2013年11月10日 「自分ではなく、キリスト」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「自分ではなく、キリスト」    (10/11/2013) [ガラテヤ 1:11-17]    *ここからしばらくパウロは、自分の証をしながら「何故自分ではなくキリストなのか」を語っている。 ◆私たちは主のもの [13節]    ・『神の教会』    「パウロの回心の証」[使徒9:1-9] イエスは「わたしを迫害している」と言われた。    ・私たちは2つの理由で「主のもの」。[詩100:3,イザヤ43:1]    しかし実際はそれ以上の存在! ◆恵みによって召された   ・パウロは断食していた3日間(使徒9:9)何を考えていたのか?     「人生をかけていたことが間違っていた!人を死に追いやることさえした!」(特に男性にとっては死活問題)     『生きるにふさわしくない自分』に気付いたとき、真の意味で『キリストの恵み』が分かった。   ・[14~16節]「生まれたときから選び分け、恵みをもって召してくださった方」      だからこそパウロは、「神の恵みによる招き」に対して、その『恵み』を拒み「自分の力でその資格を      主張しようとする姿勢」に陥ろうとしているガラテヤ人に対して、激しく抵抗している。 ◆「理にかなう神」ではない!   ・パウロは人一倍ユダヤ教に精通していた(14節)のだから、ユダヤ人宣教に召されてしかるべき。    神はこの世でいう『Logical』な方ではない!「理にかなったこと」ではなく、「みこころにかなったこと」をなさる。   ・「何をして生きるか」は重要ではない!何をしていても(愚かに見えても)キリストが輝き出ていることが重要。 ⊚私たちの人生は「神の恵みによる選び(召し)」に対する「信仰による応答」である!     Outline of the sermon    “It’s no longer me, but Christ.”   (10/11/2013) [Galatians 1:11-17]    *From this Read more…

(99) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

私の知り合いの牧師が、「ぜひキリスト教のお話しをしてください」と幼稚園に招かれました。彼は幼い子供たちにも分かりやすく、単純明快に『キリスト教における救い』を伝えようと、子どもたちの前で次のように言いました。「イエス・キリストを救い主と信じるだけで、天国へ行けるんですよ~。」 すると、後ろのほうに座っていた年長の男の子が大声で応えました。「そんなウマい話があるもんか!」 笑い話のように聞こえますが、実際「『救い』というものは、そうやすやすと手に入るものではない。 厳しい修行が必要なはずだ。」というのが、大方の人々の考えのようです。しかしこの考えは2つの点で問題があります。 1つ目は、「どんなに頑張っても、誰もカンペキにはなれない」ということです。これは誰もが認めるところでしょう。立派な人になりたい、と頑張れば頑張るほど、自分がイメージする「立派な人」には到底手が届かないことを思い知らされ、多くの人はうつ病になったり、罪責感にさいなまれたり、悪くすれば自殺に至ったりもします。 2つ目は、誰かが仮によく頑張った末、自分が目指していたゴールにかなり近いレベルまで達することができたとします。そのような人はつい『高慢』に陥ります。そしてそれができない多くの人に対し優越感を感じたり、見下したりするのです。 面白いことに、聖書は「悪魔が私たち人間を神から引き離す常套手段は、『罪責感』と『高慢』である」と教えています。『罪責感』は私たちに「自分はこんなにダメな人間だから、神様が愛してくださるはずはない」と思わせますし、『高慢』は私たちに「お前にはどんなことだってできるのだから、神様なんか必要ない。そんなのは弱い人間だけがすることだ」とささやきます。悪魔にマンマと騙されている人はいませんか? 「信じるだけで救われる」というのは、『ウマい話』に聞こえるかもしれませんが、これは「救いはタダである」という意味ではありません。私たちの側で払う犠牲はありませんが、神様の側では大きな大きな犠牲が払われたのです。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちです。私たちの側で努力をして「救いを勝ち取ろう」とすることは、この『神が払われた犠牲』の価値を認めまいとする行為なのです。救われるために必要なのは、「神様、あなたがそれほどの犠牲まで払って私を救おうとしてくださったことを、心から感謝します」と言う、素直でへりくだった信仰だけなのです。

2013年11月3日 「キリストの恵み」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「キリストの恵み」    (03/11/2013) [ガラテヤ 1:6-10]  ◆書き出しのことば:『驚いています(サウマゾー)』[6節] = 「驚きあきれかえる」    ・『ほかの福音』:後で詳しく出てくるが、要するに「律法を守ること(行い)による救い」のこと。 ◆注目すべき2つのポイント   ①私たちの罪は、神の前に、自分では償いようがない    ・私たちの罪は『行い』ではなく、創造主である神に対する『不遜・不信仰』であり、その顕著な現れは     「自己中心や高慢」。行いによって救われようとすることは、これらの『罪』を助長する。    ・悪魔はいつも私たちの思いを『神』から引き離し、『自分自身』に向けさせようとする。    [8節]   ②神はただ『キリストの代償』の故に私たちを受け入れてくださる [6節]    [Ⅱコリント13:13]の真意    ・『恵み』は十字架のわざによって明らかにされ、キリストの許に来る者にのみ有効となる。[ガラテヤ3:1]    ・イエスの懇願[マルコ14:36]を、父なる神は私たちに対する愛の故に拒んだ。    ・神の目的は「私たちの救い」だけではなく、すべての造られたものがキリストに注目し、『神の御姿の     正しいイメージ』をつかむこと。[コロサイ2:9](それは「動植物」や「コワいおじさん」などではない!) ◆見習うべきパウロの態度 [10節]   ・パウロこそ、かつては「律法(行い)による救い」を切に追求していた人だった。[ピリピ3:4-8] 「神が『身を裂かれる思い』でひとり子を十字架におかけになった」、この驚くべき愛のわざを 「律法を行うことによる自己満足」 などに決して置き換えてはならない!     Outline of the sermon    “The grace of Christ.” Read more…

(98) “キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

我が家(渋沢ファミリー)には2つの『家訓』があります。1つは「Learning Experience」すなわち「『失敗』は悪ではなく、そこから多くを学ぶチャンスである」ということ。もう1つは「昨日の自分より今日の自分」すなわち「自分と他の人とを比べて優越感を感じたり劣等感に落ち込んだりするのは愚かである。それよりも、今日の自分が昨日の自分より何か新しいをことを学んだり、成長することを目指そう」ということです。この家訓のおかげで、我が家の子供たちは実にユニークにのびのびと育ってくれています。 このような『家訓』を思いついたのは、もちろん聖書からヒントを得てのことでもありますが、もともとは私たち夫婦の関係からです。私たち夫婦は『正反対』と言えるほど、考え方や性格が違うのです。 私がまだ学生の頃、何かにつけて几帳面で細かいことにこだわりたくなる性格を見て、私の母はよく言ったものです。「お前みたいに細かいことが気になるタイプは、よっぽど『ズボラ』な奥さんをもらわないとダメだよ。」 これを聞いて私はいつも「オレは絶対そんな嫁さんと一緒には暮らしていけない!」と言い返していました。ところが、私がゾッコン惚れ込んでしまった女性が、(もちろん結婚してから分かったことですが…)何とまさしくその『ズボラ人間』だったのです。 彼女のそのような性格に気付き始めたのは、結婚式の翌朝からでした。前の晩に使った歯磨き粉のチューブが、確かに私はすその方から丁寧に押し出していたはずなのに、何故か中央の部分がギュッと押しつぶされていたのです。その時は「まあ、気のせいか」で済ませたのですが、そのようなことが毎朝毎晩続くので、2~3日後のある日私が新妻に「ねぇ、もしかしてキミは歯磨き粉のチューブを使うとき、真ん中へんを握るの?」と尋ねると、彼女はポカンとして「たぶんそうだと思うけど、他にどんな方法があるの?」と聞き返してきました。私は「イヤ、別に。」と言ってその場をやりすごしましたが、これは1つの例であって、このような食い違いは生活のあらゆる場面で現れ始めたのです。何度かのバトルの後私が下した決断は、「彼女は間違いなく、神様が私に与えてくださった『最高の妻』だ。このような妻がいるおかげでは、自分と違ったタイプの人間を愛し受け入れること、また新たなものの見方を学ぶことができる。」というものでした。 自分と違った考えを持つ人や、ちょっとした間違いや失敗に直面すると、私たちはつい相手や自分を裁いてしまいがちです。でも、はっきり言って世界は「自分と違ったタイプの人々」で満ちており、また「失敗しない人」など1人もいません。そのようなことにいちいちイラついていてはキリがありませんよね。むしろ私たちは、神様が造られた『ユニークな人々』を受け入れ、また神が私たちに対して寛容であられるように、自分や他の人の失敗に寛容に対処できる者でありたいものです。

(98) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。”

こんな質問をする人がいます。「もし神様を信じたなら、人生はすべてうまく行くのでしょうか?」 答えは残念ながら『ノー』です。ただこれだけは言えます。「神を信じても試練は減らない。しかし、もはや1人で立ち向かわなくてもよい。」 神は『問題のない人生』を約束してはいません。しかし『勝利ある人生』は約束しています。神が望んでいるのは、私たちが「幸せになること」ではなく、「神と共に生きるようになること」です。 もし神を知らない人に「あなたにとって、幸福な人生とは?」と尋ねるなら、きっと「すべてに満ち足りて、心配のないこと」などと答えるでしょう。ではそのような人生を生きている人は『神との関係』を求めるでしょうか?いいえ!恐らく「私はすべてにおいて満ち足りている。私には神など必要ない」と言うでしょう。だからこそ神は私たちにこの地上での「すべてにおける成功」を与えないのです。もしそのような人生を歩んでいる人がいるとしたら、もしかしたらその人は『悪魔の術中』にまんまとはまっているのかもしれません。 私たちが切に神を求めるのは、多くの場合「試練のただ中にいる時」です。順風満帆な人生を歩んでいても変わらず心から神を求めて生きる人がいるなら、あるいは問題の無い人生を歩ませてもらえるかもしれません。ところが私たちの多くはしばしば『人生の壁』『乗り越えなければならない山』に遭遇します。そのようなとき「神様、どうぞあなたと一緒にこの困難を乗り越えさせてください」と、私たちが神の許に近づくことを、神はいつも待っておられるのです。

2013年10月20日 「パウロが伝えたかったこと」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「パウロが伝えたかったこと」    (20/10/2013) [ガラテヤ 1:1-5]  ◆パウロがこの手紙を書いた理由    ・ガラテヤの教会の人々が、イエス・キリストではなく、世の状況や人々の教え(律法・割礼)の解釈に      惑わされ、本当の福音から外れて行ってしまっているのを修正しようとした。    ・私たちも日本人特有の常識(人目を気にする,救いは行いによる,宗教は教育・修業のため etc)に      洗脳され、福音の真髄(イエス・キリストを通しての神との関係)を軽んじる傾向を持っている。 ◆「イエスのよみがえり」の持つ意味 [1節]   ・悪魔の力は『罪と死』。これを打ち破れるのは、神のみ。「イエスのよみがえり」は、イエスが神の許か     ら来られ、神のみこころにかなう歩みをされた証拠。 ◆「神のみこころ」による贖いのわざ [4節]   ・『悪の世界』とは「罪と死に支配された世界」。すなわち、神と人との関係が絶たれてしまっていること。     ①人は罪あるままでは、決して神に近づくことはできない  ②私たちの罪は「神に対してのもの」   ・キリストが死なれたのは「私たち」よりもむしろ「神ご自身」のため。 『なだめの供え物』[Ⅰヨハネ2:2] ◆神の私たちに対する関心   ・神は「立派な生き方」には興味ない。どんな立派な生き方も、私たちを神の前に『よし』とはしない。   ・神の関心は、私たちが「どう生きるか」 ではなく 「どこを見ているか」。(キリストへの『依存度』)   ・この世の価値観や自尊心に『No』と言い、キリストのみことばに『Yes』と言う。[マタイ23:12]   Outline of the sermon  “This is what Paul wants Read more…

(97) “いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”

結婚25周年を記念して、妻と2人で「バヌアツ共和国ウリピブ島」へ行ってきました。ウリピブ島は1999~2003年に私たちが『宣教師』として家族で暮らしていた島で、電気もガスも水道もない熱帯のさんご礁に囲まれた美しい島です。 日本人としてこの島で暮らすと、いわゆる「無いもの」がたくさんあります。先にあげた「電気・ガス・水道」に加え、ショッピングセンター、自動車(自転車さえありません)、公園、頑丈な家、ごちそう、コンピューターゲーム、食堂、コンビニなどなど、挙げていたらキリがありません。 しかし、ちょっと視点を変えてみれば、ここには日本には無い多くのものが満ちています。豊富な大自然、エメラルド色の海、美味しい空気、子供たちが自由に走り回れる空き地、数々のトロピカルフルーツ(パパイヤ・マンゴー・パイナップル・ココナツ・グアバ・パッションフルーツ…)、そして「人々のあふれる愛」です。 10年前に私たちがこの島で暮らしていたとき、日本から若い人たちが10人ほどやってきて、3~4日島に滞在したことがありました。私たちの小さな家にはとても入りきれなかったので、言葉の不自由さを懸念しながらも2人1組にして島の家族の中にそれぞれホームステイさせました。さて、どうなったと思いますか?コミュニケーションに四苦八苦して、ちっとも島の生活を楽しめなかったでしょうか? 出発の朝、それぞれの家族に見送られながら船着場にやってきた彼らの目は『別れを悲しむ涙』であふれていました。それぞれの家族と抱き合い、「帰りたくな~い!」と叫ぶ1人1人。彼らは「ことばを超えた愛」を体験したのです。物が豊富で『便利さ』という点では随一の日本には失われてしまった「互いが必要」「人間こそ最も大切」「共に生きる」というような、『人間の原点』と言えるものを、彼らはこの数日間体験し続けたのです。 10年ぶりに訪れたウリピブ島は「ソーラーパネル」や「携帯電話」などが普及し始め、チョッピリ驚かされましたが、肝心の『人々の心』は変わっていませんでした。「オレたちの家族が帰ってきた!」と、島のどこへ行っても(小さな島なので、徒歩1時間で1周できます)人だかりになり、1時間に20メートルも進めませんでした。今回の2週間の滞在を通して「私たち人間に必要なのは、やりがいのある仕事や便利さなどよりも、何より『愛(共に寄り添って生きること)』なのだ」と改めて思い知らされました。

(96) “彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。”

「井の中の蛙大海を知らず」という日本の古いことわざがあります。「井戸の中に住んでいるカエルは、大海の存在も知らずに、自分の存在に得意になっている」というような否定的な意味で使われます。確かに「もっと広い世界があることも知らないで、ちっぽけな(自分だけの)世界だけを知って王様気取りしている」のは良くありませんが、広い世界を知ったために自分の小ささにガッカリし、萎縮してしまって大胆になれないのもどうかと思います。 ひと昔前に「世界に1つだけの花」という歌が流行りました。「ナンバー1になれなくてもいい…、もともと特別なオンリー1」というような歌詞だったと思います。いろいろな分野で「1番になること」を追求することは悪いことではありません。向上心を持ち、日々努力を重ね、更に高いレベルを目指す。すべての人はそうあるべきだと思います。ただこの「1番になること」または「何かができるようになること」が自分自身の価値を決めることのように錯覚してしまうのは危険です。「失敗すること」が『失敗者になること』とは違うように、「より多くのことができること」や「より多くの物を持っていること」と、「より優れた人物であること」とは全く別のことです。『持ち物』や『能力』に自分の価値を置いているなら、火事などですべてを失った時、また病気や事故で体の自由を失った時に、生きる希望まで失ってしまうことでしょう。 私たちの『自信』をいうものは、「何かが人よりも優れている」ということに根拠を置くのではなく、「自分はいったい何者なのか」ということに根差すべきです。聖書は「あなたは天地万物の創造者である神によって造られた最高傑作である」と述べています。この造り主は不動・不変であり、それによって与えられたこの価値観も永遠に揺らぐことはありません。まさにあなたは「もともと特別なオンリー1」であり、「『神のかたち』を宿した、神に愛されている者」なのです。 さあ、もう周囲を見回して自分と他の人とを比べるのは止めにして、上を見上げながら「神様に造られたユニークな作品としての自分」 に磨きをかけていきましょう!

2013年9月22日 「『恵みの歩み』の実現」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「『恵みの歩み』の実現」    (22/09/2013) ◆イエスが歩まれたように…   ・先週の復習(イエスのとりなし)[ルカ23:34]   ・私たちは「イエスの模範」に従うことを期待されている。[ヨハネ13:15] ◆「神(父)との関係」に生きる   ・「主人としもべのたとえ話」[マタイ18:23-27(前半)] ➝ 『愛に痛んだ父』 ➝ [マタイ18:28-35(後半)]   ・しもべが仲間を赦せなかったのは、主人の前から離れたから。(『赦し』は「信仰の行為」[ローマ12:19]) *『恵みの歩み』は、「日々、神との新鮮な関係に生きる歩み」。 ◆御霊による実現   最も重要な命令 = 「御霊に満たされなさい。」[エペソ5:18]   ・神は「すべての人を恵みによって救う」とお決めになった時、「すべての人にわたしの霊を注ぐ」ともお決めになった。   ・御霊は、私たちが『神の子ども』であることを証する。[ローマ8:15-16]   ・『神の子』として生きるのは、「思い込み」によるのではなく「聖霊」による。[Ⅱコリント3:17-18]      「主と同じかたち(18節)」 : 『神の子』としての実質。神との親密な関係。(子は次第に親に似てくる)  ・この世での成長は、「自分でできるようになる」こと。 しかし実際は「自分に頼る者」は神の前に失われている。 「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった!」 [ルカ15:24]     Outline of the sermon    “Fulfilling ‘Grace Walk’.”   (22/09/2013) ◆ Live Read more…