(310) “先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。”

「死ぬ時には前のめりに死にたい」と言ったのは確か『坂本竜馬』だったと思いますが、私たちも「失敗する時は前のめりに失敗したい」ものですよね。どんな人でも失敗は経験するものです。「私は失敗を経験したことはない!」と豪語する人は、恐らく今までに何も挑戦したことのない人ではないでしょうか? 日本でも古くから「失敗は成功の元」と言われています。人は失敗してしまったからといって『失敗者』になるわけではありません。けれどももし「失敗するのはいやだから、もう新しいことに挑戦するのは止めよう」というような消極的な姿勢で人生を生きていたら、それこそ『失敗者』になりかねません。大切なのは、失敗するたびにそこから何かを学び取り、次の挑戦に生かすことです。そして何度失敗を繰り返そうと、何度でも起き上がって新たな挑戦に向かって行くことです。 聖書には様々な人物が登場しますが、それぞれいろいろな形で『失敗』を経験しています。アブラハムは子供欲しさに奥さんの女奴隷に手をつけますし、ダビデ王は忠実な家臣の妻と不倫を犯し、その事実をもみ消すためにその家臣を死に追いやりました。預言者ヨナは「ニネベの町へ行って語れ」との神の命令を避けて別の国に逃げようとし、使徒ペテロはイエス・キリストに対し「あなたと共に死ぬことになろうとも、最後まであなたについて行きます」と豪語しながら、いざとなったら「イエスなんて知らない!」と自分の主を否みました。 では何故聖書はこのように情けない失敗を犯した人々の記録を載せているのでしょうか?それは「神は失敗した人々を決して見放したりはしない」ということを私たちに教えるためです。むしろ神はこれらの失敗を経験した人々を何度でも立ち上がらせ、やがてはご自身の輝かしいみわざのためにお用いになったのです。私たちの神は『逆転の神』なのです! 聖書の神は、ある人々が考えているような「人間の粗捜しをしてバチを与える存在」ではありません。むしろ恵みと憐れみとに満ち、私たちの失敗を何度でも赦して立ち上がらせ、ご自身の栄光のために用いられる器として日々造り変えてくださる『決してあきらめない神』なのです。

(309) “私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方”

聖書には『天地創造の神』について書かれてありますが、「創造主なる神を信じて生きる」ということは一体どういうことなのでしょう?ただ単に「神は実在すると信じている」ということとどう違うのでしょう? 私たちは『神』というと、何となく漠然と「大きな力ある存在」というイメージを抱きます。そしてそれが「恐れの対象」になったり「お願い事の対象」になったりするわけですが、あまり『個人的な関わり』を持って生きるなどということは考えません。しかしもしこの神が『創造主』であるならば、この方抜きで人生を生きることは「とてつもなく大きな損失である」ということがお分かりでしょうか? 私たち人間でさえ、何かを作る時にはそれなりにアイディアを巡らせます。意味もなく無駄になることのために時間や労を費やすことは虚しいからです。ましてや神が何かをお造りになるなら、そこには必ず「崇高で綿密な計画」があるに違いありません。そして神は人間とは違って『失敗作』を造ることもありません。ですから「創造主なる神を信じて生きる」ということは「神は私の人生に『崇高で綿密な計画』を持っておられる」と信じて、それを追求しながら生きることに他なりません。「神が自分のために備えておられる偉大な人生」を模索して生きることは、単に「神にお願い事をしてかなえてもらう人生」にはるかに優っているのです! 私は20歳の時にイエス・キリストを通して「神との個人的な関わりを持って生きる人生」へと導かれました。それまでもそれなりに恵まれた人生(家庭的にも、学生としても、友人関係においても)を送っていましたが、それ以降今に至るまでの人生は、私が学生時代に思い描いていたような「そこそこ成功を収めた人生」とはまるで違っています。分かりやすく言うならば「自分の人生がこんなにも喜びと満足と驚きに満ちたものとなるとは思ってもみなかった」という人生を送らせていただいているのです。 恐らく多くの人々は「自分は何故生まれてきたのだろうか?」「自分はどこから来てどこへ行くのだろうか?」というような疑問を1度は感じたことがあると思います。私はそのような方々に「『創造主なる神』を信じて生きることは、こんなに素晴らしいのだ!」ということを、ぜひとも体験していただきたいのです。『創造主なる神』に出会うことに「遅すぎる」ことは決してありません。私は99歳になってこの神と出会って人生を大きく変えられて、喜びをもって104歳で天国へと凱旋していった方を知っています。今この文章をお読みのアナタも、ぜひ「神との個人的な関わりを持って生きる人生」を求めて祈り始めてみませんか?

(308) “なまけ者よ。アリのところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。”

イソップ物語「アリとキリギリス」は良く知られていますが、実際的にアリたちがどれほど勤勉であり驚くべき能力を発揮しているかを知っている人は、それほど多くはないのではないでしょうか? 「女王アリ」の存在を知っている方は多いと思いますが、アリたちの労働を仕切っているのは『女王』ではなく「年上のアリたち」です。年下のアリたちはこの熟練したリーダーたちの行動に倣って文句を言わず黙々と従います。そして彼らはしばしば自分よりもはるかに大きな「パンくず」などを背負って、坂道を何メートルも登っていきます。仮に坂の途中でその『荷物』を落としてしまい、それがコロコロと坂の1番下まで転がって行ったとしても、彼らはもう1度下まで降りて行って、またその『荷物』をかついで上がって行くのです。アリたちが運んでいる『荷物』の重さと距離は、人間の標準の体に換算すると「10トンもの重さを背負って30キロの道のりを運んで行く」のに匹敵するそうです。これは何も「アリたちはスーパーマンのように楽々とこのような仕事をこなせる」というのではなく、むしろ彼らが「常に自分のベストを尽くして1つ1つの労働に誠心誠意取り組んでいる」ということを表しているのです。 最近の世代には『重労働』を避ける傾向があります。もちろん「過労死」に見られるような『働き過ぎ』も問題ですが、「面倒くさ~い」「え~、そんなのムリ~」などと言って、正面からぶつかるべき課題にチャレンジすることを避けてしまうことは、必ず彼らの人生にとって将来の大きな損失につながります。そしてそのような性質は決して一朝一夕に養われたものではなく、親が自分の子供たちに楽をさせすぎてしまったことから来ているのです。「自分が忙しくて一緒にいてあげられない分、お金や物を与えて愛情を表現しよう」などという誤った考えで子供を育てた結果(しわ寄せ?)なのです。 ぜひ子供たちに幼い頃から「労働の喜び」を体験させてあげましょう。家族の一員として家事などを分担するのも良いし、お小遣いを『報酬制』にするのも悪くありません。彼らの将来、ひいては未来の社会のために「アリに見習うこと」をお勧めします。

(307) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。”

私たちが何らかの役割や仕事を担うとき、ついその『仕事内容そのもの』に気を取られて、「これはつまらない」とか「自分には向いていない」「もっとちゃんとした仕事が欲しい」などと文句を言ってしまうことがあります。でも実は、重要なのは「どんな働きを任されているか」ではなく「どんな姿勢でその役割に取り組むか」なのです。人に対して下される『正しい評価』というものは、多くの場合「どのような内容の仕事をしているか」によるのではなく「どのような働きぶりで仕事をしているか」によって測られます。 20世紀のキリスト教界において最も用いられた伝道者の1人に『ジョシュ・マクドウェル』という方がいます。彼は何カ国にも渡って学生伝道を繰り広げた人物であり、また100冊以上もの優れた著書を残しています(まだご存命です)。ところが、彼はその「キリスト教指導者」として初めから華々しい活躍をしていたかというと、決してそうではありませんでした。彼の「キャンパス・クルセード・フォー・クライスト」という団体における最初の役割は『玄関掃除』でした。彼は「オレはこんな仕事のためにこの団体に来たのではない!」と言うこともできたでしょうが、そうしませんでした。彼は毎日「学生たちの汚い運動靴からこぼれ落ちる泥」をただ黙々と掃除し続けました。やがてその「小さなことに忠実な働きぶり」がスタッフたちの目に留まり、少しずつ責任のある働きを任されていったのです。 マザーテレサの遺した有名な言葉の1つに「どれだけのことを成し遂げたかは重要ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」というものがあります。神様が私たちの日々の歩みを見つめておられるのは、きっと「私たちの悪い行いを見張るため」というよりは、むしろ「私たちがいつも神ご自身を微笑ませることを求めながら1つ1つの役割に取り組んでいるかどうか」ということに違いありません。

(306) “あなたは私のために食事を整えてくださいます。”

聖書全体を通して強調されていることの1つは「神は私たち1人1人をそれぞれユニークな存在として創造され、しかも1人1人にそれぞれ違った『目的や使命』を与えておられる」ということです。それはまさに、私たち1人1人の『指紋』がそれぞれ固有のものであるのと同様です。それ故、創造主なる神は、私たち1人1人との『個人的で特別な関わり』を切に求めているのです。 聖書の中でも有名な箇所の1つに、イスラエルの王ダビデが綴った「主は私の羊飼い…」で始まる『詩篇23篇』があります。この詩篇を読むとダビデ王がいかに神様との深く個人的な関わりを保ちながら生きていたかを伺うことができます。その中に「神は私のために食事を整えてくださる」という1節が出てきます。これは一体どういうことなのでしょう? ちょっとショッピングモールのフードコートで食事をする時のことを思い浮かべてみてください。自分の好きなお店で食べたい物を注文すると、注文した品が出来上がるまで、片手で持てるほどの大きさの「札のようなもの」を持たされます。やがて注文の品が出来上がると、その「札のようなもの」が音を出すか、または光を発して「あなたのための食事が用意されました!」と知らせてくれるのです。待っている間「本当に彼らは私のための食事を準備してくれているだろうか?」などと不安になる人は誰もいないと思います。皆「自分の食事はやがて必ず与えられる」と確信しているのです。 神様のあなたに対する備えもこれに似ています。もしあなたが「神のことば」である『聖書』を通して神様のことを深く知り、またイエス・キリストを通して神との「個人的な関わり」を保ちながら日々を過ごしているなら、神様はベストタイミングであなたの心に光を照らし、あなたのために特別に用意された最高の道へと導いてくださるのです。「神と共に生きる」とは、決して『不自由』なものではなく、とてもワクワクした、心躍らされる経験なのです。

(305) “わたし(キリスト)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。”

イエス・キリストはある日、語られたたとえ話の中で『聖書(神のことば)』は「人々の心に蒔かれた種のようなもの」であるとおっしゃいました。ご存知のように種の中には『いのち』があります。ただし『いのち』というものはそれに適した環境に置かれないと、弱ったり死んだりしてしまいます。 『聖書』は単なる「人生教本」ではありません。『聖書』は私たちの中に「神への信仰」を生み出し、「もっと成長したい」という意欲をもたらし、「不可能に見えることに挑戦させる勇気」を与え、「傷ついた心」を癒し、「聖く正しい心」を形造り、「状況を一変させる」力を持ち、「喜び」に溢れさせ、「逆境」を乗り越えさせ、「誘惑に打ち勝つ力」を与え、人生の暗やみの中に「希望の光」を灯し、一見何もないような場所に「新たな道と限りない可能性」を見い出させてくれるのです。 『聖書』は、私たちの人生にとって「ちょっとは足しになるもの」ではなく、「無くてはならないいのちの素」なのです。それはしばしば『霊的食物』にたとえられています。「乳飲み子にとっての乳」「すべての人々にとってのいのちのパン」「成長した者にとっての『堅い食物』」「疲れた者にとっての蜂蜜」などなど。神様からせっかく与えられているこのような「人生にとって不可欠な栄養」を取り入れること無しに生きることは、まさに『宝の持ち腐れ』なのです。

(304) “私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。”

キリスト教における最も特徴的な概念(価値観)と呼べるものは『恵み』です。この世のいわゆる「宗教」はどれも、神からの救いや祝福を受けるために、必ず何かしらの要求をします。「入会金」「修行」「何らかの善行」などなど。それらの『宗教』は私たちを人間的に高めてくれるかもしれませんが、所詮人間が作り出した「自分を磨く手立て」に過ぎません。 聖書が私たちに教えてくれる「神の救いや祝福を受け取る道」は『神からの一方的な恵み』です。上記の聖書のことばは、イエス・キリストの1番弟子とも言えるペテロが聖書の中に遺した最後のことばです。では「恵みと知識において成長する」とはどういうことでしょう?それは「キリストの教えに関する知識を増す」ということではなく、「キリストご自身を更に深く知り味わう」ということです。 神は、私たちの神に対する不信仰や不遜な態度(神を神と認めず、己れの人生を己れの好き勝手に使おうとする姿勢)に対する罰を、私たち自身に負わせる代わりに、神に対して全く従順に歩まれたキリストに負わせ、十字架におかけになりました。キリストは十字架の上で息を引き取られる前に「完了した」という言葉を遺されました。これは「すべての人の罪のために支払われるべき代償は完済された」という意味です。もはや私たちが神に対して支払うべき負債は残ってはいません。私たちが神から祝福をいただくために『代償』としてささげるべきものは既にイエス・キリストがその恵みの故にすべて支払ってくださったのです。 アメリカの著名なクリスチャン作家であるフィリップ・ヤンシーは、この『キリストによる恵み』の概念を「もはや私たちがどれほど良いことをしても、私たちに対する神の愛を増やすことができないほど、神は私たちを愛しておられる。また私たちがどんな失敗を犯したとしても、神の私たちに対する愛を微塵も減らすことはできない」と表現しました。この『恵み』を日々深く味わいながら生きる時、私たちはまさに「恵みにおいて成長していく」のです。

(303) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。”

新しい電化製品を買うと『取扱説明書』が付いてきます。私たちは「取り合えず自分たちの必要を満たせれば良い」と思うので、必要最低限の説明部分だけを読んで、後は機械の調子が悪くなった時に原因を探る時まで、大抵この『取扱説明書』なるものは放って置かれがちですよね? 実際はほとんどの電化製品は、私たちが考えているよりもはるかに多くの機能を持っており、私たちの生活により多くの益をもたらすことができるのですが、私たちがこの『取扱説明書』を十分に読むこなすことを怠ってしまうために、いわゆる「宝の持ち腐れ」になってしまうのです。 神様が私たち人間をこの地上に送り出された時、やはり『取扱説明書』を添えてくださいました。それが『聖書』です。聖書は何やら難しい「説教の書物」ではなく、言わば私たちにとって「人生の取扱説明書」なのです。ご自身の知恵と愛情を込めて私たちを造ってくださった神様は、私たちがそれぞれの人生を「自分の持ち味を最大限に生かして花を咲かせること」ができるようにと、この『聖書』というコーチングを与えてくださっているのです。それを「人生の調子が悪くなった時に、ちょっとだけ開く」のではあまりにもったいないとは思いませんか? アナタはアナタが思っているよりもずっと優れた、価値ある存在です。もっとエキサイティングで喜びと感動にあふれた人生を送るための『潜在能力』が、アナタの中でまだ眠ったままなのです。それらを掘り起こして「神が用意しておられるビッグ・プロジェクト」に取り組むために、更に深く聖書を読んでみてはいかがでしょう?

(302) “互いの重荷を負い合いなさい。”

『三無主義』(無責任・無関心・無感動)という言葉が取り沙汰されるようになって久しいですが、どうやらこれは日本だけのことではなく、世界的な傾向になっているようです。本当に悲しいことですね。 世の中が便利になればなるほど、私たちは「もっと迅速に、もっと多くを」追求するようになり、自分の日常に益をもたらさないことに関しては、つい「それは私の責任範疇ではないから」とか「そんなことに関わり合っている暇はない」などと言って、助けを与えることを拒否してしまいがちです。 神様は元々人間を「1人では生きられないように」お造りになられました。私たちは皆「互いに助け合う」ように造られているのです。そんな私たちが「互いに助け合うこと」を忘れてしまったら、ドンドン『人間らしさ』を失って行ってしまうに違いありません。では、どんなことから始めたら良いのでしょうか? 「互いに助け合う」ために、何もいきなり『ボランティア活動』に登録する必要はありません。まず自分の周囲に関心を持つことから始めましょう。「助けが欲しいなら、そう言ってくれればいいのに…」という人がいるかもしれませんが、本当に深刻な必要に迫られている人ほど、それを他の誰かに打ち明けるのには大変な勇気がいるものです。「周りを見ても皆忙しそうにしている。自分なんかのために時間を割いてもらっては申し訳ない。自分のことは自分で何とかしなければ…」と自分に言い聞かせながら、ドンドン悪い状況へと陥って、しまいには手遅れになってしまうのです。だからこそ私たちの側でまず周囲を見回す機会を持ち、こちらから声を掛けてあげるべきなのです。 助けを必要としている人を見つけたら、その人にしっかりと『アイコンタクト』を取りながら、辛抱強く相手の話を聴いてあげましょう。大抵の人は「この人は自分に関心を持ってくれている。親身に聞こうとしてくれている」と感じただけで、グッと心が軽くなるものです。たとえ相手が必要としていることがアナタの手に負えないことだったとしても「重荷を共有してもらえた」という安心感が相手に希望を与えます。そしてその人の「真の緊急の必要」のために、一緒に助けを探してあげることができたなら(多くの場合、問題のただ中にいる人たちは、客観的に自分の状況を見ることができず、正しい判断を下すことができません)、神様はそんな私たちの姿をご覧になって微笑まれるのです。

(301) “何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”

今日は「幸福な結婚生活の秘訣」を2つご紹介します。  ①決して公の場で自分の配偶者をけなさない。 ・夫婦間のいさかいを戒める言葉に「自分の夫(または妻)の趣味をとやかく言う前に、彼(または彼女)が自分を結婚相手として選んだのだということを忘れるな」というものがあります。どんな人にも「好み」「傾向性」「葛藤」「弱さ」「憧れ」「苦い経験」「口に出せない思い」「切なる願い」などがあります。すべての人の内側に「誰かに心から信頼してすべてを打ち明けることができたら…」という変わることのない深いうめきがあるのです。神様は私たちのそんな切なる思いをご存知で、この移ろいやすい世の中においても「安心してすべてを打ち明け合える関係」として私たちに『夫婦関係』というものをお与えになったのです。もしあなたの夫(または妻)があなたにそのような信頼を持てなくなってしまったら、彼(彼女)は一体どうすればよいのでしょう?  ②常に共通の夢や目標を抱く。 ・統計では、近年多くの夫婦が離婚してしまうのは「結婚17~25年目」が最も多いという結果が出ています。すなわち「子供たちが自立した後が危機だ」というわけです。結婚生活の日々を「夫婦お互いのこと」ではなく「自分たちの子供のこと」ばかりに終始してしまっていると、やがて子供たちが手を離れた時、夫婦2人きりでは時間をどう過ごして良いか分からなくなってしまうのです。だからこそ「夫婦2人で目指すことのできる『共通の夢や目標』」が大切なのです。 もしあなたがた夫婦がお互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合っているとしたら、それは危険信号ですよ。あなたたちは「子供の親」である前に「互いの人生ための最愛・最良のパートナー」なのです。神はあなたがた2人が共にこの世界を向上させるために、互いに出会わせてくださったのです!