『学ぶ』という言葉は『真似ぶ』から来ているそうです。きっと昔(学校制度ができる以前)は、「親」や「親方」など身近にいる「その道の先輩」が『実物教師』として模範を示し、それを見て、真似をし、新しいことを学んで行ったのでしょう。

 イエス・キリストは私たちに「本来人間はどれほど高貴な存在であるのか」を示すために、自らがその模範として生きられた、と聖書は教えています。彼はその教えの中でしばしば「わたしが○○したように、あなたがたもXXしなさい」とお語りになりました。その中には「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」「わたしが受け入れたように、互いに受け入れなさい」などがあります。

 ところが人間は持って生まれた『弱さ(限界)』のゆえに、自分の必要が満たされていない状態でそんな風に他の人を思いやるなんてとてもじゃないですよね?ですから上記のようなイエスの教えを聞くと、多くの人は「そんなの無理!それは理想かもしれないけど、全然実際的じゃない!」と感じると思います。しかしイエスは私たちのそのような弱さをもちろん承知の上で、上記の教えをされたのです。それは私たちに『無理強い』をするためではなく、むしろ私たちがそれらを実践できるような道があることをも知らせるためです。

 イエスが、聖書が述べているように情け深く、憐れみに富んだ存在として歩まれたのは、彼自身がいつも「天地の創造者であられる父なる神」との深い関係に結ばれていたからでした。父なる神はいつも深くイエスを愛し、助け、力を与え、変わらない喜びと平安と力を注いでおられたので、イエスは常にその力に満たされて人々の間であのような驚くべき力を発揮されたのでした。すなわち、「イエスの模範に従う」ためには、単なる猿真似ではなく、イエスと同様に、まず「日々神との豊かな関係の中に生かされること」が必要なのです。私たちは「枯れ井戸」のような私たちの心から無理矢理に愛情を「ほじくり出す」のではなく、むしろ『管』のように、まず「愛に満ちた創造主」としっかりつながって、その大きな愛や憐れみ、平安などを注いでいただいて、その「受け取ったもの」を、必要に応じて周囲の人々に分け与えて行けば良いのです。「イエス・キリストのように歩む」とは、「イエス・キリストが持っておられたのと同じ『神との豊かな関係』」を、まず自分自身がしっかりと築いて、そこから流れてくる「すべての良きもの」をあふれさせて行く人生なのです。

Categories: 聖書

0 Comments

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *