(70) 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

人生は『選択・判断』の連続です。たった1つの誤った判断が、私たちの人生を台無しにしてしまうこともあります。ですから、私たちが祝福に満ちた人生を送るために『正しい判断力』は欠かせません。ところがこの『正しい判断力』というものが「生まれつき身に着いている」という人は誰もいません。また「普通に生活していれば、いずれ身に着く」といったものでもありません。『勇敢さ』『高い教育』『年を取ること』がそれを得るのに役立つとも限りません。「日々正しい判断を行なっている人」と一緒に時間を過ごすことは、助けになることもあるかもしれませんが、かと言って「一緒に居さえすれば、やがて移ってくる」というわけでもありません。 「正しい判断力」を身に付けるために、私たちにできることが2つあります。 ①「1つ1つの選択には、必ずその結果がついてくる」ということを肝に銘じる。 ・自分の苦労や失敗を『環境』のせいにする人はたくさんいます。しかし実際は「環境そのもの」がその人を追い込むのではなく、「それらの環境に対する対処の仕方や態度」があなたの人生に影響を及ぼすのです。自分の周囲の環境を呪っても何も事態は好転しません。その環境の中で「あなたができる最善を見出そうとする姿勢」が、あなたの内に『正しい判断力』を育てるのです。 ②「他に方法はない」と決めつける考え方を捨てる。 ・私たちはしばしば「これは必ず正しくて、これは必ず間違っている」という考え方に偏りがちです。「この方法は以前やってみてダメだった。だからもう1度挑戦する価値はない!」 本当でしょうか?もしかしてもう1度チャレンジしてみたら、うまくいくことはあり得ないでしょうか?みすみす可能性を狭めてしまうのではなく、『ダメ元』で、以前失敗した方法であっても、多少愚かに見える方法であっても、はたまた1度も試みたことのない道であっても、わずかな可能性を探ってみてはどうでしょう?「必ず何か他にも方法があるはずだ」という姿勢を育てること、これが私たちに「更に豊かな判断材料」を与えてくれます。

2013年3月24日 「『この世』とのバトル」

メッセージをダウンロードして聴く マイクさんの証しをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「『この世』とのバトル」     (24/03/2013) [ヨハネ17: 14-19] ◆この世のものではない。[14節]   ・私たちは『神の子ども』として、イエス同様「この世のものとは相容れない」。しかしサタンはあらゆる手を尽くして我々を「この世と妥協させよう」とする。それ故イエスは「彼らが悪い者から守られるように」と祈られた。 [15節]   ・「神は良い方だから大目にみてくれる」のではない!神が『大目にみる方』だったら、十字架は必要なかった。「神は良い方」だから、いつでも私たちが『神の最善』の中に招き入れられることを期待しておられる。 ◆『真理のみことば』によって、聖め別たれる。[17節]    ・イエスが私たちをこの世から取り出すためのツール = 「神のことば」(真理) ・イエスこそ「生ける神のことば」(この世との妥協がない) ― 神のことば無しの信仰は、世と混合する。 ・私たちは時々「自分のアイディアをバックアップするための聖書のことば」を捜す。      ➝ 大切なのは「私たちの願いの成就」ではなく、「神の最高・最善のご計画の成就」。 ◎そのためにどうしても必要なこと = 『神に対する絶対的(不動の)信頼』と『そのみことばに対する従順』。 ◆陥りやすい落とし穴   ①聖書は『急ぐ』ことは教えていない     ・それが『神の』計画であるなら、あなたの生涯の終わりまでに成就する必要はない。[へブル11:13-16]   ②『状況』から神のしるしを見出そうとするな![マタイ16:4]     ・私たちが頼りとするのは「不動の神のことば」。 状況なら、サタンでも変えられる。 ☆みことばに徹底的に従うことによって、『この世とのバトル』に打ち勝って行きましょう!     Outline of the sermon    “Our battle against the Read more

2013年3月17日 「あなたは、わたしの愛する子」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「あなたは、わたしの愛する子」     (17/03/2013) [ヨハネ17: 9-13] ◆神がイエスに与えた名[11節] = 『神の子』の称号 過去に他の誰もその名で呼ばれたことはない。[へブル1:5]    ・イエスは生まれる前からそれを受けていた。[ルカ1:35]  公生涯の初めにも。[ルカ3:22] ◆この称号は私たちにも受け継がれた。[ヨハネ1:12-13, ガラテヤ3:26]   It is amazing!    ・今や私たちは神の前に全く新しい存在。[Ⅱコリント5:17] ・神は私たちの『功績』の故ではなく、「私たちが誰であるか」の故に祝福する。[Ⅰヨハネ4:17] ◆イエスの願い。[11節]  ― 私たちの内に「神の子とされている」 という事実が不動のものとなること。   ・イエスはご自分が去った後も「子に対して注がれる御父の愛」が地上で証しされることを望まれた。それ故、私たちを地上に残された。[ヨハネ20:21-22] 聖霊は私たちを通してイエス(神の子)を証しするために遣わされた。 ◆『神の子として生きる』とは?    ①御霊に導かれて生きる。[ローマ8:14-16]     ・聖霊は私たちに「神の子としての自覚」を与え、「子に対して向けられている御父の愛」を知らせる。[ルカ3:22]     ・あなたを『子』とするつもりがなかったら、初めから神はご自身の霊を人に注いだりはしなかった。[ヤコブ4:5]    ②神の財産を相続する。[ローマ8:17a, Ⅰコリント2:12]     ・今や私たちは、キリストが地上で用いていた『神の富』を、同様に用いることができる。    ③キリストと共に苦難を相続する。[ローマ8:17b] ・苦難は「神に忘れられているしるし」ではなく、「子として扱われているしるし」。[へブル12:7-8] ・イエスはそれが起こる前に予告され[ヨハネ16:33]、そして私たちのために祈られた。 [14~15節]     ・苦難はいつでも、私たちが「父の許へ走るため」であり、「この世のものではない」ことを確認するため。   Outline Read more

2013年3月10日 「あなたは、誰のもの?」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「あなたは、誰のもの?」     (10/03/2013) [ヨハネ17: 6-8]  ・[6節]を読むと、イエスが私たちのことを「父のもの」とか「わたしに下さった」とか言っているのが少々気に障る。   一体私たちは「誰かのもの」なのか? それとも「自分のもの」なのか? はたまた「神のもの」なのか? ◆キリストを信じる者は『神の所有とされた民』 [Ⅰペテロ2:9-10] ➝ では何故そう言えるのか?    ①神によって造られたから。[詩篇100:3]    ②キリストの代価によって買い取られたから。[Ⅰコリント6:19-20]    ③自らの意志によって、自分自身を神にささげる。[ローマ12:1-2] ・「自分をささげる」というと、損するような気がするが、実は逆。 「所有されている」=「面倒を看てもらえる」 ・神にとって「信仰者」は特別な存在。イエスは言われた。[マルコ9:41] アブラハムへの約束。[創世記12:1-3] ◆イエスは誰に所有されていたのか?[Ⅰコリント3:23]    ・キリストは地上に於いて全く貧しかった。[マタイ8:19-20] すなわち、完全に「面倒を看て下さる方」に依存して いた。(「神から与えられたもの」以外何も持っていなかった!)これこそ「キリストは神のもの」と言えるゆえん。 ◆私たちは、誰のもの? ・あなたが「どこから与えられた物を持っているか」で、あなたの所有者が決まる。悪魔は、神からあなたを奪う ため「この世の物」(お金・名誉・人など)であなたを誘惑してくる。名実共に「神の所有とされた民」となるために 「神の与えて下さるもの」だけに目を留めよう!   ・主イエスが「わたしのためにそれを手放しなさい」と言われて、即座に「はい、主よ。」と手放せるものこそ、主からのもの。     Outline of the sermon    “Who do you belong to?”     (10/03/2013) [John Read more

2013年2月24日 「『永遠のいのち』に生かされる」

説教あらすじ        「『永遠のいのち』に生かされる」     (24/02/2013) [ヨハネ17:1-5] ◆[1,4~5節]   ・イエスは本来持っておられた『神としての栄光』を捨てて、この地上に来られた。[ピりピ2:6-8]   ・そこには、他には変えられない、重大な目的があったはず。[2節] ◆「永遠のいのち」とは? [ヨハネ3:16, 6:40, 12:50] ➝ それは単に「永遠に生きながらえること」ではない! ・人間は元々『永遠の存在』。すなわち、私たちの行く末は「永遠の死(神との断絶)」または「永遠のいのち (神との親しい交わり)」のどちらか。 そして神は何としても私たちにこの『永遠のいのち』を与えたい! ◆それは「父なる神」と「イエス・キリスト」とを知ること。    ・どのように知ること? その違いを知ること? No!この2つが「いかに1つであるか」を知ること。 ・この2つは「同じいのち」で生かされ「完全な愛と信頼」で結ばれている。その関係を妨げるものは何もない。 ◎「キリストのからだの1部」である我々も「1つのいのち(聖霊によるいのち)」で結ばれている。[ローマ8:2] それはあたかも体を流れる『血液』のよう。これがつまるといのちに関わる。[レビ17:11] ◆血の巡りを良くするために   ・私たちが力んだからといって血の巡りが良くなるわけではない。ただ「健康な生活」をしていれば良い。健康な 食物(神のことば)を食べ、良い空気(祈り)を吸い、適度な運動(キリストにある交わり)の機会を持つ。   ・もし血管が不純物(赦せない心・告白していない罪・つまずき 等)によってつまっているなら、取り除かなければならない。     Outline of the sermon    “Live in eternal life.”     (24/02/2013) [John 17:1-5] ◆[Verses 1, 4-5]   ・Jesus Read more

2013年2月17日 「1つとされるため」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「1つとされるため」      (17/02/2013) [ヨハネ17章] ◆この章は丸ごと「イエスの祈り」。この祈りは大きく3つの部分に分けられる。   ①1~5節は、「自分に関する祈り」[5節]   ②6~9節は、「弟子たちのための祈り」[9節]   ③20~26節は、「やがて信じるものたちのための祈り」[20節]    *「信じる者」[8節] = 神のみことばを受け入れ、「イエスが神から遣わされた方である」と信じている。 ◆この祈りの重要ポイント = 「イエスと御父とが1つであるように、私たち(信じる者)も1つとされること」 [11,22節] ・「1つとされる」とはどういうことか。「同じようになる」ことなのか? しかし神は私たちをユニークに造られた。 ・私たちはキリストの『各器官』。[Ⅰコリント12:27] そしてそれは『御霊』によって1つとされる。[同12:12-13] ・[Ⅱコリント13:13] 「キリストの恵み」「神の愛」は分かるが、『聖霊の交わり』が分かりにくい。これは「聖霊こそ が私たちに『一致』をもたらす」ということ。 ◆自分の力ではなく…    ・「1つとされること」を含め、すべてのキリスト者としての歩みは、私たちの努力にはよらない。[ガラテヤ3:3]    ・私たちの生まれつきの性質は、神の御霊とは相容れない[ガラテヤ5:16-17]。私たちが「御霊によって互いに1つと される」には、お互いに調子を合わせようとするのではなく、キリストを見つめることが必要。[Ⅰコリント6:15-17] ★神との親しい交わりに身を浸しつつ、互いに1つとされることを求めて行こう!     Outline of the sermon    “To be one in spirit.”     (17/02/2013) [John chapter 17] ◆ Read more

(69) それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちの暮らしている社会は、いつも私たちが「何をしているか」を問います。私たちはいつもその成長過程の中で、他の人と比べられてきました。「何故お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいにできないの?」「どうしてオレが言った通りにやらないんだ!」などなど。私たちは何とか周囲の期待に応えようと『ガンバル』のですが、その期待を満足させられることは滅多になく、悩んだり、落ち込んだり、燃え尽きてしまったりするのです。 この混乱に唯一終止符を打つことができるのは、「私たちの行為に関わりなく、ありのままの私たちを愛して下さっている神」と出会うことです。そしてそのことは『イエス・キリストの十字架の意味』を知ることから来ます。私たちの人生の土台は、次の2つのパターンしかありません。「イエス・キリストを通した神の恵みの目線で自分を見るか」または「自分の行ないを磨いて、自分に自信をつけていくか」です。実を言うと、神の私たちに対する評価も、ある『行為』に基づいています。但しそれは「私たちが何をしたか」ではなく、「イエス・キリストが何をされたか」 なのです。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、彼の私たちに対する「真実の献身的な愛」を示すためでした。彼はどんなに失敗ばかりで役立たずな私たちでも決して見放すことなく、あきれてしまうことなく、一緒に人生を歩んで下さるのです。 イエス・キリストと共に人生を歩き始めると、それまで心に溜めこんできた心の痛みや誤った価値観から徐々に解放され、それまで自分でも気付かなかったような新たな可能性への道が開けて行くのを体験します。キリストは、私たちが「この世の王であるサタン」から奪われてきたものを、1つ1つ取り戻させて下さるのです。私たちは本来、「出来不出来」で評価されるために生まれてきたのではなく、全能の神の尊い御手によって「ありのままを喜ばれ、愛されるため」 に生まれてきたのです。

(68) そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか?」

今から2千年前、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたヨハネに対して、人々が「あなたはだれですか?」と尋ねた時、ヨハネは迷うことなく次のように答えました。「私は預言者の書の中に書かれている『荒野で叫ぶ者の声』であり、『主の道をまっすぐに整えている者』です。」 当時ヨハネには多くの弟子たちが付き従っていましたが、やがて『来たるべき方』であるイエス・キリストが現れた後、彼の弟子たちの多くはイエス・キリストの許へと移って行きました。ヨハネはガッカリしたでしょうか?いいえ!なぜなら、彼は自分が一体何のために生まれてきたかをよく知っており、その役割を忠実に果たすことができたことに満足していたからです。 あなたは、「自分が何のために生まれてきたか」を知っていますか?もちろん生まれつきそのことを知っている人はいません。しかし、人生半ばに差し掛かってもそれが何であるか皆目見当がつかないなら、それはチョッピリ悲しいことではないでしょうか? 聖書の記述を見る限りでは、使徒パウロはあまり雄弁な説教家ではなかったようです。しかし彼はそれを埋め合わせて余りある『著述家』でした。彼は神の霊に導かれて、多くの説教者を生み出すに至った多くの『著作』を残しました。彼はその生涯の中でたびたび牢獄に入れられましたが、そんな中で彼は、弁護士や美味しい食事を欲しがりはしませんでした。ただ彼が欲したのは「紙とペン」だったのです。彼はそのいのち尽きるまで、書いて書いて書き続けました。その結果、今に至るまで、人生の意味を見出し、神に献身して生きる人々を輩出し続けているのです。 あなたはどうでしょう?あなたは「何のために生まれてきたのか」をもう見出しましたか?「私は生涯かけて、この一事を成し遂げたい!」と心を燃やすものを持っていますか?次のバーナード・ショウの言葉に耳を傾けてみて下さい。 「人生とは、ロウソクの火ではない。それは燃え盛るたいまつに似ている。私はそれをほんのしばらくの間預かり、私がそれを手にしている間に、できる限りそれを赤々と燃やして、やがてそれを次の人へとバトンタッチするのだ!」