(391) “泣いている者たちとともに泣きなさい。”

 日本語の古くからの言い回しに『同類相憐れむ』というものがあります。「同じような苦しい境遇にある者同士は、互いに親近感を覚えるものだ」のような意味ですが、何故か最近では「あの人たちって『同類相憐れんでる』って感じで、何だか情けないね」というように、相手を見下した言い方として使われることが多いようです。もしかすると、戦後の高度経済成長を通して発展した日本の『おごり』のようなものが、『社会的弱者』を蔑視する傾向を育んでしまっているのかもしれません。とても残念なことです。  よくキリスト教は『弱者の宗教』と言われますが、それは何も「弱い人たちはキリスト教を信じる傾向がある」という意味ではなく、「キリストと心を通わせて生きる者の心は、不思議と『社会的弱者』に対する憐みに傾く傾向がある」ということなのだと思います。ある時イエス・キリストは次のようにおっしゃいました。「あなたがたの父(神のこと)があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」。そうです。私たちの創造主なる神は『憐れみ深いお方』なのです。  あるジャングルの奥地に住む部族は、『あわれみ』を表現するのにピッタリな単語がありませんでした。その部族に「神の憐れみ」に関して説明すると、彼らはそれを「神が私たちと共に泣いてくださっている」と解釈したのです。これぞ『あわれみ』の真骨頂ではないでしょうか?  神様は私たちに「あわれみ深い人になって欲しい」と望んでおられます。「人の痛みを自分の痛みとして感じ取り、共にその苦しみを乗り越えて行って欲しい」と願っておられるのです。そしてそのような態度で私たちが「共に生きること」ができる者となるために、今日も私たちを憐れんでくださっているお方なのです。

2020年5月24日 「隣人を愛する」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ 「隣人を愛する」 (24/05/2020) ◆自分本位の生き方 [ルカ10:25~37]   ・この箇所は「良きサマリア人の話」として有名だが、この話を「親切な行為の勧め」として捉えるならズレている。   ・イエスはこの律法の専門家が、純粋に『永遠のいのちへの道』を求めているのではなく、『自分の正当性』を誇示しようとしていることを察知し、その誤りに気付かせるためにこのたとえを話した。 ◆神との『心』の共有 [箴言3:27, ルカ6:36]   ・律法の専門家であるなら、他のどの律法にもまさって「隣人を愛すること」が大切[ガラテヤ5:14]だと知っているはず。しかし彼らの日々の生き方は「自分に都合の良い律法理解」を反映していた。   ・一方サマリア人は「混血種」としてユダヤ人から隣人扱いされていなかったにもかかわらず、『律法』によってではなく、「あわれみ」によって行動し、結果として律法を全うした。『あわれみ』は神のご性質であり、隣人にあわれみを示す人は神と『心』を共有している。[ヤコブ2:13]   ・イエスは「この小さき者の隣人になってくれるのは誰なのか?」 と私たちを招かれる。真に隣人を愛することは「キリストがご自身の愛を表現するために、自分を用いようとしておられる」と自覚することから始まる。 ✰今日のキーワード: 「あわれみの器」 ◎学びを深めるための質問  ①主イエスが「良きサマリア人のたとえ」で知らせようとしておられた『真理』とは、どのようなことでしたか?  ②私たちが聖書の中の「良い行いに関する勧め」に関して犯しがちな誤解に、どんなものがあると思いますか?  ③キリストが自分を通して「ご自身のあわれみを示そうとしておられる」と感じた経験を分かち合ってみましょう。 Outline of the sermon        “To love our neighbors.”     (24/05/2020) ◆We tend to think of ourselves only. [Luke10:25~37]   ・This parable is not Read more…

(390) “求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。”

 クリスチャンたちは、天地創造の神のことを『我らの父』と呼びます。ちょっと馴れ馴れしいと思われるかもしれませんが、確かに「すべての物の根源であるお方」としても、またイエス・キリストが神を『アバ、父』と親しく呼んだことに倣う上でも、「父なる神」と呼ぶのは妥当かもしれません。  そんなイエス・キリストが弟子たちに『祈り』というものを教えた時、やはり「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるように教えられました。そして「あなたがたはわたしの名によってどんなことを父に求めても良い」ともおっしゃったのです。ですからクリスチャンたちは、遠慮することなく、文字通りどんなことでも祈ります。  さて、ここで1つ気を付けなければならないのは、「どんなことでも求めても良い」ということと、「どんな願いも叶えられる」ということは、全く別のことだということです。『天の父なる神』は「良いお方」なので、私たちにとって最善でないものは通常与えようとはなさいません。これもまた「父なる神」として当然のことではないでしょうか?  私自身にも3人の子どもがいます。そして3人とも心から愛しています。ですから、できる限りの良いものをいつも提供してあげられるように努力してきました。(もちろん諸々の理由で、提供してあげられなかったことも多々ありましたが…) そしてまた3人の子どもたちは皆それぞれ個性がありましたので、必ずしも『同じもの』を『同じ時』に提供する必要はありませんでした。それぞれの個性や成長度合いに応じて「ちょうど良いもの」を「ちょうど良い時」に提供できるよう心掛けたのです。それが『良い父親』としての特権であり、責任でした。  私たちの『天の父なる神』は、私などよりも「遥かに優れて愛に満ちたお方」ですので、私たち1人1人に「最高のもの」を「最高の時」に与えることがおできになります。ですから当然、わきまえのない私たちが「求めるもの」を、いつも「求めた時」に与えるとは限りません。私たちが求めても与えられない時には、「神様はケチで意地悪だ!」と結論付ける前に、まず「自分自身の内側を吟味すること」が大切なのではないでしょうか?

2020年5月17日 「『真理』によって愛する」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ      「『真理』によって愛する」    (17/05/2020) ◆真実の愛 [Ⅰヨハネ3:16-20]  ([ヨハネ3:16]は大変有名だが、この[Ⅰヨハネ3:16]もかなり重要)   ・「相手のために自分のいのちを捨てる」は、一般的な『愛』の概念とは相当かけはなれている。具体的には、「他の人のいのちを豊かにするために、自分自身のいのちにとって価値あるものを喜んでささげる」こと。   ・いわばヨハネは私たちに次のような選択を迫っている。    ①「自分の都合を優先して生きる」か? ②キリストのわざを見るために「自分の都合を後回し」に生きるか?   ・パウロは「自分の弱さ」を認める中で、この②(自分を通して現されるキリストの力)を経験した。[Ⅱコリント12:9] ◆『真理』に属する者[18~19節]   ・『真実の愛』は「自分の気持ち」ではなく「真理であるキリスト」から来る。『自分』に依存した信仰は「自分自身の前だけ」での平安をもたらすが、『真理』に依存した信仰は「神の御前における全き平安」を約束している。   ・「自分が良いと思うこと,したいこと,できること」を「自分のタイミング」で行うのに『信仰』は要らない。しかし「相手のために自分の全てを主にあって差し出すこと」は『信仰』を要求する。そんな時「主よ、私にはできませんが、あなたならできます!」と自分自身を差し出してみよう。『教会』は、そのような「信仰表現のための練習場」。 ✰今日のキーワード: 「私たちを通して現される神の力」 ◎学びを深めるための質問  ①「真実をもって愛する(18節)」とは、どんな風に愛することですか? どうすればそれが可能になりますか?  ②「自分の心が責めたとしても安らかでいられる(20節)」のは何故ですか? この平安はどこから来るのでしょう?  ③「自分の弱さを通してキリストの力が現された経験」があったら、互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon        “Loving by ‘Truth’.”     (17/05/2020) ◆True love. [ⅠJohn 3:16-20]  ([ⅠJohn 3:16] is as important as [John Read more…

(389) “自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。”

 恐らく多くの方々は『キリスト教』というと「愛の宗教」という印象を持っていることでしょう。有名なクリスチャンとして挙げられる「マザーテレサ」「アッシジのフランシス」「ナイチンゲール」「キング牧師」などなど、そして極めつけはその創始者でもある『イエス・キリスト』、その誰もが「人々への愛に生きるためにその生涯をささげた存在」として知られています。  全ての人は『愛』を求めています。誰もが『愛』を必要としています。ある人は「人は愛することによって安息し、愛されることによって満足する」と言いました。『愛』というものは、ある意味私たちが生きる上で「食べ物」以上に必要とされる、とても基本的な要素です。「私は『愛』なんて無くても生きていける」という人は、単に強がっているか、ものすごく無知なのか、もしくは既に人生を投げてしまっているに違いありません。では、一体どこでどうやって、この『愛』というものを見出せるのでしょうか?  何年か前に「僕らは奇跡でできている」というドラマがありました。主人公は『動物オタク』の青年で、彼を取り巻く人々は初めは彼のあまりの「変人ぶり」に手を焼くのですが、徐々に彼が物事を純粋でありのままに見つめている様子にグイグイ魅き寄せられて行き、逆に自分自身の心が素直でないことに気付かされて行くのです。この主人公がある時こんなことを言います。「ボクは以前『大好きになりたいのに1番嫌いな人』がいた。それがずっと苦しかった。でもある時からその人のことを本当に好きになれて、それから人生がスゴく楽しくなった。その人とは『ボク自身』。」 そしてこの「ありのままの自分のことを大好きになれた主人公」の純粋で自然なふるまいに触れる中で、周囲の人間も少しずつ「ありのままの自分を受け入れること」ができるようになり、生き生きとしてきます。  「人を愛する秘訣」は、努力によって得られるものではありません。実はそれはまず「ありのままの自分を心から受け入れ喜べるようになること」から始まるのです。そしてこのように「自分をありのままに受け入れる」ためには、私たちをこよなく愛し、私たち1人1人をご自身の最高傑作品として形造ってくださった『創造主なる神』との出会いが必要不可欠なのです。キリスト教が『愛の宗教』として知られるゆえんは、まさにここにあるのです。

2020年5月10日 「『成し遂げる』のではなく、『成就する』」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ    「『成し遂げる』のではなく、『成就する』」  (10/05/2020) ◆「良い方」は『私』ではなく『神』 [ローマ12:11-21]   ・この箇所をまとめて言うなら「良いことだけをして、悪いことは決してするな」「受けることは期待せず、ひたすら与えよ」。 ⇒ 無理!もしこれらを目標に努力するのが『クリスチャン』なら、単なる『宗教家』にすぎない。   ・私たちのキリスト者としての歩みのカギは「神との生きた関係」のために「キリストにとどまる」こと。[ヨハネ15:5]   ・神は元々私たちを『良い行い』のためにデザインされた。[エペソ2:10] それを損なったのが『罪』。だから私たちは「クリスチャンになるため」だけでなく、「クリスチャンとして日々生きるため」にも主イエスを必要としている。 ◆心を新たにする   ・神は「良い方」であり、「望んでおられることを必ず成し遂げる方」であり、「それを『愛する者』と共に実現しようとされる方」。それ故、私たちの側に必要な態度は次の2つ。     ①「神の願い」を「自分の願い」とする。 ②神が自分を通して何かをなさろうとする時のために備えている。   ・「心を新たに」(ローマ12:1-2)とは「『最善』を知っているのも、実現するのも、『私』ではなく『あなた』です」という態度を持つこと。このような心で御前に出る時、私たちは「神のみこころ」を見分けることができるようになる。 ✰今日のキーワード: 「私」ではなく、「神」 ◎学びを深めるための質問  ①神は何故、聖書を通して私たちに多くの「良い行いへの勧め」をなさるのでしょう?  ②「自分はクリスチャンらしくない」と感じるのはどんな時ですか? また真の「クリスチャンらしさ」とは何でしょう?  ③『神のみこころ』とは一体誰のためですか? また『神のみこころ』を見分けるためのカギはどんなことですか? Outline of the sermon      “Not You, but He will do it.”   (10/05/2020) ◆God is good, not Read more…

(388) “神は人をご自身のかたちとして創造された。”

日本の学校では「人類の起源を説明するセオリー」として『進化論』しか教えられていませんよね?下等なものから高等なものへと、何億年もかけてゆっくりと進化して行った。最終的には『サル(類人猿)』から『人』へと進化した、と。もし本当にそれが事実であれば、現代に生きる『人類』は、相当「高等な生き物」ということになりますが、本当にそうでしょうか? 確かに現代の科学や産業の発展だけを見るならば、そのように感じられる部分もあります。しかしそれらの発展の背景にある思想は必ずしも「高等なもの」とも言えません。「より便利に」「より早く」「より利益を生むために」というのがほとんどの動機であって、本来人間が求めるべき「より崇高な存在として」といった『進化』はあまり見られません。『便利』ということばそのものの名前が付いた『コンビニ』では、毎日何十個もの「手付かずのお弁当」が捨てられています。お金欲しさに『援助交際』という名の下で不道徳な行為が行われています。いわゆる「下等動物」と呼ばれる獣たちは、どんなに獰猛な性質でも、お腹いっぱいになれば、不必要な殺傷はしませんが、「人間世界」では、欲得の理由で殺傷事件が後を絶ちません。これが本当に『進化』でしょうか? 聖書は「神が人をご自身のかたちに創造された」と教えています。そして神は『人』を通してご自身の崇高さを表現しようとされたのです。ところが『人』は神の指導の許に生きることを好まず「自分勝手な道に進んで行った」と聖書は記しています。現代の人類の『堕落』は、その成れの果てなのです。 しかし神はそのように世界がただ堕落して行ってしまうのを黙って観ていることを好まず、もう1度『人』を「ご自身のかたち」に回復しようと、「本来の人間のモデル」である、ひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わし、彼を通して私たちのために「本来生きるべき人生へと立ち返る道」を備えてくださったのです。このイエス・キリストを通して『神との関係』の中で生き始めることを通して、私たちは本物の『進化(回復)』へと進む人生を開始することができるのです。

2020年5月3日 「神のみわざの代行者」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ        「神のみわざの代行者」   (03/05/2020) ◆『真の謙遜』を養う [ローマ12:3-10]   ・このローマ書の内容は要するに、「互いに謙遜になって、神から与えられている賜物(恵み)を使って、互いの必要を補い合おう」という勧め。真の謙遜は『自己卑下』ではなく、「できることはできる、できないことはできない」と言える正直な態度。神様は私たち1人1人を「違った存在」として造られた。別の言い方をすれば「互いを必要とするように」デザインされた。ぜひ「互いに求め合い、与え合う共同体」として成長しよう! ◆神のわざの代行者 [ローマ12:1-2]   ・以前『両生類』の話をした。私たちは「地上人」でありながら『天国人』でもある。「この世と調子を合わせて」生きていたら、決して『天国人』としての使命は果たせない。   ・私たちは「キリストのからだ」として、この世にあって『神のみわざの代行者』。「自分が他の誰かに与える時」も「他の誰かが自分の必要を満たしてくれている時」も、神が私たちを通してみわざをなさっておられる。私たちは「神が私たちを通して成し遂げようとしておられること」を妨げてはならない。 *『神の家族』である私たちによって現される働きを通して、神である主の御名があがめられますように! ✰今日のキーワード: 「真の謙遜」 ◎学びを深めるための質問  ①あなたが「誰かに与えよう」また「誰かに求めよう」とする時に、それを躊躇させるものは何ですか?  ②「自分は他の人と少し違っている」と感じるのはどんな点ですか?それを神様にどのように感謝できるでしょう?  ③どのようにして、神様が「自分を用いられた時」と「他者を用いられた時」を同じように喜ぶことができるでしょう? Outline of the sermon       “We are ‘Agents of God’.”     (03/05/2020) ◆Grow in “True humility”. [Romans12:3-10]   ・The essence of these verses is like; “Be Read more…

(387) “だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。”

 だれかからひどい仕打ちを受けた時、私たちのごく自然な反応は恐らく次の2つでしょう。①仕返しをする。②相手が自分の行った悪に対する報いを受けることを期待する。しかし残念なことに、この2つのどちらも私たちにとっての根本的な癒しにはなりません。『相手を赦すこと』だけが、私たちを相手に対する苦々しい思いから完全に解放することができます。ある人はこんな風に言いました。「『赦し』とは、『囚人を解放する』という決断である。その決断を下した途端、『実はその囚人は自分自身であった』ということに気付くのである。」  人を赦した経験のある方なら誰でも知っていることでしょうが、『赦し』というものは決してたやすくできることではありません。ある意味「常識外れの力」が必要です。一体そんな力をどこから得ることができるでしょうか?それはもちろん「常識外れの赦しを与えてくださった神」からです。この方は『赦しの神』ですから、私たちが「赦すための力」を求める時に、喜んで与えてくださるのです。  実を言うと、この「人を赦す」という作業の半分は既に完了しているのです。何故なら、神は既に「神に対するあなたの全ての不信仰や不従順」を、イエス・キリストの十字架において赦してくださっているからです。私たちに残された作業は、心を開いてその「神からの赦し」を受け取り、その中にある『赦しの心』を素直に赦すべき相手に対して開放すればよいのです。神から離れ「罪の奴隷」となっていた自分が『奴隷解放』された喜びに満たされたなら、その解放感はごく自然に「他の人を束縛から解放する力」としてあなたを通して働くようになるのです。

2020年4月26日 「愛の成長を阻むもの」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ         「愛の成長を阻むもの」    (26/04/2020) ◆『愛』は「御霊の実」 ― イエスが愛したように、愛する。[ヨハネ13:34]   ・『真実の愛』は「好き嫌い」とは関係ない。[マタイ5:46-47] これは「自分自身から出てくるもの」ではなく『御霊の実』。この御霊は、イエスを信じた時から与えられているのだから、「愛の種」は既に私たちのうちにある。   では、「私たちの内に蒔かれた『愛の種』の成長を妨げているもの」は何か? = 私たちの不信仰   ・聖書は、はっきりと次のように告げている。[詩篇37:5,ゼカリヤ4:6,ピリピ1:6] 「だから信じて任せよ!」 ◆「不信仰」から『信仰』へ  *「不信仰」の実態は… ①「神が良い父である」と信じ切れない ②自分の力で何とかしたい この2つの混合。   ・私たちは聖書を通して「神のみこころ」に関する多くの『知識』は持っているが、実践できない。その根本的理由は「自分の力不足」ではなく、それらの知識の上に『自分』を置くから。これを『不信仰』と呼ぶ。逆に『信仰』とは主イエスをすべてのものの上に据えること。パウロはこの「信仰の歩み」を次のように要約した。[ガラテヤ6:14]   ・『御霊に導かれた歩み』とは、分かりやすく言えば「神が良い父である」と固く信じ、恐れずに自分自身を日々神にささげること。私たちは「信仰の小さい者」。だから神に助けを求めよう! ⇒ [マルコ9:22-24] ✰今日のキーワード: 「信じて委ねる」 ◎学びを深めるための質問  ①感情的な「好き嫌い」と、「主イエスが愛されたように愛する愛」とは、どんなところが違いますか?  ②なぜ『不信仰』が「内なる御霊による愛の成長」を妨げることになるのでしょう?  ③「キリストが愛してくださったように、互いに愛し合う者」となるために、どのように助け合うことができますか? Outline of the sermon      “What hinders our love to grow.”   (26/04/2020) ◆“True Love” only comes Read more…