(589) “わたしは、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。”

 聖書の神は私たちを「永遠の真実の愛をもってあわれむ」と約束しておられます。『永遠』とは、単に「いつまでも」という意味ではなく「初めもなく終わりもなく、ずっと」ということ。天地創造の神は、私たちの理解を超えて偉大なお方です。  このお方は私たちが生まれる前から私たちの事をよぉく知っており、外面的なことだけでなく、内面的な葛藤や、直面している誘惑、弱さや醜さなども全てご存知の上で「永遠に真実の愛をもってあわれむ」と言われるのです。私たちはしばしばこの神を『人間的な基準』で推し測ってしまい、「自分が良い子でいる間は神はあわれんでくださるが、道を外れたり、失敗したりすると見捨てられる」と思いがちです。しかし確かなことは、私たちには決して「神を驚かせたり、ガッカリさせたりすること」はできない、ということです。何故なら神はそれら全てをあらかじめご存知だからです。  では『神のあわれみ』とはどのようなものなのでしょう?単に「可哀そうだと感じる」ということでしょうか?そんな薄っぺらいものではありません。『神のあわれみ』とは、私たちの弱さや失敗を全てご存知の上で「やがてキリストの似姿へと変えられて行く」という崇高なご計画に対する大いなる期待に基づいた『あきらめることのない』あわれみです。神は、救い主イエス・キリストを通してご自分に近づいてくる者たちを、常に全力でサポートし、何度でも立ち上がらせ、決してあきらめることなく、私たち1人1人が「神の偉大さを表現することができるような人生」を歩むことができるようにと導き続けてくださるのです。

(588) “私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”

 『信頼』というものは、人間関係を構築する上で最も重要な要素の1つではないでしょうか?ところで皆さんは「どのような人」を『信頼』することができますか?「良い人」?「正直な人」?  「良い人」にはつい信頼したくなります。事実多くの人は信頼を勝ち取るために、人々に対してできるだけ良い態度で接しようとするでしょう。ただ、そこには1つのワナがあります。というのは、「良い人」は、全ての人に良い態度で接しようとするがあまり、「あっちを立てればこっちが立たず」という状況にはまり込んでしまうことが多いのです。そのために結果として「多くの人の信頼を裏切ってしまう」という結末を迎えてしまうことがあります。誰にでも良い態度で接する人には気を付けなければなりません。  では「正直な人」はどうでしょう?「正直な人」になら信頼できそうな気がします。しかし『正直であること』は反面「融通が利かない」という面があります。いわゆる、その場を和ませるような「噓も方便」が通用しないのです。つまり、こちらに全く噓偽りがない限りは強い味方なのですが、場合によっては『最強の敵』にもなりかねない、ということです。  真に「信頼に足る人」は『誠実(英語でFaithful)な人』です。この『誠実さ』とは、言い換えるなら「決して約束を破らない」という『決死の覚悟』であり、いわば教会で結婚式を挙げる時に新郎と新婦が誓う「健やかな時も病む時も…」に値する、互いの間の『献身(コミットメント)』です。周囲の状況に左右されない、そしてたとえ他の誰かに迷惑をかけたとしても、「この人のことだけは裏切らない」という態度、これこそ「夫婦関係」「大切な友人関係」「職場での仲間」などの間に必要とされている『信頼』を生み出すのです。  聖書は「神は誠実であり、真実なお方である」と教えています。これは「私たちが神に対して正しい態度を取っている限り…」などという条件付きではなく、「たとえ私たちが神に対して不真実であっても」という、『無条件の誠実さ』なのです。この誠実なお方が、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束してくださっているのです。

2024年9月8日 「福音を説く(7)」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「福音を説く(7)」    (08/09/2024) ◆「福音」の中心は、『イエス・キリスト』 [ローマ5:6-8]  ・福音の中心は、『イエス・キリスト』。イエスは私たちが彼に対して見向きもしていなかったのにもかかわらず私たちをずっと以前から知っており、その命と引き換えに私たちを『罪・死・さばき』から救おうとされた。また単に「身代わりに死んだ」というだけではなく、私たちの「神に対する無関心や反逆の汚名」をかぶり、「すべての罪から来る呪い(病や思い煩い)」をも、その身に引き受けてくださった。  ・前述のみことばのように、「身代わりに死のうとする人」はいるかもしれない。しかし人間の場合はそれで終わりであり、かえって残された側は死んでくれた人に対して、一生『負い目』を背負って生きて行くことになる。 ◆イエス・キリストは、今日も生きておられる!  ・しかしキリストは私たちのために「死なれた」だけでなく、「よみがえられた」!これは次の2つのことを意味する。   ①キリストは『死』に勝利された。これは「私たちの神に対する負債が完済された」という証しである。   ②この「命がけで愛してくださった方」が、今日も生きて私たち1人1人と共におられる!  ・これこそが、私たちが信じている『福音』である!それ故私たちが「福音を告げ知らせる」のは、この喜びや希望をまだ体験したことのない人々に対する、ごく自然で当たり前な『愛による分かち合い』なのである! 今日の要点 命をかけて私を愛された『イエス』が、今日も共におられる! ◎更に深い学びのために  ①「イエスの十字架」は、あなたにとって、どんな意味がありますか?  ②「イエスのよみがえり」は、あなたにとって、どんな意味がありますか?  ③今日からあなたは、誰に、どのようにして、この『神の国の福音』を伝えて行きますか? Outline of the sermon  “Preach the Gospel (7)”  (08/09/2024) ◆Centre of the gospel is “Jesus Christ”. [Romans 5:6-8]  ・Jesus knew us and died Read more…

(587) “イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。”

 イエスと12弟子たちの地元は『ガリラヤ湖』という湖の周辺であり、弟子たちの何人かは漁師でした。なので彼らは移動手段(特に湖の対岸へ行く場合)として「釣り舟」を使うことがよくありました。  ある日イエスは弟子たちに「舟で向こう岸へ行こう」とおっしゃり、皆で舟に乗り込み、対岸へと向かいました。ガリラヤ湖は直径20キロメートルほどの湖でしたが、地形上の理由で時々嵐に襲われることがありました。この時も同様の事が起こりましたが、イエスは疲れていたのか、船尾でぐっすり眠っていたようです。弟子たちはイエスの手を煩わすことなく何とか手を尽くして向こう岸まで辿り着こうとしましたが、万策尽きてイエスを起こし、「私たちを助けてください!」と懇願しました。するとイエスは起き上がり、風と波を叱りつけると、湖はそれまでの嵐がウソのように静まり返ったのです。弟子たちが改めてイエスの権威と力に圧倒されている時、イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたの信仰はどこへ行ってしまっていたのですか?」  この出来事は私たちに1つの事を教えてくれます。私たちの人生にも『嵐』と思えるような困難がたびたび襲って来ますし、私たちはその度に『苦しい時の神頼み』として神に助けを求めようとします。クリスチャンとて同様です。ただ、クリスチャンである人たちには、そうでない人たちと少しだけ異なった点があります。それは「キリストが今日も自分と共にいてくださっている」ということを知っているということです。特に上記のストーリーにおいては「向こう岸に行こう」とおっしゃったのは他ならぬイエスご自身だったのです。イエスはご自身がおっしゃったことは必ず成し遂げるお方です。この時イエスは弟子たちに「わたしとわたしの言葉がいつもあなたたちと共にあるということを、決して見失うな」とおっしゃりたかったに違いありません。  「神が共におられる」ということ、そして「神は必ず言われたことを成し遂げる」ということをいつも心に握りしめている、これが私たちの人生に『揺るがない希望』を与えるのです。