(315) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

私たちは人生の過程で様々な『変化』を経験します。その中には「自ら買って出る変化」もあれば、「自分では願っていなかったのに、避けることのできなかった変化」もあるでしょう。ところがこの「願ってもいなかった思いがけない変化」が思いもよらない良い結果を生むことがしばしばあるのも事実です。では何故私たちはそのような『変化』を歓迎したがらないのでしょうか?それは元来人間が「習慣的に生きる」ことを楽に感じるからです。 私たちは実に多くのことを『習慣的に』行っています。朝起きて顔を洗う。食事の時にまずお味噌汁を飲む。靴は右足から履く。ランチは近くのコンビニでサンドイッチを買う。お風呂で体を洗う時は首から洗う。などなど。これらをいちいち「えーと、今日はどちらの足から靴を履こうかな?」「体をどこから洗おうかな?」などと考えていたら、時間がいくらあっても足りなくなります。「習慣性」って、実に素晴らしいですよね?これが例えば「朝起きたら断水していた」とか「サンドイッチが売り切れていた」などのハプニングがあると、とたんに生活のリズムが狂うわけです。通勤電車の遅れやインターネットの接続不良などが起こるとすぐ「キレて」しまう人がいるのも現代の特徴の1つでしょう。 ところが、もし人生がすべてこのように『習慣的に』進められてしまったら、進歩がなくなってしまうというのも事実です。「生活の改善」や「私たちの人格的成長」は、ある意味『強制的な変化』に伴ってやってくるものなのです。別に『変化』を大好きになる必要はありませんが、それらを肯定的に受け止め「成長のための栄養」としていくことは大切です。 神様は私たち人間を『現状維持』のためには造りませんでした。「日々成長するように」お造りになったのです。それ故、神様は時々私たちの人生に「避けられない変化」を送られる時があります。それらに対して私たちはつい「神様どうして?!」と呟いたりしてしまいがちですが、そこにも私たちに対する『神様の愛』を見い出すことができたら、人生がより輝いて見えるようになるのではないでしょうか?

2018年9月16日 「『神のもの』として生きる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「『神のもの』として生きる」       (16/09/2018) [マタイ6:25-34] *この箇所は「どうせ神様が全部やってくれるんだから、自分はサボってても良い」ということではなく、むしろ「自 分に任された範囲をわきまえ、それを超えて出しゃばるな」ということ。では『私たちに任された範囲』とは? 「『信仰』によって生きる」ということ ― これこそ、イエス・キリストが地上の生涯において示された『生きる姿勢』 ・「キリストのような歩み」とは、「立派な」とか「奇蹟を行う」ではなく、「愛と信頼の故に、御父に依存した」人生。 ◆神を喜ばせるもの[30節] ― 彼らはどういう点で「信仰が薄かった」のか? ①「神が良い父である」ということが信じ切れていない。 ②「この世の王(サタン)が提供してくれるものに対する未練」を捨て切れていない。 ⇒ 「だから、神の国とその義とをまず第1に求めなさい」。  これが主イエスからのチャレンジ! ・神が喜ぶのは「見せかけのおだて」ではなく、「神こそが最善をご存知なのだから、彼にのみ信頼して生きる」という歩み。 ◆今週の『暗唱聖句』: [ヘブル人への手紙 11章6節]   Outline of the sermon        “Live as God’s own.”       (16/09/2018) [Matthew 6:25-34] *These verses don’t mean like, “We have no part to play because God does everything”, but Read more…