(600) “天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。”

 私の友人が自分のエレキギターのソフトケースを注文しました。しばらくして朝にメッセージが届き、そこにはこう書いてありました。「ご注文のギターケースは、今朝7時に発送されました。」 ちょうどその日は夕方にある場所で演奏する予定があったので、「7時に発送されたんじゃ、きっと午前中のうちに届くだろうから、夕方の演奏の時には新しいケースに入れてギターを持って行けるな」と、彼はとても喜びました。  ところが、お昼になっても荷物は届きません。彼は少々ガッカリしましたが、「ここはニュージーランドだから、日本のようには行かないよな。でも出発まではまだ4時間もあるから、まあ余裕だろう」と、特に焦ることもなく、荷物の到着を待ち続けました。ところが、3時を過ぎても、3時半になっても、いまだに荷物が届きません。さすがの彼も焦り出して、神様に向かってこう祈りました。  「ねぇねぇ、神様ぁ~、何とかしてくださ~い!ボクは今日は新しいケースにギターを入れて持って行きたいんですぅ。」  全く『礼儀正しい』とは言えない祈りでしたが、彼の心からの真実な叫び(?)でした。すると、出発準備を始めた3時45分頃になって、宅配のトラックが家の前に停まりました。彼は胸を高鳴らせて、「来た~!」といさんで荷物を受け取りに行きました。  ここでストーリーは終わりません。彼が受け取った荷物は、およそ「ギターケースが入っている箱」には見えない、30センチ四方くらいの立方体だったのです。「ウソでしょ!」と彼は慌てて発送元を確認すると、それは確かに彼がケースを注文した会社。「もしかして、間違った品物を送ってきたのか?」と不安に感じつつも、恐る恐る箱を開けてみると、そこには丁寧に3つ折りにされた『ソフトギターケース』が収められていました。  神様は、ご自身の愛する子供たちの祈りに耳を傾け、それに応えてくださいます。ところが『神様からの祈りの答え』というものは、必ずしも「私たちがイメージしている形」で与えられるとは限りません。神様は私たちよりも遥かに偉大で、知恵と力とに満ちたお方です。ですから、私たちは「自分勝手なイメージ」で神様のことを定義してしまうことなく、ただその愛と誠実さに信頼して歩んで行きましょう。

2025年2月9日 「キリストにある一致」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「キリストにある一致」    (09/02/2025) [ピリピ人への手紙2章19~24節] ◆パウロとテモテ(リステラでの出会い,使徒16:1~3)  ・バルナバと別行動を取ることになったパウロは、『同労者』を切望していた。そんな時に出会ったのが『テモテ』。 テモテはパウロと共に宣教活動を初めてまもなく「マケドニアへの招き」を経験し、初めて足を踏み入れた地が、この『ピリピ』だった。ここで牢獄に入れられてしまったパウロのために、テモテはピリピの信者たちと必死の祈りをささげたに違いない。 ◆2人の信頼関係の基盤(20~22節)  ・パウロは「テモテは自分と『同じ心』で歩んでいる」と評している。これは何も「いつでも自分の味方をしてくれる」という意味ではなく、同じ『キリストの心』でということ。「1つとなること」は、「お互いを見つめること」によって起こるのではなく、「同じもの(同じ方)をいつも見つめていること」によって実現する。  ・JCFもそうだが、『教会』を構成するメンバーは1人1人が「ユニークで個性的な存在」である。それがどうやって『一致』できるのか?それは「同じことをすること」によってではなく、それぞれが自分自身の持ち味(賜物)を生かしつつ、それを「自分自身の益のため」ではなく、『神の喜び』という「共通の心」に押し出されて進んで行くことによってである。これこそが「キリストを表現しながら生きる」ということなのだ![Ⅱコリント5:14-15] 今日の要点: 「自分」ではなく、『キリスト』を取る ◎更に深い学びのために  ①パウロとテモテの出会いとは、どのようなものでしたか? 2人の宣教の旅路は簡単なものでしたか?  ②パウロはテモテのことを「どのような存在」と評価していますか?  ③私たちが「キリストのからだ」として、この2人のように『同じ心』で進んで行くために大切な要素は何ですか? Outline of the sermon    “‘Work out your salvation.”    (09/02/2025) [Philippians 2:19~24] ◆Paul and Timothy. (Acts16:1~3)  ・Paul was desiring someone who would be willing to work Read more…

2025年1月26日 「救いの達成」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「救いの達成」    (26/01/2025) [ピリピ人への手紙2章12~18節] ◆『救い』とは?(12~14節)  ・『救い』とは、単に「天国に行けること」ではない。「『神の子』としての本来の姿へと回復されること」である。また『永遠のいのち』とは単に「永遠に生きること」ではなく、「永遠に続く『神との健全な関係』」のこと。このお方と日々交わりを保つ中で、神は私たち1人1人に『ユニークな志』を立てさせ、ご自分のみこころを成就なさる。  ・すなわち、ここで言われている「救いを達成する」とは、御子イエスが地上においていつも「神と共に歩まれた」ように、私たちも「共に歩んでくださる主イエスを見つめながら人生を全う」する、ということなのだ。[ヨハネ5:17] ◆救いの目的(15~16節)  ・パウロはここで「救いの達成を目指して生きる人の人生にはどんなことが起こるか」についても述べている。それは、「傷のない神の子どもとなり、世の光として輝く」こと。これは正に『御子キリスト』の歩み。すなわちパウロは、私たちキリスト者はこの地上で「キリストが御父の栄光を現しながら歩まれたように、私たちも御子イエスの栄光を現しながら、世にキリストを証しする存在とされて行く」と言っているのである。  ・[17~18節] パウロは自分が関わる全ての教会(クリスチャン)を通してこのことが実現するのを見ることに『至上の喜び』を感じていた。私たちも『同じ喜び』を共有しつつ、それぞれの「救いの達成」を目指して前進し続けよう! 今日の要点: 互いの間で行われる『神のみわざ』を、じっと見る ◎更に深い学びのために  ①12節でパウロが言っている、「自分の救いを達成する」とは、どういう意味でしょう?  ②私たち『キリスト者』は、この地上において、どのような存在ですか?  ③「パウロの喜び」とはどのようなものでしたか? この喜びをJCFでも共有するためにどんなことができますか? Outline of the sermon    “‘Work out your salvation.”    (26/01/2025) [Philippians 2:12~18] ◆What does “Salvation” really mean?(Verses12~14)  ・It is not just “a ticket to heaven”.  Read more…

(599) “わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。”

 砂漠を歩くうちに飲み水が尽き、のどの渇きにあえいでいると、そのうちに『幻覚』が見えるようになります。すなわち、本当は実在しないものを見るようになり、それに惑わされて、後でとてもガッカリさせられるのです。  同様に、私たちの心が寂しさや不安などで渇ききり、藁をもつかむ思いで生きていると、普通ならば到底頼るはずもないようなものに誤ってしがみついた末に欺かれ、どうしようもなく落胆させられてしまうことになります。  「そんなこと言ったって、どんな人にも試練はやってくるし、そんな時は何かに頼りたくなるのは当然じゃないか!」とおっしゃるでしょうか?確かにその通りです。私が言いたいのは、『試練』というものは必ずしも「悪」ではない。ただ、その辛さに怯えて「誤った解決」にすがりついてはいけない、ということなのです。  イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るようになる」と。神が私たちに『試練(渇き)』が起こることを許されるのは、私たちを「まことの解決」、その渇きを癒すだけではなく、やがて私たちを「他の人の渇きをも潤すことのできる存在」へと成長させる、『永遠のいのち』であるイエス・キリストに目を向けさせるためなのです。

(598) “これらのこと(言葉)に心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。”

 聖書は「1人1人の人間としての成長は、自分で実感することができるものである」と教えています。しかし「肉体的」また「知的」な成長は、様々な方法で『測る』ことはできますが、「人格的な進歩・成長」は、どのようにして測ることができるのでしょう。  子供時代は、ある意味全ての人は放っておいても『成長』します。そのため学校を卒業してからも、「まあ、食べて、活動さえしていれば、それなりに成長するさ」と思ってしまいがちです。しかし残念なことに、それは『勘違い』というものです。「家庭教育」「学校教育」が終了し、いわゆる『成人』になるということは、まさに「今後の成長は、個人個人の努力や心掛けにかかっている」ということなのです!  『聖書』は、私たちの人生にとっての「究極的なマニュアル」です。敬虔なクリスチャンとして有名なアメリカ大統領『アブラハム・リンカーン』は、こう言いました。「聖書は神から人類への最高の贈り物である。私たちの人生のために必要なことは、すべて聖書の中に書かれている」と。ぜひ聖書を読むことを日々の習慣にしてみてください。数行読んだら、その内容を静かに黙想してみてください。そしてその日その日に分かったことを、生活の中で実行してみてください。そうすれば、やがてあなたは「自分の人生が大きく進歩・成長している」ということを、必ず実感することができるでしょう!

(598) “あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。”

 「イエス・キリストに倣う者となる」ということは、どんな相手に対しても、いつでもどこでも『あわれみ深く接する』ということです。  実業家であったアンリ・デュナンは、イエス・キリストに対する信仰の故、戦地における負傷兵の叫びに応えて『赤十字社』の基礎を築きました。あの「赤い十字の印」を見るたびに、私たちは『キリストのあわれみ』を思い起こすことができます。  ドイツのルーテル教会牧師であったセオドア・フィードナーは農家の女性たちの間で看護の技術を広めました。このことがきっかけとなりヨーロッパで新しく多くの病院が設立され、やがてこれらの女性たちの中からナイチンゲールが現れたのです。  ベルギー出身のダミアン神父は19世紀にハワイに渡り、らい病人たちに寄り添うための施設を設立しました。彼は伝染性の強いこの病気に苦しむ患者たちの間を毎日巡回し、「神はらい病に冒されているあなたをも心から愛しています」と語りかけ続け、やがて彼自身もこの病に冒されたことを知って、「神は私たちらい病人を愛しておられます!」と告白しつつ息を引き取りました。  イエスは「これらの最も小さき者の1人にしたのは、わたしにしたのです」とおっしゃいました。今日あなたの周囲であわれみを必要としている方が誰かいますか?

2025年1月12日 「神の御手を体験するため」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「神の御手を体験するために」    (12/01/2025) [ピリピ人への手紙2章5~11節] ◆神によって高く上げられる(9~11節)  ・キリストが人となって地上で成し遂げられたことの故に、神はキリストに『すべてにまさる名[主]』をお与えになった。そして私たちが「イエスは主です」という時、それは父なる神に対し、「あなたは最期まであなたに従順に歩ま  れたキリストを『主』とされた、必ず約束を守る誠実なお方です」と、その栄光を讃えることになる。  ・神はキリストのみならず、ご自身の前に身を低くし従う時、私たちをも時に適って高く上げてくださると約束された。[Ⅰペテロ5:5-6] では、「神の前にへりくだる」とは、どういうことなのだろう? ◆「神の下にへりくだる」とは?(5~8節,「キリストにある『この思い』を抱く」)  ・キリストは「神と等しい」という自分の『あり方』を「捨てられない」とは考えず、「神としてのすべての特権」を放棄された。最初のアダムは「神のようになろう」としたために、人としての『本来あるべき姿』さえ失ったが、最後のアダム(キリスト)は、神である方なのに、敢えて「人となられた」ために、神に高く上げられた。  ・「自分を捨てる」とは、単なる『自己犠牲』ではなく、キリストの模範に従い「全く異質の相手をも尊重し、その必要に仕える」ということ。[ルカ9:23] このように御父の願いを全うすることがキリストの喜びだった。[へブル12:2]  ・『自己実現』ではなく「神に与えられた道をひたすら走り切ること」、それが真の満足をもたらす。[Ⅱテモテ4:6-8] 今日の要点: 分かったことに従い通す ◎更に深い学びのために  ①なぜ「イエスは主です」と告白することが、父なる神に栄光を帰することになるのでしょう?  ②「自分のあり方を捨てられないとは考えない」とは、あなたにとってどんなことを意味しますか?  ③「イエスの前に置かれていた喜び」とは何でしたか? それは「あなたにとっての喜び」とどう異なりますか? Outline of the sermon   “‘To experience mighty hand of God.”   (12/01/2025) [Philippians 2:5~11] ◆Be exalted by God. (Verses 9~11)  ・Jesus was Read more…

2025年1月5日 「本来あるべき姿へ」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「本来あるべき姿へ」    (05/01/2024) [ピリピ人への手紙2章1~4節] ◆キリストに似た者とされていく  ・キリストによって与えられる救いは、「天国へ行くため」ではなく、『神との交わりの回復』のため。それ故「キリストにある救い」を得ていながら、神との交わりを持とうとしないのは「宝の持ち腐れ」と言える。  ・『神との交わり』によってもたらされるのは「人間の『本来あるべき姿』への回復」である。イエス・キリストこそが私たち人間の『完全形』。イエスは度々「わたしがOOしたように…」と教えたが、それは「猿マネする」ということではなく、「キリストによるOOを体験した人だけが、それを実践できるようになる」ということ。それ故『神との交わり』は必須。 ◆どのように変えられて行くのか?  ・聖霊によって日々『神との交わり』に身を置きながら歩む時、私たちの内に「キリストの心」が形造られていき、それを『神の家族』と共有して行く時に、私たちは『キリストのからだ』として共に建て上げられていく。[エペソ4:13] ・このように「教会を通してキリストが現されている」のを見ることで、パウロは『神の喜び』を体験した。[2節] そして私たちが『キリストのからだ』として更に成熟して行くなら、やがて『この世』も私たちを通して『キリスト』を見るようになる。 今日の要点: 共に「キリストにあって」『本来の姿』を取り戻そう! ◎更に深い学びのために  ①「キリストにある救い」は、何のためですか? また、何故そう言えるのでしょうか?  ②『神との交わり』は、私たちの人生にどのようなものをもたらしますか?  ③『この世』は、私たちが言葉で宣教する以外に、どのような方法を通して「キリストを知ること」ができるでしょう? Outline of the sermon   “‘Return to our ‘original feature’.”   (05/01/2024) [Philippians 2:1~4] ◆Being transformed into “Christlikeness”.  ・God saved us in Christ not just “to Read more…

(597) “あなたがたは、…神の家族なのです。”

 2024年も終わりに近づきました。皆さんの『今年のハイライト』は何でしたか?「特に何も無かったなぁ」という方もいれば、「今年はこんな特別な体験をした!」という方もいらっしゃるかもしれませんね。  私たち夫婦にとっての『今年のハイライト』は、何といっても「末息子の結婚」、そして「8年ぶりのファミリー全員集合」でした。クライストチャーチに住む長男夫婦、日本の長野県で暮らす娘家族、そして新婚の末息子夫婦を含めた総勢10人が、娘の自宅近くのエアB&Bに集合し、2泊3日を共に過ごしました。初日の夜はご馳走を囲んで「飲めや歌えの大騒ぎ」でしたが、2日目の夜は、渋沢ファミリー名物の『家庭礼拝』を、このメンバーで初めて行い、言いようのない『幸福感』を味わいました。  ニュージーランドと日本では文化や習慣の点でいろいろな違いがありますが、年末年始になる度にしみじみ実感させられることがあります。それは、日本ではどちらかと言えば「クリスマスは恋人と、お正月は家族と過ごす」という傾向があるのに対し、ニュージーランドでは「クリスマスは家族と、そしてお正月(大晦日)は恋人と」という傾向が強いということです。ですから日本の「年末年始の交通渋滞」に対し、ニュージーランドではクリスマス・シーズンに飛行機の値段が高騰します。何故ならニュージーランド人は家族が海外で暮らしている場合が多く、家族が集合するために国外のあちこちに出かけたり、帰国したりするからです。  クライストチャーチ在住の日本人たちも、離れて暮らす家族に会いに行くためにこのシーズンに一時帰国する人が多いですが、もちろん様々な都合でそれが叶わない人もいます。そんな人々のために、私たちは『神の家族』としてクリスマス・シーズンにホームパーティを開き、一緒にご馳走を食べます。クリスチャンたちの間では、時にはそんな『神の家族』が「血のつながった家族」よりも絆が深められることもあります。何故なら『血縁関係』はこの地上に生きている間だけですが、『神の家族の霊的関係』は、永遠に続くからです。