(644) “わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。”

 もし誰かに「クリスチャンであるのとないのとでは、どう違うか?」と問われたら、私ならまず次の2つを挙げると思います。 1.どんな状況の中にあっても、心の深いところに『変わらない平安』がある。  ・私の信じている『神』は、全知全能であり、私を深く愛しておられる良いお方です。なので、私の身に起こる全てのことは「神の知らない所で起こっている事」ではあり得ません。神はそれが起こることを許され、そしてその出来事を通して、私が思いもよらないような素晴らしい実を結んでくださると信じられるので、心の奥にはいつも変わらぬ平安と喜びがあるのです。 2.人生に『意味と希望』を持って、日々を生きることができる。  ・『創造主である神』を信じていると、「自分の人生には必ず『神』の崇高な目的がある」という確信をもって日々を生きることができます。日常の小さな出来事から、「人生の目的」と呼べるようなものまで、自分の小さな頭や限られた知識・能力に制限されることなく、「神が自分を通して成し遂げようとしていることなら、どんなことでも全力を尽くそう」という情熱が湧いてきます。そこにはもはや「無気力」に陥ってしまう余地はありません。  もしかすると、ある方々は「神を信じて生きるなんて、何だか窮屈で不自由な気がする」と勘違いしておられるかもしれませんが、実際は全くその逆なのです!

(643) “すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず… 神の恵みにより、価なしに義と認められるのです。”

 聖書には『罪』という語が度々登場します。そして「全ての人は罪人である」と断言するので、ある方々は「だからキリスト教は嫌いなんだ」と感じるかもしれません。しかし聖書が語る『罪』と、世で言ういわゆる「犯罪」とは大きな違いがあります。  この世の常識では、『罪(犯罪)』を犯した人を「罪人(犯罪人)」と規定します。しかし聖書的概念では「人は『罪人』なので『罪』を犯してしまう」というのです。日本語で『罪』と訳してある語源の直訳的な意味は「的外れ」です。すなわち正確には『罪人』ではなく、「ズレ人」なのです。つまり「人は本来の姿(神を主権を認め、神の愛を受け取りながら生きる)からズレてしまっているために、神の望まないような『神を認めない自分本位な生き方』に陥ってしまう」というわけです。  世の様々な『宗教』は、「救いを得るためには『修行』や『徳』を積まなければならない」と教えますが、考えてみるとこれは無理な話です。何故なら、人は生まれつき『罪人』としての性質を負って「ズレて」しまっていますから、『徳(良い行い)』をしたくても限界があるのです。「救いを得るため」ではなく、まずこの『救い』が先に必要なのです。  聖書は「恵みによる救い」を強調します。言い換えるなら「『救い』のために私たちがしなければならないことは、何もない」のです。神はその大いなる恵みによって、無代価でこの『救い』を提供してくださり、私たちと神との「ズレ」をまず修正してくださることによって、私たちが徐々に「本来の(神によって造られ愛されている存在としての)姿」へと回復され、『徳(良い行い)』ができるようにしてくださるのです。

(642) “神は愛です。”

 前述の聖書の言葉は、最も有名のものの1つと言えるかもしれませんね。ところで「神は私たちを愛しておられます」というのと、『神は愛です』というのとでは、どう違うのでしょうか?それは「たとえ私たちがどんな存在や性格であろうと、神のご性質そのものが『愛』であるが故に、神は私たちを愛さずにはいられない」という点で違うのです。  神は、私たちの出来が良いから愛してくださるのではなく、その「完全な愛のご性質」によって私たちを創造されました。ですから、私たちが神から離れ、神を見失い、また自分自身の本質さえも見失って、互いにいがみ合い、裏切り合い、殺し合うのをご覧になり、私たちの想像を絶するほどに、そのお心を痛めておられるに違いありません。神の切なる願いは、私たち1人1人が『愛である神』と結ばれ、その『愛のご性質』を反映する者となり、その愛をもって互いに愛し合うようになることです。そしてその模範を、ひとり子イエス・キリストを人として地上に送ることを通して表現してくださったのです。  私たちは肉眼で『神』を見ることができず、それ故に神を信じることができずにいる人が多くいると思いますが、もし私たちがこのような愛で互いに愛し合い、尊重し合い、助け合って生きるなら、そのような私たちの中で『神』を見出すことができるのではないでしょうか?

(642) “金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。”

 「ローンで物を買う」という習慣が始まってしばらく経ちます。当時は『クレジットカード』というものを持ち歩く人は本当に限られた裕福な人々だったのが、今では持っていない人の方が少ないくらいですよね。それほど「今はお金はないけど、やがて入るから、欲しいものは先に手に入れておこう」という考え方が一般的になっているのでしょう。  人はどうしてそれほどまでに「もっと欲しい」と思うのでしょう?本当に「どうしても必要だから」?日々の生活のために「どうしても必要なもの」なんて、本当に限られています。  私たち家族は、電気もガスも水道もない離れ小島で4年間生活しました。藁ぶき屋根の家の中には、テーブルとイス、そして粗末なベッドの他にはほとんど何もありませんでした。それでも時々島の子供たちがやってきて家の中を覗いては、「うわぁ、物がいっぱいあるなぁ」と言っていました。実際、日々の生活に必要なものは「水と食べ物とほんの少しの生活用品」くらいなのです。その代わりその島には『人々の愛』はふんだんにありました。  この島での4年間の生活で実感したことは、「『物の豊かさ』と『人の心の豊かさ』は反比例する」ということです。物が増えれば増えるほど人の心は荒んで行き、「妬み、独占欲、犯罪」などが増していくのです。島では様々なものが共有されており、少し多く持っている人たちは、足りない人たちに「当然のごとくに」分け与えていました。この島での生活のお陰で、私たち夫婦と子供たちは「人を愛して生きること」を学ぶことができました。今でも大変有難く思っています。  もし「もっと欲しい」と思うことが「他の人に劣りたくないから」という動機であるなら、そんな見栄は捨ててしまった方がずっと自由で気楽に生きられるのではないでしょうか?そして余ったエネルギーを「他の人を思いやること」に費やすことができれば、世の中はずい分良くなると思うのは、私の勘違いでしょうか?

(641) “あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。”

 私たちはつい「もっと背が高かったら良かったのに…」「どうして私の目はもっとパッチリしていないんだろう…」などなど、自分ではどうしようもない(生まれつきの)特徴にケチをつけて、わざわざ自分の価値を下げてしまうことがあります。そもそもこれらの不平・不満というものは、何を基準にして生まれてくるのでしょう?もちろんそれは生まれ育った環境や、社会の提供する情報にも影響をされるとは思いますが、根本的には『自分自身の考え』に基づいているわけです。「自分はもっとこうありたい」とか、「本来はもっとこうあるべきである」とか。実際は、社会は「人間というものは身長は170センチ以上なければならない」とか、「女性のまぶたは二重でなければならない」などとは定めていないわけですが、いつの間にかそんな風に思い込んでしまっているんですよね?  聖書は、「創造主なる神が、私たち1人1人をご自身の望まれた通りにお造りになった」と言います。そして神には私たちをそのように創造された『目的』があるのです。神は失敗作品をお造りにはなりませんから、私たちは「姿かたち」を含めて、神の目的にピッタリの存在として形造られました。ですから大切なのは「変えることができないことを不満に思うこと」ではなく、「神が自分をどのような目的のためにお造りになったのか」を知ることなのです。そしてそれは『イエス・キリストを通しての神との関係』によってのみ、知ることができます。私はそれを40年前に体験しました。それまでは前述のような「自分の身体的な特徴に対する不満」を並べ立てていましたが、今は日々「神のご計画を実現すること」に心を躍らせながら生きています。  神には「あなたとだけ一緒に実現したいご計画」があるのです。それを見つけ実現するために、イエス・キリストを通して与えられる『神とのいのちの交わり』を求め始めてみませんか?

(641) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。”

 「ベストを尽くす」という表現がありますよね。この言葉が嫌いな人はあまりいないと思いますが、実践するのはなかなか難しいですよね?今日はこの「ベストを尽くす」ということの実践として良い例を見つけたのでご紹介します。  これはオーケストラに所属する、あるバイオリニストのお話しです。彼女はコンサートに出演する前日はいつも十分な睡眠を取ることを心掛け、ベストコンディションで演奏に臨みます。自分自身だけでなく、自分の楽器も入念にチェックします。会場に到着すると、ステージ上の自分が座るイスの座り心地を調整し、楽器のチューニングをします。  演奏が始まると、指揮者の下に各グループが指揮と譜面に合わせて演奏を始め、彼女は自分の出番が来るまで瞬きもせずに譜面を追います。演奏が次々と進み、ついに彼女の演奏の番になり、指揮者の目が彼女に向いた瞬間、彼女は自分が奏でることのできる最高の音を「たった1音だけ」演奏し、そして彼女の出番は終わるのです。  オーケストラの演奏はまだまだ続いて行きます。彼女は残りの時間もじっと静かに、そしてさも満足そうな笑みを浮かべながら席に座っています。「自分のできる最高の音を、完璧なタイミングで、全力で奏でたこと」への喜びに満たされながら…

(640) “あなたがたが受けないのは、あなたがたが求めないからです。”

 日本文化には「奥ゆかしさ」という1つの美徳があります。ただ、この「奥ゆかしさ」が『神のみわざを体験する』という上でマイナスになることがあります。例えば「神様にこんなことをお願いするのは申し訳ない」という理由で、自分の本当の必要を神に祈り求めることができないでいる場合です。  聖書には、「信仰がなければ神に喜ばれることはできない」と書かれています。そして「神に大きなことを求めること」は、まさに私たちの『信仰』を神にアピールすることになるのです。イエス・キリストはある盲人が癒しを求めて近づいてきた時に「あなたの信じる通りになるように!」とおっしゃいました。「こんなことを神にお願いするなんて…」というのは、慎み深いように聞こえて、実は「もし神様に聞いてもらえなかったらどうしよう」という、私たちの『不信仰』の現れに過ぎないのです。  聖書は『天地創造の神』のことを「私たちの天の良き父」と呼んでいます。そして「良い父親」はいつでも自分の子供たちに「良いものを豊かに与えたい」と願っています。ただ人間は能力的にも経済的にも限界がありますから「豊かに与える」のにも限界があります。しかし私たちの『天の父』には、そのような限界はありません!彼は「あふれるほどに」与えることができるお方なのです。また、それらのものを与えるか与えないかを決めるのは『神ご自身』であって、私たちではありません。ですから私たちはいつでも『天の良き父』に「良いものを豊かに与えてください!」と求めるべきなのです。

(639) “互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。”

 皆さんは「ヘンリー・フォード」をご存知だと思います。現在私たちが当たり前のように乗り回している『自動車』という交通手段を一般的に普及させるきっかけを作った人物で、『自動車王』とも呼ばれています。しかし実はそんな彼ではありますが、1度はこの「自動車生産」をあきらめかけていた時があったのです。  彼が「ガソリン車」の普及に全力で取り組んでいた頃、社会は彼の意図を全く理解しておらず、経済的な支援も底をついていました。そんな時、あの『発明王』として知られる「トーマス・エジソン」がヘンリーの許を訪れ、こう言ったそうです。「キミがやろうとしていることを理解してくれる人は、今は少ないかもしれないが、やがて必ず多くの人たちの注目を浴びるようになる。だから決してあきらめてはいけないよ。」  人は誰でも『励まし』を必要としています。あなたが何気なくかけるひと声が、相手にどれほどの希望と勇気を与えるか、それを測り知ることはできません。「誰かに信じてもらっている」、「自分に期待してくれている人がいる」という気持ちは人を何度でも奮い立たせるのです。  37年間の結婚生活経験者として断言しますが、全ての既婚男性は、「妻からの励まし」を必要としています。夫たちにとっては「妻からの励まし」が、他の誰からの応援よりも力になるのです。世の奥様方、ぜひ(たとえ見え透いているように感じたとしても)ご主人にひと声、「あなたにはきっとできる!私は最後まであなたを信じているわ!」と言ってあげてみてください!

(638) “自分の日を正しく数えることを教えてください。”

 誰でも「Life changing experience(価値観を大きく変えられるような経験)」というものを1つや2つはお持ちではないかと思います。私もいくつかあります。しかし後述のデニスさんのような経験をされた方はあまりいないのではないでしょうか?  彼はある時、講師として招かれた講演会へと出向くために空港の通路を全速力で走っていました。乗るはずのフライトに遅れてしまいそうだったからです。彼がやっとの思いで搭乗ゲートに到着した時、ゲートはついさっき閉じてしまったところでした。デニスは事情を説明し、何とかゲートを開けてくれるように係員に頼みましたが、返事は「ノー」でした。彼は地団太を踏んで係員に対する怒りを表しながら、苦情を訴えるため、また別のフライトのチケットを何とかして手に入れるために受付カウンターへと向かいました。ところがカウンターには長蛇の列ができており、何分待っても少しも前に進む気配はありません。彼の怒りと不満は、まさにピークに達しようとしていました。そんな時、下記のような場内放送が流れたのです。  「場内のお客様にお知らせいたします。たった今離陸予定でしたロサンジェルス行きのフライト191便が、離陸途中で事故に遭い、誠に遺憾なことではありますが、乗客の中で生存者がいる可能性は絶望的な状況です。」  デニスは苦情を訴えることも、別のチケットを予約することもなく、そのまま帰途に就きました。彼の手には、自分が乗るはずだったフライト191便のチケットが握りしめられていました。彼はそのチケットを自室の壁に貼り、イライラした時やムッとすることがある度にそのチケットを見て、自分が今生きていることは決して偶然ではないことを思い巡らすようになったのです。  今あなたが生きていて、この2026年を迎えることができているのは、決して偶然ではありません。神はあなたに「生きよ!」 と命じられています。この新しい1年を、些細な事で気を悪くすることなく、「明日を守られる神様」を見上げて進んで行きましょう!

(637) “順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。”

 早いもので、今年もあと残すところ2日となりました。2025年は皆さんにとってどのような年だったでしょうか?聖書に「神が良くしてくださったことを何1つ忘れるな」という言葉があります。1年の終わりに「神の祝福」を1つ1つ思い起こしてみるのは素晴らしいことだと思います。私ごとですが、今年は3人目の孫が生まれ、今年の年末年始はその孫を連れて末息子夫婦がわざわざ日本から来てくれています。本当に感謝なことです。  ところで、神様は私たちの目を「前を見るように」付けてくださいました。もちろん過ぎたことを振り返って反省したり、良い思い出を懐かしんだりすることは良いことに違いありませんが、基本的に私たちは、常に『前向き』に生きて行くべきです。但し神様は私たちを「1秒先のことも分からない」ようにもお造りになりました。これは私たちが「明日のことを思い煩わずに、ただ神様に信頼し、委ねて生きるため」に他なりません。  創造主である神は、「永遠の存在」であり、また『良いお方』です。時空に捕らわれることなく、私たちを『最善の道』へと導いてくださる方です。来たるべき2026年も、このお方に信頼し、このお方を日々見上げつつ、雄々しく前進して行きましょう!