2014年5月18日 「弟子への招き」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ            「弟子への招き」        (18/05/2014) ◆「救い主」から『主』へ(献身)   ・クリスチャンと神との関係は(親子関係のように)その成長の過程で変化する。       「自分のための神」から、「神のための自分」へ [ヨシュア5:13-15,Ⅰ列王記22:5-8]   ・神は、すべての人が「キリストによる救いを得ること」を望んでいるのと同様に、すべてのクリスチャンが、    この「『神のための自分』を見出して生きること」を望んでおられる。[Ⅰコリント6:19-20] = 「献身」   ・神は『献身』を強制しない。これは、信仰生活の途上で起こるべき、各自の「自由意志による選択」。 ◆「信者」と『弟子』   ・私たちが自由意志によって神に対する態度を選べるのと同様に、神もご自身の自由意志によって「私たちの    用い方」を選ぶことができる。そして神は限られた人々をご自身の『弟子』としてお招きになる。[マルコ3:13]   ・神はその「特別な目的」「特別な働き」のために、これらの人々をその絶対的主権によってお選びになる。それ    はその人の優劣には関係がない(「ヤコブとエサウ」の例)。従って選ばれたからといって誇ることはできないし、    選ばれなかったからといってガッカリする必要もない。(パウロの『弟子』としての姿勢 [Ⅰコリント9:16])   ・実際、弟子に任命されて得することはあまりない。苦労は増えるし、捨てるものも多い。[ルカ14:27他]    ただ1つだけ確実なことは「主の身近に歩める」ということ。   ・主はご自身の自由意志によってお招きになるが、招かれた側にも『拒否権』がある。 ✯「もし主がお呼びになるなら、私は答えたい!」 という人は?   Outline of the sermon            “A Calling.”          (18/05/2014) ◆ From “my Savior” to “my Lord”. (Commitment)   ・As ‘the relationship between a child and parents’ has Read more…

(124) “なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。”

 聖書は人の『罪』ということを問題にしますが、私たちは『罪』と聞くと、「してしまった悪いこと」というものを思い浮かべます。「他の人の物を盗んだ」とか「不倫をした」とか「人を殺した」などなど。確かにこれらは神の前に『罪』に違いありませんが、実は聖書はむしろこれらのこと以上に、私たちが「しなかった良いわざ」の方を問題にしています。  イエス・キリストはこの地上を歩まれた際、多くのことを「たとえ話」によって教えられましたが、それらの中には「灯火のために十分な油を用意していなかった娘たち」や「せっかく主人に預けられた予算を活用しなかったしもべ」や「自宅の門の前に横たわっていた乞食に施してやらなかった大金持ち」などの話があります。そして極めつけは、イエスが『最後の審判』に関してなさったたとえ話です。イエスは「天国へ迎え入れられる人々」に対しての祝福のことばを述べられた後、「地獄へと投げ込まれる人々」に向かって次のように言います。「あなたがたは、わたしが飢えていた時に食物を与えず、わたしが渇いていた時に飲ませず、旅人であったときに宿を与えず、裸だった時に着る物をくれず、病気や牢にいたときに訪ねてくれなかった。」 人々は驚いてイエスに尋ねます。「一体いつ私たちはあなたに対してそのようにして差し上げなかったでしょうか?」と。するとイエスはこう答えるのです。「あなたがこの世の最も取るに足りない人々にしてあげなかったことは、実はわたしにしてくれなかったのです。」  神は日々あなたに「なすべき良いこと」の機会を与えておられます。それを見過ごさないように!