(625) “天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”

 日本ではようやく暑さの峠を越えた頃でしょうが、南半球のこちらクライストチャーチでは、桜が見頃を迎えています。  考えてみると、日本からニュージーランドに来て『創造主なる神』に気付く方々が多いようです。恐らくその大きな理由の1つは「美しく壮大な自然」に触れることが多いからではないでしょうか。ニュージーランドでの生活は、時間がゆったりとしているのに対し、レジャーがそこまで多くないので、そこらじゅうにある『遊歩道』や『自然公園』をのんびりと歩く機会が多く、そこで様々な美しい花々や小動物たちを見かけます。また、日本のように夜のネオンサインが激しくないので、星空も美しく、また車で1時間も走れば、壮大な山々や湖を眺めることもできます。それらの「神の被造物」を見る時に、『創造主なる神』を肌で感じ、またその神の美的センスや優しさを思い浮かべて、この方の御手に身をゆだねて生きて行きたい、という気持ちが芽生えるのではないでしょうか?  しかも聖書は、「神はこの天地を造り、そしてその中でも最高傑作品として、私たち人間をお造りになった」と教えています。これらすべての「美しい大自然」にも優る存在として、神は私たち1人1人を創造され、そして慈しんでおられます。自分を卑下したり、粗末に扱ったりせずに、「神に造られた傑作品」として1日1日を全力で生き、『神の栄光』を表現する人生を歩んでいきたいものです。

2025年9月14日 「キリストを待ち望んでいた人々」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「キリストを待ち望んでいた人々」   (14/09/2025) [ルカの福音書 2章21~40節] ◆キリストに気付いた人々   ①女預言者アンナ(36~38節)    ・『預言者』は、単に「神のメッセージを語る」だけでなく、「神と人とをつなぐ」存在。多くの戦いがある。   ②シメオン(25~28節)    ・「聖霊が彼の上におられた」。使徒の時代以前にも、選ばれた人々にのみ聖霊は注がれていた。   *これら2人に共通して言えることは、「心を尽くして神を求め、また自分の民のことを思っていた」こと。正に    主イエスがおっしゃった『最も大切な戒め(神を愛し、隣人を愛すること)』を体現していた。 ◆幼子の定め(34~35節)   ・この「立ち上がる」と訳されている言葉は、しばしば『よみがえり』に用いられる。ここではイエスが単に「ローマからの解放者」としてではなく、『たましいの救い主』であることが語られている。また「迫害」や「マリアの心痛」のことが語られると共に、キリストを前にして「人の心のうちの思いがあらわになる」とある。すなわち「キリストがはっきりと啓示されると、私たちは態度をはっきりせざるを得なくなる」というわけである。   ・『福音メッセージ』は、決して人々をComfortableにさせるものではない![使徒2:36] 今日の要点: 態度をはっきりさせる ◎更に深い学びのために  ①『預言者』について考えてみましょう? 彼らにはどのような戦いや困難があると思いますか?  ②シメオンはどのような思いでキリストを待ち望み、またどのような思いでマリアとヨセフに語ったと思いますか?  ③私たちは「神にふさわしく福音を語る」ために、どのようなことに気を付けるべきでしょう? Outline of the sermon “Those who were waiting for Christ.” (14/09/2025) [Luke 2:21~40] ◆People who recognized Christ.   ①Anna, a prophetess.(Verses 36~38) Read more…

(624) “すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。”

 「自分の性格を何とかしたい」という声を聞くことがあります。しかし実際問題「性格を変えること」は、ほぼ不可能と言えるほど難しいことですよね。でも良い知らせがあります。私たちの人生、また傾向性というものは、『性格』以上に、私たちの日常の『思考パターン』に大きく影響を受けるものであり、しかもこの『思考パターン』というものは、心がけ次第で新たに身に付けて行くことができるものなのです。  私たちの『思考パターン』に影響を与えるのは、私たちが日頃触れている情報や、周囲の人たちの態度や言葉です。そのうちには避けられないものもいくつかありますが、最近ではテレビや書籍、そして何よりインターネットから受ける情報が莫大であり、そしてこれらの情報は自分で取捨選択することができるものです。「オカルトや不倫」といった『恐れや猜疑心』を心に植えつけるようなものを避け、『積極的・肯定的』な内容のものを視聴することを強くお勧めします。  また、『聖書』には「肯定的なことば」「徳を高めることば」が満ちています。「神はあなたを愛している」「恐れるな、神が共におられる」「自分がしてもらいたいと願うことを、他の人にもしなさい」などなど、聖書を少しずつでも毎日読むことは、私たちの『思考パターン』を肯定的に保つために大いに役立ちます。  また、「イエス・キリストを人生のパートナーとして迎えること」は、何よりも私たちの生き方を「積極的で確信に満ちたもの」に変えてくれます。私自身、イエス・キリストという方を個人的に知る前は、他人の顔色を窺い、できるだけ目立たないように生きることを心掛けていました。(恐らく、クリスチャンになってからの私しか知らない人は、とても信じられないと思いますが…) しかし、イエス・キリストにある『救い』を知り、彼を人生のパートナーとして迎え入れて以来、(少しずつではありましたが)私は「確信に満ちあふれ、積極的に人々に働きかける存在」へと変えられて行きました。それは「自分がどんな失敗を犯したとしても、決して見放すこともあきれることもなく共に歩んでくださる方がいる」ということを知ったからです。  「聖書を読み、その価値観によって自分自身を建て上げて行く」、そんな生き方をぜひお試しください!

2025年9月7日 「『喜びの知らせ』を告げ知らせる」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『喜びの知らせ』を告げ知らせる」   (07/09/2025) [ルカの福音書 2章1~20節] ◆ついに『時』が来た!(10~11節)   ・アウグストゥスは「メシアがベツレヘムで生まれる」という預言のことなどもちろん知らずに、本籍での住民登録を命じた。神は私たちの思いを超えて働かれる。また羊飼いたちは、この住民登録から除外されるほどに身分が低かった。そんな取るに足らない者たちに、御使いたちはビッグニュースを伝えに来た!   ・御使いたちは「この民全体のため」に良い知らせを告げに来たが、『幼子』のための場所はなかった。[ヨハネ1:11-12] しかし今日、このメシアのために「場所を用意する者」には、『神の子ども』とされる特権が与えられる! ◆証人となる(15~20節)   ・羊飼いたちは、ただ単純に「自分たちに告げられたこと」を知らせた。彼らは現代の『キリストの証人』である私たちのモデルと言えるのではないか?彼らが通ったプロセスは…      ①聞く ⇒ ②信じる ⇒ ③行動する ⇒ ④体験する ⇒ ⑤喜びに満たされる ⇒ ⑥証人となる   ・私たちがキリストを証するのは、「誰かにそう言われた」とか、「そうしないといけない」とかではない。内側から溢れ出るものである。もっともっと『キリストにある喜び』に満たされよう。その秘訣は「神のみことばを聞く」ために静まり、聞いたみことばを「単純に信じて実践」し、神が自分を通して働かれるのを「体験する」ことである! 今日の要点: 動機は、「喜び」 ◎更に深い学びのために  ①『メシア誕生』という歴史的出来事のため、「住民登録」「羊飼い」「飼葉桶」はどんな役割を果たしましたか?  ②「救い主イエスのために場所を用意する』という事は、どういうことですか? またどんな祝福があるでしょう?  ③「キリストの証人となる」ということと、「私たちの心の『喜び』」とは、どのような関係性がありますか? Outline of the sermon   “Bring Good News of great joy.”   (07/09/2025) Read more…

(623) “あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。”

 子供が生まれる前と生まれた後とでは、『夫婦の関係』は大きく変わるものです。子供が生まれる前は、夫婦はお互いの顔だけを見つめていれば良いわけですが、子供が生まれるとどうしても「自分では何もできない弱い存在」である子供が生活の中心となり、いつの間にか夫婦はお互いを「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになりますよね?  さてここで気を付けなければならない事があります。それは、「父親と母親とでは、子供に対して抱く思いが異なる」ということです。まず母親に関して言うならば、「子供はいつまでも子供でいて欲しい。いつまでも自分を必要としていて欲しい」と考えます。それは女性というものがそもそも「小さくて可愛らしい存在に惹かれる」ということから来ています。  ところが父親は、これと全く違います。父親は子供が生まれた瞬間から、「コイツが大きくなったら、こんなことやあんなことを一緒にしよう」と思うのです。また、父親は子供が一人前になり、独り立ちする日を待ち望みます。すなわち「頼もしい存在」になって欲しいと望むのです。なので、しばしば子供に厳しく当たったり、重荷を負わせたりすることもあります。「可愛い子には旅をさせよ」ということわざは、恐らくそんな父親が最初に言い始めたのではないでしょうか?  それでは、私たちの『父なる神』はこれらのどちらなのでしょう?『父』というからには「父親と同じような性質」なのでしょうか?聖書を読む限りでは、確かに父親的な面が多くみられますが、母親のように「いつも自分に頼って欲しい」という部分もあります。私たち人間にはできないことが、神にはできます。当然私たちは、ある分野では神に頼るべきです。と同時に、神は私たち1人1人に「ユニークな才能」を与えておられます。神は私たちがそれぞれその「才能(聖書では『賜物』と呼んでいる)」を見出して(親がその助けをする場合もあるかもしれません)、その分野で才能を開花し、その人でしかできないような素晴らしい成果をあげる人生を送って欲しいと願っておられます。  私の妻は「子育ての中で『神様の心』について多くを学んだ」と言っていました。「神様と私たちの関係」と、「親と子供の関係」には密接な関りがあるのです。

2025年8月31日 「『救い』の鼓動」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『救い』の鼓動」   (31/08/2025) [ルカの福音書 1章57~80節] ◆バプテスマのヨハネの誕生(57~66節)   ・『ヨハネ』は、「主(ヤハウェ)は、慈しみ深い」の意味。   ・ここで、天使ガブリエルの預言(20節)が成就した。そしてザカリヤの口から賛美と預言が溢れ出た! ◆ザカリヤの預言(67~80節) ― 「私たち」に関して語られている部分と、『幼子』に対して語られている部分がある。   ・「アブラハムに誓われた誓い(73節)」は、直接的には[創世記22:16-18](『子孫』は単数形=主イエス)を指している。また、「敵の手からの救い(71節)」の『敵』とは、悪魔のこと。私たちの『敵』は、「一緒に住んでるあの人」でも「自分を迫害する人」でもなく、「神に敵対する『サタン』」である。騙されてはならない!パウロも自分が福音宣教の召された時のことをこう証ししている。(使徒26:17-18)   ・主イエスは、この「悪魔のしわざを打ちこわすため」に来られた。(Ⅰヨハネ3:8) そしてバプテスマのヨハネは、その道を備え、「罪の赦しによる救い」を宣べ伝えるために生まれた。   ・神が何千年も待ち望んでおられた「人類の救いの計画」、そして「憎むべきサタンのしわざを打ちこわす時」が  迫っていた。この『救いの鼓動』の興奮を一緒に味わいながら、引き続き「ルカの福音書」を読む進んで行こう! 今日の要点: 神のことばは成就する! ◎更に深い学びのために  ①やっと口が利けるようになったザカリヤから飛び出してきたのが賛美と預言だった事は、何を表していますか?  ②[68~75節]は、「私たち」に関して、また「神様」に関して、私たちにどのようなことを教えていますか?  ③[76~80節]は、「幼子」に関して、何を語っていますか? またそれは人々にどんな励ましを与えたでしょう? Outline of the sermon   “Beating of ‘Salvation’.”   (31/08/2025) [Luke 1:57~80] ◆Birth of John the Baptist. (Verses 57~66)   ・The meaning of Read more…

(622) “様々な試練に遭う時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい。”

 「『神は良いお方だ』というなら、なぜ人生には試練が襲ってくるのだろう?」と考える方がいらっしゃるのではないでしょうか?確かに「好きな女の子につい嫌がらせをする幼い男の子」でもなければ、わざわざ大切な相手を辛い目に遭わせることはしないはずですよね?  ただ、ここでちょっと考えてみたいのは、『良い出来事』を「良かった」と感じられるのは、『辛い出来事』も経験したことのある人だけではないか?ということです。毎日『良い出来事』ばかりを経験していたとしたら、それが当たり前になってしまって、それらの『良い出来事』を「良い」と感知することがなくなってしまうのではないでしょうか?ですからある意味「試練がある」ということは、「当たり前の事」になりがちな平穏な日々を改めて感謝するため、ということができるかもしれません。  また、「試練は人を成長させる」という面もあります。今も行われているかどうかは定かではありませんが、私が子供の頃、農家の方々は『麦踏み』ということを習慣的に行っていました。成長途上の麦の苗の上を踏んで歩くことによって、1度踏んづけられた麦が更に強く育つようにするためです。我々人間も同じように、試練を経験することによって更に強く成長することができます。私は鎖骨を骨折したことがありますが、聞いたところによると、1度折れた骨は、もう1度を同じ部分が折れることはほとんどないそうです。それはその骨折部分の周囲を補強するような形で新しい覆いが形成されるからです。私たちも人生の中で『痛み』を経験すると、後に同じような痛みを経験している人を慰めたり支えたりすることができるように成長するのではないでしょうか?  最後に、『試練』は私たちに、「人は1人で生きるようにはできていない」ということを思い出させてくれます。日本人はしばしば「自分の弱さや問題を他の人に打ち明けるのは『恥』」と考えてしまいがちですが、苦しい状況に陥った時は、必ず周囲の人々の助けを求めるべきです。神が私たちに最も求めておられることは「互いに愛し合い、励まし合うこと」です。私たちがそれを学ぶために、神様は時に私たちが「1人では乗り越えられない試練」に遭うことを許されます。苦しい時には、独りで我慢しようとはせずに、家族や友人に分かち合って、支え合いましょう。

2025年8月24日 「神に祝福された人」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「神に祝福された人」   (24/08/2025) [ルカの福音書 1章39~56節] ◆女性たちの信仰告白   ・驚いたことに、エリサベツは既にマリアが『神の子』をみごもっていることを知っており、しかもマリアの状況を知りつつも「あなたは女の中で最も祝福されている」と言った!またマリアも、自分が直面している困難を知りながら「どの時代の人も私を幸いな人と呼ぶでしょう」と言った!一体『真の幸い』とは、何なのだろう? ◆『神の祝福』とは?   ・この「祝福された・幸いな人(英語ではどちらもBlessed)」という語を聞くと、主イエスの『山上の垂訓』の最初の部分が思い出される。[マタイ5:3-12] 私たちは『幸い』というと「この世で良い目にあうこと」を考える。その視点で   考えると『幸い』とは思えないこれらの人々だが、主イエスは「彼らが後に地上で、または天において受ける神からの報い」を思って『幸い』とおっしゃった。神の視点では「地上で既に受けている良い目」は『祝福』ではない。   ・考えてみると、「この世で物質的に豊かな人」は、神を見出しにくい。恐らく「目に見えるこの世の豊かさを追求する人」は、サタンに足をすくわれやすいのだろう。箴言の記者はこう書いている。[箴言30:8-9] この2人の敬  虔な女性たちから、「自分を通して『神のみわざ』が現されること」こそが『幸い』であることを学び取ろう! 今日の要点: 「足りなさ」を喜ぶ ◎更に深い学びのために  ①エリサベツとマリアの姿から私たちが見倣うことのできる「信仰的態度」には、どんなものがありますか?  ②「この世で良い目を見ること」が必ずしも『神の祝福』とは言えないのは、どうしてだと思いますか?  ③神の視点における「真に祝福された人生」とは、どのようなものですか? あなたはそれを求めたいですか? Outline of the sermon    “Those who are ‘blessed’ by God.”    (25/08/2025) [Luke 1:39~56] ◆Two faithful women.   ・Elizabeth said, “Blessed are you Read more…

(621) “私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。”

 まず質問です。皆さんは「神様はすべての人に『平等』に接する」と思いますか?  「もちろん、そのはずです!」とお答えになる方が多いのではないかと思います。実際聖書には「神は良い人にも悪い人にも同じように太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と書いてあります。  では次に、複数のお子さんをお持ちの方々、また学校の先生や保母として働いておられる方々ににお尋ねします。皆さんには『お気に入りの子供』という存在がいらっしゃるでしょうか?「そんなことはあってはならない」と思うかもしれませんが、実際は「あの子のひと言や笑顔に励まされる」という『特別な存在』がいることが多いのではないかと思います。  聖書には、英語で『God’s favor』(日本語では「神の恵み」と訳されていることが多い)という言葉が出てきます。これは通常日本語に訳せば「神のお気に入り」という意味です。つまり神にも「お気に入りな存在」があるのです。ではそれはどんな人たちなのでしょう。聖書によるならば、それは人間の側の能力や容姿などにはよらず、「心の姿勢」、すなわち「絶えず神を求め、神に近づこうとする人」に向けられています。  日本の文化や社会においては「出しゃばる者」は嫌われ、「出る杭は打たれる」ということわざもあります。しかし神様はむしろ、「もっと積極的にわたしを求めて近づいて来なさい!」と呼びかけておられるのです。神にとっては「遠慮がちにうつむいてモジモジしている人」よりも、「図々しいくらいに大胆にご自身に近づく者」を「わたしのお気に入り」として受け入れてくださるのです。  神は、ご自身にとって最も大切な存在であった『ひとり子キリスト』をも私たちの身代わりとして十字架の上に差し出してくださいました。そんなお方に対して「私になんかもったいないから結構です」というような態度は、かえって失礼に当たるのではないでしょうか?

2025年8月17日 「神の恵みのみわざ」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「神の恵みのみわざ」   (17/08/2025) [ルカの福音書 1章26~38節] ◆驚くべき告知(30~33節)   ・ガブリエルの告知は驚くべき内容に満ちているが、今日注目したいのは、30節のことば。『恵み』というと、何か「身に余る良いこと」というイメージだが、この場合のマリアにはあてはまらない。ここでの『恵み』は、むしろ「神が自分を通して『己の能力を超えたこと』をなさる」という意。パウロは次のように言っている。[Ⅰコリント15:10] ◆マリアの応答(38節)   ・一体この時のマリアの心境はどのようなものであっただろう?彼女に負い切れないほどの困難が襲って来るの   は目に見えていた。しかし、最終的にこの驚くべき告知に対してマリアが示した応答は、「おことば通りにこの身になりますように」だった。一体何がマリアにそうさせたのか?   ・彼女は理屈で納得しようとはせず、ただ『言われた事』を信じた。アナタは「自分にはとてもそんな信仰はない」と言うかもしれない。しかしそんな私たちが「神のひとり子が自分の身代わりに十字架にかかった事」を信じられているというのも『神の恵みのわざ』に他ならないのではないだろうか?そして神は今日も私たちを通して「あり 得ない恵みのみわざ」を成し遂げるために、理屈抜きにご自身のことばを信じる者を探しておられる。 今日の要点: 自分で自分の限界を決めるな! ◎更に深い学びのために  ①御使いガブリエルの告知には、どのような「驚くべき内容」が含まれていますか?  ②告知を受けた時、またその後の「マリアの心境」を想像してみましょう?そこにはどんな困難がありますか?  ③神が私たちの人生を通して『恵みのみわざ』をなさるために、私たちはどのように備えることができますか? Outline of the sermon    “Receiving ‘God’s favor’.”    (17/08/2025) [Luke 1:26~38] ◆Amazing message.(Verses 30~33)   ・There are amazing contents in Gabriel’s message.  Let’s look at verse Read more…