(565) “キリストも1度、罪のために苦しみを受けられました。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。”

 ニュージーランドでは今週末は『イースター(復活祭)・ウィークエンド』なので、イースターのお話をしますね。  日本ではあまり耳慣れないと思いますが、イースター直前の金曜日は『グッド・フライデー』と呼ばれます。この日はイエス・キリストが十字架刑に処せられた事を記念する日です。それなのに、何故『Good Friday』と呼ばれるのか、それを説明するには、イエス・キリストの生涯に関して少し説明しなければなりません。  イエス・キリストは地上での人生において主に3つのことをなさいました。1番目は「神とはどういう方なのか」を示された、ということです。ご存知の通り、「天地創造の神」は私たちの肉眼で見ることはできません。人類はこの超越的な存在(それをどう呼ぶかはさておき)を様々な形に表現しようと試みますが、この『神』は「人格(神格?)」を持っておられるので、単に『像』を造ることによってはその性質を表現することはできません。イエス・キリストはそれを「ご自身の人格」を通して人々に分かり易く表現してくださったのです。  2番目にイエスがなさったことは、「人は本来どのように崇高な存在か」を示された、ということです。神から離れてしまった人間は、本来の『神の作品』としての特徴が損なわれ、互いに憎み合ったり殺し合ったりしてしまっています。しかしイエスは「人は本来、互いに愛し合い、神の力と聖さと愛を表現すべき存在なのだ」ということを、ご自分の生き様を通して私たちに見せてくださったのです。  そして最後に、イエス・キリストは「私たちと神との『架け橋』となる」ために、十字架の上にその身を捧げてくださいました。このイエス・キリストの十字架での死を「自分と神との関係を回復するための代償」として受け入れる者に、神は新しいいのち(聖書では『永遠のいのち』と呼んでいる)を与えてくださるのです。このいのちに生かされることによって、今度は私たちを通して「キリストのような人生」が再現されて行くのです。  このような驚くべきみわざをなされた「イエス・キリストの生涯の偉大さ」を讃える意味を込めて、私たちは『グッド・フライデー』を祝うのです。

2024年3月24日 「私たちの競走」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「私たちの競走」    (24/03/2024) [へブル人への手紙 12章1~3節] ◆私たちの目指すところ(1節)  ・ここでは、私たちの信仰の歩みを「レース」に例えている。そしてこのレースは、既に多くの信仰の先輩たちが走り抜いたもの。ここで『証人』と訳されていることばは、当時のクリスチャンたちの間で『殉教者』を表すのに使われた語。この『証人たち』は、この地上では得ることのできない「神の約束」を遥かに望み見ながら信仰のレースを走り抜いた。では、それを既に得ている私たちは、どこを見ながら、何を目標に走るのか?  ・私たちの目指すところは、やがて来る「キリストの再臨」である。主イエスは「わたしは必ずあなたがたを迎えに戻って来る」とおっしゃった。その時、この世の悪はすべて滅ぼされ、地上は『神の義と栄光』で満ちる。その日を待ち望みながら私たちは信仰の道を走り続け、また1人でも多くの人々に、このレースへの参加を呼び掛ける。 ◆障害物競走  ・また、このレースは『障害物競走』である。この世はいつも私たちに反抗し、「最善以下」へと誘う。しかし主イエスは「ご自分の前に置かれた喜び(2節)」すなわち「『救いの道』を完成し、御父の栄光の右の座に着く」という大目標のゆえに走り通した。そして彼は私たちにもこの「同じ喜び」を体験させたいと願っておられる。[黙示録3:21]  ・私たちをもたつかせる『罪・重荷』とは何か?「この世での成功や他の人の評価を求める思い」?「自分なんかダメだという意識」?私たちをそれらのものに打ち勝たせる唯一の武器、それが『神との親しい関係』である! ◎更に深い学びのために  ①私たちの『競走』とはどのようなものですか? 私たちは何処を目指して走っているのでしょう?  ②どうしてこの競走は『障害物競走』だと言えるのですか? 私たちはどんな『障害』に直面するのでしょう?  ③このレースを完走するために、イエスは何をしてくださいましたか? どうしてそれが助けとなるのでしょうか? Outline of the sermon  “Let’s run the race!”  (24/03/2024) [Hebrews 12:1~3] ◆What is our goal?(Verse1)  ・Our “faith walk” is like “a race”.  In chapter Read more…

(565) “思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。”

 ある日の午後、あるお宅の前に1匹の疲れ切った犬がフラリとやってきました。それを見つけたその家の主婦が扉を開いてやると、庭にノソっと入ってきました。こぎれいな犬だったので、玄関の扉も開けてあげると、家の中にも入って来て、居間の居心地良さそうなスペースを見つけて、ほどなく眠りにつきました。2時間ほど経つとムックリ起き上がり、玄関のところに立ったので、ドアを開けてやると、スタスタとやって来た方向へ帰って行きました。  次の日も同じような時間に、再びこの犬がやってきたので、同じようにしてあげると、同じ場所でやはり2時間ほど昼寝をした後に帰って行きました。そして同様なことが1週間続いたので「ひょっとして飼い主が心配しているのでは?」と思ったこの主婦は、その犬が帰る時に首輪に次のようなメモを付けて送り返しました。「この1週間、午後になるとお宅の犬が我が家にやってきては、2時間ほどお昼寝をしてから帰って行きます」と。  翌日、同様に例の犬がやってくると、その首輪に次のようなメモが付いていました。「実はこの犬は10人の子供がいる家で暮らしています。きっと2時間だけその喧騒から避難するためにお宅に通っていたのだと思います。ところで、明日は私もこの犬と一緒にお宅へ伺ってもよろしいでしょうか?」  この話を聞いて、単に微笑むだけでなく、「私もそんなくつろぎの場所が欲しい!」と思わず心で叫んでしまう方はいないでしょうか?心のどこかで「自分は頑張って耐え忍んで『スーパー母ちゃん』を演じなければならない!」と気負ってはいませんか?私たちはそのように突っ張って生きていたら、いつか『ポキ』っと折れてしまうかもしれません。  人間はそれほど『強く』はできていません。「くつろぎ」や「ホッとひと息」が必要です。「『だらしない主婦だ』と言われたくない!」という力みを肩から降ろして、時には家事をほっぽり投げたり、子供の世話を親や友人に任せたりして、『だらしない主婦』になってみても良いのでは?

(564) “キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、…愛のうちに建てられることになります。”

 日本独特の慣用句で『内助の功』という言葉があります。「家庭において、夫の外部での働きを支える妻の功績」を指して使う言葉ですが、これは『家庭での妻』だけでなく、「華々しい功績の背景にある、目立たない陰の功労」にもあてはまるのではないでしょうか?  私は学生時代『演劇』をやっていました。また今も妻と2人でよくテレビドラマ(特に韓流?)を観るのですが、華々しい有名な主演俳優たちを上手に支えている『名脇役』がしばしば目に留まります。どんなドラマも、この『名脇役』なしには、薄っぺらなつまらないものになってしまいます。  私たちの人生も同じではないでしょうか?「誰もが『自分自身の人生』というドラマの主役である」という考え方もあるかもしれませんが、人生において「華々しい功績」を遺す人はわずかです。けれども全ての人は『名脇役』となる資質を備えているのだと思います。  神様は私たちを、決して「不要な存在、無価値な存在」としてはお造りになりませんでした。それぞれに「その人にしか担えない役割」を与えておられるのです。そしてその多くは「他の人を支え、引き立たせる役割」なのだと思います。私たち1人1人が「何とかして主役になって表舞台に立とう」とばかりしないで、その『価値ある特別な役割』を捜し、見出し、そのわざに磨きをかけて生きて行くなら、この世界は今よりもう少し温かくて潤いのあるものになるような気がするのは、私だけでしょうか?

2024310 「『もっと優れたもの』を待ち望む信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「『もっと優れたもの』を待ち望む信仰」  (10/03/2024) [へブル人への手紙 11章32~40節] ◆この世における祝福  ・今日の前半部分では、「国々を征服する」「剣の刃を逃れる」など、『この世での祝福』が列記されている。つまり 旧約聖書の時代には「永遠のいのち」とか「天の御国」などの概念があまり無かった。そのためイエスの時代の  『メシア』の概念も、「ローマを打ち破り、『イスラエル王国』を回復してくれるヒーロー」のイメージが強かった。  ・ところが[35節]から少し雰囲気が変わる。「もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けた」とあり、その後にむごい迫害の歴史が列記される。では、一体彼らは何に希望を置いてこのような  迫害を耐え忍んだのか? ◆もっとすぐれたもの(38~40節)  ・ここで『信仰』というものの本質をもう1度考えてみたい。それは、決して「その場しのぎ」な一過性のものではなく「『真実なお方である神』に対して誠実に生きる」という、私たちの継続した『神に対する心の表現』である。  ・ここに書かれている『もっとすぐれたもの』とは、主イエスにある『天の御国への希望』である。この11章に列記された信仰の先人たちは地上でこれらのものを体験することはなかった。しかし私たちは既にそれを得ている!ならば神は私たちに、彼ら以上の「信仰と勇敢さ」をもって歩むことを期待しているのではないか?最後に、激しい迫害の中で常に「福音宣教の働き」に前進した使徒パウロのことばを引用しよう。[Ⅱテモテ1:12,ピリピ3:7-8, 12] ◎更に深い学びのために  ①なぜイエスの時代の人々は、『メシア』という存在を「王国を回復してくれるヒーロー」と考えていたのでしょう?  ②「迫害を耐え忍んだ人々」の原動力は何だったと思いますか? あなたは、同じ原動力を持っていますか?  ③へブル11章の信仰者たちには無くて、私たちには既に与えられているものを確認し、感謝の時を持ちましょう。 Outline of the sermon    “Wait upon ‘something better’ by faith.”    (10/03/2024) [Hebrews 11:32~40] ◆Blessings on the earth.  ・First few verses here witness Read more…

(563) “上からの知恵は、…平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。”

 柔軟性に富み、臨機応変に人々や状況に対応できる人は幸いです。このような人々は、「物事はこうでなければならない」というような融通の利かない人に比べてずっとストレスが少なくて済みます。何故なら、世界はその人を中心に回っているわけではないので、その人の計画が遂行されるためには、他の人々の協力や助けを必要としているわけですから。そして周囲の人々は皆それぞれ違った性格や価値観を持っているので、結果として「融通の利かない人」は、自分の思い通りに事が運ばないことでいちいちイライラしたり、不満を抱えたりすることになるわけですから。  これは主に家庭生活や職場などでの毎日の生活の中でよく起こります。あなたの食べ物の好き嫌いのために、食卓に上るメニューが偏ってしまったり、不規則な帰宅時間のせいで家族の予定が立たなかったり。または不機嫌な上司のご機嫌を取ることにエネルギーを使い果たしてしまったり、疲れ果てている部下に注意を払わないせいで、要らぬミスをさせてしまったり…。これが「ほんの少し融通を利かせるだけ」で、食卓に笑いが満ち、家族関係が豊かにされ、部下からの信頼を勝ち取り、職場において大いなる成果を上げられる場合があるのです。  誤った「臨機応変な態度」はかえって混乱をきたしますが、適切な『臨機応変さ』は仕事や人間関係において優れた結果を生み出します。神は私たち1人1人に『五感』を与え、察知した状況に臨機応変に対応する能力を与えてくださっています。それらを「宝の持ち腐れ」させることなく、「良いチームワークによって良い実を結ぶため」に上手に用いて行きましょう!

2024年2月25日 「『にもかかわらず』の信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「『にもかかわらず』の信仰」  (25/02/2024) [へブル人への手紙 11章29~31節] ◆出エジプトの民の信仰(29~30節)  ・29節と30節に出てくる『人々』とはどちらも「出エジプトの民」だが、別の世代。前者は不信仰の故に荒野で滅び、後者は恵みによって「約束の地」に入った。「荒野で滅んだ民」は、エジプトでも荒野でも数多くの神のみわざを経験したにも関わらず不信仰に陥った。[民数記14:6-11] それは何故か?  ・恐らく彼らは「出来事や現象」だけを見て、「原因である方」をしっかり認識していなかった。真の『信仰』とは、「何かが起こること」を信じるのではなく、「起こる起こらないにかかわらず」、その根源である『神である主』を信じているということ。[ダニエル書3:16-18] ◆遊女ラハブの信仰(31節)  ・一方「遊女ラハブ」は、この時点では神のみわざを実際に『見た』ことはなく、『聞いたことがある』だけだった。[ヨシュア記2:8-11] それにもかかわらず彼女はリスクを冒して偵察隊をかくまった。この「捨て身の信仰」の故に、彼女は想像を超えた報酬を受けることになる。「ヨルダン川が堰き止められる奇跡」「エリコの城壁が崩れ落ちる奇跡」を目撃し、また「イエス・キリストの系図に含まれる」という光栄を受けるのである。  ・私たちもこのラハブ同様「聞いただけで、見ずに信じた者たち」である。私たちも主イエスの十字架の現場にいた訳ではないが、心から信じている。[Ⅰペテロ1:8-9] これが「見ずに信じる者」が受ける『救い』という報酬。 ◎更に深い学びのために  ①「出エジプトの民」はどうして荒野で不信仰に陥ったのでしょう? 彼らと「遊女ラハブ」は、何が違いましたか?  ②「見て信じること」と「見ないで信じること」とでは、それぞれどんな長所・短所があるか、考えてみましょう?  ③「にもかかわらずの信仰」を持って生きるために、私たちはどのような点で成長する必要があるでしょうか? Outline of the sermon    “Say, ‘even if not’ by faith.”    (25/02/2024) [Hebrews 11:29~31] ◆Faith of “Exodus people”.(Verses 29~30)  ・People who crossed the Read more…

(562) “あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは1つだけです。”

 90歳以上の方々に行った調査で、「もう1度人生をやり直せるとしたら、自分の人生のどんなことを変えたいですか?」という質問に対し、ほとんどの方々の回答が次の3つのことにまとめられたそうです。  1.家族や友人たちともっとたくさん時間を一緒に過ごす。  2.たとえリスクを冒してでももっとたくさんの事にチャレンジする。  3.自分の死後、後世の人たちの益となるようなもののために時間と労力を使う。  私たちは「目先のこと」、また「その時その時の自分の利益になること」にあまりにも多くの時間を使い過ぎているのかもしれません。言い換えるなら「誤った優先順位」に従って生きている、と言えるのではないでしょうか。天地創造の神は、私たち1人1人を『特別な使命』とともにこの地上に送り出してくださいました。それを捜し、見出し、その一事に全力を尽くすことこそ『生きがい』に通じる道なはずです。  これを読んでくださっている方々のほとんどは、未だ90歳には至っていらっしゃらないと思います。まだまだ遅くはありません。たった1度きりの人生です。上記の3つのことを念頭に置き、「神が自分に与えておられる使命」を模索しながら、ぜひ残りの人生を悔いのないように過ごしていただきたいと思います。