(611) “光は闇の中に輝いている。”

 1カ月ほど日本に一時帰国してきました。今回の一時帰国中の一大イベントは「93歳の義父を、憧れの北海道へ連れて行く」というビッグプロジェクトでした。ただこの義父は少々気難しいので、しばしば私たち夫婦の労の甲斐もなくガッカリさせるようなことばかり言うので、今回も少々思い心持ちで出発しました。  私たちの夫婦の実家は栃木県宇都宮市にあります。本来なら飛行機で飛んでいくのが安くて手っ取り早いのですが、空港まで行く手間を考えると、幸い宇都宮には新幹線が停まりますし、北海道(函館)まで新幹線が開通したので、「函館だって『北海道』に変わりはない!」ということで、3人で新幹線で函館に向かうことになりました。(ちなみに義父はシーフードには全く興味がありません!)  さて、新幹線で「新函館北斗駅」に到着すると、早速レンタカーを借り、天気も良かったのでその足で『五稜郭』へと向かいました。残念ながら桜の季節ではなかったので、そこまで息を吞むような景色ではなかったのですが、それでもタワーからの眺めは素晴らしかったです。肝心のお父さんの反応も「いやぁ、キレイだねぇ」という感じで、夫婦で胸をなでおろしました。  ところで皆さんご存知でしたか?函館の夜景は、何と『世界3大夜景』の1つとして有名なんですよ!というわけで、2日目の夜にその夜景を観に「函館山ロープウェイ」を使って展望台まで行きました(スゴイ混みようでした!)。5月中旬だというのに山頂は10度以下まで冷え込み、寒がりのお義父さんは「寒い、寒い」と言っていましたが、ともかく展望台の端まで行って眺めると、いやぁ確かに見事な眺めでした。建物のイルミネーションと、海の暗闇が良い対称をかもしだしていて、何とも言えない光景でした。そして肝心のお義父さんの感想は…、「何だか暗くて景色が良く見えないなぁ。また昼間に出直した方が良さそうだね」(泪) お義父さ~ん、今日は「景色」じゃなくて、『夜景』を観に来たんだってばぁ~!  ところで、人生にも『暗闇』のようなシーズンがありますよね?そんな時は「神様、どうしてあなたを信じて生きているのに、こんな暗闇を味わわせるんですか!」と文句を言いたくなるかもしれません。でもこの美しい『夜景』を観ながら、「神様の光は『人生の暗闇』でこそ、更にハッキリと現されるのだろうなぁ」と感じさせられたのです。

2025年4月27日 「『愛と信仰』という味付け」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ 「『愛と信仰』という味付け」 (27/04/2025) [ピリピ人への手紙4章15~23節] (いよいよ、この手紙のラスト!) ◆すべては神へのささげ物(17~18節)  ・パウロはこの手紙を獄中で書いた。当時はインターネットも携帯もないので、彼は全く外部との交流もなく、孤独だったに違いない。しかしそういう状況だからこそ、彼の心は「いつも開いている天」に向けられていただろう。  ・パウロはピリピからの贈り物を有難く思うと共に、何よりも神様がピリピの人々の「愛と信仰」を尊び、豊かに彼らに報いてくださることを思って喜んだ。何故なら私たちが「愛と信仰によってささげるもの」は全て『神へのささげ物』であることを知っていたから。[マタイ25:40] ◆すべては神から来る(19節)  ・ピリピの人々が自分のことを覚えて贈り物をくれることは、パウロに「天の父は自分のことを決して忘れることがないこと」を思い起こさせた。神は万物の造り主であり、全てのものは神の御手のうちにあって、神はそれらをみ  こころの時にみこころの人に分け与えることのできる方。[ローマ11:36]  ・私たちが『愛と信仰』をもって分かち合う時、神がそこに「御国の味付け」を加えてくださる。そしてそれらの『ささげ物』は私たちの「肉体的必要」を満たすだけではなく、「霊の深み」に届いて、慰めや励ましを与える。これはインターネットでも届かない世界。この週も互いに『神の国の味付け』を届け合いましょう! 今日の要点: 互いに『神の国』を味わう ◎更に深い学びのために  ①どうして、私たちが互いのために分かち合う『愛の贈り物』はすべて「神へのささげ物」だと言えるのでしょう?  ②神様はどのようにして、「私たちのすべての必要を満たしてくださる」のでしょう?  ③「私たちの地上での営み」と、「神の国から訪れる祝福」とは、どのような関係がありますか? Outline of the sermon  “Taste of ‘Love & Faith’.”  (27/04/2025) [Philippians 4:10~14] (The last session of “Book of Philippians”!) ◆Everything is ‘an offering towards God’.(Verses 17~18)  ・Paul was writing this letter in jail.  Because Read more…

(610) “神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”

 今日の聖書の言葉は、多くのクリスチャンの方々によって親しまれている箇所です。何故なら、この世において真摯な心でキリストに従って行こうとするなら『試練』は避けて通ることができず、そのような時にはつい「神様どうしてこのように辛いことが私の身に起こるのですか?」とつぶやかずにはいられないものなので、「すべてのことがともに働いて益となる」と聞くと、「ああ、きっといつか『このことがあって良かった』と感じられる時が来るのだ」と信じることができ、慰められるからです。  ただ、この聖書の言葉の1つの落とし穴は、「すべてのことがともに働いて益となる」と聞くと、私たちはつい「しんどい出来事の後には、神様は必ず楽しいことや嬉しいことを成し遂げてくださる」と考えてしまうということです。そのため、いつまで経ってもそのような「楽しく嬉しいこと」が起こらないと、「こんな神様を信じていても少しも得になることはない。や~めた!」と神様に背を向けてしまうことになりかねません。  この聖書の言葉は、「人間的視点」ではなく、『神の視点』で読み取るべきです。私たちの地上における歩みにおいて、真の意味での『益(英語では『Good』)』とは、単に「得をする」ということではなく、「キリストに似た者となること」です。神は私たちの人生の日々の歩みの中に、いつも必ず私たちを「キリストのように造り変える」ための要素をちりばめてくださっているのです。そして多くの場合それらは『試練』という形をとって訪れてきます。それらの『試練』は、私たちの性質や考え方から「神の国にふさわしくないもの」を取り除く役割を果たそうとします。そのような時に神の前にへりくだり、素直な心で「握りしめていた古い習性を手放す」時に、私たちの内に『キリストの心』が形造られて行くのを体験するのです。

2025年4月13日 「神に属する喜び」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「神に属する喜び」  (13/04/2025) [ピリピ人への手紙4章10~14節] ◆神(キリスト)と共に生きる喜び  ・「どんな境遇にあっても満足する」とはどういうことか?私たちは様々な境遇の中で神に感謝したり叫び求めたり  するが、神に求めた1つ1つの細かいことがすべて叶えられなくても信仰を捨てたりしない。何故なら、大切なことは「全ての祈りが叶えられること」ではなく、「神に覚えられていること」だから。  ・創造主である全能の神が「愛に満ちた良いお方」であり、私たちのようなちっぽけな存在に目を留めてくださっている。このことを心から信じられているなら、周囲の状況がどんなであるかはさほど気にならなくなる。ここでパ  ウロが「私を強くしてくださる方によって…」と言っているのは、そういうこと。[ネヘミヤ記8:10] ◆人々と共に生きる喜び  ・かと言って、「神様さえいてくれれば、1人ぼっちで良い」ということにはならない。神は多くの場合「人を通して」働かれる。事実パウロもピリピからの「Love offering」によって大きく支えられていた。  ・これらのささげ物は単なる「パウロとの友情」によってささげられていたわけではなく、「パウロと同じ心でキリストを愛し、福音宣教への情熱に燃えているがゆえ」のささげ物。彼らは地上における見返りを期待していたのでは  なく、「天に宝を積む喜び」によってささげていた。主にあって「同じ志を共有すること」は、大きな喜びである! 今日の要点: 『天の喜び』を共有する ◎更に深い学びのために  ①『喜び』が失われてしまう時は、どんな時ですか? それはどうしてだと思いますか?  ②パウロはどんな状況を思いつつ「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」と言ったのでしょう?  ③『神の家族』は、あなたにとってどんな存在ですか? どのようにして彼らと「天の喜び」を共有できるでしょう? Outline of the sermon  “The joy which belongs to God.”  (13/04/2025) [Philippians 4:10~14] ◆The joy which comes from “living with God”.  ・What is it like to “be content in whatever situation”?  We thank God when Read more…

(609) “もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。”

 キリスト教の暦では、今週は『イースター(キリストの復活を記念する祭り)』の週なので、それにちなんだお話を少し。  『死』と言えば、誰にとっても「暗く否定的な気持ち」をかもし出す言葉ではないでしょうか?日本人にとっては『4』という数字は「シ」と発音するので『死』を連想させるため敬遠されますよね?実は私がクリスチャンになったきっかけも、この『死』また「キリストの復活」が大きな意味を持っているのです。  私は小学生時代に、何と4回も「身近な人の死」の経験をしました。祖父や担任の先生、そして6年生になったばかりの4月1日には親友をバスの事故で失いました。ですから私にとって『死』とは、遠い将来にやってくるものではなく、突然いつ襲って来るかも分からないリアリティを持っていたのです。この『死』というものは、善人にも悪人にも必ずやってくる「どうしても避けられないもの」であることが本当に恐ろしく、また憎らしい存在でもありました。  ところが、大学1年生の時に、あるクリスチャンの同級生から「歴史上唯一、この『死』を打ち破りよみがえられた方がいる」と聞いて、一体誰なのか、そして何故そんなことが起こったのかをどうしても知りたくなりました。そしてそれが『イエス・キリスト』であり、彼が『神の子』として地上で「罪のない人生」を送り、しかも「私たちの罪を身代わりに負って十字架で死なれ、3日目によみがえられた」ということを知ったのです。その上になんと、この唯一『死』を打ち破られてよみがえられたイエス・キリストを「自分自身の罪をも身代わりに負ってくださった方」として受け入れるなら、私も「死の向こう側の希望」を持って生きることができると聞き、その場でこの方を『私の救い主』として受け入れました。もう40年以上も前の事になりますが、今でもこの時のことを鮮明に覚えています。この日から私の人生観は大きく変わり、また変わることのない平安に満たされて生きるようになりました。そして私は大学卒業後教会で働き始め、30年以上「牧師・宣教師」として働いています。  同じことが、あなたの人生にも起こるのです!もしあなたがこの「死を打ち破りよみがえられた『イエス・キリスト』」を、あなたに「死の向こう側の希望を与える『救い主』」として信じるなら、あなたは救われ、死を恐れることなく、決して失われることのない平安を持って生きられるようになるのです!