(147) “いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

1隻の大きな貨物船が長い航海から帰ってきました。今回の航海は散々でした。どうしたわけか本来のスピードが出せずに、船荷を待つ取引先からは厳しい苦情を受け、船の持ち主からも「お前のお陰で大損だよ!」と怒鳴られるありさまです。船長は思い切ってこの船を大掛かりな整備に出すことにしました。するとどうでしょう。航海中には見ることのできなかった海面下に触れていた部分には、多くの不要物がビッシリとこびりついており、船の重量は本来の1.5倍にもなっていたのです!これらを完全に取り除くにはもちろん多くの時間と手間がかかりますが、背に腹は換えられません。数ヶ月の整備期間の後、この大きな貨物船は再び意気揚々と次の航海へと旅立って行くことができるようになりました。 さて、これは何も「船のお話し」ではありません。私たちも「身体の定期健診」だけでなく、『心の定期健診』が必要です。見えるところに問題がなくても、見えない部分に「不要物」がこびりついていることがあるのです。私たちは周囲の人々のアラ捜しは得意ですが、自分の事となると気付かないものです。もしあなたが『以前の業績』にばかりすがりつき、「神がこれからあなたと共に成し遂げようとしておられること」を見つめられなくなってきたら、それは危険信号です。 今少し立ち止まって、自分自身を吟味してみましょう。以前のような『心の切れ味』が失われてきていませんか?神様に対する愛や情熱が薄らいではいませんか?この世の流れに妥協してしまってはいませんか?つい批判的になったり不注意になったりしていませんか? もしこれらのことが思い当たるなら、きっと「普段目に付かない部分に『不要物』がこびりついている」に違いありません。それらを見つけるためにはもしかしたら「心を沈めて神様からのアドバイスに耳を傾ける」必要があるのかもしれません。神から委ねられていた使命を『自分の力・知恵』に頼りつつ成し遂げようとしていたのかもしれません。神はそんなあなたの心に溜まってしまった『不要物』をきれいさっぱり取り除き、再び新たな人生の航海へと送り出すことのできるお方なのです。

(146) “賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。”

『カーナビ』を使ったことはありますか?よく知らない地域を運転するときは本当に便利ですよね。たった2つの情報(①現在地 ②目的地)をインプットするだけで、私たちの辿るべき道を示してくれます。 私たちが人生において確かな歩みをするために必要なものもこれと似ています。それは次の3つです。   1.自分は今どこに立っているのか?   2.自分が向かおうとしているのはどこなのか?   3.その目標に辿り着くために、どのような道を辿って行けば良いのか? マーク・トウェインは次のように言いました。「前進していくためにまず必要なのは、とにかくスタートすることだ。そしてスタートするために必要なのは、面前に立ちふさがる圧倒されるほどの数々の障害を細かいピースに分けて分類し、その中のまず可能なものから手を付けていくことだ。」 「夢を持てない時代」と言われています。情報過多の故に、夢を持つ前に現実を突きつけられて「大それた考えは止めにして、やっぱりほどほどにしておこう…」とあきらめてしまうのです。しかし聖書は「あなたがたは神の大いなるご計画を担うために生まれてきた」と私たちを励まします。ですから「夢を持つ前からあきらめてしまう」のは止めましょう!まずあなたの現状を十分に把握し、そして神があなたの心に与えてくれている『大いなる目標』をしっかり見つめましょう。紙に書いて自室の壁に貼っておくのも良いかもしれません。そしてその目標を達成するために必要なことを1つ1つ書き出して、まず今できることから始め、また協力者を求め、そしてどうしても無理に思えることは神に祈りましょう。神はあなたを通して、ご自身がどのように偉大な存在であるのかをこの世に示したいと願っておられるのですから。

(145) “私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

江戸幕府初代将軍『徳川家康』の遺した有名な言葉に、「人生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」というものがあります。確かに人生にはそういった面がありますが、しばしば我々は『不必要な荷物』をも負って人生の道のりを歩いていることがあるのではないでしょうか? ローマ帝国時代、オリンピックに出場する走者たちは、毎日多くのおもりを身体に巻きつけてランニングをすることによってトレーニングをし、レースの当日にはすべてのおもりを外して伸び伸びと走ることによって優れた記録を残したそうです。この時もし走者が相変わらず『おもり』のいくつかをつけたまま本番のレースに臨んだとしたら、それは愚かなことだと思います。 イエスは「金持ちが天の御国に入るよりは、ラクダが『針の穴』を通るほうが易しい」とおっしゃいました。『針の穴』というのは文字通り「糸を通す穴」のことではなく、旅の途中でしばしば出くわす「狭い通り道」のことで、そこではいちいちラクダに背負わせているたくさんの荷物をいったん外さなければ通ることができなかったのです。 私たち家族が今から20年前に神様から「海外宣教師になりなさい」とお声をかけていただいたとき、私たちは所持品をすべて整理しなければなりませんでした。私たちは決してお金持ちではありませんでしたが、自分たちが所有していた物の多さに愕然とさせられたものです。しかし面白いことに、所持品が減っていけばいくほど、身も心もドンドン軽くなっていくのを感じました。最終的にはいくつかのスーツケースと段ボール箱だけになり、「人生で本当に必要なものは、実はわずかなのだ」ということを痛感させられたのを覚えています。(現在はニュージーランドに来て再び物が増えつつありますが…) 私たちが人生のレースを走る上で「栄冠を勝ち取るために邪魔になるもの」は、しばしば「レース場に置かれている数々の障害物」ではなく、「レース中に私たち自身が負い続けている余分な重荷」が原因になっているのではないでしょうか?

(144) “私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。”

2014年10月5日早朝、クライストチャーチ日本人キリスト教会の創始者の1人であられるベティ・ラウンドヒルさんが天に召されました。94歳でした。彼女はご主人のケン・ラウンドヒル先生と共に、日本での40年間の宣教師としての働きを終えてから24年前にニュージーランドに来られ、このクライストチャーチJCFを始められたのです。彼女が70歳の時です。70歳と言えば『隠居』の年であり、わざわざ何か新しいことを始めることは至難のわざであったに違いありません。しかし彼女は、クライストチャーチで不自由な英語を駆使しながら苦闘している日本人妻たちや留学生たちを見て、じっとしてはいられなかったのでした。 聖ルカ国際病院の名誉院長であられる日野原重明教授は次のように言っています。「新しいことを創められる人は、いくつになっても老いることがない。」 ベティ先生はまさにその94年間の生涯を「神と人に対する情熱を持って走り続けた女性」だったのです。 実を言うと彼女が亡くなられた前日(10月4日)は私の長男の結婚式でした。ある方々にとっては「息子さんの結婚式の直後に大切な方が亡くなるなんて、とんだ災難でしたね」ということになるのかもしれません。しかし私にとっては『とんだ災難』ではなく、むしろ「お祝い事が2つ重なった」と言えると思います。何故なら、私はベティ先生が今どこにおられるのかよく分かっているからです。彼女は今、老いて不自由になった肉体を脱ぎ捨てて、天国の神のみもとで「古びることのない、新しいからだ」をいただいて、喜びに満たされているのです。 もちろん「地上での別れ」という寂しさがあることは否定できませんが、私たちには『再会の希望』があります。そしてこの地上での残された人生を、ベティ先生に倣って「最後まで力強く走りぬく」という使命を全うする責任も与えられています。あなたもこの『死の向こう側にある希望』を抱きながら、地上の人生を精一杯走りぬく力を、神様からいただきませんか?

(143) “あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。”

あるお母さんが息子をお友だちの誕生会に送って行った時、別れ際に息子にこう言いました。「ちゃんと良い子にして、楽しく過ごすのよ。」 すると息子が不満そうな顔をして答えました。「そんなの両方は無理だよ。ねぇ、どっちか1つにしてくんない?」 何故か私たちは「正しく生きること」と「楽しく生きること」は共存しない、と思ってしまいがちです。しかし本当にそうでしょうか?例えばある人が「交通ルールなんてイチイチ守って運転していたら不自由で仕方がない!」と言って、制限速度や信号を無視して走っていたらどうなるでしょう?事故で怪我をしたり、警察に捕まったり、あるいは人身事故を起こして一生を後悔と自責の念で過ごさなくてはならなくなるかもしれません。交通ルールを守って正しく運転してこそ、私たちは快適にドライブを楽しむことができるのです。 聖書は「神は私たちを『神ご自身に似せて』造られた」と告げています。それは必ずしも「神にも2本ずつの手足や、目や鼻や口がある」ということではなく、私たち人間を「『聖さ』を求めて生きる存在として造られた」という意味に違いありません。だからこそ私たちが『みだらなお楽しみ』(深酒や麻薬、不倫など)に没頭している時、心のどこかで『うしろめたさ』を感じたり、「これではいけない!」という叫びにハッとしたりするのです。 『幸福感』というものは、私たちが自分の力で生み出すものではなく、私たちが神の望まれる通りに生きている時に、神の許から注がれてくる『祝福』なのです。私たちが『聖さ』を求めて生きる時、実は私たちはこの神からの祝福を受け取るための風呂敷を広げているのです。「正しく生きること」は決して私たちの楽しみを奪うものではなく、かえって私たちを「変わることのない喜びの道」へと導いてくれる道先案内人なのです。

(142) “あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。”

ある人が懐中電灯に新品の乾電池を入れたまますっかり忘れて引き出しの中に1年以上放っておいたそうです。ある時引き出しを整理しているときにその懐中電灯を見つけたのでスイッチを入れてみたら、電気がつきませんでした。念のため中身を確かめたところ、乾電池は中身の液体が染み出してしまっていて使い物にならなくなっていました。引き出しは暖かな部屋の中にあり、周りには害になるようなものは何もなかったにも関らずにです。 乾電池は「暖かくて安全な場所に放置されるため」に設計されてはいません。イザという時に『用いられるため・使われるため』にデザインされ、作られたのです。私たちの人生に関しても同じことが言えます。聖書は私たちのことを「神と人とに仕えるために生まれた」と表現しています。私たちは居心地の良い場所で安穏と過ごすようにはデザインされていません。互いに愛し合い仕え合うようにと『愛の神』の御手によって心を込めて造られたのです。ところが私たちはしばしば自分自身のことに夢中になりすぎてそのことをすっかり忘れ、周囲に私たちの助けを必要としている人がいても「私は今自分のことで忙しいから、誰か他の人に頼んで!」とすげなくあしらってしまいがちではないでしょうか? 神様から与えられている貴重な1日1日を「ごめん、今ちょっと手が放せない!」というようなことでいっぱいにしてしまわないようにしましょう。神様が助けを必要としている人をあなたの側に送られたとき、喜んで助けの手を差し出すことのできる人は幸いです。

(141) “ことばが多いと愚かな者の声となる。”

2匹のガチョウが南へ下る旅の準備をしていると、1匹のカエルが近づいてきて、自分も一緒に連れて行ってくれるように頼みました。ガチョウたちが「一体どうやってそんなことができるのか?」と尋ねると、カエルは答えました。「簡単だよ。キミたち2匹が1本の枝の両端をくちばしにくわえながら並んで飛んで、ボクがその真ん中を加えていればいいのさ!」 2匹のガチョウはその言うとおりにし、3匹が見事なチームワークで大空を渡っていると、下から見上げていた人々が感動のあまり言いました。「これはスゴイ!一体誰があんな名案を考え付いたんだろう?」 これを聞いたカエルは、つい調子に乗って大口を開けて叫んでしまったのです。「ボクだよ、ボク!」(この後カエルがどうなったかは、お分かりになりますよね?) ほとんどの場合『聞くこと』は『語ること』に優っています。聞く耳を持たずに話してばかりいる人からは最終的に人々が離れていきます。神は私たちに「耳を2つ」そして「口は1つだけ」お与えになりました。あたかも「語るより2倍聞くように」と命じておられるかのようではありませんか! 私たちの人生は日々が新たな学習です。しかしもし私たちがいつも「自分が何を話すか」ということにばかり思いを巡らせていたら、多くのことを学ぶことはできません。ほとんどのレッスンは『聞くこと』からやって来るのです。事実、その人の成熟度は「どれほどのことを教えることができるか」ではなく、「どれだけ人々に対して聞く耳を持っているか」で表されます。 神様はいつでも私たちの祈りを聞き、私たちの心の叫びに耳を傾けてくださっています。そしてまた、私たちが人々のつぶやき、そして神からの語りかけに耳をすますことを期待しておられるのです。

(140) “すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父(神)から下るのです。父には移り変わりや移り行く影はありません。”

私が子供の頃読んで面白かった本に『タイムマシン』というものがありました。ある少年・少女がタイムマシンで昔の世界や未来の世界へ旅をして様々なワクワクする体験をするというものです。子供心に「ボクが生きている間に『タイムマシン』が発明されるだろうか?」と夢見たものです。恐らく、誰もが1度は考えてみたことがあるのではないでしょうか? ところが神様は私たちを『時間』というものの中に閉じ込めておられます。私たちは昨日に戻ることもできないし、明日に飛んで行くこともできません。私たちに与えられているのは『今』だけです。面白いことに『今・現在』という概念を表す英語は『プレゼント』といって、『贈り物』を表すことばと同じです。あたかも神様は『今』という時をかけがえのない『贈り物』として私たちに与えてくださっているかのようです。 私はほぼ毎朝飼い犬の散歩に出かけますが、今のような初春の時期はあちこちの庭に新しい花が咲いたり芽が出てきたりして、日々私の目を楽しませてくれます。しかしこれらの景色は、走っていたり車を運転していたりしては見出せません。同様に、過去のことについていつまでもクヨクヨしたり、将来のことばかり気にしていては、『今』を満喫することはできません。神様は私たちに『今』を大切な贈り物として与えてくださっています。ぜひじっくり辺りを見回してみてください。朝ごとに昇る朝日、鳥のさえずり、頬をなでる風、母親の腕の中でスヤスヤ眠る赤ん坊、そしてあなたのことを大切に思ってくれている人々… これらのささいなことを見出し感謝することができたなら、あなたの心の中に「生かされている喜び」が湧き上がってくるはずです。 「そんなことをいっても、すべてのものは過ぎ去り、変わって行ってしまう!」とあなたはおっしゃるかもしれません。そうですね。私たちの出会うものはある意味すべて一時的で、愛する人の心さえも変わってしまうかもしれません。しかし、神様と神様の私たちに対する愛は永遠です。そしてこの神様とつながっている限り、私たちはいつでも人生に新しい輝きを取り戻すことができます。私たちに『今』を与えてくださっている神様は、この『今』の中で私たちと出会ってくださるのです。

(139) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

レスリーは生まれつき思い肉体的・精神的ハンディを負って生まれてきました。養育能力のない母親の元に生まれた彼は、そのまま病院で保護されていましたが、6ヶ月になった時、ずっと彼を可愛そうに思っていた看護婦のメイは、5人の子育ての真っ最中であったにも関らずレスリーを引き取り、彼女の子供として育てました。 メイは「神様はきっとこのレスリーにも特別な才能を与えているはずだわ」と信じ、神に助けを求めつつレスリーに様々なことをチャレンジさせてみましたが、何1つうまくいきませんでした。 レスリーが13歳になったとき、メイは何とかやりくりして中古のピアノを購入しました。レスリーの前でいくつかの曲を奏でてみましたが、何の反応もみられませんでした。それでもメイは忍耐強くレスリーに関り続け、毎日ピアノを弾きながら大きな声で歌を歌ったり、美しいピアノ曲を聞かせたりしていました。 レスリーが16歳になったある日、彼はおもむろにピアノの前に座り、何といきなりチャイコフスキーのピアノコンチェルトを奏で始めたのです。しかも完璧に!まもなくメイは、レスリーが1度耳にした曲であればどんな曲でも譜面なしに弾くことができることを発見しました。やがてレスリーは世界じゅうを回ってコンサートを開くようになったのです。 英語のことわざに「夢を大きく持ちなさい。やがてあなたはその夢にピッタリ合う大きさに成長することができるでしょう」というものがあります。現代はあまりにも『現実主義的』であり、大きな夢を持つことは「愚かなこと」のように批判されがちです。そんな時代だからこそ、あきらめずに夢を追って生きる人々を育てる「大いなる励まし手」が必要とされているのです。「ここであきらめないで、あと1歩進んでみてごらん」と励ますことのできる者になりませんか?

(137) “彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。”

親しい友人を失ったジェーンさんの手記からの抜粋です。 「ある冬の夜、凍える寒さの中、私は残された友人の家族の許へ食事を届けるために車を走らせていた。忙しい仕事と家事の合間だというのに、通りはひどい渋滞。そしてやっとの思いで辿り着いた友人宅は留守であった。自己憐憫に陥りつつ、忙しさの中わざわざ食事を届けに来たことを伝えるため、携帯電話で留守番電話にメッセージを残そうとした時、私は驚きのあまり声も出なくなった。 そこには、生前の友人が録音したままの留守電メッセージが鳴り響いていた。『コートを羽織って、お気に入りの帽子をかぶって、さあ出かけましょう。すべての思い煩いは玄関口に置き去りにして。外に出て、日の光の中を歩くなら、気分はついつい浮き浮きしてしまうものよ!』 とても懐かしい声だった。乳癌を患っていた彼女は、予想を超えた痛みと長期治療の中でも常に笑顔を絶やさず、愛する夫と幼い3人の子供たちを遺していく悲しみをも不屈の精神力で乗り越えていた。彼女は知っていたのだ。今しばらくの苦しみは、神の恵みによって益と変えられ、やがてその永遠の光の中に招き入れられることを。 生前の明るさそのままの彼女の声を聞きながら、私は神が死んでしまった彼女を通してさえ私を励ましてくださったことを知った。私は自分の情けない我儘さの赦しを乞い、もう1度神の光の中を歩ませてくださるように願った。」 神はこの地上にあっても私たちを助け導いてくださいます。しかし、私たちの希望はこの地上にはとどまりません。それは死を超えて常に明日の光を待ち望ませることのできる希望なのです。