2015年4月12日 「真に一致するために」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「真に一致するために」    (12/04/2015) *「神が望んでおられる教会」になるための2番目の要素 = 互いの一致 [ヨハネ17:21] ◆私たちが求めるべき『一致』とは何か?[エペソ4:13,15] ・「神の御子に関する信仰と知識との一致」 ➝ かしらなるキリストへ ・私たちが真に一致するには、お互いを見ていたのではダメ。 『同じ方』に対する信仰と知識。 ◆キリストに関する知識    ①キリストは神の御子であり、神はキリストを通してご自身を現された。[コロサイ2:9, ヨハネ14:9]    ②キリストは私たちの罪のために死なれ、3日目によみがえられた。[Ⅰコリント15:3-4]    ③神はキリストを受け入れた者を神の子とされ、永遠のいのちを与えられる。[ヨハネ1:12, 3:16]    ④キリストは信じる者の内に住まわれ、聖霊によってご自身の豊かさを証される。 [コロサイ2:3, Ⅱコリント4:7, Ⅰコリント2:12] ◆真に意味のある人生 ・キリストを通して『神との関係』の中に生きるようになって初めて、私たちは「自分が何者なのか」「生きるとは どういうことなのか」を悟るようになる。[ピリピ3:7-8 パウロの証] ・イエスは誰よりも、あなたのことをよく知っている。あなた自身がまだ気付いていない潜在能力や未知の可能 性さえも。しかし悪魔は、あなたが本来持っている魅力や才能に気付かせまいと「人と比べさせたり」「気楽な 未知を選ばせたり」「自分の欠点にばかり注目させたり」する。 ◆一緒に集まる意義 ・人生の目的は「何かを成し遂げること」ではなく、「神があなたに与えた人生を『フルサイズ』に生きること」。 ・「更にキリストを深く知り」「イエスに対する信頼と愛を共に燃やし合う」ために、私たちは集まっている!   Outline Read more…

2015年4月5日 「聖書・聖霊・信仰」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「聖書・聖霊・信仰」    (05/04/2015) ◆『聖さ』に生きるために不可欠な3つのもの ー 「神のことば」「聖霊」「信仰」 ①神のことば [ヨハネ17:17] = イエスご自身[ヨハネ1:14] ・「イエスを通しての神との関係」とは、すなわち「神のことばを心に満たす」ということ。 テレビによる情報との比較 ・ある統計によると、人は1日平均4時間テレビを観る(1年の2か月分,18歳までに3年間分!) ・18歳までに観る暴力シーンは20万回以上。殺人の場面も1万6千件。 ・本当に重要な情報(真理)は私たちを聖め、自由にする。[ヨハネ8:32] ・みこころを求めようとする時だけ聖書を開いてもダメ。毎日の積み重ね。みことばで心を満たせ![詩119:11] ②聖霊 [ヨハネ14:26] ・聖霊の主な働きは、「いつも私たちと共におられ」「みことばを思い起こさせ、悟らせる」。 ・つまるところ、カギとなるのは『みことば』。 聖霊は「火種」であり、みことばが『薪』。    ③信仰 [マタイ7:24] ・『信仰』とは、聖霊のみことばによる促しに「Yes」と言って従うこと。[Ⅰコリント6:19-20] ・「御霊を悲しませる・消す」とは、何か特に罪深いことをした結果ではなく、「無視し続けた」結果。 (世の情報によって、御霊の御声が覆い隠されてしまっている) *使徒パウロの態度 [使徒20:22-24] ✯みことばを蓄え、聖霊の働きに心を開き、(無邪気な幼子のように)分かったことに素直に従おう!    Outline of the sermon    “God’s Word, God’s Spirit, Our Read more…

(160) “わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。”

先週末は世界中である1つのことが盛大に祝われました。何のお祭りだかご存知ですか?それは『イエス・キリストの復活祭』です。一般に『イースター』と呼ばれています。 イエス・キリストが十字架刑で殺されたことは有名です。この史実を疑う人はあまりいないでしょう。聖書によると「彼は私たちの背きの罪のために刺し通された」と描写されています。すなわち、本来私たちが自分の罪(神に対する不遜な心)のために神の罰を受けるはずであったのを、キリストが身代わりに受けてくださったのです。しかしこの『十字架上での死』以上に重要なのが、「イエスがよみがえられた」という事実です。聖書によるならば、彼は十字架刑(金曜日)から3日目(日曜日)によみがえって墓から出て来られ、数百人の人々の前に姿を現したそうです。 私たちの多くは「『死』とは人間の人生の最後の最後である」と考えています。すなわち「死の向こうは『無』なのだ」と。と同時に私たちは、親しい人が死んでしまった後、しばしばこんなことを言ったりします。「彼(彼女)は我々の心の中にいつまでも生きているんだよ。」しかしイエスは「心の中」ではなく、現実的に見える形でよみがえられ、私たちに『死の向こう側にある希望』を与えてくださったのです。 次は聖書の1節です。「罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私たちは皆「真の神を神と認めない罪」のために『死』に定められていますが、「イエスがその罪を自分の代わりに負って死なれ、またよみがえって下さった」と認め、今までの不信仰な生き方から方向転換して「神に信頼して生きる新たな生き方」を始めるならば、もはや『死』は人生の終わりではなく、単なる『永遠のいのちへの通過点』に過ぎなくなるです。

(159) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

「間違いを指摘されるのが好き!」という人はあまりいませんよね?誰でも耳が痛い忠告を聞くのは楽しい経験ではありません。しかし敢えてそのような忠告をしてくれる人がいなければ成長できないのも事実です。 何故私たちは『率直な意見』を聞きたがらないのでしょう?それは私たちがエゴの固まりだからです。それ故善意に満ちた助言に対し「拒絶された」と感じたり、「アイツは自分のことは棚に上げている」などと思ってしまうのです。私たちのこの『屈折した自己防衛』が砕かれない限り、私たちは人格的に成長することはできません。 「親ライオンが愛する我が子を谷底に突き落とす」のと同様に、神は時に応じて私たちの許に「聞きたくない助言を携えたアドバイザー」を送ってくださいます。それは神様が私たちをこき下ろしたいからではなく、かえって私たちが成長し『自己最高の人生』を送ることができるようにするためです。私たちがしばしば「耳が痛い助言」を聞かされるのは、神が私たち1人1人に心を配ってくださっている証拠なのです。 では、どのような心でそれらの助言に耳を傾けたら良いのでしょう?ぜひ次の4つのポイントに留意してみてください。①自分の未熟さを素直に認める。②成長への意欲を持つ(『現状維持』の心は助言を受け付けません)。③助言してくれる人の『善意』を信じる。④「私たちのありのままを喜びつつも、更なる成長を期待してくださっている神」に信頼して前進する。 私たちはつい「より優れた者となる」ことよりも、安易に「見栄えだけが優れている者になる」方を選んでしまいがちです。私たちの『屈折したエゴ』が後者を選んでしまいそうになる誘惑に負けないで、敢えて「耳の痛い善意の助言」に耳を傾けていきましょう!

(158) “わたし(イエス)が来たのは、羊(人々)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

最近心理学の専門家たちの間で急激に問題視されつつある「現代病」があります。専門用語では『FTT』と呼ばれるのですが、まあ平たく言えば「大人になることへの恐れ」とでも言いましょうか。要するに「人生に意味を見い出せず、大人として成長していくことに希望や喜びを失って」しまっているのです。あなたにも心当たりがありませんか? 聖書は「すべての人は天地の創造主である神によって、独自の目的を持って造られた」と主張します。ですから当然この神から離れていては『人生の目的・希望・喜び』といった、私たちが生きていく上での不可欠要素を見い出すことができないのです。また更に悪いことに、人の心の内に、神を敬わず「自分の人生の主人公は自分である。神の存在なんて、かえって迷惑である」などという『神に反逆する態度(聖書は『罪』と読んでいる)』がある故に、人は生まれつき神を認知することができず、生涯『迷える子羊』のように、目的もなくただ人生を浪費するしかなくなってしまっているのです。 イエス・キリストは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、それを豊かに持つためである」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストの十字架における身代わりの死によって罪の赦しを得、へりくだった心で神に近づくことによって『真に生きる意味・力』を見い出すことができます。キリストを通して『天地の創造主である神』とのいのちあふれる関係の中に生かされて初めて、私たちは『いのちの躍動感』を体験し、「大人へと成長していくことへの希望と喜び」にあふれて、『FTT』を克服することができるのです。

2015年3月22日 「コミットメント」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「コミットメント」    (22/03/2015) ◆[ヤコブ4:8] ・「二心の人たち、心を清くしなさい」とある。すなわち『清い』とは「心が1つに定まっている」ということ。 ◆[Ⅰコリント7:32-34] ・この箇所は「結婚を抑制している」のではなく、「結婚生活」と「信仰生活」の類似点を示している。すなわち、 どちらもそれを優れたものとするためには「たった1人の相手に心を定める」必要がある。 ・モーセの十戒の初めの2つは、「ほかの神々があってはならない」「自分のために偶像を造ってはならない」。 またイエスが『最も大切な戒め』とおっしゃったのは、「・・・を尽くして、神を愛する」というもの。[マルコ12:29-30] ◆現代の偶像礼拝 ・旧約聖書において偶像礼拝は、もっぱら『霊的姦淫』と呼ばれた。 ・私たちが祈る時、『神ご自身』ではなく、「神が何かをしてくださること」を求めることがあまりに多い。神がしば しば祈りに応えてくださらないのは、その「何か」が『偶像』になってしまっているのではないか?[ヤコブ4:3-4] ◆コミットメント ・結婚生活において最重要なのは『コミットメント(互いに対する献身)』。これは信仰生活においても同じ。父なる 神は私たちに対する『献身のしるし』としてひとり子を献げられた。私たちの『献身のしるし』は、「神だけに献 げられるべき私たちの人生(心)の王座を、決して他のものに奪われないようにする」こと。 ◆『献身』を支えるもの ①共に過ごす時間 ― 『時間』は私たちに与えられている最も貴重なもの。これを十分に共有しているか? ②信頼 ― ・相手が良くしてくれたことを思い出す。 ・慌てて判断しない。(背後に必ず深い配慮があるはず)    ③「何が何でも愛し続ける」という確固たる決意   Outline of the sermon     “Commitment.”   (22/03/2015) ◆[James 4:8] ・It says, “Purify your Read more…

2015年3月15日 「『聖さ』を求めて生きる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『聖さ』を求めて生きる」    (15/03/2015) ◆『聖さ』とは? ・「聖い」と訳されているヘブル語『コーデシュ』 = 「分離する」 : ①罪から離れる  ②神に属する者となる ・イエスの時代の律法学者や、現代の宗教家たちは、①➝②の順に起こると思う。しかし、神の方法は違う。 ◆旧約聖書における神のわざ ・神は、到底潔白とは言えないアブラハムをお招きになり、その招きに信仰によって応えた彼の子孫を『ご自分 の民』とされた(②)。そしてその後モーセを通して「聖さの基準」を知らせた(①)。 ・しかし民は「神に属する民」という自覚を次第に失い、神からの警告にも関らず、罪に溺れるようになった。 ◆新約聖書における神のわざ ・神は、イエスによる贖いのみわざによって人々をお招きになり、招きに応じた私たちに『神の子とされる特権』 をお与えになった(②)。また信じる者に聖霊を与え、その導きに従う者を罪の習慣からさえも解放される(①)。 ・もし『神の子としての特権』に甘んじ、「聖霊による神との親密な関係」を軽んじるなら、『聖さ』は失われていく。 ◆[Ⅰペテロ 2:9-10] ・私たちは「選ばれ」「聖なる国民」とされ「神の所有」とされた。それは「胎児を慈しむ母親の愛」のような、また 「約束を必ず守る誠実な父親の愛」のような『神の憐れみ』による。まさにこれは「イエス・キリストの十字架」 において表現された神の愛。[ローマ12:1-2] ✯『聖さ』とは、この神の憐れみに圧倒された私たちが「神と共に生きること」を最大の喜びとして歩むこと。   Outline of the sermon     “Seeking ‘Holiness’.”   (15/03/2015) ◆ What is “Holiness”? ・Literal translation Read more…

(157) “神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか、”

『神のみこころ』などと言うと何だか堅苦しく聞こえますが、どんな人でも「自分は何のために生まれてきたのか」ということを人生に1度は考えることがあるのではないでしょうか?それが証拠に、これだけ文明的に発達しても、相変わらず「手相」「タロット」「星占い」などに多額のお金をつぎ込む人々が後を絶えません。 聖書は『天地万物の創造主である神』の存在をはっきりと主張しています。そしてもし本当に唯一の神がこの全宇宙そして私たち人間を造られたなら、そこには必ず『崇高な目的』があるはずです。そう、そこには私たち1人1人に対する「神のみこころ」というものが存在し、神は私たちにそれを知らせたいと思っておられるのです。では私たち人間に対する『神のみこころ』とは一体どのようなものなのでしょう? 私たちは自分の人生のことを考える時、どうしても「何をして生きるか」ということを真っ先に考えがちです。しかし実際は「何をして生きるか」ということはそれほど重要ではなく、むしろ「どんな思いでそれをしているか」の方が重要なのです。すなわち、もしあなたが勉強や仕事、また人助けなどを「誰かに気に入られるため」「誰かに認められるため」にしているとしたら、たとえその行為自体は立派なことだとしても『神のみこころ』を行っているとは言えないかもしれません。採用試験の面接の時、また誰かとの初デートの時、私たちはついつい無理して「自分以上の何者か」になりすまそうとしますが、後にはドッと疲れが出るだけです。けれども、誰に強いられなくても、誰に認められなくても、またたとえ失敗したり、損をしたとしても、そのことをやっていると深い喜びと充実感がある、そんな何かをあなたが持っているとしたら、それは限りなく、あなたにとっての『神のみこころ』に近いものなのかもしれません。 素晴らしいことに、この『創造主なる神』は私たち1人1人のことを私たち自身よりもよくご存知です。それ故私たちはこの神の前で「無理な背伸び」をする必要がありません。気に入られるために「媚びる」必要もないのです。神は私たちの正直さ、ありのままを喜んでくださいます。そしてありのままの私たちが「無理せず喜んでできる何か」を見つけて、それに全力を尽くすこと、それが『神のみこころ』を行うということではないでしょうか?

(156) “わたしの家は、祈りの家でなければならない。”

『祈り』というと、きっと多くの方々は「神様にお願い事をすること」と考えることでしょう。しかし実際は、祈りとははるかにそれ以上のものです。言ってみれば『祈り』とは、「神様に求めること」ではなく、「神様を求めること」なのです。静かな場所で、目を閉じ、この世のことから思いを離し、心を静めて、「神様の心と波長を合わせること」です。すると神様は私たちの心を癒し、平安を与え、天賦の知恵を与え、私たちを通してご自身のみわざを成し遂げてくださいます。 悪魔は私たちがこの「祈りの力」というものに目覚めることを極度に恐れています。それ故悪魔はいつも私たちを忙しくさせ、日常生活の営みの中に埋没させ、「祈りなんて気休めに過ぎない」と思い込ませることによって、私たちを祈ることから遠ざけることに成功しています。クリスチャンと言えども「食前の祈り」「出がけにドアを閉めながらの祈り」「日曜礼拝の開会の祈り」程度で「自分はちゃんと祈っている」などと錯覚させられています。 使徒パウロは、弟子のテモテへの手紙の中で「何かを手掛ける前に、まず祈りなさい。人々に何かを教える時は、まず祈ることを教えなさい。」と諭しました。 主イエス・キリストは、しばしば朝暗いうちから、時には夜を徹して祈りました。もしあのイエス・キリストにさえ祈りが必要であったのなら、なおのこと私たちが祈りを必要としないことがあり得るでしょうか? 『天路歴程』の著者ジョン・バンヤンは次のように言いました。「人がもし祈りを生活の一部とするならば、やがて祈ること以上の優れたこともできるようになる。しかしもし祈ることを軽視するなら、いつまで経ってもロクなことができるようにはならない。」と。 あなたも「祈る者」とされたいですか?

2015年3月8日 「教会の使命」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「教会の使命」    (08/03/2015) ◆『教会』とは? ・建物ではなく、人々。  ・単なる「志を共にする共同体」ではなく、『生き物』 [エペソ1:23] ・プログラム(活動内容)ではなく、「1人1人のキリストとの深い結び付き」が最も重要。 ◆教会の使命(呼び集められた目的) 「教会(私たち)がキリストのいのちに生かされ神と共に歩むことにより、 世の人々が私たち1人1人を通して神を見い出すようになること」 注意事項 ・私たちはつい「神のために何かをする」ということに目を向けがちだが、もっと重要なことは、 私たちが「神の望んでおられる者になる」こと。 Doing ではなく、Being。 ◆「神の望んでおられる者」とは? ①聖く純真な者 [Ⅰペテロ1:14-16,ピリピ2:14-16] ②互いの間での一致 [ヨハネ17:23] ③互いに愛し合うこと [ヨハネ13:34-35]      詳しくは、来週から ◆[ヨハネ15:5] ✯まず「日々キリストとつながり、キリストを通して更に神を知っていくこと」 から始めよう!   Outline of the sermon     “Mission of the church.”   (08/03/2015) ◆ What is “church”? ・It’s Read more…