(22) あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

「慌ててワイシャツのボタンを留めていたら、1つずつズレてしまって、最後の1つが合わなくなってしまった…」そんな経験はありませんか?あなたはその時どうしましたか?「もう時間がないから、そのまま出かけてしまった」などという人はあまりいないでしょう。きっと1度全部外して、もう1度慎重に良く確認しながら、キチンとボタンを留めていくはずです。 ところが、これがもう少し複雑なモノ(もっと時間がかかるモノ)だったとしたら、どうでしょうか?「やっと編み終わりそうだった『手編みのマフラー』」とか、「数年前に借りて、返すのを忘れてしまっていた『友人の本』(友だちは引っ越してしまって、引っ越し先を調べなければならないとしたら…)」、そしてまた「何年も前にできてしまった(夫婦や親子などの)『人間関係の溝』」などなど…。思わず「見なかったことにしよう」「今更何ができるって言うんだい!」そう思いたくなってしまうのも無理ないかもしれません。 しかし、マーカス・アウレリウス博士はこう言っています。「『過ち』とは、多くの場合、『してしまった』ことではない。それは、『すべきことをしていない』ことである。」 ある意味「してしまったこと」はもう取り消すことはできません。しかし「しはぐっていること」は今からでもまだチャンスがあります。あなたが臨終の床に就いたときに「ああ、あのことをやり遂げておくんだった!」と後悔するよりも、さあ、今からでも間に合います。悔い改めて(再決心して)立ち上がり、新たな前進のために、初めに戻りましょう!

(21) 人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

ある親子がロバを連れて旅をしていました。すると通りがかりの人が言いました。「何てもったいない!せっかくロバを連れているのに、誰も乗っていないなんて。」父親は「それもそうだ」と思い、息子を乗せて旅を続けました。すると別の通りがかりの人が言いました。「何て息子だ。自分1人ロバに乗って、父親を歩かせておくなんて。」息子は恥ずかしくなり、自分は降りて、代わりに父親をロバに乗せました。しばらくすると、また別の通りがかりの人が言いました。「何て父親だ。自分1人ロバに乗って、息子を歩かせておくなんて。」今度は父親が恥ずかしくなり、相談の結果、2人ともロバに乗ることにしました。すると今度は、別の通りがかりの人が言いました。「まあ、何てこと!あんなひ弱なロバに、人が2人も乗っているなんて!」親子は途方に暮れてしまって、とうとう終いには2人でロバをかついで旅を続けたそうです! 果たして私たちは「バカな親子だ」と笑えるでしょうか?私たちは皆、多かれ少なかれ「他人の視線や言葉を恐れる性質」をもっています。もちろん、周囲の人々に気を配ることは大切ですが、それに振り回されて自分を見失ってしまうのは愚かなことです。 真に周囲の人々に気を配り、必要な助けを与えることのできる人、それは「人の目を恐れず、日々自分のありのままを受け入れてくださっている神の愛を、心の拠り所として抱いている人」なのです。

(20) わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、私はあなたがたに模範を示したのです。

『学ぶ』という言葉は、『倣ぶ』という言葉から来たと言われています。すなわち、もともと人間は物事(特に『人生』)について、学校で『学んだ』のではなく、身近な人(主に親)がしているのを見て、それを真似ながら身に付けていったわけです。 これは何も昔の話だけではありません。現代でも同様のことが起こっています。「子は親の言うことは行わないが、やることは真似する」と言われている通りです。ですから私たち(特に子を持つ親)は、後の世代に良いものを伝えていくために『良き模範』とならなければいけませんよね。では、私たちは特にどのようなものを後の世代に残していったら良いのでしょう? 2つのことが言えます。1つは「正直さ」です。残念ながら、私たちは誰1人『完璧な模範』となることはできません。それはイエス・キリストお1人で十分です。人々が私たちに期待するのは「正直な姿勢」です。残念ながら間違いを犯してしまった時、それを隠そうとしたり、「だってOOのせいで…」などと弁解しようとするのではなく、「ごめんなさい。私が悪いんです」と過ちを素直に認める姿勢を示すならば、彼らはきっと「過ちを赦す心」「失敗を恐れずチャレンジする勇気」「間違いを認める謙遜さ」を学ぶことでしょう。 もう1つは「肯定的な姿勢」です。ある調査によると、親が子供に語る言葉の90%は『否定的な言葉』だそうです。「何度言ったら分かるんだい」「どうしてお前はいつもそうなんだい」「ちっとは頭を使ったらどうだい?」などなど、あなたも心当たりがありますか?一方「肯定的姿勢」は、人々の秘められた可能性を見出し、彼らにそれを気付かせ、励まし、それらの才能が更に開発されるよう、具体的な助けを与えるのです。これらの人は次のように言います。「大丈夫」「あきらめちゃダメ」「あなたならきっとできる!」 人生に困難はつきものです。必ず何度かは、心がくじけてしまいそうな時がやってきます。そんな時、上記の2つのような模範によって育まれ成長した人々は、何と幸いなことでしょうか。

(19) 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

あなたは今朝どんなことを考えながら目覚めましたか?「やった!また新しい1日が始まる。今日はどんな素晴らしいことが待っているのだろう?」と希望に満ち溢れて目覚めましたか?それとも「あ~あ、また朝が来ちゃった。起きたくないなぁ。また1日生きなくちゃならないのかぁ…」と憂鬱な気分で目覚めたのでしょうか? 実は、私は毎朝ワクワクしながら目覚めます。もちろん今クライストチャーチは冬なので、なかなか布団から出たくないのも事実ですが、それでも元気よく目覚めることができるのは、私が愛する人々に囲まれて生きているからです。最愛の妻、子供たち、そして教会の1人1人のメンバー。どの顔を思い浮かべても、私を笑顔にしてくれます。それは彼らが私に何かをしてくれるからではなく、私の内側から「今日も彼らの役に立ちたい!」という思いが溢れ、エネルギーが湧いて来るからです。 私は1日を、これらの人々の祝福のために祈ることから始めます。するとあっという間に1時間くらい経ってしまいます。でもそれは決して無駄な時間ではなく、むしろ私にとって『至福の時』だと言えます。たとえその日直接それらの人々に会える機会がなくても、少なくとも私は祈りの中で、神様を交えて、その人々に会ったのですから。 私は「この『愛』こそが、人を毎朝目覚めさせるための真の活力だ」と思うのです。私たちの日々の生活を充実したモノにしてくれるのは「活動そのもの」ではなく、「それらの活力の源」となるべき『愛』なのです。ただタスクだけをこなす「愛のない日々」は味気ないものです。そしてこの『愛』は、必ずしも「愛らしい人々が周りにいる」ことから来るのではなく、「愛に溢れたお方とつながっている」ことから始まります。私たちをこの『愛』に目覚めさせるために、イエスはこの地上に来られ、十字架の上から「私たちへの熱い愛」を注がれたのです。

2011年6月12日 「主役はイエス・キリスト」

説教あらすじ「主役はイエス・キリスト」(12/06/2011) ◎[ヨハネ3:22-30]   ◆ ヨハネもイエス(の弟子たち)もそれぞれが人々にバプテスマを授けていた。[22-23節] このことに関して、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人との間で、論争が起こった。[25節] ・ヨハネを通してバプテスマを受けた人々が、いとも簡単にイエスのもとへと移っていくことは、彼らには理解 しがたいことに思えた(26節)が、ヨハネ自身はむしろ「これこそが起こるべくして起こっていることである」と自分が神のご計画の一部を担えたことを喜んだ。[27-28節]   ・神が私たちの内になさる『きよめ』の働きは、使徒ペテロの次のことばによく現れている。[使徒2:37-38] ①悔い改め  ②イエスの名によるバプテスマ  ③聖霊   ◆ 続いてヨハネは、自分とイエスの関係について、面白いたとえを用いている。[29節] ・花婿(イエス)  ・花嫁(教会・私たち)  ・花婿の友人(ヨハネ) ・花嫁が美しく整えられていく(きよめられていく)のは、花婿のため。そしてその友人は、花嫁を迎えようとして いる花婿の喜びをただ共有するだけの存在。ヨハネはこの喜びに満たされていた。   ◆ 「私たちの喜び」とは? ・私たちは「自分とイエスの関係」においては『花嫁』。日々聖霊によって、花婿イエスのために整えられ、愛を 増していく喜び。 ・しかし、人々にこのイエスを紹介していく時には、私たちはヨハネ同様『花婿の友人』。主役は花婿であるイエ ス。私たちは彼の素晴らしさを証しする喜びを味わうのであって、自分が注目される喜びではない。私たちの 使命は、ヨハネがしたように「イエスに関する真実」を大胆に知らせること。[ヨハネ10:41]   ★ 人々にイエスのことを知らせるために必要なのは、「伝道のスキル」ではなく、 「どれだけイエスのことを知っているか」 ということ。 更に深くイエスを知り、その素晴らしさを知らせていこう!   考えてみましょう ・バプテスマのヨハネは、どのような喜びに満たされていたのでしょう? ・私たちの「キリストの花嫁」また「花婿の友人」としての喜びは、どのようなものですか?

2011年6月5日 『さばき』と『永遠のいのち』

(最初の45秒間沈黙がありますので予めご了承ください。) 説教あらすじ「『さばき』と『永遠のいのち』」(05/06/2011) ◎[ヨハネ3:16-21]   *「クレジットカード」と「私たちの人生」の共通点。➝ [ヘブル9:27] このさばきをどうやって免れるか?   ◆ [16節] 神の「ひとり子(イエス)」という言葉は何を示すか? ①確かに神のもとから来られた方 ②神のご性質(愛・力・聖さ)そのままを表現する方 ③他に代わりはない ・神はその『愛』のゆえに、イエスを「与えられた」。「レンタル」ではない。 ・それは私たちに「さばき」から「いのち」へ移る道を備えるため。     ◆ [17-18節] 「さばき」というと『裁判』を思い浮かべるが、ここでいう「さばき」は、次の点で違う。   いわゆる「さばき」 聖書がいう「さばき」 さばくのは? 裁判官 自分自身 さばかれるのは? 罪(行為そのもの、またその背後にある動機) 心の態度(神への扉を開くか否か) *ヘビースモーカーの「焼け石に水」の話 ➝ 「今、神のもとへ立ち返るかどうか」の選択にかかっている。     ◆ [19-20節] 「光」=神との交わりの中  「やみ」=悪魔の支配下   ※私たちはこのどちらかにいる。 ・悪魔は無理矢理力ずくで私たちを地獄へ引きずり込むわけではない。ただ私たちの心に「悪の種」を蒔くだけ。 この種を育てるのは他ならぬ私たち。そして「やみ」はそのための栄養分となる。   Read more…

(18) 私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。

あなたにとって『神様のイメージ』はどんなものですか?「白いヒゲをはやした柔和そうなおじいさん」「さぼってるとバチを当てる見張り人のような存在」「何でもお願いを聞いてくれるサンタさんみたいな人」などなど、いろいろありそうですね。 聖書全体からつかみ取れる『神様のイメージ』は、言ってみれば「関係を取り持つキューピット」のような方です。神様が私たちに最も望んでおられることは「正しい行いに生きること」ではなく「正しい関係に生きること」なのです。イエス・キリストは『最も大切な戒め』として「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」とおっしゃいました。そしてそのような愛は、私たち1人1人が「神様との正しい関係」の中に招き入れられない限り、決して持つことができないのです。 神様が私たち人間をお造りになったとき、「ご自分との関係の中に生きるように」、そして「神様との関係の中で育まれた『愛』をもって、人々が互いに愛し合うように」と意図されたのです。ところが、この「神様との関係」というのを無視して、己を神のごとくみなし、自分勝手な価値観で生きるようになった私たちは、もはや『真実の愛』を見出すことができず、「心から信頼し、愛し合える関係」を求めて、日々さまようようになってしまいました。 神様は今日もあなたを招いておられます。あなたと神様との間を隔てていた壁は、イエス・キリストの十字架での『身代わりの死』によって取りのけられました。私たちは、このキリストを通して神様との関係の中に生かされるとき、神様が1番初めに意図されていたとおり、ウソもごまかしもない、決して失望させられることのない、『真実の愛に根ざした関係』を築きながら生きることができるようになるのです。

(17) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 「口はわざわいのもと」とは、昔から日本で言われている言葉です。聖書にも「愚か者も黙っていれば賢い者と思われる」とあります。このように、私たちが語る言葉は、しばしば人を傷つけ、ガッカリさせ、己の愚かさを露見させるきっかけとなり得ます。しかし、かと言って、全く何も語ることなく一生を過ごすことはできませんよね。では、一体どうすれば良いのでしょうか? イエス・キリストはおっしゃいました。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」と。私たちは何か言うべきでないことを言ってしまったとき「心にもないことを言っちゃった…」などと言ったりしますが、そんなはずはありません。心にあったからこそ話してしまったのです。ということは、私たちの『語る言葉』を変えるには、まず『心の中にあるもの』から変えなければなりません。 ところで、私たちの『心の中にあるもの』というのは、一体どこからきたのでしょうか?お腹の中から自然と湧いてきたのでしょうか?いいえ、そのほとんどは、私たちが意識的、または無意識に自分で心に取り込んだのです。家族や友だち、新聞や雑誌、そしてテレビやインターネットなどからです。そして非常に残念なことに、それらのほとんどは、否定的・破壊的な情報に満ちており、本来私たちが触れているべき「崇高で愛に満ちた情報」から隔絶しているのです。 『聖書』の中で神が私たちに語りかけることばは、『愛と尊厳』に満ちています。「わたしはあなたを崇高な目的のために造った」「わたしは永遠の愛をもってあなたを愛した」「あなたはわたしの目に高価で尊い」「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」…。私たちがこれらの『真理のことば』に絶えず耳を傾けて生きるとき、私たちは「良い倉」から「良い物」を出す、「聞く人に恵みを与える者」とされていくのです。  

2011年5月22日 イエスを見上げなさい!

説教あらすじ「イエスを見上げなさい!」(22/05/2011)   ◎[ヨハネ3:9-15]   *イエスが話した「地上(見える世界)のこと」と「霊的な(見えない世界の)こと」との関連性を、ニコデモ は理解しなかった。[9-10節] 彼も他のユダヤ人と同様「見れば信じる」という姿勢を持っていた。   ◆「見えない世界で起こる出来事」が「見える世界」に影響を与えるのであって、その逆ではない。それ故 私たちは、「見える世界で起こること」から、その背後にある「見えない世界」を推察することができる。     ◆ イエスも同様にして、目に見えない「天の御国」について証しされようとした。[11-12節] ・イエスは「天の御国」を人々に理解させるため、様々なたとえを用いられた。 ・また、イエスご自身こそ「見えない世界」に先に存在し「見える世界」に現された大いなる実例であ り、「天の御国」を表現するために御父が地上に送られた『天の御国の究極のたとえ』。 ・神は地上の歴史の中で、私たちが悟るべき『救いの概念』の原型を、様々な形で表現して来られた。 (例)①ノアの箱舟  ②ソドムとゴモラの滅亡  ③アブラハムとイサクの物語     ◆ そしてここ[14節]では、もう1つの例として「荒野で上げられた蛇の話」[民数記21:4-9] をあげている。 ・この出来事に含まれているいくつかの重要な真理 ①「かみつく蛇」:この世の災いは、私たちと神との関係が壊れた結果としてやってくる。 ②「かまれた人々」:神との関係が壊れた結果、私たちは、罪・死・さばきに定められた。 ③「青銅の蛇」:神は、私たちを罪と死から救うために、イエス・キリストを贈られた。 ④「青銅の蛇を見上げる者は生きる」:イエスを「神からの救いの道」として受け入れる者は 『永遠のいのち』を得る。[15節]   ・ここで「青銅の蛇を見上げるかどうか」は『信仰』の問題。(『知的納得』ではない。) 「回復の兆し」は、信じて見上げるまでは現れなかった。納得できるのを待っていた者たちは死んだ。 ・人々が「信じて蛇を見上げる」のを助けたのは、「先に見上げていのちを得た者たち」。すなわち 「先にいのちを得た私たちの使命」は、このいのちをまだ得ていない人たちに証しすること。   *神の関心は「逆らった人々を滅ぼすこと」ではなく「誰が青銅の蛇(イエス)を見上げるか」ということ。 ★ 世の終わりの「さばきの日」に神が私たち1人1人に問うたった1つの質問は… 「わたしがあなたの救いのために十字架につけたイエスを、あなたはどうしましたか?」   Read more…

2011年5月15日 新しいいのちに生きる

説教あらすじ「新しいいのちに生きる」(15/05/2011)   ◎[ヨハネ3:1-8] ◆『ニコデモ』という人物について [1-2節前半] ・パリサイ人:聖書(律法)の専門家。律法に従うことによって神の祝福が得られると信じていた。 ・ユダヤ人の指導者:ユダヤ議会『サンヘドリン』のメンバー(いわば国会議員)。 [2節]・彼も「しるし」に魅かれていた1人。ただ、彼は「しるしそのもの」以上に「この方こそ、 神が共におられる方に違いない!」という点に魅力を感じていた。   ◆ イエスは、ニコデモが求めているものをいち早く察知して言われた。[3節] ・「もし生まれ変わることができたら…」と思う人は多い。しかし、生物学的には不可能。[4節] しかし、イエスが意味したのは「肉体的」なことではなく「霊的世界」のこと。[5-7節] すなわち「私たちの地上のからだ」のことではなく、神から見た「神の国(天)における立場」のこと。   ◆ 私たちは皆「新しく生まれる」までは、神の前に「失われている」➝ [ルカ19:10,15:4-7] ・それは、私たちの罪(神の権威と無関係に生きようとする心の態度)の故に「神との断絶」の状態にある から。しかし、私たちがそのような態度を捨て(悔い改め)、キリストによる和解を受け入れるなら 「神と共に生きる関係」へと回復される。これが「新しく(神の国において)生まれる」ということ。   ◆「新しく生まれた者」は『2重国籍(天と地)』を持つようになる。ただ、天においては生まれたばかりで あり、目に見える肉体が地上にあるので、初めのうちは天におけるいのちの実感があまり湧かない。 ・何故神は、この肉体をもさっさと天に引き上げないのか? ➝ 神の願いは、この地上で、私たちを通して「天のいのちの豊かさ」を証しすること。   ◆ では、どのようにして「天のいのちの豊かさ」の中に生きるのか? ① 祈り:「みこころが天において成るように、地においても、この身を通して行われるように。」 ② みことば:『霊的食物』。朝ごとに。暗唱するのは、なお良い。 ③ 与える生活:「地上のいのち」は受けるほど豊かになるが、「天のいのち」は与える(天に蓄える) ほど豊かになる。 ★ イエスを通して与えられた「神のいのち」が、あなたを通して人々の間で明らかにされますように! Read more…