メッセージ

2015年3月15日 「『聖さ』を求めて生きる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『聖さ』を求めて生きる」    (15/03/2015) ◆『聖さ』とは? ・「聖い」と訳されているヘブル語『コーデシュ』 = 「分離する」 : ①罪から離れる  ②神に属する者となる ・イエスの時代の律法学者や、現代の宗教家たちは、①➝②の順に起こると思う。しかし、神の方法は違う。 ◆旧約聖書における神のわざ ・神は、到底潔白とは言えないアブラハムをお招きになり、その招きに信仰によって応えた彼の子孫を『ご自分 の民』とされた(②)。そしてその後モーセを通して「聖さの基準」を知らせた(①)。 ・しかし民は「神に属する民」という自覚を次第に失い、神からの警告にも関らず、罪に溺れるようになった。 ◆新約聖書における神のわざ ・神は、イエスによる贖いのみわざによって人々をお招きになり、招きに応じた私たちに『神の子とされる特権』 をお与えになった(②)。また信じる者に聖霊を与え、その導きに従う者を罪の習慣からさえも解放される(①)。 ・もし『神の子としての特権』に甘んじ、「聖霊による神との親密な関係」を軽んじるなら、『聖さ』は失われていく。 ◆[Ⅰペテロ 2:9-10] ・私たちは「選ばれ」「聖なる国民」とされ「神の所有」とされた。それは「胎児を慈しむ母親の愛」のような、また 「約束を必ず守る誠実な父親の愛」のような『神の憐れみ』による。まさにこれは「イエス・キリストの十字架」 において表現された神の愛。[ローマ12:1-2] ✯『聖さ』とは、この神の憐れみに圧倒された私たちが「神と共に生きること」を最大の喜びとして歩むこと。   Outline of the sermon     “Seeking ‘Holiness’.”   (15/03/2015) ◆ Read more…

聖書

(157) “神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか、”

『神のみこころ』などと言うと何だか堅苦しく聞こえますが、どんな人でも「自分は何のために生まれてきたのか」ということを人生に1度は考えることがあるのではないでしょうか?それが証拠に、これだけ文明的に発達しても、相変わらず「手相」「タロット」「星占い」などに多額のお金をつぎ込む人々が後を絶えません。 聖書は『天地万物の創造主である神』の存在をはっきりと主張しています。そしてもし本当に唯一の神がこの全宇宙そして私たち人間を造られたなら、そこには必ず『崇高な目的』があるはずです。そう、そこには私たち1人1人に対する「神のみこころ」というものが存在し、神は私たちにそれを知らせたいと思っておられるのです。では私たち人間に対する『神のみこころ』とは一体どのようなものなのでしょう? 私たちは自分の人生のことを考える時、どうしても「何をして生きるか」ということを真っ先に考えがちです。しかし実際は「何をして生きるか」ということはそれほど重要ではなく、むしろ「どんな思いでそれをしているか」の方が重要なのです。すなわち、もしあなたが勉強や仕事、また人助けなどを「誰かに気に入られるため」「誰かに認められるため」にしているとしたら、たとえその行為自体は立派なことだとしても『神のみこころ』を行っているとは言えないかもしれません。採用試験の面接の時、また誰かとの初デートの時、私たちはついつい無理して「自分以上の何者か」になりすまそうとしますが、後にはドッと疲れが出るだけです。けれども、誰に強いられなくても、誰に認められなくても、またたとえ失敗したり、損をしたとしても、そのことをやっていると深い喜びと充実感がある、そんな何かをあなたが持っているとしたら、それは限りなく、あなたにとっての『神のみこころ』に近いものなのかもしれません。 素晴らしいことに、この『創造主なる神』は私たち1人1人のことを私たち自身よりもよくご存知です。それ故私たちはこの神の前で「無理な背伸び」をする必要がありません。気に入られるために「媚びる」必要もないのです。神は私たちの正直さ、ありのままを喜んでくださいます。そしてありのままの私たちが「無理せず喜んでできる何か」を見つけて、それに全力を尽くすこと、それが『神のみこころ』を行うということではないでしょうか?