たちをもう1度本来の「永遠に神との交わりの中で生きる存在」へと回復されるために、救い主キリストをお遣わしになられたのです。従って、このキリストを自分自身の救い主として受け入れる者は『永遠のいのちの祝福』にあずかり、彼を拒む者は「永久に神から隔絶され、『永遠の死』の苦しみにあえぐ」ことになるのです。 先日あるクリスチャンの女性がこんなことを言っていました。「以前私はよく周囲の様々なできごとに煩わされていました。都合が悪いことが起こると、『このまま物事がドンドン悪い方向へ行ってしまうのではないか』と恐ろしくなって、眠れなくなってしまうこともありました。でもある時ふと『神様は永遠に私から離れることがないのだから、何も心配する必要はない』ということが示され、『あぁ、この世でどんなことが起ころうとも、所詮永遠に続くわけではないのだから、問題ではない。本当に大切なものは、神様から与えられる永遠のものだけなのだ』と、深い平安が心にやってきたのです。」 あなたはこの『永遠の神との関係』の中に、もう生かされていますか?

(320) “明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。”

多くの人が「自分の将来」を知りたがります。そして様々な占いなどに頼って一喜一憂するわけですが、実際は占いの結果が良ければ良かったで「本当にそうなるのだろうか?」と心配したり、結果が悪ければ「そんなはずはない!」と言いながら、どうしても不安がぬぐい去れなかったりしてしまいます。結局不安な気持に陥るのであれば、占ったりしない方が良かったのではないでしょうか? 神様はどうして私たちに「将来を知る力」を与えなかったのでしょう?恐らくその理由は、私たちに『今』を精一杯生きて欲しかったからではないでしょうか。「将来を知りたがる人」というのは大抵「現状に満足していない人」です。きっと『今』を喜べないから『将来』に希望を見い出そうとするのでしょう。でも前述のように、確証のない未来を思い浮かべてみても、結局は「今を喜ぶ」という人生に至ることはできません。 私は「人の将来というものは、『今』の積み重ねによって造られる」と信じています。神様は私たち1人1人の人生を既に決めてしまっているのではありません。もちろん私たち1人1人のために『最高の計画』を立ててくださっていますが、それは「私たちがどんなに適当に暮らしていても成就する」という類のものではなくて、「私たちが神のみこころを捜し求めながら、日々自分が生み出し得るベストをささげて生きて行く」中で開かれて行くものに違いありません。そういう意味では、もしあなたが試練の中にあるならば、それはまさに「神から与えられたテスト」であって、神はきっとあなたがその試練の中で『逃げ腰』に生きるのか、それとも「神に助けを求めつつ『前向き』に進んで行こうとするのか」をご覧になっているのです。そしてそれら1つ1つの試練は、私たちが『更に優れた将来の自分』となれるようにと備えられた、神の愛の証なのです。

(319) “わたし(イエス・キリスト)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

英語で『ライフ(Life)』というと、日本語で言う『いのち』と『人生』という全く別の2つのものの両方を表す意味があります。私たちは『いのち』と聞くと「生物学的・医学的ないのち(生命)」を思い浮かべ、『人生』と言われたら「人間1人1人に与えられた生き様」を想起します。 聖書は、イエス・キリストを救い主と信じる者には『永遠のいのち』が与えられると教えています。これを前者の「生物学的ないのち」として理解する人の中には「この世で80年生きるのだって退屈なのに、『永遠のいのち』なんてもらっちゃったら、退屈で仕方がない!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし実際は、この『永遠のいのち』という言葉で表現されているものは「神と共に生きる人生」のことであり、それはイエス・キリストを信じた瞬間から与えられ、この世においても日々成長して行く「生き生きとしたいのち」であり、永続的にもたらされる『喜び』『平安』そして「天地創造の神に100パーセント受け入れられている」という充足感に満ちた日々を生きることなのです。 多くの人々は「お金」「家庭」「生きがい」などといったものが人生を豊かにすると思っているようですが、実際に私たちが心の奥底で激しく欲しているものは「尽きることのない喜び」「状況に左右されない心の平安」「自分は確かに必要とされている、という確信」そして「何かを失ったり、失敗したりしても、相変わらずありのままを受け入れられている、という確固たる安心感」ではないでしょうか?神がイエス・キリストを通して私たちに与えようとしておられる『永遠のいのち』には、まさにそういったものがすべて含まれているのです。

(318) “小羊(イエス・キリスト)のいのちの書に名が書いてある者だけが、そこ(天国)に入ることができる。”

1912年のある夜、至上最大の豪華蒸気客船『タイタニック号』が北極海に沈み、多くの犠牲者を出しました。「沈没することはあり得ない」とまで言われていたタイタニック号であっただけに、その反響は当時ものすごく大きなものでした。 この大惨事の後、リバプールにあった「ホワイトスター観光事務所」の入り口には、この豪華客船に乗船していた方々の家族や友人たちが殺到しました。何故ならその入り口の両脇に、片方には「死亡者リスト」、もう一方には「生存者リスト」が貼り出されたからです。そして更なる死亡者・生存者が確認されるたびに、事務所の係員が出てきては、その名前を書き足すのでした。『生存者リスト』に自分の知り合いの名前が書かれるのを見た人々は歓喜し、『死亡者リスト』に書かれるのを見た人々の顔には絶望の涙が流れたのです。 実はこの話は何も『他人事』ではありません。聖書ははっきりと「やがて来る世の終わりには、『小羊のいのちの書』にその名が書いてあるか否かで『天国行き』もしくは『地獄行き』が決まる」と書いてあります。そしてこの『小羊のいのちの書』に名前が書かれるかどうかは、私たちの学歴や業績とは全く関係がなく、ただ「あなたの罪の身代わりに十字架にかかって死なれた『イエス・キリスト』を、自分の救い主として信じているかどうか」にかかっているのです。 タイタニック号の大惨事で生き残ったかどうかは、それぞれの学歴や業績とは全く関係ありませんでした。(もっとも、そうとうのお金と暇が無ければこの船には乗れなかったでしょうが…)しかし乗船していた全員に共通していたことがあります。それは、自分たちがそんな大惨事に直面しているなどとは夢にも思っていなかったことです。あなたも「『世の終わり』なんて来る訳がない。どうせ死んでしまえば何もかも同じ。今さえ楽しければ、それで十分!」と思っているでしょうか?『その日』は思いがけない時に訪れてくるものなのです。もし今日その準備をすることができるのだとしたら、それを怠ることは賢いことと言えるでしょうか?

(317) “父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。”

イエス・キリストが人々に『祈り』を教えられた時、まず「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるように言われました。実はこのように神を親しく「我らの父」と呼ぶ習慣は当時のユダヤ人たちの間ではあまり一般的ではありませんでした。彼らにとって『神』という存在はむしろ「厳格で近寄りがたく、超越した存在」という意識があったようです。ところがイエスはそんな『神のイメージ』を一新させたのです。 もしかすると現代の多くの人々にとって『父親のイメージ』というものも、あまり慕わしいものではないのかもしれません。特に「放任主義の家庭」また「虐待の経験がある子供時代」に育った人たちにとっては『父親のような神』などは全く欲しくないものに感じられることでしょう。でも、この『天の父』は私たちのそんな歪んだイメージを一新させる「愛とあわれみと力に満ちたお方」なのです。 「父なる神がどれほどに良いお方か」をいつもイエスから聞かされていた弟子のうちの1人が、ある時我慢できなくなって「イエス様、ぜひ私にも『父』を見せてください!」と懇願すると、イエスはこうお答えになりました。「こんなに近くにいたのに、あなたはわたしを知らなかったのかい?わたしを見た者は『父』を見たのだよ。」 そう、父なる神は「ご自身を人々に正しく理解して欲しいがため」に、ご自分のありのままを人のかたちにして地上に来られた、それがイエス・キリストなのです。私たちが『父なる神の正しいイメージ』をもって生きるためには「聖書を通してより深く『イエス・キリスト』と出会うこと」が最善の道なのです。