クライストチャーチ大地震後メッセージ

皆さん、ご心配やお祈りありがとうございます。渋沢ファミリーもJCFの主だったメンバーも皆無事です。ただ、電気や水道などがまだ復旧していないところが多いので、早期復旧のためにお祈りください。また、大きな余震なども続いているので人々の心が守られるようにもお祈りください。これからも応援よろしく~! 2011年2月23日水曜日NZ時間午後5時半 JCF牧師渋沢憲一 (先生の携帯電話にての声のメッセージを市外在住のメンバーが書き留めました。ちなみに、JCFが使っている建物はダメージはあるようですが無事だそうです。安全点検の期間中、日曜礼拝はまたしばらく別の場所になります。詳細はまた後ほど。) JCFメンバーたちも、「命は大丈夫だけど家の中はメチャクチャ」という方が多いそうです。車で移動ができないため、先生は今日、日本語通訳・カウンセリングのボランティア登録のために自転車ではるばるクライストチャーチ公立病院まで行かれました。4時間待った挙句、「今日は何もありません」と言われて帰途に着かれたそうです。 写真: Martin Luff

(7) 生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。

幼子でも老人でも、だれでも年をとって行きます。しかし必ずしも「賢くなっている」とは限りません。ある家庭で兄弟ゲンカがありました。妹が言います。「お兄ちゃんがいじめるの。ママ、お兄ちゃんを叱って !」ところがお兄ちゃんにだって言い分があります。「だって、妹が先にボクを叩いたんだよ !」 「それは私が悪いんじゃない !」これは子供たちだけの台詞ではありません。私たちは何歳になっても、身の回りの不幸を、人のせいにしたり、環境のせいにしたりします。しかし何の解決にもなりません。では、一体どうしたら良いのでしょう? 大切なことは「他の人はともかく、自分の過ちは何なのか」を明らかにして、どこをどう正せば良いのかを考え、実行することです。他の人の落ち度に関しては、神様に委ねましょう。もし私たちが神の前にへりくだり、自分の非を素直に認めるなら、神は私たちの側にいてくださり、他の人々との関係を執り成してくださいます。しかし、もし私たちが頑なに周囲を責めてばかりいるなら、そこには神様が関与してくださる余地はありません。もう苦々しい思いを溜め込むのは止めて、スッキリした開放感に包まれた日々を始めませんか?

2011年2月6日 2つの大切な質問

説教あらすじ「2つの大切な質問」(06/02/2011) ◎[ヨハネ1:19-28] *ここでヨハネは、私たちの人生にも関わる2つの重要な質問に答えている。 ①[22節]「自分は一体何者なのか?」 ◆私たちは特に有名な存在ではないかもしれない。しかし聖書の視点に照らし合わせるならば… ・神によって造られた最高傑作 ・神にこよなく愛されている者 ・神の子どもとされている ・罪赦され、そしてもう決して罪に定められることのない者 ・神の目に高価で尊い存在 ◆創造主である神との関わりにおいて『自分』を見出す者は幸いである。 ②[25節]「今していることを、何故しているのか?」(何のために生きているのか?) 一体どれだけの人が、この質問に確信をもって答えられるであろう? ・今あなたがそれをしているのは… 「お金のため?」「他にすることがないから?」「誰かに言われたから?」 ・「もしあなたの命があと3日と言われたら、何をしますか?」 あなたが今していることに強い信念を持っているのなら、「何も変わりません」と答えられるはず。 ◆ あなたは何故「学び」「子育て」「仕事」をしているのですか? 「神がそのことのために今、私を招いているから」と答えられる者は幸いである。 ★ ①と②の質問は、イエス・キリストを通して、神との豊かな関係の中に日々生きる者だけが 自信をもって答えることができる。 考えてみましょう ・あなたは自分を何者であると言いますか? ・あなたは何のために生きているのですか?

2011年1月30日 恵みとまことに満ちた方

説教あらすじ「恵みとまことに満ちた方」(30/01/2011) ◎[ヨハネ1:14-18] [16節] 神は豊かさに満ちた方。そしてそのひとり子を受け入れた者は、その豊かさに生きることができる。 それは一体どういうことか? [14節] キリストの栄光は「恵みとまことに満ちている」ということ。少し矛盾しているようにも見える。 ・恵み = 融通を利かしてくれる。 ・まこと(真実)= 融通が利かない ◆ 神にとっては… 『まこと』:「約束を必ず守る」ということ。 ・神は聖書のすべての約束を必ず守る。もちろん私たちにも、約束を守ることを期待する。 『恵み』:たとえ私たちが約束を破っても、それを赦してくださり、しかも、相変わらず私たちに対す る約束を守り続ける、ということ。 [17節]「恵みとまこと」はイエス・キリストによって実現した。 *この神の「恵みとまこと」のご性質の究極的表現が「イエス・キリストの十字架」。 ・神はその『まこと』の故に私たちの罪と妥協なさらなかった。しかしその『恵み』の故に、そ の罪に対する罰を私たちにではなく、ご自分のひとり子に負わせたのである。 ・「キリストの十字架は、神の愛の象徴」と言われるが、それだけではない。そこには「罪を負 う者は、たとえひとり子であろうとも裁きを免れない」という神の厳しさもある。 ◆ ここでは「モーセの律法」と「イエス・キリスト」とが対比されている。 ・律法は文字(ことば)によって表現されるが、それがすべてではない。人が自分の心をことばによって 表現するように、神もその『心』を律法の中に表現された。だが当時の人々はそれを理解しなかった。 それ故神は「ご自分の心そのまま」の表現として、イエス・キリストを遣わされたのである[18節]。 イエスのことばや行ない1つ1つに『神の心』が表現されている。そしてこれらのイエスのことばに 応答することが「神の心への応答」となるのである。 ◆ ある時イエスがこんな話をされた。[マタイ21:28-31] ・何故兄は「行きます」と言ったのに、行かなかったのか? ➝ 「ことば」は聞いたが、『心』を聞き 取らなかった。 ・何故弟は「悪かった」と思ったのか? ➝ 「ことば」と共に『心』をも聞き取っていた。 ★ Read more…

2011年1月16日 『こんなはずでは…』を越えて

説教あらすじ「『こんなはずでは…』を越えて」(16/01/2011) [ヨハネ1:9-13] *何か(誰か)を「知っている」ことと、それ(その人)と実際に関わりをもって生きていることとは違う。 それは『信仰生活』についても同じことが言える。 ◆ [10-11節] 「この方」とは、イエス・キリストのこと。 ・イスラエルの人々は、ずっと以前から神を知り、その教えを守り、救い主(キリスト)を待ち望んで いた [マタイ2:1-6] にも関わらず、そのキリストであるイエスが現実に現れたら、受け入れなかっ た。[ヨハネ10:31-33] 何故? ➝ 自分たちが抱いていたイメージと違っていたから。 ・「神を見れば信じる」という人がいるが、実際は信じはしない。自分の勝手なイメージを追いかけて いるだけだから。彼らの神は、実際には自分に都合の良い存在でしかない。[ピリピ3:18-19] ・「神は信じられるが、キリストは信じられない」という人々も同じ。彼らは、神はあやふやな存在で あって欲しい。はっきりしてしまうと、あやふやな態度ではいられなくなるから。 ◆ 「こんなはずではなかった!」という経験はないだろうか?(『半額セール』などで) ・本当の『豊かな関係』は「こんなはずでは…」の向こう側にある。 ◆ 神は、人(イエス)となってこの世に現れ、ご自身をはっきりと分かる形で私たちに提示された。そして、 私たち1人1人に対する愛を惜しみなく注がれ、私たちと神との隔てとなっていた罪の壁を取り除くた め、私たちの身代わりとなって十字架にかかられ、3日目によみがえられた。 この姿は、あなたの抱いている『神のイメージ』とは異なっているかもしれない。しかし実際には、 このイエス・キリストを己の神として受け入れたことによって人生が全く新しくされた人々が、世界 中にあふれている。 ◆ 聖書は言う。[12-13節] ・受け入れるのも、拒むのも、あなたの自由。しかし「自分の抱いていたイメージとは違うから…」と いうような愚かな選択は避けよう。神ご自身が『神』なのであって、あなたが神なのではない。 ➝ [マタイ10:32-33] 《健太くんの証し》

(6)だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

「口は災いのもと」などと言います。確かに「あんなこと言わなきゃ良かった !」というような苦い経験が誰にも 1つくらいありますよね。かといって一生何も語らずに過ごすのが賢いとも思えません。どうしたら良いのでしょう? 神様は人のために口を 1つ耳を2つ造られました。それはあたかも「語る量の2倍聞きなさい」と教えているかのようです。私たちの周囲には、心の病を抱え「誰でも良いから話を聞いて欲しい」と『聞き手』を捜し求めている方々がたくさんいます。そのような中でもしあなたが「よぉし、今日は徹底的に話を聞いてあげる日にしよう !」と決心して 1日を過ごすなら、きっとあなたの周囲で多くの方々が心を癒されていくことでしょう。 ただ、ここに 1つの問題点があります。というのは、そのような方々の話す内容というものは、多くの場合『否定的』で、耳を傾けている者の心にも重くのしかかってくるからです。 ここで「2倍聞く」のことばの意味を考えてみましょう。これはただ「2倍の時間、聞くことに費やしなさい」ということでなく、「人のことばに耳を傾けると共に、神があなたに語りかけておられる言葉にも聞き耳を立てなさい」ということなのです。神は聖書を通して、私たち 1人 1人に常に『積極的・肯定的』なことばを語りかけます。この神のことばに心を開きつつ、人々の語ることに耳を傾けていくなら、決して『自己防衛的』になることなく、相手に対する思いやりと感謝に満ちたことばを語りかけることができるようになることでしょう。

(5)愛は人のした悪を思わず…決して絶えることがない。

ある7才になる女の子が「どうしてもヴァイオリンを習いたい」と言いました。母親は彼女の決心が堅そうなのを見て、お試しレッスンに通わせることにしました。教室に向かう道で母親は娘にこう言い聞かせました。「あのね、ヴァイオリンを習うにはとてもお金がかかるの。でもそのお金は何とかするわ。但し、1度始めたら、どんなに辛いことがあっても、決して途中であきらめてはいけないわよ。いいわね。」少女はコクリと頷いてから、これ以上真剣な表情はない、というくらいの面持ちで厳かに言いました。「分かったわ、お母さん。要するに『結婚生活』と同じっていうことね。」 聖書は「神様は私たちを『決してあきらめない愛』で愛してくださっている」と教えています。そしてその愛を反映させる場として、私たちに『結婚生活』という舞台を備えてくださったのです。この愛は「もし ◯◯ してくれたら…」というような条件付きの愛ではありません。相手の反応に関わらず、ひたすら愛し続ける愛なのです。神様のこの愛に対して心を開いてこそ、私たちは『家庭』『職場』『学校』などの生活の現場で「ひと味違った愛の香り」を放ちながら生きる者とされていくのです。

(4)なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気が付かないのですか。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

ある奥さんが毎朝、お隣の家に干されている洗濯物の汚さを窓越しに見ながら「もうちょっとキレイに洗えないものなのかしら !」と呆れていました。ところがある朝いつものように窓越しにお隣の洗濯物を見ると、驚いたことに、輝くようにキレイに洗われているのです。思わず側にいたご主人に「ねぇ、お隣は洗濯機を買い換えたのかしら?」と尋ねると、ご主人が言いました。「何言ってんだい。俺が今朝この窓をキレイに拭いたんだよ !」 「他人の振り見て、我が振り直せ」ということわざがあります。他人の落ち度ばかり指摘している人ほど、自分の姿が見えていないものです。他人のあら探しをする前に、まず自分が神の前に正しい良心を持って歩んでいるかどうかを吟味してみましょう。そうすれば、あなたの弱さや心の痛みをすべて理解してくださっている神様の優しさに触れて、他の人々の失敗にも寛容に対処してあげられるようになることでしょう。

(3)神は…試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

「神がおられるなら、何故こんな問題が起こるのか?!」とおっしゃる方がいます。『問題』ってイヤですよね。 私たちの人生に問題が起こるのは、大きく分けて2つの理由があるように思います。 ①「自分の蒔いた種を刈り取っている」 ・神様は極めて公平な方です。私たちが掃除を怠れば部屋は散らかるし、暴飲暴食していれば体をこわします。私たちが正しい習慣を身に付けるようにと、神様はレッスンを与えてくださっているのです。 ②「問題のない人生は成長をもたらさない」 ・自分の子どもの正しい成長を願う親は、子どもにそれなりの課題を提供します。最近「自分の子どもには苦労をさせたくない」と甘やかす親が増えているのは残念なことです。神は私たちの堕落を願っているのではなく、成長を求めておられるので、敢えて私たちが試練に会うのをお許しになるのです。 神は決して私たちが試練に押しつぶされてしまうことを望みません。そこには必ず脱出の道があります。たとえ事態が『八方ふさがり』に見えても、『上(神様への道)』は開いているのです。