(170) “この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。”

ある家庭や個人に立て続けに不運が襲ったりした時、それらの人々のことを評して「あの家庭(家系)は呪われているに違いない」などと言う人たちがいます。とても悲しいことですが、実際ある精神科医のグループの研究によると、暴力癖のある人々の90%は自分が以前に誰かの暴力にさいなまれていた経験があるそうです。すなわち「誰かから受けた心の傷が、その人の性質に同様の習性を養ってしまう」ということなのでしょう。ですから親が何らかの中毒症状(アルコール・タバコ・麻薬、その他)を持っていた人たちは、他の人たちよりもずっと同様の中毒症状に陥りやすい危険性を持っていると言えます。 恐ろしいことにある種の宗教活動グループは、このような人間の弱さや傾向性を逆手に取り、「あなたの家系は呪われているからOOをしなければならない」とか、「その呪いを断ち切るためにはOOを購入しなければならない」などと人々を脅して入信させようとしたり資金稼ぎをしたりしているようです。これらは許しがたい行為です。 これらの私たちの弱さに関して、イエスは全く違った見解を示されました。彼は「それらのあなたがたの弱さは、単に神の偉大な力が現されるための機会の1つに過ぎない」とおっしゃったのです。言葉を換えれば「その問題がたとえあなたにとって大きすぎて乗り越えられないとしても、神にとってはあなたのために解決できないほど大きすぎる問題など存在しないのだ」ということです。 使徒パウロは「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は『新しく造られた者』である」と言いました。イエスにとってあなたの『過去』がどのようであったかは問題ではありません。イエスはあなたに『全く新しい未来』を用意して、あなたが彼のところにやって来るのを待っておられるのです。

2015年6月14日 「心に書かれた『御霊のことば』」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「心に書かれた『御霊のことば』」     (14/06/2015) *教会(私たち)が与えられた使命を全うするために必要不可欠なもの = 『聖霊』 ・イエスは言われた。[ヨハネ6:63]  では、「イエスの語られたことばが『霊』であり『いのち』である」とは? ◆『御霊のことば』[Ⅰコリント2:11-13] ・聖霊は、私たちが彼の働きに心を開くなら、イエスのことばを私たちに個人的に取り次ぐ。[ヨハネ14:26] ・この『御霊のことば』は、私たちの心に刻まれ、いのちをもって働きかける。[Ⅱコリント3:3, エレミヤ31:31-34] ◆この『御霊のことば』がどのようにして教会の中で働くのか?[Ⅰコリント12:7, 13, 27] ・「みなの益となるために」 ― 「個人の益」ではなく「互いの益」。すなわち「キリストのからだの益」のため。 ✯私たちの使命は、それぞれの心に書かれた『御霊のことば』をキリストとの親密な関係の中で読み取り、 「御霊が与える愛と自由」を通して大胆に表現して行くこと。   Outline of the sermon  “‘Spirit-taught words’ written in our hearts.”  (14/06/2015) *What is essential for us(church) to fulfill our mission? = “The Holy Spirit”. ・The words spoken by Jesus Read more…

(169) “あなたがたは世のものではなく、かえってわたし(イエス・キリスト)が世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。”

クリスチャンになったばかりのある方はこんな風におっしゃることがあるかもしれません。「せっかくキリスト教を信じたのに、少しも問題がなくならない。こんなことならば信じなければよかった」と。 聖書は私たちに「主イエスを信じたならば問題はなくなる」とは約束していません。いや、かえって問題は増えることが多いのです。何故なら私たちが聖書の原則に生きようとする時、それはしばしばこの世の流れに逆らうことを意味するからです。 『この世の流れ』は私たちに「できるだけ楽をして儲ける」ようにといざないます。しかし聖書は「たとえ自分が損をすることになっても、正義と公正を求めて生きるように」と勧めます。そこにはしばしば衝突が起こり、私たちは「何の疑いも感じずにこの世の流れに流されている人々」とうまく人間関係を保てなくなるのです。 では、イエス・キリストと共に生きることにどんな益があるのでしょうか?それは、そのような試練の真っ只中に「神が共にいてくださる」ということです。この世の流れに流されるというのは、すなわち「おのれを神とする」もしくは「この世を支配している悪魔の権威の下に生きる」ということを意味します。そしてそのような生き方には神は関与なさらないのです。神はご自身を歓迎し、喜んで彼に従って生きようとする者と共に、その人生を歩んでくださるのです。

2015年6月7日 「コイノニア」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ           「コイノニア」        (07/06/2015) ◆コイノニア(交わり) [Ⅰヨハネ1:3] ・ギリシャ語直訳の意味は、「何か共通のものを所有する。分かち合う。」 すなわち『共有する』こと。 では私たちは「だれと」「何を」共有しているのか? ①神との関係において [Ⅰコリント6:19-20] ・私たちは、私たちの『からだ』を神と共有している。この『からだ』をもって「人々に対する神の愛」を表現する。 ②クリスチャン同士の関係において [ローマ12:5] ・私たちは、「キリストのからだ」を共有している。[Ⅰコリント12:15-16, 26]  「互いのための『自分』」。 ・初代教会に見られる模範。[使徒2:44-47]  小グループによる「親密な交わり」の必要性。 スモールグループでの分かち合いのために ①『コイノニア』とはどういう意味ですか? 私たちは「誰と」「何を」共有するのですか? ②あなたがもっと神に近づくために「妨げ」となっているものは何ですか? 分かち合ってみましょう。 ③私たちが更に親密な関係に結ばれていくために、どんなことができるでしょう?   Outline of the sermon             “Koinonia.”       (07/06/2015) ◆Koinonia.(Communion) [ⅠJohn1:3] ・Original Greek word means, “a gift jointly contributed”.  Then ‘with who’ and ‘what’ are we sharing? ① With God. Read more…

(168) “夫は自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。”

インドに『タージマハル廟』という大変優れた歴史的建築物があります。これはインドのある王様が、愛する妻のために建てた『お墓』なのですが、その建設にまつわるこんなお話しがあります。 インドの王『シャー・ジャハン』は、その最愛の妻を失った時、彼女への思いを何とか形にして遺しておきたいと思い、彼女のために壮大なお墓を建てようと決意しました。王は妻の遺体をお棺に納め、広大な土地の真ん中に置き、そのお棺を中心にして大工事が始まりました。ところがこの大工事が進むにつれて、王の心は「妻を偲ぶ思い」から徐々に「この大プロジェクトを完成させること」へと夢中になっていきました。そして何年かが過ぎたある日のこと、王はこの工事現場を視察している最中に、1つの木箱につまずいて転んでしまいました。王は怒りに燃えて「誰だ!こんなところに邪魔な木箱を置いた奴は!さっさとどこか邪魔にならないところへどかして来い!」と怒鳴りました。この木箱が『最愛の妻の納められているお棺』だったことに王が気が付いたのは、何ヶ月間も後になってからだった、ということです。 どんな夫婦でも、最初は深く愛し合って結婚したことでしょう。しかし長い結婚生活の間に、それぞれの『大プロジェクト』(それは「子育て」だったり、「仕事」だったり、「マイホームプラン」だったりするかもしれませんが…)に熱中するがあまり、本来の目的 『結婚相手のことを最高に幸せにすること』 を見失ってしまっているかもしれません。 ぜひ今日もう1度あなたの妻または夫にこう尋ねてみてください。「あなたを最高に幸福にするために、私にして欲しいことは何ですか?」

(167) “粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたし(神)の手の中にある。”

やること為すことがうまく運んでいる時は、誰でも「前進している」という手応えを感じることができますが、何をやっても思い通りに行かない時は「全然前に進んでいない!」とガッカリしたり、落ち込んでしまうのが私たちの傾向ですよね?私たちはいつでも『目に見える進歩』に一喜一憂してしまうものです。しかし私たちの向上というものは、必ずしも目に見えている状況から判別できるものとは限りません。 皆さんは『粘土遊び』をしたことがあると思いますが、多くの方はもう1歩進んで『焼き物作り』にも挑戦したことがあることでしょう。どちらも初めにやることは「よく粘土をこねること」なわけですが、その目的は異なります。すなわち『粘土遊び』のために粘土をこねるのは単に「作業を簡単にするために、粘土を柔らかくするため」ですが、『焼き物作り』のために粘土をこねるのは「土の中にある空気を押し出して、後で出来上がった作品がダメになってしまうのを防ぐ」という大変重要な過程なのです。ですからプロの陶器師はことさら長い時間をかけて丹念に粘土をこねます。 聖書のある箇所で、神様は『陶器師』そして私たちはその手の中の『粘土』にたとえられています。神様は私たちを最高傑作へと形造るために、まず丹念に時間をかけて私たちを練ります。この間粘土の見た目は何も進歩がありません。もし粘土に感情があったなら「おいおい、痛いばかりで何も進歩がないじゃないか!」と思わず文句を言いたくなるかもしれません。しかしここで重要なのは『見た目の変化』ではなく『作品に対する陶器師の意気込み』です。私たち人間は生来「できるだけ楽をして成功したい」と考えますが、陶器師である神は『最高傑作を造ること』しか考えていません。逆境に立たされた時、私たちは「環境によって簡単に変化させられてしまう『自分の気持ち』」ではなく、「私たちを最高傑作へと形造ろうとしておられる『神様の愛と情熱』」に信頼して、その逆境の向こう側にあるはずの『完成へのプロセス』を遥かに望み見ながら喜ぶことができるのです。

2015年5月24日 「ローマ人への手紙 12章」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「ローマ人への手紙 12章」     (24/05/2015) *11章までは、私たちの救いのために神がどれほどの憐れみを示されたのかが述べられている。 「そういうわけですから…」 (ギリシャ語原文では『お願いします』という語が文頭にある) ◆[1~2節] ・私たちの『からだ』をささげる。 ― 『思い』だけではなく、「日常の生き方・人生そのものをささげる」ということ。 ・『神のみこころ』を知るために「自分を変える」 = 人生の目的は『自己実現』ではない! ◆[3~8節]  *人生の目的は、「神との関係の中で、互いの益のために自分を用いていくこと」。 ・私たちは、「互いにそれぞれのための器官」であり、「共にキリストのからだを建て上げるため」に存在する。 ◆具体的な愛の行為 [9~21節] ・[9節]悪を生理的に嫌う。  ・[10節]競って尊敬し合う。  ・[12節]試練の中で祈りによって支え合う。 ・[13節]自分の必要を訴える『謙遜さ』と、それに応える『積極性』。 ・[15節]「自分がどう感じるか?」ではなく… ・[18節]相手の出方がどうであろうと、自分の側ではあらゆる努力を払う。 ・[19~21節]「この世の常識や自分の性質」に逆らってでも、みことばに従うのが、真の信仰。   Outline of the sermon        “Romans chapter 12.”     (24/05/2015) *“Therefore” : Paul has been describing how much God showed His amazing mercy to save us. ◆[Verses 1-2] ・Offer Read more…

(166) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”

私の大学時代の専攻は『教育学部の国語科』でした。ですから、日本語のいわゆる文法構造とか文章の読解などが専門だったわけですが、文学作品や論説文などを読み解くのに大変役に立ったスキルの1つは「作者の視点に立つ」ということでした。その作品の著者が「読者に一体何を伝えたかったのか」を考えながら、ひたすら筆者の思いを追求していく時、徐々にその作品の深みを味わえるようになっていくのです。 「聖書の内容はどうも分かりにくい」という声をしばしば耳にします。実はその理由の多くは、聖書を『単なる書物・学術書』と考えていることが原因です。聖書は、この全宇宙を造り、そして私たち人類をお造りになった『創造主である神』が、私たち人間の益のために与えた書物です。いうなれば、その著者は『神ご自身』なのです(もちろん、それらを実際に文字として書き表すためには、人間を用いたわけですが…)。従って、その内容を正しく理解し、私たちの人生に有益なものとして生かしていくためには「著者である神の視点」「神の私たちに対する深い思い」を心に留めることが必要です。しかし一体そんなことがどうしたら可能になるのでしょう? 神は「ご自身に信頼し従う者に『聖霊』を注がれる」と聖書に書いてあります。そしてまたこの『聖霊』という方に関して、別の箇所では『キリストの心』であると表現されています。すなわち、聖書の著者である神は、神に信頼しその心を己れの心として生きようとする者が、聖書の内容をおのずと理解できるようにしてくださっている、ということができるでしょう。別の言い方をするならば、聖書を理解する度合いは、読者の学歴の高さや読書量の豊富さに比例するのではなく、むしろ「自分の足りなさを自覚し、神に頼りつつ人生を正しく生き抜こうとするへりくだった信仰」の度合いによるのです。

2015年5月17日 「神を介した人間関係」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「神を介した人間関係」     (17/05/2015) ◆[マタイ18:23-30]  何故こんなことが起こるのか? ①自分がどれほど赦されたかを把握していない。  ②主人の前から「出て行って」しまったから。 ・私たちは忘れやすい。 ― 毎朝思い起こすことが必要。[詩篇103:1-5, 8-13] ◆「さばかない・つまずかない」 ・これら2つの『根』は同じ。(自分の中にある「あの人はこうあるべき」というイメージとズレた時に起こる。) 「さばき」:自分を『神』の立場に置く   「つまずき」:自分を『被害者』の立場に置く ・私たちは「うわべ」でさばく。[ヨハネ7:23-24]  ・誰も得をしない。喜ぶのは悪魔だけ。 ◆聖書的解決法 [マタイ18:12-17] ・要するに、常に「主イエスを人間関係の現場に迎える」ということ。[ローマ14:4] ①人はそれぞれ違う[ローマ12:4-5]    ②かしらはキリストである[エペソ4:16] ・まず自分の内におられるキリストをじっと見つめ、次に相手の内にも同じ方を捜す。[ローマ14:15,15:5-7]   Outline of the sermon     “To build relationship in Christ.”   (17/05/2015) ◆[Matthew18:23-30]  Why does it happen? ①We don’t understand how much we have been forgiven.  ②We often leave Read more…

(165) “神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。”

「聖書の教えの中で最も大切なものは何ですか?」もしかしたら多くの方々がそんな疑問を持っておられるかもしれませんね。いろいろな答え方ができると思いますが、私ならきっと次のように答えるでしょう。「イエス・キリストを信じ、互いに愛し合うことです」と。 「キリスト教は『愛すること』を強調する」と多くの方々が理解しているようですが、実はそれだけでは的を得ていません。何故なら聖書が説く『愛』は「ヒューマニズムの愛」ではなく「神から来る『無償の愛』」だからです。この愛は「にもかかわらず」の愛であり、いつまでも続く「尽きることのない」愛です。すなわちこの愛は、人から出て来るのではなく、私たちの内に住まわれる『キリスト』がご自身の愛を私たちを通して表現されるものなのです。 聖書は、キリストの十字架上での死を「自分の罪のための身代わりの死」として受け入れた者の内には、キリストご自身が『神の霊』として住まわれる、と教えています。そして『神の愛』はその神の霊を通してまずその人の心に注ぎ込まれ、またその人を通してその周囲の人々へとあふれ出て行くのです。ですから「キリストの十字架を通して現された神の愛をまだ受け取っていない人」は、真の意味で『愛すること』ができないのです。 あなたは『愛する人』になりたいですか? 神からの『無償の愛』を受け取りたいですか? もしあなたが本気で求めるなら、それはあなたの手の届くところにあるのです。