(5)愛は人のした悪を思わず…決して絶えることがない。

ある7才になる女の子が「どうしてもヴァイオリンを習いたい」と言いました。母親は彼女の決心が堅そうなのを見て、お試しレッスンに通わせることにしました。教室に向かう道で母親は娘にこう言い聞かせました。「あのね、ヴァイオリンを習うにはとてもお金がかかるの。でもそのお金は何とかするわ。但し、1度始めたら、どんなに辛いことがあっても、決して途中であきらめてはいけないわよ。いいわね。」少女はコクリと頷いてから、これ以上真剣な表情はない、というくらいの面持ちで厳かに言いました。「分かったわ、お母さん。要するに『結婚生活』と同じっていうことね。」 聖書は「神様は私たちを『決してあきらめない愛』で愛してくださっている」と教えています。そしてその愛を反映させる場として、私たちに『結婚生活』という舞台を備えてくださったのです。この愛は「もし ◯◯ してくれたら…」というような条件付きの愛ではありません。相手の反応に関わらず、ひたすら愛し続ける愛なのです。神様のこの愛に対して心を開いてこそ、私たちは『家庭』『職場』『学校』などの生活の現場で「ひと味違った愛の香り」を放ちながら生きる者とされていくのです。

(4)なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気が付かないのですか。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

ある奥さんが毎朝、お隣の家に干されている洗濯物の汚さを窓越しに見ながら「もうちょっとキレイに洗えないものなのかしら !」と呆れていました。ところがある朝いつものように窓越しにお隣の洗濯物を見ると、驚いたことに、輝くようにキレイに洗われているのです。思わず側にいたご主人に「ねぇ、お隣は洗濯機を買い換えたのかしら?」と尋ねると、ご主人が言いました。「何言ってんだい。俺が今朝この窓をキレイに拭いたんだよ !」 「他人の振り見て、我が振り直せ」ということわざがあります。他人の落ち度ばかり指摘している人ほど、自分の姿が見えていないものです。他人のあら探しをする前に、まず自分が神の前に正しい良心を持って歩んでいるかどうかを吟味してみましょう。そうすれば、あなたの弱さや心の痛みをすべて理解してくださっている神様の優しさに触れて、他の人々の失敗にも寛容に対処してあげられるようになることでしょう。

(3)神は…試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

「神がおられるなら、何故こんな問題が起こるのか?!」とおっしゃる方がいます。『問題』ってイヤですよね。 私たちの人生に問題が起こるのは、大きく分けて2つの理由があるように思います。 ①「自分の蒔いた種を刈り取っている」 ・神様は極めて公平な方です。私たちが掃除を怠れば部屋は散らかるし、暴飲暴食していれば体をこわします。私たちが正しい習慣を身に付けるようにと、神様はレッスンを与えてくださっているのです。 ②「問題のない人生は成長をもたらさない」 ・自分の子どもの正しい成長を願う親は、子どもにそれなりの課題を提供します。最近「自分の子どもには苦労をさせたくない」と甘やかす親が増えているのは残念なことです。神は私たちの堕落を願っているのではなく、成長を求めておられるので、敢えて私たちが試練に会うのをお許しになるのです。 神は決して私たちが試練に押しつぶされてしまうことを望みません。そこには必ず脱出の道があります。たとえ事態が『八方ふさがり』に見えても、『上(神様への道)』は開いているのです。

JCFキャンプ2011

去る1月21~23日に、クライストチャーチから北へ車で30分ほど行ったところにある『ウッドエンド・キャンプ場』にて「JCFサマーキャンプが」行われました。あいにく初日の夜から土曜日の午前にかけて雨模様でしたが、土曜の午後には雨が上がり、晴れ間も見えるようになって、グループ対抗のドッジボールやリレー、水風船バレーボールなど、年長者たちも年を忘れて大いにはしゃぎました。これらのレクレーションばかりでなく、日本からお招きしたゲスト講師の『大角健一牧師』から「日常生活の中で、神様と共に歩む」ということに関して多くを教えられ、また『恋愛と信仰』『社会生活と信仰』『創造論と進化論』などの分科会に別れて学ぶ機会もありました。グループごとに準備した『お笑い写真』や『聖書劇』も大ウケで、2泊3日の短い期間でしたが、大変有意義で中身の濃い時間を過ごすことができました。こんなに素晴らしい機会を与えてくださった神様に、心から拍手!パチパチ! 下にキャンプの写真をいくつか載せておきますのでご覧ください。 楽しそうでしょう?楽しかったですよ~!では次回のキャンプをお楽しみに~:)