(307) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。”

私たちが何らかの役割や仕事を担うとき、ついその『仕事内容そのもの』に気を取られて、「これはつまらない」とか「自分には向いていない」「もっとちゃんとした仕事が欲しい」などと文句を言ってしまうことがあります。でも実は、重要なのは「どんな働きを任されているか」ではなく「どんな姿勢でその役割に取り組むか」なのです。人に対して下される『正しい評価』というものは、多くの場合「どのような内容の仕事をしているか」によるのではなく「どのような働きぶりで仕事をしているか」によって測られます。 20世紀のキリスト教界において最も用いられた伝道者の1人に『ジョシュ・マクドウェル』という方がいます。彼は何カ国にも渡って学生伝道を繰り広げた人物であり、また100冊以上もの優れた著書を残しています(まだご存命です)。ところが、彼はその「キリスト教指導者」として初めから華々しい活躍をしていたかというと、決してそうではありませんでした。彼の「キャンパス・クルセード・フォー・クライスト」という団体における最初の役割は『玄関掃除』でした。彼は「オレはこんな仕事のためにこの団体に来たのではない!」と言うこともできたでしょうが、そうしませんでした。彼は毎日「学生たちの汚い運動靴からこぼれ落ちる泥」をただ黙々と掃除し続けました。やがてその「小さなことに忠実な働きぶり」がスタッフたちの目に留まり、少しずつ責任のある働きを任されていったのです。 マザーテレサの遺した有名な言葉の1つに「どれだけのことを成し遂げたかは重要ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」というものがあります。神様が私たちの日々の歩みを見つめておられるのは、きっと「私たちの悪い行いを見張るため」というよりは、むしろ「私たちがいつも神ご自身を微笑ませることを求めながら1つ1つの役割に取り組んでいるかどうか」ということに違いありません。

(306) “あなたは私のために食事を整えてくださいます。”

聖書全体を通して強調されていることの1つは「神は私たち1人1人をそれぞれユニークな存在として創造され、しかも1人1人にそれぞれ違った『目的や使命』を与えておられる」ということです。それはまさに、私たち1人1人の『指紋』がそれぞれ固有のものであるのと同様です。それ故、創造主なる神は、私たち1人1人との『個人的で特別な関わり』を切に求めているのです。 聖書の中でも有名な箇所の1つに、イスラエルの王ダビデが綴った「主は私の羊飼い…」で始まる『詩篇23篇』があります。この詩篇を読むとダビデ王がいかに神様との深く個人的な関わりを保ちながら生きていたかを伺うことができます。その中に「神は私のために食事を整えてくださる」という1節が出てきます。これは一体どういうことなのでしょう? ちょっとショッピングモールのフードコートで食事をする時のことを思い浮かべてみてください。自分の好きなお店で食べたい物を注文すると、注文した品が出来上がるまで、片手で持てるほどの大きさの「札のようなもの」を持たされます。やがて注文の品が出来上がると、その「札のようなもの」が音を出すか、または光を発して「あなたのための食事が用意されました!」と知らせてくれるのです。待っている間「本当に彼らは私のための食事を準備してくれているだろうか?」などと不安になる人は誰もいないと思います。皆「自分の食事はやがて必ず与えられる」と確信しているのです。 神様のあなたに対する備えもこれに似ています。もしあなたが「神のことば」である『聖書』を通して神様のことを深く知り、またイエス・キリストを通して神との「個人的な関わり」を保ちながら日々を過ごしているなら、神様はベストタイミングであなたの心に光を照らし、あなたのために特別に用意された最高の道へと導いてくださるのです。「神と共に生きる」とは、決して『不自由』なものではなく、とてもワクワクした、心躍らされる経験なのです。

(305) “わたし(キリスト)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。”

イエス・キリストはある日、語られたたとえ話の中で『聖書(神のことば)』は「人々の心に蒔かれた種のようなもの」であるとおっしゃいました。ご存知のように種の中には『いのち』があります。ただし『いのち』というものはそれに適した環境に置かれないと、弱ったり死んだりしてしまいます。 『聖書』は単なる「人生教本」ではありません。『聖書』は私たちの中に「神への信仰」を生み出し、「もっと成長したい」という意欲をもたらし、「不可能に見えることに挑戦させる勇気」を与え、「傷ついた心」を癒し、「聖く正しい心」を形造り、「状況を一変させる」力を持ち、「喜び」に溢れさせ、「逆境」を乗り越えさせ、「誘惑に打ち勝つ力」を与え、人生の暗やみの中に「希望の光」を灯し、一見何もないような場所に「新たな道と限りない可能性」を見い出させてくれるのです。 『聖書』は、私たちの人生にとって「ちょっとは足しになるもの」ではなく、「無くてはならないいのちの素」なのです。それはしばしば『霊的食物』にたとえられています。「乳飲み子にとっての乳」「すべての人々にとってのいのちのパン」「成長した者にとっての『堅い食物』」「疲れた者にとっての蜂蜜」などなど。神様からせっかく与えられているこのような「人生にとって不可欠な栄養」を取り入れること無しに生きることは、まさに『宝の持ち腐れ』なのです。

(304) “私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。”

キリスト教における最も特徴的な概念(価値観)と呼べるものは『恵み』です。この世のいわゆる「宗教」はどれも、神からの救いや祝福を受けるために、必ず何かしらの要求をします。「入会金」「修行」「何らかの善行」などなど。それらの『宗教』は私たちを人間的に高めてくれるかもしれませんが、所詮人間が作り出した「自分を磨く手立て」に過ぎません。 聖書が私たちに教えてくれる「神の救いや祝福を受け取る道」は『神からの一方的な恵み』です。上記の聖書のことばは、イエス・キリストの1番弟子とも言えるペテロが聖書の中に遺した最後のことばです。では「恵みと知識において成長する」とはどういうことでしょう?それは「キリストの教えに関する知識を増す」ということではなく、「キリストご自身を更に深く知り味わう」ということです。 神は、私たちの神に対する不信仰や不遜な態度(神を神と認めず、己れの人生を己れの好き勝手に使おうとする姿勢)に対する罰を、私たち自身に負わせる代わりに、神に対して全く従順に歩まれたキリストに負わせ、十字架におかけになりました。キリストは十字架の上で息を引き取られる前に「完了した」という言葉を遺されました。これは「すべての人の罪のために支払われるべき代償は完済された」という意味です。もはや私たちが神に対して支払うべき負債は残ってはいません。私たちが神から祝福をいただくために『代償』としてささげるべきものは既にイエス・キリストがその恵みの故にすべて支払ってくださったのです。 アメリカの著名なクリスチャン作家であるフィリップ・ヤンシーは、この『キリストによる恵み』の概念を「もはや私たちがどれほど良いことをしても、私たちに対する神の愛を増やすことができないほど、神は私たちを愛しておられる。また私たちがどんな失敗を犯したとしても、神の私たちに対する愛を微塵も減らすことはできない」と表現しました。この『恵み』を日々深く味わいながら生きる時、私たちはまさに「恵みにおいて成長していく」のです。

(303) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。”

新しい電化製品を買うと『取扱説明書』が付いてきます。私たちは「取り合えず自分たちの必要を満たせれば良い」と思うので、必要最低限の説明部分だけを読んで、後は機械の調子が悪くなった時に原因を探る時まで、大抵この『取扱説明書』なるものは放って置かれがちですよね? 実際はほとんどの電化製品は、私たちが考えているよりもはるかに多くの機能を持っており、私たちの生活により多くの益をもたらすことができるのですが、私たちがこの『取扱説明書』を十分に読むこなすことを怠ってしまうために、いわゆる「宝の持ち腐れ」になってしまうのです。 神様が私たち人間をこの地上に送り出された時、やはり『取扱説明書』を添えてくださいました。それが『聖書』です。聖書は何やら難しい「説教の書物」ではなく、言わば私たちにとって「人生の取扱説明書」なのです。ご自身の知恵と愛情を込めて私たちを造ってくださった神様は、私たちがそれぞれの人生を「自分の持ち味を最大限に生かして花を咲かせること」ができるようにと、この『聖書』というコーチングを与えてくださっているのです。それを「人生の調子が悪くなった時に、ちょっとだけ開く」のではあまりにもったいないとは思いませんか? アナタはアナタが思っているよりもずっと優れた、価値ある存在です。もっとエキサイティングで喜びと感動にあふれた人生を送るための『潜在能力』が、アナタの中でまだ眠ったままなのです。それらを掘り起こして「神が用意しておられるビッグ・プロジェクト」に取り組むために、更に深く聖書を読んでみてはいかがでしょう?

(302) “互いの重荷を負い合いなさい。”

『三無主義』(無責任・無関心・無感動)という言葉が取り沙汰されるようになって久しいですが、どうやらこれは日本だけのことではなく、世界的な傾向になっているようです。本当に悲しいことですね。 世の中が便利になればなるほど、私たちは「もっと迅速に、もっと多くを」追求するようになり、自分の日常に益をもたらさないことに関しては、つい「それは私の責任範疇ではないから」とか「そんなことに関わり合っている暇はない」などと言って、助けを与えることを拒否してしまいがちです。 神様は元々人間を「1人では生きられないように」お造りになられました。私たちは皆「互いに助け合う」ように造られているのです。そんな私たちが「互いに助け合うこと」を忘れてしまったら、ドンドン『人間らしさ』を失って行ってしまうに違いありません。では、どんなことから始めたら良いのでしょうか? 「互いに助け合う」ために、何もいきなり『ボランティア活動』に登録する必要はありません。まず自分の周囲に関心を持つことから始めましょう。「助けが欲しいなら、そう言ってくれればいいのに…」という人がいるかもしれませんが、本当に深刻な必要に迫られている人ほど、それを他の誰かに打ち明けるのには大変な勇気がいるものです。「周りを見ても皆忙しそうにしている。自分なんかのために時間を割いてもらっては申し訳ない。自分のことは自分で何とかしなければ…」と自分に言い聞かせながら、ドンドン悪い状況へと陥って、しまいには手遅れになってしまうのです。だからこそ私たちの側でまず周囲を見回す機会を持ち、こちらから声を掛けてあげるべきなのです。 助けを必要としている人を見つけたら、その人にしっかりと『アイコンタクト』を取りながら、辛抱強く相手の話を聴いてあげましょう。大抵の人は「この人は自分に関心を持ってくれている。親身に聞こうとしてくれている」と感じただけで、グッと心が軽くなるものです。たとえ相手が必要としていることがアナタの手に負えないことだったとしても「重荷を共有してもらえた」という安心感が相手に希望を与えます。そしてその人の「真の緊急の必要」のために、一緒に助けを探してあげることができたなら(多くの場合、問題のただ中にいる人たちは、客観的に自分の状況を見ることができず、正しい判断を下すことができません)、神様はそんな私たちの姿をご覧になって微笑まれるのです。

(301) “何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”

今日は「幸福な結婚生活の秘訣」を2つご紹介します。  ①決して公の場で自分の配偶者をけなさない。 ・夫婦間のいさかいを戒める言葉に「自分の夫(または妻)の趣味をとやかく言う前に、彼(または彼女)が自分を結婚相手として選んだのだということを忘れるな」というものがあります。どんな人にも「好み」「傾向性」「葛藤」「弱さ」「憧れ」「苦い経験」「口に出せない思い」「切なる願い」などがあります。すべての人の内側に「誰かに心から信頼してすべてを打ち明けることができたら…」という変わることのない深いうめきがあるのです。神様は私たちのそんな切なる思いをご存知で、この移ろいやすい世の中においても「安心してすべてを打ち明け合える関係」として私たちに『夫婦関係』というものをお与えになったのです。もしあなたの夫(または妻)があなたにそのような信頼を持てなくなってしまったら、彼(彼女)は一体どうすればよいのでしょう?  ②常に共通の夢や目標を抱く。 ・統計では、近年多くの夫婦が離婚してしまうのは「結婚17~25年目」が最も多いという結果が出ています。すなわち「子供たちが自立した後が危機だ」というわけです。結婚生活の日々を「夫婦お互いのこと」ではなく「自分たちの子供のこと」ばかりに終始してしまっていると、やがて子供たちが手を離れた時、夫婦2人きりでは時間をどう過ごして良いか分からなくなってしまうのです。だからこそ「夫婦2人で目指すことのできる『共通の夢や目標』」が大切なのです。 もしあなたがた夫婦がお互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合っているとしたら、それは危険信号ですよ。あなたたちは「子供の親」である前に「互いの人生ための最愛・最良のパートナー」なのです。神はあなたがた2人が共にこの世界を向上させるために、互いに出会わせてくださったのです!

(300) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものである。”

私たちは『自分の理解を超えた辛い出来事』に出会うと、思わずも「神様どうして?」と叫ばずにはいられないものです。また『どうしても今すぐにかなえて欲しい願い』を祈り求めても答えられない時、私たちは「神は本当に私の祈りに耳を傾けて下さっているのだろうか?」と不安になります。このような時、一体何が起こっているのでしょう? まず『祈り』に関して言うならば、神はある時は私たちの祈りに対して「私たちの願った通りのもの」を与えてくださいます。しかし別の時には神は『祈りの答えそのもの』の代わりに、言いようのない『平安』を与えてくださいます。神は「私たち以上に私たちの本当の必要を理解しておられる方」なので、その時その時の最善をもって私たちの祈りに応えてくださる方なのです。 では『私たちの理解を超えた出来事』に関してはどうなのでしょう?まず私たちが知っておくべき大切なことは「私たちの知っていることは、神様がなさっておられることの『ほんの一部』にすぎない」ということです。私たちは神様が支配しておられる膨大な数々のみわざを到底知り尽くすことはできません。私たちができることは、ただ「私の神は『良いお方』であって、すべてのことは最終的に必ず『神の大いなる愛と偉大さ』とを示す結果に至るのだ」と信じることなのです。 私たち夫婦の子供たちは皆すでに成人していますが、彼らがまだ幼かった頃、私たちはすべてのことを詳細に説明したりはしませんでした。ただその時その時、1人1人の成長度合いと能力や適性に応じて、知らせるべきことは知らせ、「説明しても分かってもらえそうにないこと」に関しては特に説明しませんでした。それは『意地悪だったから』ではなく、子供たち1人1人に対する『愛と理解』の故です。同じように、もちろん時には神様は、その深い愛の故に、私たちに『事の詳細』を明らかにされることがあるかもしれません。しかし多くの場合神様は、これまたご自身の深い愛の故に「そのことはいずれ明らかにされるから、あなたはただ私に信頼していれば良い」とおっしゃるのです。

(299) “神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。”

あの偉大な作曲家バッハは256もの声楽曲を作曲し、それらの多くは300年以上経った今も名曲として歌い継がれています。しかし一体彼の作品は何故これほどまでに人々の心を震わせるのでしょうか? バッハの書いた譜面の1番初めにはいつも『JJ』という文字が刻まれています。これは「Jesu Juya」の略で「主イエスよ、助けてください」という意味です。そして1番最後には必ず『SDG』と書かれています。これは「Soli Deo Gloria」の略で、意味は「すべては神の栄光のために」。すなわち、彼が曲を作る時はいつでも「神が与えてくださる力を最大限に用いて、心から神の栄光を讃えたい」という願いが込められていたのです。 私たちの人生も同じです。私たちは1人残らず「世界の歴史始まって以来の存在」です。ですから神は私たち1人1人がそれぞれのユニークな方法で「神の栄光を讃えるように」と望んでいます。私たち1人1人の存在、そして日々の生き様が、そのまま「神の素晴らしさを表現する」ようなものとされたなら、何と幸いなことでしょう! しかしそのためには、イエス・キリストを通して『神との関係』の中に生かされ、神があなたに与えておられる「あなたにしかできない方法」を見出し、またそれを開発していく必要があるのです。そのために神は今日もイエス・キリストを通して、あなたをご自身の御許に招いておられるのです。そこに辿り着くまでは、私たちは大変な『宝の持ち腐れ』を冒してしまっているのです。

(299) “事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。”

上記にご紹介した聖書のことばは、実は私がクリスチャンになった後「受け入れるのに最も苦労した」ものの1つでした。何故なら私は幼い頃から『努力』というものの強い信奉者で、中学・高校と『卒業時の色紙』に必ず「努力は必ず報われる」と書き続けていたからです。 ところが、聖書に関してより精通していくに従って、この「努力によるのではなく…」という表現は『努力』というものを否定しているのではなく「自分の考え方に固執してしまって、神から注がれる新しいアイディアを受け取ろうとしない頑なな姿勢」を戒めているのだと分かってきました。確かに「人生に対して真剣に取り組んでいる人」ほど『強い信念』というものを持っているものだと思います。ところがその『強い信念』というものがしばしば私たちに『柔軟さ』を失わせ、周囲からの優れた助言に対して聞く耳を持たせなくさせてしまうことがあるのです。 私たちを形造り、この世に生み出してくださった『創造主なる神』からの助言ほど、私たちの人生に有益なアドバイスはありません。その『あわれんでくださる神』の慈愛に満ちたアドバイスに対して「私は私のやり方でやりますから、どうぞお構いなく!」とはねつけるのは、愚か者のすることです。私たち1人1人のために神が備えてくださっている『フルサイズの人生』を歩むためには、「私の持っているアイディアよりも、あなたが私のために用意してくださっている道の方がはるかに優っています。どうぞそれを教えてください。」という謙遜さが求められているのです。