メッセージ
2025年12月14日 「新しい皮袋になる」
礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ 「新しい皮袋になる」 (14/12/2025) [ルカの福音書 5章33~39節] ◆パラダイム・シフト ・「古い皮袋」は弾力性がないので、発酵に伴って膨張する「新しいぶどう酒」に対応することができず破れてしま う。同様に「人間的な律法解釈」で長年凝り固まってしまったパリサイ人たちは、主イエスが語る「神の口から出る生けるみことば」に適応できなかった。 ・私たちも「自分勝手なみことば解釈」に縛られず、マリアのように「おことば通りになりますように」と従う姿勢(パラダイム・シフト)が必要。考えすぎず、幼子のように「分からないことは主に委ねる」という信仰の姿勢を育もう! ◆信仰による「自発性」(33~35節) ・これはいわば「オレたちはこんなに信仰深く生活しているのに、お前は弟子をちゃんと躾けてない!」と言っている。確かにパリサイ人たちは外面的には「敬虔な習慣」を身に付けていた。 ・「習慣的に行う」ということは助けにはなるが、徐々に「初心を忘れ、心が伴わなくなる」という危険性も含んでいる。ここでイエスが話されたのは、「習慣によって」ではなく、「内側からこみ上げてくる心に動かされた(自発的な)断食」のこと。これは『神との個人的な関係』に基づいて日々成長して行くもの。 今日の要点: 「アタマ」ではなく、『御霊』 ◎更に深い学びのために ①断食したことはありますか? それはどんな理由からでしたか? 結果としてどのようなものを得られましたか? ②信仰生活の中で「習慣的になってしまって、あまり心が伴わなくなっている」と感じる分野はありますか? ③上記の分野をリフレッシュさせるために、どんな工夫ができると思いますか? Outline of the sermon “Be a fresh wineskin!” (14/12/2025) [Luke 5:33~39] ◆Paradigm shift. ・“Old wineskin” is inflexible so that it cannot contain “the Read more…
聖書
(635) “主によって、人の歩みは確かにされる。”
英語の「prepared(整えられた、準備された)」という語は、もともと古代の王様が「自分が出向こうとしている目的地に、事前にしもべを送って下準備をさせておく」ということに用いられた言葉だそうです。もちろん人間には足りないところや、能力や経済に限界があるので、必ずしも『王の到着』にふさわしい準備ができないこともあるわけで、そんな時はしもべたちは王の怒りに触れて、罰を受けたり、時には殺されてしまうこともあったでしょう。 さて、このことに比べると私たちの『王の王』である神様は、ご自分のしもべである私たちに先立って「行く道を整えてくださる」というのですから、全く驚くべきことです。しかも私たちの神様は全知・全能であり、愛に満ちておられます。古代の王のしもべたちのように、考えが足りなかったり、準備が不十分だったりすることはありません。全てが完ぺき(私たちが期待する以上)なわけです。 もちろん私たちは、神が私たちの将来にどのようなことを備えてくださっているのかを知らないので、人生の途上で不安に襲われたり、たじろいだりしてしまいます。時には人生を投げ出したくなってしまうことがあるかもしれません。そんな私たちに対して神様が望んでおられることは「優れて立派な人間になること」ではなく、ただ単純にご自身に信頼することなのです。
聖書
(634) “私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。”
『神』という方は「感情を持たずに機械的に物事を運営する存在」というように考えている方がいるかもしれません。しかしそれはとんでもない間違いです。聖書は「神は人をご自身に似た者としてお造りになった」と述べています。ということは、神様は私たちの想像以上に「情緒豊かな存在」に違いありません。但し、私たちのように「感情的になり過ぎてつい失敗を犯す」というようなお方でもありません。もしそうだとしたら、恐らく人類は今日まで生き残れなかったことでしょう。 神は私たちの『喜怒哀楽』を楽しまれます。そのような存在として私たちを創造されたのですから。神は私たちが喜び踊っている時、共に心を躍らせておられます。私たちが悲嘆に暮れている時、共に心を痛めておられるのです。時には私たちは苦しみのあまり、神をののしったり暴言を吐いたりするかもしれません。そんな時も神様は、じっと私たちを見つめて、その思いの丈を受け止めてくださっているのです。 神にとって最も辛いことは、私たちからののしられることではなく、『無視』されることです。ですから、たとえ私たちが神様を「怒りのはけ口」のように扱ったとしても、私たちを歓迎し、それらの思いを受け止めてくださるのです。そして、もし私たちが神への信頼の故に自分の「悲しみ・苦しみ・嘆きや思い煩い」を携えて御前に近づいて行くなら、神ご自身にしか与えることのできない「慰め・癒し・平安」を注いでくださり、またそれらの試練を乗り越えて生きる力を与えて下さるのです。
メッセージ
2025年11月30日 「イエスが招く人々」
礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ 「イエスが招く人々」 (30/11/2025) [ルカの福音書 5章27~32節] ◆「取税人・罪人たち」とは?(30節) ・当時『取税人』は決められた額よりも多めに徴収して着服していたため「罪深い」とされていた。またここでいう『罪人たち』とは、別に「前科者」というわけではなく、律法に厳格なパリサイ人たちの基準では律法を守れていない「落ちこぼれ」のような存在。恐らく現代社会においても彼らのように「どうせ自分なんて…」と自己卑下しながら生きている人は多いのではないだろうか?イエスはそのような人々に近づかれる。 ◆私たちは「誰に」遣わされているのか?(31~32節) ・人が救われて神との交わりを持つようになるために必要なことは、①「自分には神の憐れみが必要だ」と自覚す ること。そして、②「自分で何とかしよう」ではなく、『神の許』へ行くこと。『悔い改め』とは「自分に頼ること」から、『神』に向かって向きを変えることである。 ・また、私たちがキリストに忠実に生きようとする時、次のどちらかになる傾向がある。 ①純粋による孤立 ②妥協による埋没 しかしイエスは純粋さを保ったまま人々の中へ入って行った。 ・私たちは、このイエスの模範に従って、「神の憐れみに押し出されて」遣わされる者である。[ヨハネ20:21] 今日の要点: 純粋のままの埋没 ◎更に深い学びのために ①イエスが今の時代にこの地上に人として来られたとしたら、どのような人々を招こうとされると思いますか? ②ルカは何故、他の福音書と違って、この発言を「弟子たちにも向けられたもの」として書いたと思いますか? ③私たちはどのようにして、純粋さを保ったまま『罪人たち』の中へと入って行くことができるでしょう? Outline of the sermon “Whom is Jesus inviting?” (30/11/2025) [Luke 5:27~32] ◆Who are “sinners”?(Verse 30) ・This “sinners” doesn’t indicate “criminals” but those who Read more…
聖書
(633) “自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。”
『ルール』というと、「大切なものだけど、何となく不自由さを感じる」というイメージがあるのではないでしょうか?確かにそういった面もあるかもしれませんが、実際は正しい『ルール』が無い方が、私たちはずっと不自由になるのです。 例えば「交通ルールなんて面倒だ。どうして赤信号でいちいち停まらなければならないんだ!」といって皆が信号無視をしていたら、たちまち混乱が起きて多くの人々が時間通りに目指していた場所へ到着できなくなります。またほとんどのスポーツは、正しいルールや決められた白線に沿ってプレーしなければ、選手も観衆も楽しむことができません。『ルール』は本来私たちを「縛る」ためではなく、「自由にする」ためのものなのです。 聖書の中には、現代社会の法律の基礎となっている多くの『原則』があります。「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」「親を敬え」などなど。これらの『ルール』は、神が私たちを「不自由にしよう」という意地悪な心で定められたものではなく、むしろ深い愛をもって、私たちが「自由で豊かな人生を生きるため」に与えてくださったのです。 神の愛と誠実さに信頼し、聖書で教えられていることに忠実に従って行く時、私たちは神の祝福と守りの中で、自由で豊かな人生を生きることができるのです!
メッセージ
2025年11月23日 「律法学者たちの間違い」
礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ 「律法学者たちの間違い」 (23/11/2025) [ルカの福音書 5章17~26節] ◆「彼らの信仰を見て」(20節) ・この人々は癒しを求めて来たのに、なぜイエスは『罪の赦し』を宣言したのか?それはそれがイエスの最大関心 事だったから。[ルカ19:10] では彼らには「赦されるべき罪」があったのか?もちろんである。では「罪が赦されるための信仰」とは?[へブル11:6] 彼らは「神は求める者に報いてくださる方」と信じ、イエスはそれを見た。 ◆罪を赦す権威(21~22節) ・律法学者やパリサイ人たちは何故「イエスは神を冒瀆している」と考えたのか?「神以外には罪を赦すことなん てできない」と思っていたというが、そういう彼ら自身が、神の位置に自分を置いて「人を罪に定めて」いた。 ・私たちは「固定観念や先入観」に捕らわれると、物事の真意を見失ってします。律法学者たちは「神は善を祝福 し、悪をさばく方」と考えていたが、その『善悪』を自分勝手な価値観に立って定めてしまっていた。 ・『神の心』は、「すべての人が救われて真理を知ること」(Ⅰテモテ2:4)である。律法学者たちは人々を「さばかれるべき罪人」と見たが、イエスは「救われるべき失われた人」と見た。私たちは、この律法学者たちを反面教師とし、自分を神の立場に置くことなく、へりくだって正しく神を知り、またこの方を正しく伝えて行こう! 今日の要点: 先入観なしに、イエスを通して神を見る ◎更に深い学びのために ①イエスは中風の人に向かって、何故「あなたの罪は赦された」とおっしゃったのでしょう? ②律法学者やパリサイ人たちはどんな点で間違っていますか? 同様の間違いをしてしまったことがありますか? ③私たちはどのようにして、先入観なしに正しく神のことを知り、また伝えて行くことができるでしょう? Outline of the sermon “Scribes and Pharisees’ mistake.” (23/11/2025) [Luke 5:17~26] ◆Jesus saw their faith. (Verse 20) ・Why did Read more…
メッセージ
2025年11月16日 「イエスと『神と人々』との関係」
礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ 「イエスと『神と人々』との関係」 (16/11/2025) [ルカの福音書 5章12~16節] ◆ツァラアトに冒された人(12~13節) ・「ツァラアトの癒しの記事」は旧約聖書にも出て来るが、そこでは病人に「触れて」はいない。ルカの福音書の別 の箇所でも、イエスは患者に触れずに癒している。ところがここでは敢えて、伝染性の強いツァラアト患者に「さ わって」癒された。必要がないのに敢えて「さわって」いるところに『イエスの心』が表現されているに違いない。 ◆イエスにとっての最優先事項(15~16節) ・以前学んだように、イエスは「できるだけ多くの地域を巡って、できるだけ多くの人々に『神の国の福音』を伝えること」を目標としていた。しかしイエスは決して『doing』に捕らわれることはなかった。彼にとっての第1優先事項 は、いつでも「御父との交わり」だった。 ・英語に「align」という単語がある。「正しい関係に微調整する」のような意味。実は『祈り』の第1目的は「神に願いを聞いてもらうこと」ではなく、「神にalignすること」ではないだろうか。そして正にイエスはそのために、また私た ちに対する模範として、朝に夕に御父の前に出ていたように思う。 ・日々人々と正しく接するために、まず「神の前に自分自身を正しい位置に置くこと」によって備えましょう。 今日の要点: 神にalignする ◎更に深い学びのために ①どうしてここでイエスは、敢えてツァラアト患者に「さわった」のだと思いますか? ②あなたにとって『祈り』とはどのようなものですか? また、1日にどれくらい祈っていますか? ③日々1人1人と適切に接するために、自分自身をどのように備えることができるでしょう? Outline of the sermon “How did Jesus relate to ‘God & people’?” (16/11/2025) [Luke 5:12~16] ◆A man of leprosy. (Verses12~13) Read more…