(650) “この方は恵みとまことに満ちておられた。”

 聖書の神のご性質で際立っていることの1つは『約束を必ず守る神』ということです。神は聖書の中で「個人に」「民族に」、そして「すべての人々に」対して様々な『約束』をされています。そのいくつかはすぐさま成就し、多くは何年か後に成就し、そして将来やがて成就するもの(『神の国の到来』など)もたくさんあります。  私たちもよく『約束』をしますが、結構守れないことがありますよね。都合が悪くなったり、自分の力不足が原因だったり、単に忘れてしまうこともあるわけですが、神には決してそういうことがありません。ある意味神は「自分の名誉にかけて」必ずご自分の約束を守られるのです。  ところで「必ず約束を守る」と聞くと、逆に「融通が利かない」というイメージもありますよね?いわゆる『お役所主義』という感じで、「前例がないから」とか、「そういう決まりだから」といった感じです。では『神の約束』も同様なのでしょうか?その答えは『イエス』&『ノー』です。  神は「絶対的に正しく、決して自分自身をごまかしたりしない方」ですから、人の顔色や言葉によって動揺したりうろたえたりすることはありません。ですからいわゆる「時と場合によっては変更もあり得る」というようなことはありません。ただそれと同時に神は私たちに対する「愛に満ちたお方」なので、常に私たちの最善を見越して備えをしてくださる方でもあります。すなわち『神の約束』自体がそもそも私たちの最善のためになされているのですが、神は私たちの弱さをもご存じなので、そこには『バックアップ・プラン』があるのです。その代表的な例が『十字架』です。神と人との間には「人は『罪』の代償を『死』で支払わなければならない」という『不動の契約』がありましたが、私たちが負うべきその『死』を、罪のないご自分のひとり子イエスに身代わりに負わせることによって、ご自身の『約束』を破ることなく、私たちを救うことにされたのです。  神は「必ず約束を守られるお方」だからこそ、私たちはこの神に全幅の信頼を置くことができると同時に、心からの誠実さをもってその愛に応えて行くべきなのです。

2026年4月19日 「イエスによる評価」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスによる評価」   (19/04/2026) [ルカの福音書 7章24~35節] ◆バプテスマのヨハネに関して(26~27節)  ・先週は「バプテスマのヨハネがイエスのことをどう考えていたか」を見たが、この箇所では「イエスがバプテスマのヨハネをどう評価していたか」が告げられている。ヨハネは「やがて起こるメシアの到来」を告げた他の預言者たちと違って、「今まさに来られたメシア」の道備えをし、そのメシアご自身と顔と顔とを合わせることを許された者として『預言者よりも優れた存在』というイエスの評価を得た。しかし、今日のポイントはそこではない! ◆神の子ら(私たち)に関して(28節)  ・「神の国の子ら(新しく生まれた私たち)」は、その「最も小さな者」であっても、このヨハネよりも偉大だとイエスは評価された。これは「どちらが偉いか」という問題ではなく、「委ねられたメッセージの大きさ」を指していると思われる。ヨハネは「救い主の到来」を告げたが、私たちは「救いそのもの」というメッセージを委ねられているのだ。  ・[33~35節] ヨハネやイエスに対する態度が人々を2つに分けたように、私たちが語るメッセージも人々を2分する力を持っている。そのことを恐れてメッセージを歪めてしまいたくなる誘惑にかられるかもしれないが、「バプテスマのヨハネよりも偉大」という主イエスの評価に応えるためにも、福音の真理を真直ぐに伝えて行こう! 今日の真理: 『重大なメッセージ』を委ねられている ◎更に深い学びのために  ①イエスはバプテスマのヨハネをどのように評価していましたか? それはどうしてだと思いますか?  ②なぜ「神の国で1番小さい者でさえ、バプテスマのヨハネよりも偉大」なのでしょう?  ③主イエスはあなたをどのように評価していると思いますか? またあなたはその評価にどう応えたいですか? Outline of the sermon   “Our valuation by Jesus.”   (19/04/2026) [Luke 7:24~35] ◆Valuation of John the Baptist. (Verses 26~27)  ・We looked at “how John Read more

(649) “互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。”

 本当に不思議なことですが、何故か私たちは「人から受けた親切」はすぐに忘れてしまい、「裏切られたり傷を受けたりしたこと」ほど、いつまでも覚えているものです。しかしそのような生き方は私たちに何の益ももたらしません。  こんな話を聞いたことがあります。ある友人同士の2人が砂漠を旅していました。途中でちょっとした口論になり、1人がもう1人の方の頬を平手打ちにしました。打たれた方は何も言わずにただその場にしゃがんで、砂の上に「今日友だちが私の頬を平手打ちにした」と書きました。2人は一緒に旅を続け、やがて水のあるオアシスに辿り着きました。2人ともとても喉が渇いていたので水辺に殺到しましたが、ついさっき頬を打たれた方が勢い余って水の中に落ちてしまい溺れかけました。驚いたもう1人は水の中に飛び込んで溺れていた友人を助け出しました。その夜助けてもらった方の人が平たい石を見つけて来て、その表面に「今日友だちが私の命を救ってくれた」と刻みました。それを見ていた友人が彼に尋ねました。「キミはどうして昼間私が頬を叩いた時には砂の上にそのことを書き、今度は石に刻んでいるんだい?」 彼は答えました。「誰かに嫌なことをされた時は、それを砂に書くのがいいんだよ。そうすればいつか『赦しの風』が吹き消してくれるだろ?でも良いことをしてもらった時はこうやって石に刻み付ければ長く覚えていられるからさ。」  憐れみ深い神は、ひとり子イエス・キリストの十字架における代償によって、私たちの『不信仰の罪』を赦してくださり、今日も憐れみの眼差しで私たちを見守ってくださっています。私たちもこのように「憐れみを受けている者」として、人々から受けたイヤな傷を忘れ、親切な行いを心に留めて生きて行きましょう。

2026年4月12日 「イエスにつまずかないために」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスにつまずかないために」   (12/04/2026) [ルカの福音書 7章18~23節] ◆『つまずき』のメカニズム  ・『つまずき』はどうして起こるのか?それは相手に対して「こんな人であって欲しい」という自己願望があるから。全く期待していない相手に対してなら、誰もつまずいたりはしない。  ・当時のユダヤ人たちは、誰もが『ダビデ的ヒーローとしてのメシア』を期待していた。また律法学者たちは「自分たちこそイスラエルを代表する『神を敬う者』なのだから、もしイエスがメシアならば自分たちを重んじるはず」と考えていたので、自分たちと行動を共にしないイエスに「つまずいた」。 ◆『イエス』の正しい理解  ①神の顕現[コロサイ2:9] ・イエスは地上において「神のご性質・神の心・神の力」をことごとく表現された。  ②人のあるべき姿の模範[ヨハネ13:15] ・イエスは「人が本来あるべき姿」を表現し、私たちの模範となられた。  ③私たちが神に近づく『道』となられた[ヨハネ14:6] ・イエスは私たちを②のレベルに引き上げるために来られた。  ・「つまずく」のは、その余地(距離)があるから。互いにつまずかない距離(密着)を保ち、「相手のどんな呆れたことを見てもつまずかない」という確固たる決断をもって、主イエスに、また人々に接して行こう! 今日の真理: イエスこそ、来たるべきお方 ◎更に深い学びのために  ①誰かに「つまずいた」ことはありますか? それは「相手に対するどんなイメージ」が原因だったと思いますか?  ②どのような人々が、イエスに対して「つまずく」のだと思いますか? また、どうしてそう思うのですか?  ③自分が「イエスに」、また「他の誰かに」つまずかないようにするために、どんな心構えが必要でしょう? Outline of the sermon   “Don’t be offended by Jesus.”   (12/04/2026) [Luke 7:18~23] ◆How are we offended by someone? Read more

(648) “すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。”

 私は毎週日曜日の教会の集いの時に聖書のお話をさせていただいていますが、その冒頭に必ず言うことばがあります。それは、「私たちの天の父は『良いお父さん』なので、そのご性質上、愛する子供たちのために最善以外をなさることはできません」というものです。これは聖書の言葉そのものではありませんが、聖書全体から汲み取ることのできる重要な真理です。  私たちは「人間としての性質上」意地悪もできますし、子供たちに最善を施したくても「経済的・能力的限界」のゆえに必ずしも与えてあげることはできません。しかし私たちの『天の良いお父さん』である神は、私たちの思いを超えた次元でいつも『最善』を施してくださるのです。「ホントかな?」と疑う方もおられるかもしれませんが、それは『神』という方をよく知らないからです。この方を知れば知るほど、上記の言葉が「間違いない!」と信じられるのです。  かなり無理があるのですが、1つのたとえを考えてみましょう。大抵の方には「とても大切な人」という存在が1人くらいはいると思います。そして恐らくあなたはいつもその人の『最善』を望んでいる事でしょう。ところがあなたには能力的にも経済的にも限界があり、またその人と「いつも一緒にいてあげること」もできません。時には意見の食い違いから口論になり、心に苦々しさが残って、「ちょっと意地悪してやろうかな」と思うかもしれません。けれどもなかなかその機会がなく、そうこうしているうちに仲直りし、意地悪をしないで済んだことに胸を撫でおろすことでしょう。  私たちの神は、ご自分のひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架にかけられるほどに、私たちをこよなく愛してくださっている方です。そしてご自身の望む通りのことを、何の限界もなく実現することのできる方です。そして私たちの将来を見通され、決して後悔などすることなく、1番良いタイミングで1番良いものを提供することができる方なのです。それ故「最善以外はなさらないなんて嘘だ!」などと考える方がおかしいのです!  仮に「実は神はそんな方ではない」ということだったとしても(そういうことは決してないのですが…)、「神は私にいつも最善を施してくださっている」と本気で信じることに、どんな不都合がありますか?不都合がないなら、ぜひそう信じて日々を精一杯生きて行きましょう!

2026年4月5日 「イエスの復活の証人」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「イエスの復活の証人」    (05/04/2026) [ルカの福音書 7章11~17節] ◆死人のよみがえり  ・イエスが死者をよみがえらせた記事は福音書の中に少なくとも3つあるが、この「ナインのやもめの息子」に関しては、他の場合と比べていくつかの特徴がある。それは「全くイエスと個人的な関係がなく、しかも頼まれてもいなかった」ということ。イエスは「深くあわれんで」とある。この語の原意は「はらわたを揺り動かされる」。  ・恐らくイエスは「やもめとなった母親がたった1人の身寄りである息子を失った」ということに強く心を動かされたに違いない。女手1つで子供を育てている皆さん、イエスの心は皆さんと共にあります! ◆イエスのよみがえり  ・聖書は「イエスはよみがえられた」というよりも、「神がイエスをよみがえらせた」という表現を多く用いている。[使徒2:32] そして「私たちはその『証人』である」と。一体どういう意味で私たちは「復活の証人」なのか?  ・「私たちの罪の代価を支払うために死なれたイエスを、神がよみがえらせた」という事は、「罪の代価は完済され私たちは完全に赦された」という事を意味する。[Ⅰコリント15:17] それ故私たちが罪の責めから解放されて「神に完全に赦された者として生きる」という事が、「キリストの復活の証人として生きる」という事なのだ![ローマ8:1] 今日の真理: 私たちは「イエスの復活の証人」 ◎更に深い学びのために  ①この「ナインのやもめの息子のよみがえり」の記事は、どのような点で特徴的ですか?  ②「神がイエスを死者の中からよみがえらせた」ということは、どんなことを意味していますか?  ③私たちは何故「イエスの復活の証人」と言えるのでしょう? この自意識はあなたの生き方にどう影響しますか? Outline of the sermon   “Witnesses of Jesus’ resurrection.”   (05/04/2026) [Luke 7:11~17] ◆Jesus raised the dead to life!  ・There are at Read more

(647) “わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。”

 教会の暦では、今週末は「イースター・ウィークエンド(復活祭)」と呼ばれ、私の住むニュージーランドでは金曜日から翌週の月曜日まで休日です。金曜日はキリストが十字架にかけられたことを記念する日ですが、『グッド・フライデー』と呼ばれます。ある人々には「キリストが死んだのに、どうして『グッド』なの?」と不思議がられるかもしれませんね。今日はその辺を解説したいと思います。  私たちは生まれながらにして、神に対して『罪人(ズレ人)』であり、「神を神として認めず、自分の思うままに生きている存在」です。それ故私たちは「いのちの源」である神との関係が途絶え、『死と滅び』に定められていました。そんな私たちをも深く愛し憐れまれた神は、何とかそのような関係を修復しようと、罪のないご自分のひとり子であるイエスを私たちの身代わりに『罪』に定めて十字架で死なせ、代わりに「その『イエスの代償の死』を自分自身のためとして信じ受け入れた者たち」に『永遠のいのち(神との関係の回復)』を与え、その見える形の保証としてイエスをよみがえらせたのです。  この神の驚くべき憐れみのみわざの故に、私たちはこの週の金曜日を『グッド・フライデー』と呼び、また復活を記念する日曜日を『イースター・サンデー』として祝うのです。実際この『復活』は、単にキリストのよみがえりを記念するだけでなく、神の前に失われて(死んでしまって)いた私たちが、キリストを信じ受け入れることを通して、神の前に再び見出される(よみがえる)ことをも象徴しています。そして更に素晴らしいことに、この「よみがえられたイエス」は、今日も生きて、ご自身を信じ従う者たち1人1人と共に歩んでくださっているのです!

2026年3月29日 「イエスを驚かせる信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスを驚かせる信仰」   (29/03/2026) [ルカの福音書 7章1~10節] ◆百人隊長の優れた点(9節)  ①ユダヤ人に対する敬意 ・ユダヤ文化を尊重し、彼らのために会堂を建て、また自ら会いに行くことを控えた。  ②謙虚さ ・1人のしもべに対する思いやり。属国であるユダヤ人の文化や習慣を熟知し、それを尊重している。  ③信仰 ・イエスの権威を知り、しかもそれが創造主なる神から来ていることを信じ、「みことばの権威」を認めた。   ・ユダヤ人の長老たちは「この人には資格がある」と言ったが、百人隊長自身は「私には資格がない」と言った。『資格』は「行ない」によって与えられるのではなく「恵み」による。彼はイエスから溢れ出る恵みに期待した。 ◆百人隊長に倣う  ・私たちも、神から委ねられている「権威と責任」に忠実に歩むことによって、この「優れた信仰」に倣うことができる。私たち「信じる者」には、キリストによって驚くべき『権威』が与えられている。[マルコ16:17-18]  ・私たちは、このような「大いなる救い」や「御国の権威」に与る素質も資格もなかった。ただ「イエス・キリストにある恵み」によってのみ、それが委ねられている。この「神の愛と信頼」に応えて、神の御前に身を低くし、みことばに従いつつ、「御国の権威」を行使しながら、この世にキリストを証しして行こう! 今日の真理: 神のみわざは、神の権威の下に歩む者を通して現される ◎更に深い学びのために  ①百人隊長の信仰が優れていたのは、どのような点においてですか?  ②あなたがこの百人隊長の「優れた信仰」に倣う上で、障害になっているものがあるとすれば、それは何ですか?  ③イエスは『信じる者』にどんな約束を与えていますか? この約束の成就のために必要なものは何でしょう? Outline of the sermon    “The faith that Jesus marvels.”    (29/03/2026) [Luke 7:1~10] ◆What is “marvelous” about centurion’s faith? (Verse 9)  ①Respect towards Read more

(646) “義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。”

 多くの人々は「心の満ち足りなさ」を感じています。そしてそれを何とか埋めようと、多くの買い物をしたり、様々な異性とお付き合いをしてみたり、ゲームや趣味に没頭したり、お酒に溺れたりしているのではないでしょうか?そして恐らく誰もそれらの中に「本当の満足」を見出すことができず、静かに、時には激しく絶望しているのかもしれません。  イエス・キリストは「『義』に飢え渇く者は、やがて満ち足りる」とおっしゃいました。『義』とは何でしょう?すぐに思い当たるのは「正義の『義』」、すなわち「悪に立ち向かおうとする正しい心」のようなものでしょうか。聖書で『義』という時には「常に真実で正しく、愛に満ちておられる『神』のみこころがこの地上でことごとく成し遂げられることを望む心」を指します。  ある時イエスはこんなことをおっしゃいました。「わたしの戒めを守る者は、わたしを愛する者です」。ちょっと分かりにくいですよね?「愛すること」と「相手の言いなりになること」は、ちょっと違うような気がします。でもその相手が「私たちの最善を知っており、そのための道筋を教えておられる方」だとしたらどうでしょう?神が私たちに与える命令は、いわば私たちに最善を施そうとしておられる「愛の表現」なのです。それに忠実に応答しようとすることは、正に神に対する私たちの「愛の表現」となるのではないでしょうか?  愛に満ちた神とのそのような関係の中に日々歩み、そしてそんな『神の愛のみこころ』が、この地上で成し遂げられることを心から望むとき、私たちの心は「決して失われることのない充足感」に満たされるに違いありません。

2026年3月22日 「信仰の3段階」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「信仰の3段階」    (22/03/2026) [ルカの福音書 6章46~49節] ◆『家』の評価  ・家はどんな基準で選ぶべきか?ロケーション?間取り?見栄え? ⇒ 大切なのは『地盤』。  ・この箇所でイエスは私たちの人生を『家』にたとえているが、ここから「3つの信仰の態度」を見ることができる。 ◆信仰の3段階  ①神に願いを叶えて欲しい(46節)   ・「主よ」と呼んではいるが、実際は神に自分の要求を押し付けている。「ご利益がなければダメ」という信仰。  ②自分の益になりそうなみことばだけ実践する(47節)   ・クリスチャンであるなしに関わらず、「キリスト教は良い教えだ」と思っている人は多い。しかし「耳障りの良い教え」には耳を傾けるが、従うためには犠牲を要するようなみことばには気付かなかったふりをするもろい信仰。  ③すべてのみことばに聞き従う(48節)   ・これは「みことばそのもの」よりも「それを語っておられる方」に対する愛と信頼。[ローマ10:11]  ・「どんな家を建てるか(人生でどんな成果を上げるか)」以上に、「家をどう建てるか(どんな原則に従うか)」が大切。 今日の真理: みことばは、行うためにある ◎更に深い学びのために  ①イエスは、どんな意図をもってこのたとえを話されたのだと思いますか?  ②「私は神を信じます」と言っている人たちの中には、どのような信仰が含まれていると考えられるでしょう?  ③「イエスのことばを聞いて行う者」となりたいですか? そのためにあなたに必要とされているのは何ですか? Outline of the sermon    “3 Levels of Faith.”    (22/03/2026) [Luke 6:46~49] ◆How do you evaluate “a house”? Read more