(104) “あなたの名は何というのか?”

もうすぐクリスマス。クリスマスと言えば「プレゼント(?)」私たち日本人は誰かに何かを差し上げるとき、よく「つまらない物ですが…」と言いながら渡す習慣がありますが、謙遜な表現にしてもちょっと変だとは思いませんか? 物ならばまだいいのですが、これが『自己紹介』だとしたらどうでしょう?「あなたはどなたですか?」と尋ねられて「いえ、つまらない者ですよ…」などというのは謙遜でも何でもなく、単なる大きな誤りです。 「自分で自分のことをどんな人間だと思っているか?」ということは、ある意味「現在の自分の実際の姿」以上に重要と言えるかもしれません。ビジネスマンは初対面の人に名刺を渡すのが常ですが、私たちは「名刺に書かれている自分」以上の存在です。名刺に書かれているのは単にその人の職業や地位だけであり、実際のその人は父親や母親であったり、妻や夫であったり、弟や妹またはたったひとりの息子・娘であるかもしれません。 聖書に『ヤコブ』という人が出てきます。その名前の意味は「だます者」という意味でした。しかし神は彼に新たな名前を与えました。それは『イスラエル(神の王子)』という意味です。それ以来彼は以前の名を捨てて、自らを「神の王子」と呼んだのです。 聖書の中で神は私たちにこう語りかけます。「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」と。言わば私たちも『神の王子であり、王女』なのです。 フランス革命の時に、国王であったルイ16世と王妃マリー・アントワネットがギロチン死刑になったことは有名ですが、その息子に関してはこんな逸話が残っています。革命家たちは年端もいかない王子を殺すにはしのびなく、かといって将来親の敵討ちをたくまれても困るということで、街のならず者の一味に預けたそうです。このならず者たちは彼らの習慣に従ってこの少年を盗みや暴力などの様々な悪行のためにしつけようとしましたが、そのたびにこの少年は「ボクは王の子供なのだから、そんなことはできません!」と拒んだそうです。 どうぞ次のことを忘れないでください。私たちも、この天地をお造りになられた『王の王』の子供たちなのです。誰一人「つまらない、不必要な人間」などいません。もちろん、傲慢な態度をとる必要はありませんが、「自分は高価で尊い存在である。くだらないことに身を染めるべきものではない。世界は私を必要としている!」 神様はアナタがそのような自覚を持って生きることを今日も期待しておられるのです。

(103) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神が、あなたがたのことを心配してくださるからです。”

1つのなぞなぞを出します。「それをしても少しも得をしないどころか、損をする一方なのに、ついつい時間や力をたっぷり費やしてしまうもの、なぁんだ???」 何だか分かりますか?その答えは『思い煩い』です。 私たちは、いくら考えてもどうしようもないことを、ついつい思い煩ってしまいます。「受験に失敗したらどうしよう?」「このまま結婚できなかったらどうしよう?」「会社をクビになったらどうしよう?」などなど。どれも悩んだからといって事態が好転するものではなく、また実際に起こったからといって、命を失うような大事でもありません。では私たちはどうしてこのような『思い煩い』に捕まってしまうのでしょうか? 次の3つの理由が考えられます。 ①私たちは『現在』にしか生きられないから ・『思い煩い』はみな、「過去」または「未来」に関することです。「あんなことをしなければ良かった…」とか、「こんなことが起こったらどうしよう…」などなど。私たちにはどうしようもないことがらなので、ただ思い悩むことしかできないのです。 ②自分が『人生の主人公』だと思っているから ・人間は基本的に『自己中心的』であり、「自分の人生がどうなってしまうのか」が最重要事項になっています。ですから、たとえ家族や友人が幸運に恵まれていても、かえって自分の状況が心配になってしまうのです。 ③『出来事』に興味が集中しているから ・「人間は環境の動物」などと言われる通り、私たちは自分の内面を整えることより、外側の環境(外見・経済状態・持ち物など)を整えることにほとんどの時間と労力を費やしているので、それらを思い通りにできない時、対処する知恵がありません。 聖書は私たちに「思い煩うな!」と告げています。ということは、私たちが「思い煩わないでいること」が神のみこころなのです。言葉を変えて言うならば『思い煩い』とは、神を信じない(不信仰の)姿勢から発生する弊害です。神はこの全世界を創造され、今日もそれらすべてを支配しておられます。また彼は時間や空間に縛られてはいません。今ここで私たちと共におられると同時に、100年前や100年後にも存在することのできる方なのです。この神が「私こそアナタの人生の主役だ」とおっしゃるのです。私たちの人生は「私たちがどれほどの人間か」を顕示するためではなく、「私たちの神はどれほどのお方か」を表現するためのものなのです。そして聖書は「人はうわべを見るが、神は心を見る」と宣言します。出来事が問題なのではなく、その背後にある『人々の心』こそ重要なのです。敬虔な神のしもべとして有名なマザー・テレサは言いました。「『どれだけのことをしたか』は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」 この聖書の神をあなたの神として、このお方に全面的な信頼を置いて生きるとき、初めて人間は『思い煩い』から解放されるのです。

(102) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”

超大型台風がフィリピンを襲い、多くの尊いいのちが奪われました。本当に心が痛みます。私たちが住むこのクライストチャーチでも多くのフィリピンからの移民の方々が暮らしており、家族の消息を案じています。私たちもできる限りの支援を行っています。 私たちの人生にもしばしば『台風の襲来』のような出来事があります。残念ながら「生涯に1度も試練がなかった」という人には会ったことがありません。ある意味「試練に直面する」という経験は、「生きているからこそ」と言えるのかもしれません。ですから大切なことは「いかにして試練を避けて通るか」ではなく、「どのように人生の嵐に備えるか」ということになります。 ある人々の人生、またクリスチャンとしての信仰生活は『自分の気分」に基づいているかのようです。気分の良い日は「何もかもうまくいく」ような気がしたり、「神様は私を愛しておられる」と感じたり。しかし毎日雨ばかり続いたり、何となく気分の乗らない日は、心がふさいでしまったり、「神様なんていやしない!」などと思ってしまう。 イエス・キリストはある時たとえ話を用いて次のように話されました。「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れません。ところが、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、ひどい倒れ方をしてしまいます。」 神が与えてくださる人生は、「毎日お天気の楽々人生」ではなく、「台風が押し寄せても倒されることのない、確固たる確信に基づく人生」です。そしてそのような人生は「ただ神様について知っている」ことから来るのではなく、「神のことばを聞いて、それに従って生きる」ことから来るのです。

(101) “思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

有名な作家であり評論家であるジョージ・バーナード・ショーの遺した言葉に次のようなものがあります。「人々はしばしば自分の置かれている環境に文句を言うが、私は環境などに支配されはしない。人生の成功者たちは皆、逆境の中で奮起し、そこに新たな環境を造り出す人なのだから。」 あなたがもし農場で働くとしたら、重要なのは「どのような土地であるか」以上に、「何の種を蒔くか」に違いありません。どんなに立派な土地でも、誤った種を蒔くならば、望んだ収穫は得られないのです。ましてやあなたの人生のフィールドにどんな種を蒔くかは、あなたの志し次第です。「不安や恐れの種」、「不純な志や自己中心の種」を蒔くなら、必ずその結果を刈り取ります。しかし、「平安や喜びの種」、「愛と思いやりに満ちた優しさの種」を蒔くなら、やはりそれに見合った収穫を刈り取るのです。 祝福された人生のカギは、何か特別な場所やイベントの中にころがっているのではありません。むしろあなたの平凡な日常生活の中に隠されているのです。祈り深く聖書を読み、その日に出会う1人1人に仕える心を保ちながら生きるとき、あなたはそれらのカギを見出すことができます。ある時はそれは「落ち込んでいる人を励ますこと」かもしれないし、またある時は「一見自分には大きすぎるような課題に挑戦すること」かもしれません。お返しできないような人に敢えて施すとき、神はあなたのその手のわざを見ておられます。そしてそれは神が私たちのために用意しておられる『祝福の大倉庫』のカギを開くのです。

(100) “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”

皆さんは『愛』という言葉を聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?恐らく多くの方々は「男女間の愛」を思い浮かべるのではないでしょうか?または「親子の愛」「人間愛」、そしてまた「愛は地球を救う」などの標語まで思い浮かべる方もいるかもしれませんね。どちらにしてもそこに共通している概念は「何か崇高で温かいもの」ではないかと思います。 もしかするとある方々は「私はそんな立派な人間ではないから・・・」とか、「愛とか恋とか、そんな乙女チックなことばかり求めていたら食っていけない」などと言って『愛すること』を敬遠しようとしておられるかもしれません。しかし実際は『愛する』ということは、「夢を追うようなこと」でも「非日常的なもの」でもありません。もし『愛する』ということをもっと分かりやすい日常的な言葉に言い換えるとすれば、それは「相手のためにちょっとだけ損をすること」なのです。 現代の私たちの生活は、100年前に比べれば格段に『便利』になりました。ところが「便利になったのならさぞかし暮らしにゆとりができたはずでは?」と問うてみるなら、決してそうではないことは歴然です。『便利さ』は更なる能率性を追求させ、現代人の生活は忙しさに追われ、「自分のことで精一杯」の人間を生み出し続けています。ご存知でしたか?『忙しい』の『忙』の文字は「心が亡びる」ということを意味しているのです。 神は私たちを「互いに愛し合う」ようにデザインなさいました。自分のことばかりにかまけていると「心が亡びる」ようにお造りになられたのです。実際、道端で助けを求めている人にちょっとだけ手を貸すのに、5分もかかりません。けれどもそのたった5分を他の人のために用いるだけで、私たちの心は息を吹き返すのです。 私たちは今日までどれほどの「心を亡びから免れさせるチャンス」を逸して来たことでしょう。でもガッカリしなくても大丈夫。今日から始めれば良いのです。神様はいつでも「愛する機会」をくださっています。もし私たちが『目を覚まして』歩んでいるのなら・・・。そしてイエス・キリストはこう言われました。「あなたがこれらの人々にしたのは、わたしにしたのです。」

(99) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

私の知り合いの牧師が、「ぜひキリスト教のお話しをしてください」と幼稚園に招かれました。彼は幼い子供たちにも分かりやすく、単純明快に『キリスト教における救い』を伝えようと、子どもたちの前で次のように言いました。「イエス・キリストを救い主と信じるだけで、天国へ行けるんですよ~。」 すると、後ろのほうに座っていた年長の男の子が大声で応えました。「そんなウマい話があるもんか!」 笑い話のように聞こえますが、実際「『救い』というものは、そうやすやすと手に入るものではない。 厳しい修行が必要なはずだ。」というのが、大方の人々の考えのようです。しかしこの考えは2つの点で問題があります。 1つ目は、「どんなに頑張っても、誰もカンペキにはなれない」ということです。これは誰もが認めるところでしょう。立派な人になりたい、と頑張れば頑張るほど、自分がイメージする「立派な人」には到底手が届かないことを思い知らされ、多くの人はうつ病になったり、罪責感にさいなまれたり、悪くすれば自殺に至ったりもします。 2つ目は、誰かが仮によく頑張った末、自分が目指していたゴールにかなり近いレベルまで達することができたとします。そのような人はつい『高慢』に陥ります。そしてそれができない多くの人に対し優越感を感じたり、見下したりするのです。 面白いことに、聖書は「悪魔が私たち人間を神から引き離す常套手段は、『罪責感』と『高慢』である」と教えています。『罪責感』は私たちに「自分はこんなにダメな人間だから、神様が愛してくださるはずはない」と思わせますし、『高慢』は私たちに「お前にはどんなことだってできるのだから、神様なんか必要ない。そんなのは弱い人間だけがすることだ」とささやきます。悪魔にマンマと騙されている人はいませんか? 「信じるだけで救われる」というのは、『ウマい話』に聞こえるかもしれませんが、これは「救いはタダである」という意味ではありません。私たちの側で払う犠牲はありませんが、神様の側では大きな大きな犠牲が払われたのです。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちです。私たちの側で努力をして「救いを勝ち取ろう」とすることは、この『神が払われた犠牲』の価値を認めまいとする行為なのです。救われるために必要なのは、「神様、あなたがそれほどの犠牲まで払って私を救おうとしてくださったことを、心から感謝します」と言う、素直でへりくだった信仰だけなのです。

(98) “キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

我が家(渋沢ファミリー)には2つの『家訓』があります。1つは「Learning Experience」すなわち「『失敗』は悪ではなく、そこから多くを学ぶチャンスである」ということ。もう1つは「昨日の自分より今日の自分」すなわち「自分と他の人とを比べて優越感を感じたり劣等感に落ち込んだりするのは愚かである。それよりも、今日の自分が昨日の自分より何か新しいをことを学んだり、成長することを目指そう」ということです。この家訓のおかげで、我が家の子供たちは実にユニークにのびのびと育ってくれています。 このような『家訓』を思いついたのは、もちろん聖書からヒントを得てのことでもありますが、もともとは私たち夫婦の関係からです。私たち夫婦は『正反対』と言えるほど、考え方や性格が違うのです。 私がまだ学生の頃、何かにつけて几帳面で細かいことにこだわりたくなる性格を見て、私の母はよく言ったものです。「お前みたいに細かいことが気になるタイプは、よっぽど『ズボラ』な奥さんをもらわないとダメだよ。」 これを聞いて私はいつも「オレは絶対そんな嫁さんと一緒には暮らしていけない!」と言い返していました。ところが、私がゾッコン惚れ込んでしまった女性が、(もちろん結婚してから分かったことですが…)何とまさしくその『ズボラ人間』だったのです。 彼女のそのような性格に気付き始めたのは、結婚式の翌朝からでした。前の晩に使った歯磨き粉のチューブが、確かに私はすその方から丁寧に押し出していたはずなのに、何故か中央の部分がギュッと押しつぶされていたのです。その時は「まあ、気のせいか」で済ませたのですが、そのようなことが毎朝毎晩続くので、2~3日後のある日私が新妻に「ねぇ、もしかしてキミは歯磨き粉のチューブを使うとき、真ん中へんを握るの?」と尋ねると、彼女はポカンとして「たぶんそうだと思うけど、他にどんな方法があるの?」と聞き返してきました。私は「イヤ、別に。」と言ってその場をやりすごしましたが、これは1つの例であって、このような食い違いは生活のあらゆる場面で現れ始めたのです。何度かのバトルの後私が下した決断は、「彼女は間違いなく、神様が私に与えてくださった『最高の妻』だ。このような妻がいるおかげでは、自分と違ったタイプの人間を愛し受け入れること、また新たなものの見方を学ぶことができる。」というものでした。 自分と違った考えを持つ人や、ちょっとした間違いや失敗に直面すると、私たちはつい相手や自分を裁いてしまいがちです。でも、はっきり言って世界は「自分と違ったタイプの人々」で満ちており、また「失敗しない人」など1人もいません。そのようなことにいちいちイラついていてはキリがありませんよね。むしろ私たちは、神様が造られた『ユニークな人々』を受け入れ、また神が私たちに対して寛容であられるように、自分や他の人の失敗に寛容に対処できる者でありたいものです。

(98) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。”

こんな質問をする人がいます。「もし神様を信じたなら、人生はすべてうまく行くのでしょうか?」 答えは残念ながら『ノー』です。ただこれだけは言えます。「神を信じても試練は減らない。しかし、もはや1人で立ち向かわなくてもよい。」 神は『問題のない人生』を約束してはいません。しかし『勝利ある人生』は約束しています。神が望んでいるのは、私たちが「幸せになること」ではなく、「神と共に生きるようになること」です。 もし神を知らない人に「あなたにとって、幸福な人生とは?」と尋ねるなら、きっと「すべてに満ち足りて、心配のないこと」などと答えるでしょう。ではそのような人生を生きている人は『神との関係』を求めるでしょうか?いいえ!恐らく「私はすべてにおいて満ち足りている。私には神など必要ない」と言うでしょう。だからこそ神は私たちにこの地上での「すべてにおける成功」を与えないのです。もしそのような人生を歩んでいる人がいるとしたら、もしかしたらその人は『悪魔の術中』にまんまとはまっているのかもしれません。 私たちが切に神を求めるのは、多くの場合「試練のただ中にいる時」です。順風満帆な人生を歩んでいても変わらず心から神を求めて生きる人がいるなら、あるいは問題の無い人生を歩ませてもらえるかもしれません。ところが私たちの多くはしばしば『人生の壁』『乗り越えなければならない山』に遭遇します。そのようなとき「神様、どうぞあなたと一緒にこの困難を乗り越えさせてください」と、私たちが神の許に近づくことを、神はいつも待っておられるのです。

(97) “いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”

結婚25周年を記念して、妻と2人で「バヌアツ共和国ウリピブ島」へ行ってきました。ウリピブ島は1999~2003年に私たちが『宣教師』として家族で暮らしていた島で、電気もガスも水道もない熱帯のさんご礁に囲まれた美しい島です。 日本人としてこの島で暮らすと、いわゆる「無いもの」がたくさんあります。先にあげた「電気・ガス・水道」に加え、ショッピングセンター、自動車(自転車さえありません)、公園、頑丈な家、ごちそう、コンピューターゲーム、食堂、コンビニなどなど、挙げていたらキリがありません。 しかし、ちょっと視点を変えてみれば、ここには日本には無い多くのものが満ちています。豊富な大自然、エメラルド色の海、美味しい空気、子供たちが自由に走り回れる空き地、数々のトロピカルフルーツ(パパイヤ・マンゴー・パイナップル・ココナツ・グアバ・パッションフルーツ…)、そして「人々のあふれる愛」です。 10年前に私たちがこの島で暮らしていたとき、日本から若い人たちが10人ほどやってきて、3~4日島に滞在したことがありました。私たちの小さな家にはとても入りきれなかったので、言葉の不自由さを懸念しながらも2人1組にして島の家族の中にそれぞれホームステイさせました。さて、どうなったと思いますか?コミュニケーションに四苦八苦して、ちっとも島の生活を楽しめなかったでしょうか? 出発の朝、それぞれの家族に見送られながら船着場にやってきた彼らの目は『別れを悲しむ涙』であふれていました。それぞれの家族と抱き合い、「帰りたくな~い!」と叫ぶ1人1人。彼らは「ことばを超えた愛」を体験したのです。物が豊富で『便利さ』という点では随一の日本には失われてしまった「互いが必要」「人間こそ最も大切」「共に生きる」というような、『人間の原点』と言えるものを、彼らはこの数日間体験し続けたのです。 10年ぶりに訪れたウリピブ島は「ソーラーパネル」や「携帯電話」などが普及し始め、チョッピリ驚かされましたが、肝心の『人々の心』は変わっていませんでした。「オレたちの家族が帰ってきた!」と、島のどこへ行っても(小さな島なので、徒歩1時間で1周できます)人だかりになり、1時間に20メートルも進めませんでした。今回の2週間の滞在を通して「私たち人間に必要なのは、やりがいのある仕事や便利さなどよりも、何より『愛(共に寄り添って生きること)』なのだ」と改めて思い知らされました。

(96) “彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。”

「井の中の蛙大海を知らず」という日本の古いことわざがあります。「井戸の中に住んでいるカエルは、大海の存在も知らずに、自分の存在に得意になっている」というような否定的な意味で使われます。確かに「もっと広い世界があることも知らないで、ちっぽけな(自分だけの)世界だけを知って王様気取りしている」のは良くありませんが、広い世界を知ったために自分の小ささにガッカリし、萎縮してしまって大胆になれないのもどうかと思います。 ひと昔前に「世界に1つだけの花」という歌が流行りました。「ナンバー1になれなくてもいい…、もともと特別なオンリー1」というような歌詞だったと思います。いろいろな分野で「1番になること」を追求することは悪いことではありません。向上心を持ち、日々努力を重ね、更に高いレベルを目指す。すべての人はそうあるべきだと思います。ただこの「1番になること」または「何かができるようになること」が自分自身の価値を決めることのように錯覚してしまうのは危険です。「失敗すること」が『失敗者になること』とは違うように、「より多くのことができること」や「より多くの物を持っていること」と、「より優れた人物であること」とは全く別のことです。『持ち物』や『能力』に自分の価値を置いているなら、火事などですべてを失った時、また病気や事故で体の自由を失った時に、生きる希望まで失ってしまうことでしょう。 私たちの『自信』をいうものは、「何かが人よりも優れている」ということに根拠を置くのではなく、「自分はいったい何者なのか」ということに根差すべきです。聖書は「あなたは天地万物の創造者である神によって造られた最高傑作である」と述べています。この造り主は不動・不変であり、それによって与えられたこの価値観も永遠に揺らぐことはありません。まさにあなたは「もともと特別なオンリー1」であり、「『神のかたち』を宿した、神に愛されている者」なのです。 さあ、もう周囲を見回して自分と他の人とを比べるのは止めにして、上を見上げながら「神様に造られたユニークな作品としての自分」 に磨きをかけていきましょう!