(435) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

聖書の学び会で「心配事は祈りの中で神様にゆだねれば良い」と学んだ女性が、牧師にこう尋ねました。「つまらない些細なことで神様を煩わせるのは申し訳ないので、神様に打ち明けるのは『大きな問題』だけにした方が良いと思うのですが…」 すると牧師はこう答えたそうです。「ご心配には及びません。私たちが持って行くどんな大きな問題も、神様にとっては『ちっぽけなこと』ですから。」 どうやら神様は、私たち人間を「悩み事を自分で負うように」とは造られなかったようです。かえって私たちを『弱い者』としてお造りになり、ご自身に頼るように招いておられるのです。それ故聖書の様々な箇所で「重荷は神の許に降ろしなさい」と勧められています。一見些細な問題に見えたことでも、いつの間にか私たちの思いの中で増幅し『思い煩い』に発展してしまうことはよくあることです。そんな風にならないうちに、さっさと祈りの中で神様の前に持って行くのです。 上記の聖書のことばの「神にゆだねる」という語の直訳は『放り出す』という意味です。通常『思い煩い』は、お行儀よく私たちの思いの中の片隅でじっとしてはいません。なんとか私たちの日常生活を破壊しようと「絡みついて」くるのです。「思い煩いを祈りの中で神の許に持って行く」とは、そのようにしつこく絡みついてくる悩み事を、「お任せします!」と言って神様に向かって「かなぐり捨てる」ことです。神は「そうしてもよい」、いや「そうしなさい!」とおっしゃっているのです。それなのに、「いや、これは私個人の問題だから、神様に押し付ける事なんてできない」などと良い子ぶるのは、かえって「神に対する不従順」でしかありません。 神様は弱々しい存在だと思いますか?神様は遠くにおられて、忙しくてアナタのことなど相手にして下さらないとお思いですか?もしアナタが「思い煩いを神の前にかなぐり捨てる」ことができたなら、その時アナタは「神が近くにおられ、アナタを心にかけてくださっていること」を体験するのです。

2021年4月18日 「みことばは成就する」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「みことばは成就する」(18/04/2021) [マルコ 4:35~41] ◆「向こう岸へ渡ろう!」 [35~36節]   ・この2節から分かること ― ①既に夕方だったので、この舟の旅は真っ暗な中。②1艘の舟には弟子たち全員が乗り切れないほど「小さな舟」。③イエスは1日中舟の上にいた。   ・5章の前半を読むと、彼らが「向こう岸」へいたのは短時間だけで、『たった1人の男性』を悪霊から解放するため。恐らくイエスは「御父からの導き」を受け取り、「どうしても行かなければ」と感じていたのであろう。 ◆嵐を静める [37~41節]   ・暗闇の中での『湖上の嵐』は、『死』を意識させる。ここでイエスは「黙れ、静まれ」と権威をもって語ることで嵐を静めた。イエスは同じ権威をもって「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃっていたのに、弟子たちには分からなかった。   ・イエスのフォーカスは『嵐』にはなく、「御父が向こう岸に招いておられる」ということだった。イエスは「御父がなさろうとしておられることは、必ず成就する」と知っていた。[イザヤ55:11] イエスは同じ『信仰』を弟子たちにも期   待していたに違いない。[ルカ1:45] 「聖書や祈りを通して『神のことば』に耳を傾ける」ということ、そして「御声を聞き取り、それに従う」という『信仰』は、とてつもなく重要なことなのです! ✰今日のキーワード:God is in control! ◎更に深い学びのために  ①この聖書箇所を読んでの第1印象は何ですか?(「イエスの力あるわざ」,「弟子たちの不信仰」など)  ②イエスは何故出発を翌日まで待たなかったのだと思いますか? 弟子たちも何故反対しなかったのでしょう?  ③この体験を通して、弟子たちに最も印象づけられたことは何でしょう? またそれはどんな意味があるでしょう? Outline of the sermon    “God’s Word never return empty.”  Read more…

(434) “それぞれが賜物を受けているのですから、…その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。”

私たち日本人は『和』というものを重要視します。新しい年号も『令和』ですし、私が生まれたのも『昭和』です。また「和を以て貴しとなす」ということわざ(元々は聖徳太子の定めた『十七条憲法』の1つ)もよく使われますよね。確かに「協調性」や「平和を保つこと」はとても大切です。ただその反面、一般に日本人には「できるだけ事を穏便に済ませよう」とか、「出る杭は打たれる」などと、できるだけ出しゃばらないように気を付ける傾向があるようです。 日本国外で生活するようになって1つ気が付くことは、「今までの自分の考え方は狭かったなぁ」ということです。日本にずっと住んでいると何となく「できるだけ目立たないように、無難な道を進もう」という空気に流されてしまいがちです。そして知らず知らずのうちに『冒険』をしなくなり、自分の中に眠っている「未知の可能性」を見過ごしにして生きて行ってしまうのです。時折「ちょっと人と違った考え方」を持っていたり、「一風変わった生き方」をしている人を見かけると、『変な人』というレッテルを貼って、できるだけ関わらないようにしてしまうものです。 私は今まで、日本国外で「日本では会ったこともないような日本人」に何人も出会ってきました。どの人も大変魅力的で生き生きとしています。(まあ、きっと自分もその中の1人に違いないのですが…) 彼らを見ていて感じるのは、「他人と自分を比べようとしていない」ということです。言葉を換えるなら「ひたすら自分自身を生きている」とでも言いましょうか。日本に住んでいた頃に自分を覆っていた「殻を破った」ような感じを受けます。 確か日本の小学校の教科書に「みぃんな違って、みんないい!」というフレーズが出てくる詩が載っていたように記憶しています。まさにそれが聖書の言っていることなのです。それぞれが『違った存在』として自分らしく生き生きと生きている中で、互いに『協調性』をもって事に当たって行くことこそ、神様が私たちに求めていることではないでしょうか。

2021年4月11日 「広く・深く」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「広く・深く」(11/04/2021) [マルコ 4:30~34] ◆からし種 [30~32節]   ・『からし種』は聖書の時代には「最も小さな種の1つ」として知られ、よく例として使われていた。実際『神の国』はイエス・キリストたった1人から始められ、彼に従った「ほんのひと握りの無学な人々」によって広められた。   ・『からし種』は成長すると数メートルの大きさになる。「最も小さな種」が大きく育つためには、当然長い時間がかかり、十分に地中深く根を張る必要がある。『神の国』もそのように、「広さ」と「深さ」において成長する。 ◆『たとえ(謎)』を解く [33~34節]   ・『たとえ』は原文では『謎』。イエスが「たとえ」で語られたのは、「分かり易くするため」ではなく、聞く人1人1人に「自分で深く考えさせるため」。   ・イエスに従っていた者たちの中には、「途中で去った人々」と「最後まで従った人々」がいた。どちらも「悟りの鈍い者たち」だったが、最後まで残った者たちは「今はよく分からないけど、きっといつか分かる時が来る!」という信仰と希望によって踏みとどまり、イエスとの関係を深めて行った。『神の国』はこのように「イエス・キリストとそのみことばを通して神との関係を深めた人々」 によって広がって行ったのである。[詩篇1:2-3] ✰今日のキーワード:根気 ◎更に深い学びのために  ①ここでは、なぜ『神の国』が「からし種」にたとえられているのだと思いますか?  ②私たちが『たとえ』を使う理由と、主イエスが『たとえ』を使った理由とでは、どのように違いましたか?  ③「イエスに従い続けること」の『難しさ』と『素晴らしさ』とを、それぞれいくつかずつ挙げてみましょう。 Outline of the sermon       “Larger and deeper.”       (11/04/2021) [Mark 4:30~34] ◆Mustard seed. [Verses 30~32]   ・Just as “a Read more…

(433) “墓の中には亜麻布が置いてあるのが見えた。”

この前の日曜日は、『イースター(復活祭)』というキリスト教のお祭りでしたので、今回は「キリストの復活」にちなんだ話をしましょうね。 イエス・キリストが元々は「大工の家庭」で育てられたことは、ご存知の方もいることと思います。そして今から2000年前の聖書の時代に、イスラエルの優れた大工たちの間では1つの習慣がありました。当時大工たちは作業中には必ず前掛けを付けて働いたのですが、大工たちは頼まれた仕事を満足いく出来でやり遂げた時、その完成品の上に自分が使っていた前掛けをたたんで置いておくのだそうです。これが「この仕事は私が手掛けた仕事であり、立派な出来栄えで確かに完成している。もはや付け加えるべきものは何もない」という証しなのです。 さて、イエス・キリストが金曜日に十字架に架けられて私たちの罪の代価をご自身のいのちをもって支払ってくださり、予告通りに3日目の日曜日によみがえられた時、弟子のペテロとヨハネは復活のうわさを聞いてイエスが葬られた墓に真相を確かめにやってきました。するとそこにはイエスの遺骸はなく、あったのはイエスの遺体に蒔かれていた『亜麻布』だけでした。もしかするとペテロとヨハネは「空っぽの墓」にびっくり仰天していてその時には気付かなかったかもしれませんが、この「空っぽの墓」にただ1つ置いてあった、イエスが身に着けていた『亜麻布』がそこに置き去りにされていたことには意味があったのです。すなわち、これはイエス・キリストが私たちに送った、ご自身の『仕事の完成』を告げるメッセージだったのです!「私は全人類が救いに至るための道を完成させた。もはや人間の側で付け加えるべきもの(「良い行い」とか「寄付金」など)は何1つ無い。ただ私が確かに救いのわざを完成したということを信じるだけで『救い』を得る。」 『イエス・キリストの復活』、これは紛れもない「歴史上の事実」であり、神が私たちを「イエス・キリストが成し遂げられたみわざの故に救ってくださる」という、疑いようのないメッセージなのです!

2021年4月4日 「復活の意義」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「復活の意義」(イースター・メッセージ) (04/04/2021) ①「罪と死の力」は打ち破られた!   ・クリスチャンの間では、キリストの『復活』よりも『十字架』の方が強調される傾向がある。これは恐らく「身代わりに十字架で死んでくださったこと」の方が『神の愛』というものを感傷的に受け取りやすいからであろう。   ・しかし実際は『十字架』だけでは、私たちの救いの保証としては不十分。[Ⅰコリント15:16-17] キリストが「死を打ち破られてよみがえられた」からこそ、私たちは「確かに主イエスは私の(全人類の)罪の代価を支払い終え、救いのみわざを完成してくださった」と確信し、今日もキリストと歩むことができる。[ローマ4:24-25] ②「よみがえりのいのち」によって生きる   ・『復活』のもう1つの意義は、「神がキリストをよみがえらせたのなら、彼の血によって罪の代価を支払っていただいた私たちも、必ず同様によみがえらせていただける」と信じることができること。[ローマ8:11]   ・この『復活のいのち』は既に私たちの内に働いている。私たちはこの地上で、生まれつきの「古い肉のいのち」によって生きて行くこともできるが、「新しい御霊によるいのち」に生かされることもできる。ただそのためには、この慣れ親しんだ「古い肉のいのち」に死ななければならない。[ローマ6:4-5]   ・キリストは、私たちが単に「十字架での身代わりの死」を信じて天国への切符を手に入れるだけでなく、この地上においても「キリストの復活のいのち」に生かされて、今日も生きて働いておられるキリストのいのちを、私たちの身を通して人々の間で現して欲しいと願っておられる。[Ⅱコリント5:14-15] ◎更に深い学びのために  ①キリストの「身代わりの死」だけでなく、「よみがえられたこと」を知り、信じることが、どうして大切なのでしょう?  ②キリストの『復活』は、私たちの「キリスト者としての日々の歩み」と、どのような関係がありますか?  ③私たちは『復活のいのち』を体験する前に『死』を通らなければなりません。それはどのように起こるのでしょう? Outline of the sermon “Significance of Resurrection.”(04/04/2021) ①Jesus defeated the power of “Sin and Death”!   ・“Crucifixion of Christ” seems to Read more…

(432) “みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。”

この聖書の言葉は、「聖書のみことばは、ただ聞くだけで実行しないなら、少しも価値がない。しっかりと聞いてその真意を悟り、それを実行して神の祝福を得なさい」という勧めのすぐ後に書かれています。では「顔を鏡で眺める人」とはどういう意味でしょうか? この「顔を鏡で眺める人」という表現で『人』に使われている語は、原文のギリシャ語では『男性』を指すことばです。これって面白いと思いませんか?一般的に「男性の鏡の見方」と『女性』のそれとは、大きく違います。男性は大抵鏡をチラッと見ただけで大方OKであればそのまま出かけますが、女性はそうではありません。毎朝鏡の前で十分に時間を取り、入念に自分の姿をチェックし、必要ならば手直しをします。ハンドバッグには必ず手鏡が入っており、折に触れて髪形や化粧が崩れていないかチェックします。また家には大抵全身が映る『姿見』があり、服装全体のコーディネートもひと目でチェックできるようになっています。私は車で通勤していますが、バックミラーで後方にいる車を確認すると、時折女性ドライバーが、信号待ちの時などに運転席の『日よけ』の裏に付いている鏡で化粧を直している様子を目にします。 すなわちこの聖書のことばは、聖書を読む時には、男性が鏡を見るように「チラッと」読んで分かったつもりになって慌てて1日を始めるのではなく、女性が朝ごとに念入りに鏡の中の自分を覗き込むように「じっくりと読み、その内容を深く理解し、今の自分が『神の求めている姿』とズレていないかをよくチェックして、ちゃんと必要な修正を加えてから1日をスタートするように」と、聖書を読む時に持つべき正しい姿勢を分かりやすく教えてくれているのです。

2021年3月28日 「神の主権と人の役割」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「神の主権と人の役割」(28/03/2021) [マルコ 4:26~29] ◆「神の国」の原則   ・『神の国』とは「神の主権が及んでいるところ」。イエスを救い主と信じていても、相変わらず『自分自身』を「自分の人生の主権者」として生きているなら、実質上その人の許にはまだ『神の国』は来ていない。   ・このたとえ話は「神の主権の下に生きる人」に起こることを表している。私たちは自分の『一生懸命さ』によって神の働きに貢献することはできない。私たちはただ「種を蒔き、時が来たら収穫する」。ではその間はどうしていれば良いのだろうか?ただ手をこまねいて、指をくわえて待っているしかないのか? ◆『祈り』の役割   ・イエスが教えた『祈り』の中で、「御国が来ますように」という1節がある。これこそ、私たちが福音の種を蒔いた後、刈り取りを待ちながらしているべきこと。 ⇒ 「私が種を蒔いたあの人の上に『御国』がきますように!」   ・『祈り』とは本来、「神をこき使うため」にあるのではなく、「自らを神の主権の前にへりくださせるため」にある。私たちは『祈り』を通して、この「神の主権」というものをしっかりと知らされるべき。 (福音の)種を蒔こう!目を覚まして祈ろう!そして時を見極めて刈り取ろう! ✰今日のキーワード:分をわきまえる ◎更に深い学びのために  ①『神の国』とはどのようなものですか? 「神の国のみわざ」のために私たちはどんな貢献ができるでしょう?  ②『祈り』とはどんなものですか? なぜ主イエスは私たちに「御国が来ますように」と祈るよう命じたのでしょう?  ③あなたは「神の国の中」に生きていますか? だとしたら、神が今のあなたに望んでおられることは何でしょう? Outline of the sermon   “Sovereignty of God and our role.”  (28/03/2021) [Mark 4:26~29] ◆The principle Read more…

(431) “わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。”

キリスト教で最も大切な教えは、「愛すること」であると言われます。『愛』という言葉は現代であればどこでも用いられていますが、ほとんどの場合それは「男女の恋愛感情」を表現するものではないでしょうか。もし『愛』という言葉の真意がそのような「感傷的」なものであれば、キリストは『戒め』として「愛すること」を人々に命じたりはしないはずです。「愛すること」が命じられなければならないのは、それが「自然な感情として内側に湧き起ってくるもの」ではなく、「敢えて自らの意志で選び取って行かなければならないもの」だからに違いありません。 イエスは次のようにも人々に勧めました。「あなたの敵を愛し、あなたを憎む者たちに善を行いなさい」と。ここで気を付けなければならないのは、神は私たちに「無理な要求をしている」のではなく、「日々神の助けを受け取りながら生きること」を求めておられるのです。「敵を愛すること」も、「他の誰かを真実な愛(キリストが私たちを愛されたような愛)で愛すること」も、私たちが自然にできることではないのです。 多くの国々や文化(日本も含む)において「親同士が決めた結婚」というものがあります。時には「結婚式当日まで、新郎と新婦が1度も会ったことがない」というケースもあるわけです。一体そんな風に結婚して、夫婦として長続きするのでしょうか?ところが統計によると、このような形態の結婚の方が、いわゆる『恋愛結婚』で結ばれるよりも何倍も「破局に陥る可能性が低い」のです。それは何故でしょう? インドのある部族の若い女性が、全く会ったことのない男性と結婚することになったそうです。ある日結婚相手の男性から「結婚式の前にぜひ1度お会いしませんか?」という手紙が届きました。しかし彼女はその申し出を断って、次のような返事を書きました。「私は、『真の愛』というものは、結婚前に形作られるものではなく、結婚した後に育てて行くものだと信じています。私たち人間が生まれる時、私たちは父や母、そして兄弟たちを前もって選ぶことはありません。でも生まれた後で、共に暮らしていく中で『家族愛』を育んで行くではないですか。私は『夫婦愛』もそういうものだと思います。」 前にも書いたように、神は私たちに無理強いをなさっておられるわけではありません。人間は本来「愛し合う存在」として造られたのです。それなのに、私たちが神を離れ、神を忘れ、自分の心の赴くままに自分勝手に生きるようになってしまったがために、『愛すること』さえも「自分の欲求を満足させるための口実」へとおとしめてしまったのです。キリストはこの『愛する』ということを、本来の高潔さへと引き上げるために、世に来てくださったのです。

2021年3月21日 「正しい秤で量る」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「正しい秤で量る」(21/03/2021) [マルコ 4:24~25] ◆『秤』とは?   ・「聞いていること」(24節)とは、『神のことば』。みことばは、「神の国の価値観(神の心)」に基づいている。これを『真理の光』に照らしながらではなく、「この世の価値観」で理解しようとすると、そのエッセンスを受け取れない。   ・『秤』とは? ⇒ 物事を判断する基準。この「秤」がどれだけ「真理の光」に照らされているか、が問われる。 ◆正しい秤を持つ   ・「持っている人」とは? ⇒ 「真理の光に照らされた秤」を持っている人。神のことばを正しく素直な心で聞き、「この世の常識に従って自分の利益のために当てはめようとする心の態度」に対して『No』と言い、敢えて「神に喜ばれること」「人々のために真に益となること」に心を向けて、信仰によってみことばを実践して行こうとする時に、私たちの地上での歩みは「神の国の実」を結ぶようになる。   ・逆に、「この世の価値観」にこだわり、『真理の光』からズレた歩みを続けていると、「神の心」から遠ざかり、せっかく約束されている『神の国の豊かさを味わいながら生きる人生』を地上で体験できない。神は私たちが「救われる」だけでなく、「神の国の豊かさをもって生きる(『真理』を味わう)」ことをも望んでおられる。[Ⅰテモテ2:4] ✰今日のキーワード:正しい『秤』 ◎更に深い学びのために  ①「聞いていることに注意する」とは、「何を」「どんな態度で」聞くことを指しているのでしょう?  ②私たちが持っている『秤』とは、どんなものですか? それをどのように使うことが求められているのでしょう?  ③[25節]のことばは一見「不公平」なように聞こえますが、何故これが『神の国の原則』なのだと思いますか? Outline of the sermon      “Use the right measure.”     (21/03/2021) [Marki 4:24~25] ◆What is “the measure”?  ・“Words Read more…