(401) “知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。”

 『神』と呼ばれる存在は、大きく分けて2種類あります。①「人間[が]造った神」。②「人間[を]造った神」。この2つです。ちょっと想像してみてください。ある優れた彫刻家がその卓越した腕前で立派な姿をした偶像を彫り上げ、その前にひれ伏して、「私の神よ、どうぞ私をお助け下さい」と祈る姿を。どう考えても、この『造られた存在』が、『造ってくれた方』を救うことができるとは思えませんよね?しかし実際ある人々はこれと同様なことを行っています。聖書はこれらの行為を『偶像崇拝』と呼んで堅く禁じています。それは、「この天地を創造し、私たち人間[をも]創造された、唯一まことの神」を冒涜する行為だからです。『私たち[を]造られたお方』、この方こそ『まことの神』として敬われるべき唯一の存在です。  スヌーピーの漫画のストーリーで、こんなのがあります。ある日チャーリーブラウン少年が弓矢の練習をしていました。彼は弓と矢の他に『マジックペン』を持ち歩き、弓を射るたびにその落ちたところへ駆けて行って、落ちた矢を中心にしてマジックで的を書くのです。そして胸を張って言います。「どんなもんだい!ボクはいつだって的の真ん中に当てられるんだぜ。」  ある人の人生はまさにこのようです。自分の人生の成り行きに合わせて都合の良い『神』を造り出し、「私の神様、どうぞ私が決めた決断を祝福してください。そうすれば、私はあなたが真の神であると認めます!」と言うのです。そして自分の思い通りに事が進まなくなると、「神なんていない」と結論付けるのです。神が定めた真理の道を追求する代わりに、自分勝手に向かって行く方向を「神が定めた道」とみなす、まさに「神をも恐れぬ」態度とでも呼びましょうか。  真の神はただ1人。それはこの全宇宙を創造し、私たち1人1人をお造りになり、今日も私たちを正しい道へと導くことのおできになる権威あるお方です。そしてこの『唯一まことの神』を正しく知り、正しい応答をすることが、私たちの人生にとって「何よりも初めに覚えるべきこと」なのです。