(254) “この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいない。”

誰でも1つや2つは、日々の生活の中で陥りやすい『悪い傾向性』を持っているものです。「アルコール依存」「浮気や不倫」「すぐ怒りが爆発する」「悪いうわさ話」「憎しみや嫉み」「盗み癖」「すぐ嘘をつく」「ギャンブル」などなど。ある人々は「親から受け継いだ悪習慣だから仕方ないさ」と言うかもしれませんが、聖書に照らし合わせるならば、これは「親からの遺伝」ではなく、むしろ「初めの人『アダム』から引き継いだ『霊的遺産』」、まさに「そう生まれついた性質」なのです。 『神のかたち』に造られた私たちは、誰でも「正しい生き方をしたい!」という願いを持っています。しかし私たちの始祖アダムが神に反逆して以来、私たち人間に染み付いてしまっている『罪の性質(自分を第1優先にしようとする性質)』が「神を喜ばせようとする願い」に戦いを挑み、勝利してしまうのです。私たちは「罪を犯してしまったから『罪人』となる」のではなく、「生来の『罪人』なので罪を犯してしまう」のです。 それでは、私たちにはもう希望がないのでしょうか?一生『罪の性質』の奴隷となり「神に喜ばれる者として生きること」をあきらめなければならないのでしょうか?キリストの使徒パウロは、次のように言っています。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、かえってしたくない悪を行っています。私は本当にみじめな人間です。だれがこの『死のからだ』から私を救い出してくれるのでしょうか?」「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します!なぜなら、キリスト・イエスにある『いのちの御霊の原理』が、罪と死の原理から私たちを解放してくれるからです。」 『霊的戦い』は、私たちの戦いではなく「神が勝利を与えてくださる戦い」です。神は私たちを『死のからだ』から『まことのいのち』に移すために、ひとり子イエス・キリストをこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかからせ、そして3日目によみがえらせてくださいました。それがこの週末に世界中の教会でお祝いされている『復活祭(イースター)』なのです!

(253) “正しい者は、自分の家畜(動物)のいのちに気を配る。”

ある人が休日に旅行に出かける計画を立て、旅行先で宿泊予定のホテルにこんな問い合わせをしました。「実は私が可愛がっている1匹の犬がいるのですが、一緒に泊まらせていただくことはできますでしょうか?しっかりしつけてあるので、決して他のお客様にはご迷惑をかけないと思うのですが…」 すると、ホテルの方から次のような返答が来ました。「当ホテルは開設以来30年が経ちましたが、未だに犬がタオルやベッドシーツ、また壁にある高価な絵などを盗んで行ったことはございません。また犬が酔っ払って暴れたり、ホテル代を払わずに帰ってしまったこともございません。ですから、もちろん犬がおいでになることは何の問題もございません。念のため付け加えさせていただきますと、その犬が、同伴される飼い主様の身元を保証してくださるのであれば、その飼い主様のご宿泊も心から歓迎いたします。」 神がこの天と地を創造された時、大地や人間だけでなく、すべての動物たちもお造りになり、「すべては非常に良い」と言われたことが、聖書には書いてあります。事実、多くの「寂しさを抱えた人々」や「傷ついた心」を動物たちは慰め、再び立ち上がる力を与えてきました。統計によると、ペットを飼っている人々の方が、そうでない人々よりも長生きし、病気も少なく、病気からの回復も早く、鬱になる割合も少ないそうです。 私は定期的に『盲導犬育成』の団体を支援していますが、盲導犬の主人に対する忠誠は、知れば知るほど感動させられます。神は私たちに、これらの動物たちに注目させることによって、「私たち自身の生き方」について何かを学ばせようとしておられるのではないでしょうか?

(252) “もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。”

前回に続いて『忍耐』についてです。現代は「インスタントの時代」です。このような時代にどのようにして子供たちに『忍耐(待つこと)』を身に付けさせることができるのでしょうか? 1.実物教育によって ・大抵の子供は植物を育てるのが好きです。ぜひ子供が好む花や野菜の種を一緒に蒔いて育ててみましょう。そして「どんな生き物も、成長するのには時間がかかる」ということを実体験させてあげましょう。 2.時間の流れを体験させる ・子供は『待つ』ために何か「見えるもの」が必要です。例えば「夕食は6時から」ということを学ばせるために、時計の針やタイマーが進んでいくのを見せたり、一緒に遊園地に行く日をカレンダーに記して、それまでの日々にチェックを入れさせたりするのです。子供たちが「待つこと」を嫌がる大きな理由の1つは、それがいつまで続くのかがはっきりしないからです。 3.ぬけがけ(ズル)を許さない ・我慢できない子供たち(大人もですが…)は、よく「横入り」をします。大切な会話をさえぎったり、おやつの時間をごまかしたり。緊急の状況以外は「時間や礼儀を守ること」を、自分でも模範を示しつつしっかりと教えましょう。 4.楽しく学ばせる ・子供は『ボードゲーム(すごろくなど)』が大好きです。そしてこれらのゲームは必ず「自分の順番を待つ」ことになります。素晴らしいことに子供たちは「自分は待たされている」などと感じることなく『待つ』ことを学びます。将棋や囲碁などに興味を持つようならしめたものです。『待つこと』を楽しく身に付けさせましょう。 5.褒美を与える ・もし幼児が、あなたが赤ちゃんにおっぱいをあげている間、自分の『空っぽのコップ』を持ちながら「お母さんがミルクを入れてくれる」のをじっと待っていられたなら、思いっきり褒めてあげましょう。子供がずっと欲しがっていた高価なもののために長い間一生懸命お金をためているなら、そのお小遣いが95%貯まった時に残りの5%を出してあげるのも良いかもしれません。 神は、私たちが「祈りの答え」を待ち望んでいるとき、私たちが「あきらめてしまうこと」を望んでいるのではなく、「最後まで待っていられるように励ましを与えてくださる方」です。私たちも同じように『待っていられる子供』を愛情をもって育てて行きましょう。

(251) “あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。”

こんなお祈りを聞いたこと(あるいは自分で祈ったこと)がありますか?「神様、どうか私に『忍耐』をお与えください。今すぐに!」 神様は恐らく、このお祈りに答えるために、敢えて「すぐには」この祈りをかなえないに違いありません。 現代は『スピード時代』です。私たちはテレビのスイッチを入れてからほとんど数秒しか待っていることができません。スーパーのレジでも、3人以上並んでいる列の最後尾につきたくはありません。でも気付いているでしょうか?この「忍耐のなさ」が私たちの心を蝕んでいることを・・・ 物事がそうなって欲しい時に、そうなって欲しいと思う通りに実現することができるお方は世の中にたった1人しかおられません。それは『天地創造の神』です。しかし驚いたことに、この神様は恐ろしいほど「忍耐強く」「寛容」であられ、私たち『人間の思い』がご自身の『みこころ』に沿ったものとなるまで、じっと待ち続けてくださるのです。そう考えると、ほんのささいなことですぐイライラする私たちって、ちょっと馬鹿げていると思いませんか? 神は私たちに「喜びと平安に満ちた人生」を送って欲しいと願っておられます。そしてこの『喜びと平安』は、私たちが「思い通りにならないことにどう対処するか」によって左右されます。私たちは神ではないので、周囲の状況を変えることはできませんが、自分の心の中に起こることをコントロールすることはできます。そのための秘訣をいくつかお教えしましょう。 ①「自分の中には変えられなければならない部分がある」とはっきり認める。自己正当化したり、言い訳を繰り返しているうちは、決して成長することはできません。  ②神に対して心を開き、心の内に「忍耐の実」を結んでくださるよう求め、神に信頼して生きる。  ③「次のことにとりかかること」よりも「現在の状況の中でベストを尽くすこと」に集中する。 聖書では『忍耐』のことを「聖霊が結ばせてくださる『実』」であると描写しています。ご存知のように『実』は一夜にしては結ばれません。でも心をこめて育てれば、素晴らしい実が結ばれます。一緒に「忍耐の実」を求めて、1日1日をじっくりと歩んで行きましょう。

(250) “光がある間に歩きなさい。”

カビは『暗闇』の中で大いに成長します。しかし光に当てたとたんに、カビはしぼみ、そして枯れます。 私たちの心の中にも『カビ』がはびこることがあります。イエス・キリストは次のように言われました。「光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。」すなわちこれは「人に知られたくない(公明正大でない)計画や行い」を抱いている状態のことです。(誰かのための『サプライズ・パーティ』を計画することは別ですが…) 『隠し事』はしばしば私たちの人生にダメージを与えます。カビのように、初めは小さくても、心の中の『暗闇』に閉じ込めておくことによってそれは徐々に大きくなり、私たちの心をさいなませ、悪い考えや習慣へといざない、最後には破滅へと追いやります。『隠し事』は私たちの心を『暗闇』へと追い込み、否定的な思いの虜へと陥れるのです。 では、どうすれば良いのでしょう?素晴らしいことに、聖書はその脱出の道をも教えてくれています。「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」もし私たちが勇気をもって『光の中』へと1歩踏み出すならば、すべてが変わります!その隠し事、そしてあなたの心を縛っている恐れや否定的な考えを神に告白し、明るみに出すのです。(必要ならば、信頼できる友人などに告げるのも良いでしょう。)いったん光が投じられたならば、カビがしぼんでいくように、あなたの心の中の暗闇は逃げて行き、あなたは「大いなる解放」を体験することでしょう! 悪魔はいつでも私たちを『罪の暗闇』へと閉じ込めようとします。ですから、もう「隠し事を持つこと」を止め、心の目を覚まして、いつも神に対して心を開いて、光の中を生きて行きましょう!

(249) “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。”

聖書に出てくるイエスの教えの中に「ある家の主人が3人のしもべたちにいくばくかのお金を託して旅に出る」というたとえ話があります。主人が旅から戻った時、3人のうち2人は「託されたお金を元にこれだけ儲けました。」と報告し、「良い忠実なしもべたちだ!」とほめられますが、最後の1人は託されたお金を全く活用しなかったために叱られます。そのしもべは主人にこう言い訳しました。「私はこわくなり、出て行って、あなたから託されたお金を地の中に隠しておきました」と。 『恐れ』は私たちの心の平安を失わせるだけでなく、私たちが自分の能力を活用することを邪魔します。「そんなことしている人、ほかに誰もいないじゃないか」「自分が本当にそれにふさわしいと思っているのか?」「もしそれをやって失敗したらどうするんだ?」などなど。そのようにして『新たな可能性の芽』を摘まれてしまっている人の何と多いことか! 敬虔な信仰を持っていた「イスラエルの王ダビデ」は、その生涯の長い期間を敵にいのちを狙われながら過ごしました。以下はそんなダビデの残した言葉です。「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。・・・それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」また彼は神に次のように祈っています。「聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」 「神になんて頼る人間は弱虫だ!」などと言う人があります。しかしこのダビデ王はイスラエル王国の歴史上最も勇敢で力強いヒーローとして知られています。「神に頼る」という行為は少しも「弱い者のすること」ではありません。むしろ「神によって与えられている能力を最大限に活用して生きるため」にどうしても必要なことなのです。逆にそれでも神を求めようとしないのは、「アイツは神になんか頼っている」と思われることを恐れる『弱虫』のすることではないでしょうか?

(248) “陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。”

今日は『喜び』と『幸せ』の違いについて述べたいと思います。ひと言で言うなら「『喜び』がなければ『幸せ』にはなれないが、『幸せ』でなくても『喜び』を味わうことができる」ということです。すなわち『幸せ』は私たちの外側(経済状態、健康状態、人間関係など)によって左右される「感情的なもの」であるのに対して、『喜び』は私たちの内側(無条件に神から愛されていることの確信)から生まれるのです。 日本語でも「笑う角には福来る」と言いますが、私たちが笑う(喜びに満たされている)ことは、多くの良い物をもたらします。それはストレスを解消し、頭痛を癒し、感染や高血圧を抑制します。また「大笑いすること」は適度な運動と同様にあなたの腹・胸・肩その他の筋肉を引き締め、血圧や脈拍をいったん上昇させてから元に戻し、体や気分を大いにほぐしてくれるのです。 この世には、私たちの気分を落ち込ませるものがたくさんあります。しかし神はそのような状況の中でさえ私たちが喜べるように私たちをデザインなさいました。すなわち、私たちが「環境の奴隷」となるのではなく、「神の愛の奴隷」となるように造られたのです。環境は常に変化します。しかし『神の愛』は私たちの外見や人間性、能力や持ち物、また出来・不出来などには決して左右されません。この『神の愛』に心を支配されながら人生を歩み時、他の人々にとって「何1つ喜べる材料が見当たらないような状況」の中でも、喜びに満たされて生きることができるのです。

(247) “心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。”

私が大学生の時(ずいぶん前のことですが…)『教育学』の授業で「誉め方・叱り方」についてのリサーチをしたことがありました。いくつかの小中学校でアンケートを取ったのですが、その結果からはっきり分かった1つの意外なことは「人は叱られた経験よりも誉められた経験の方が強く心に残っている」ということでした。しかし大変残念なことに、ほとんどすべての学生たちにとって「誉められた経験」よりも「叱られた経験」の方がずっと多かったのです。 どうして私たちは、人を誉めたり励ましたりするよりも、むしろ叱ったり批判したりすることを選んでしまうのでしょう?恐らくその1つの理由は「長所よりも短所の方が見つけやすい」もしくは「自分の欠点を直すよりも、他人の欠点を指摘する方が楽だから」ではないでしょうか? 私たちは『自分自身の価値』というものを「自分が持っているもの」に求めがちです。すなわち「自分の知識」「自分の長所」「自分の能力」「自分の経験」などです。ですから、自分よりも多くを持っている人と出会うと、妬んだり落ち込んだりするし、逆に自分よりも少なく持っているように見える人と出会うと、優越感に陥ったり、何とか相手を修正してあげようと余計なお世話をするのです。 誰も、この天地を造られた『創造主なる神』以上に多くのものを持っている人はいません。しかし神は私たちに対して優越感を抱いたり、私たちを無理やり修正しようなどとは決してしません。むしろ私たちの弱さをあわれみ、いつくしみ、そしてその弱さを通してご自身の栄光を現そうとしてくださいます。ですから私たちは安心して、この神様に自分自身の弱さを明らかにし、それを受け止めていただくことによって大きく励まされ、そして今度は周囲の人々の「あるがままの価値」を認めて喜び、その弱さを受け入れ、一緒に神様の優しさを求めていくことで成長していくことができるのです。 誰もが「人生のチアリーダー」を必要としています。ところが今や自分の家族からでさえ、そのような『声援』を受けることなく大人になってしまう人々が増えています。あなたも「神との関係に生きる者」となることを通して、人を妬んだり批判したりする毎日から脱出して、周囲を奮い立たせる人生を送りませんか?

(246) “人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。”

神がこの天地万物をお造りになった時、最初の人間アダムとエバの間には、何も隠し事はありませんでした。彼らは体も素っ裸だったし、心も素っ裸でした。「相手に知られたら困ること」は何もなかったのです。 このアダムとエバが悪魔にだまされて神様から離れたときに、彼らは多くのものを失いましたが、それらの中の最も大切なものの1つは『親密な関係』です。以来私たち人間は「神との親密な関係」を体験することができなくなり、また人間同士の間(最も親密であるはずの夫婦関係においてさえ)でも、本来味わえるはずの『親密さ』を持てなくなりました。 私たちがこの『親密な関係』を築けない大きな原因となっているのは『恐れの心』です。「もしあの人が私の本当の姿を知ったならば、きっと私から離れて行くに違いない」「私が彼の要求に十分に応えられなかったら、きっと彼は私にガッカリしてしまうに決まっている」「アイツにこの弱みを握られてしまったら、一生アイツの奴隷としてこき使われてしまうかもしれない」などなど。私たち人間は皆「真に信頼し合える関係」を切望しながらも、これらの『恐れ』によって自然と「心を許し合う関係」から遠ざけられてしまうのです。 では、一体どうすれば私たちはもう1度、神が私たちに人間に本来与えてくださっているこの『親密な関係』を回復することができるのでしょう?その方法はたった1つ。創造主である『神との関係』を回復することから始まるのです。 神は、自分の罪によって神から離れてしまっている私たちのために、『和解の使者』としてイエス・キリストを遣わし、その十字架の死によってすべての罪を清算し、ご自身との関係を回復する道を備えてくださいました。このイエス・キリストを通して神との関係を回復された者同士が、共に「すべてをお見通しの神」の前に『裸の心』で進み出ることによって初めて、お互いのことをもありのまま受け入れることができるようになるのです。これは「神に心を開いた者」だけが体験できる、驚くほど喜びに満ちた特権です!

(245) “少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。”

ある日マザー・テレサは、もう1週間も何も食べずに暮らしている貧しい7人家族がいると聞き、お米がたっぷり入った袋を携えて訪問しました。あばら家では栄養失調の子供たちを抱えた母親が大喜びでマザーを迎えました。ところがその母親は興味深いことを始めたのです。もらったばかりのお米を2つに分け、その1つを持ってどこかへ出かけていきました。戻ってきた母親にどこに行っていたのかとマザーが尋ねると「近所に私たちと同じようにお腹をすかせている家族がいるので、お米を届けてあげたのです」と答えました。この一連の出来事を振り返り、マザーは次のように述べています。「この母親がせっかくもらったお米を分けてあげたことは別に驚くことではありません。何故なら貧しい人々はいつも気前が良いものだからです。ただ私が驚かされたのは、自分たちが飢えの極致にいたにも関わらず、この母親が近所の人々の抱えていた問題にも気を配っていたということです。人間は通常、自分たちが大きな問題を抱えている時は、他の人のことなど考えてはいられないものだからです。」 「蒔いたものを刈り取る」これは、神が定めた『全世界共通の法則』です。しかも普通は、1粒の種を蒔いたら、その何倍もの収穫を刈り取ることになります。もし私たちがこの『1粒』を惜しんでしまうなら、後に与えられるはずの大きな収穫を受け損なう結果になります。 イエス・キリストは「与えなさい。そうすれば与えられます」とおっしゃいました。ここで問われているのは「自分がどれだけ持っているか」ではなく、「どれだけ与えるか」だけです。この世の常識に基づくならば「有り余るほど持っている人だけが分け与えるべきであって、自分は余るほどは持っていないのだから、分け与える必要はない」と考えるかもしれませんが、自然界の法則はそのようには働きません。 この天地を造られた神は『気前の良いお方』です。彼は善人悪人に関わらず、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。そしてこの神は、ご自分と同様に「気前良く生きる人々」を祝福せずにはいられない方なのです。