(16) どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。

なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産の中にあるのではないからです。 ある新聞社で「お金とは?」という質問に対する回答を募集したところ、実にいろいろな投書が集まりましたが、その中に次のようなものがありました。「いくらあっても困ることがなく、幸福以外なら何でも買えるモノ。」 確かにお金がたくさんあれば、いろいろなものが買えて大変便利ではありますが、財産は必ずしも私たちを幸福にはしてくれないようです。実際多くのいわゆる『お金持ち』や『成功者』たちは、心に悩みを持ち、ノイローゼや自殺などに至ってしまうこともしばしばです。かえって、その日暮らしの貧しい人々の方が、心の底から笑うことができるのではないでしょうか? 真の『幸福感』『生きる喜び』は「明日のことは心配するに価しないことだ、と信じること」から来ます。幼い子供たちが、時間の経つのも忘れて、ひたすら楽しく遊ぶことができるのは、先のことを何も心配していないからです。彼らには『地位』も『財産』も何の意味も持っていません。ただ「輝く今」だけがあるのです。 私たちは、私たちを限りなく愛し、私たちの明日を守ってくださる「神の御前にあってのみ」この喜びと充足感を味わうことができます。これは単なる『楽観主義』とは全く別のことです。『楽観主義』とは、何の根拠もなく「まあ明日は今日よりもちょっとはマシになるだろう」と考えることです。しかし、私たちが聖書を通して『私たちのいのちを見守られる神』と出会うとき、「根拠のある安息」を持つことができます。しかも、この神が私たちに望んでおられるのは「頑張って活躍し、成功すること」ではなく、「ただ幼い子供のように、その力強さと深い愛に心から信頼し、この方と共に生きる『今』を満喫すること」なのです。

(15) 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

多くのいわゆる『宗教』は、『善行(良い行い)』というものを「救いに至る条件」として強調します。気持ちとして分からなくはないのですが、多くの場合、救いの道を求めておられる方々というのは正しい行いを「しなくてはいけないと分かっているのに、できない」からこそ、悩んでおられるのではないでしょうか? 聖書は「私たちは『神の作品』である」と教えます。だからこそ私たちは、程度の差こそあれ「正しく生きたい !」という願いを持っているのです。しかし私たちが、この世に生を与えてくださったこの神様と無関係に生きようとしているため、どんなに正しく生きようとしても、それを実現できないのです。それはちょうど、電源から抜けてしまっている電化製品が、正しく作動しないのと同じことです。 「クリスチャンが良い行いをするのは、そうしないと救いを得られないからだ」と勘違いなさっている方々がおられます。もし「クリスチャン=良い人たち」という印象があるとすれば、それは「そうしないと救いが得られないから」ではなく、むしろ「救いを得た結果として、自由に良い行いができるようになったから」というのが正解です。 神は初めから私たちを「良い行いに歩むように」とデザインされました。「どうやら私は今、そのデザインからズレて生きてしまっている」とお感じになっているあなた、神が提供しておられる「イエス・キリストにある救い」を素直に受け取ってみませんか?  

2011年5月8日 無条件の信仰

説教あらすじ「無条件の信仰」(08/05/2011) ◎[ヨハネ2:23-25] *〈『木』が変わって、プロポーズを承諾した話〉➝ 何が人と人との関係を「不動のもの」とするのか?   ◆[23-24節] ・イエスは何故ご自身を彼らにお任せにならなかったのか? 彼らの信仰は『しるし』によって生まれた「条件付き信仰」だったから。 このような信仰は、何がきっかけで失われてしまうか分からない。   ・「もっと神様のことが分かったら、信じる」という人がいるが、どのくらい分かったら信じるのか? 「極めたら?」:人が極めることができるような神に、人を救えるだろうか?   ・私たちが結婚を決めるのは、相手のことがどれだけ分かったら? ➝ ほんの少し。(すべてが分かったら、結婚しないかも…)   「どれだけ分かったら」が重要なのではなく、 「たとえ何が分かっても、決してあきらめない」という決断が重要。   ・私たちの『信仰』もこれに似ている。➝〈自分が信じたときの証し〉「イエスがいのちをかけてくださった 『真実の愛』に応えるための唯一の道は、同じく『真実の愛』による応答」と確信した。   ◆イエスは言われた。[ヨハネ14:21] ・「わたしの戒め」とは、「互いに愛し合え」を含めた、聖書のみことばのこと。私たちが神のことばに 対して、愛と真実をもって応えて行くなら、神と私たちとの『愛の関係』は日々成長し、不動のもの とされていく。そしてイエスは更に新しくご自身を私たちに現される。(親しさの証しとして)   ・イエスは万民を愛しておられるが、それとは次元の違った愛で、ご自分に近づいてくる者を愛し、 その心を許される。   ★ 『信じ、愛するために知ろうとする』のではなく、 「信じ、愛することによって、更に深く知る者」となろう!   考えてみましょう ・「信じる」ために大切なことは何ですか? ・万民に対するイエスの態度と、「彼に近づこうとする者たち」に対するそれとは、どう違うのでしょう?

(14) 主(神)を恐れることは知識の初めである

『常識』という言葉を辞書で調べると「普通、一般の人が知っている、また知っておくべき知識」とあります。ところが最近この『常識』に欠ける人々が増えてきていることが問題になっています。その事実は、次のような「取扱説明書」の記述を見ると分かります。 ・ヘアードライヤー:睡眠中はご使用にならないでください。 ・アイロン:衣服を身に着けたままご使用にならないでください。 ・チェーンソー:回転中のチェーンを手で止めようとしないでください。 これらのことを理解していないということは、単に「知識がない」というよりもむしろ、「人が生きる上で正しい判断を下すための基準を持っていない」とも言えるのではないでしょうか。 聖書は「人は神を認めようとしなくなって以来、その思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなった」と書いています。生まれつきの人間は、自分自身の中に『確固たる判断基準』を持っていません。そしてこの『確固たる判断基準』なしに、ただ知識や経験を積み重ねたところで「正しい分別」を身に付けることはできません。私たちの日々の歩みに確信を与える『絶対基準』、それは、この天地の創造主、絶対者である神以外におられないのです。

(13) わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた 大いなる事を、あなたに告げよう。

ある女性が山道を運転中に居眠りをしてしまって、ガードレールを突き破って転落しそうになりました。幸いガードレールの切れ端が車の1部にからまったため、車体は谷底に落ちずに、宙づりになりました。通りがかった人々の通報によりロードサービスがレッカー車と共に到着し、救出活動が開始されましたが、興味深いことに、救出活動中、車体が揺れるたびに、その女性ドライバーは次のように叫んでいたということです。「もういいわ!あとは自分でできるから!」 ある人々は、他人に与えるのは得意ですが、他人から受けるのを苦手としています。プライドが邪魔をするのです。「他人の助けは要らない。自分1人でできる!」と言うのです。しかし多くの場合、私たちは自分の本当の姿を理解し成長するために、私たちのことを良く知っている周囲の人々のアドバイスを必要としているのです。 「神を信じるのは、愚かで弱い人のすることだ」と言う人々がいます。しかしもし神が本当におられるとしたら、彼こそが私たち1人1人のことを最も良くご存じで、私たちの成長のための最善のアドバイスをすることができる方です。上記の言葉は、聖書の中で、神が私たちに呼びかけている言葉です。私たちがつまらないプライドを捨て、へりくだって神の前に進み出るとき、私たちの人生に有益な『理解を越えた大いなる事』を、神は私たちに知らせてくださるのです。

2011年4月24日 イエスこそが神殿

(今回は試験的にディーンさんがノートパソコンでメッセージを録音してくれました。どうぞお聞きください。) 説教あらすじ「イエスこそが神殿」(24/04/2011) ◎[ヨハネ2:18-22] *相変わらず「見えるもの」に執着するユダヤ人 [18節, Ⅰコリント1:22-23] ◆「しるし」を見ても、信じない人と信じる人とがいる。 ・民衆やリーダーたち [マタイ27:39-42, 28:11-13] ・使徒トマス [ヨハネ20:24-29] *それでも信じないのは何故?➝ ①初めから「信じない」と決めている。 ②御利益を求めているのであって、「真理」を求めていない。 それでも、私たちは「信じる」ことを期待されている。[ヨハネ20:30-31] ◆[19-21節] イエスご自身が神殿(父の家) ・私たちはこのイエスを通して、父なる神と出会う。 ・私たち自身が「キリストのからだ」[Ⅰコリント12:27] どういう意味?➝ [Ⅰヨハネ4:12] 私たちがキリストの愛を知り、互いにできることを出し合って 仕え合うとき、そこに神との出会いがある。 ◆イエスの「よみがえり」は、何を示すのか? ①「イエスこそ正真正銘の『神のもとから来られたひとり子』だ」ということ。 ② 私たちの代価は、完済された。(聖書の時代の大工さんの習慣) ③ キリストが語られたことは、すべて本当だった。(『ベン・ハー』の著者の証し) ・私たちは『迷信』ではなく、確かな『事実』を信じている。 ★ 今日もキリストは生きておられ、私たちを招いている。 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい!」 考えてみましょう ・何故「信じる人」と「信じない人」がいるのですか? ・「イエスのよみがえり」は私たちに何を意味するのでしょう?

2011年4月10日 神のみわざを見極めるために

(2月22日のクライストチャーチ地震後、現在臨時礼拝場所で集っているため、メッセージ録音器具がありません。メッセージのあらすじは以下のとおりです。) 説教あらすじ「神のみわざを見極めるために」(10/04/2011) ◎[ヨハネ2:1-11] *ここから「神がみわざをなさる時の4つの原則」を学ぶ。 ① 「神の時」がある [4節] ・ギリシャ語の『時』―「クロノス」と「カイロス」 「クロノス」:流れ、また刻まれていく時間。(clockの語源) 「カイロス」:神の主権によって定められる『時』(完全なタイミング) ・神は自分勝手に「時」を操っているのではなく、私たちへの愛故に、時を見守り、待っておられる。 [Ⅱペテロ3:9] ◆[マタイ16:2-3] ・神が今、何のために『時』を整えておられるのかを見極め、行動を起こそう! ② 神は人をお用いになる [5-9節] ・「水を汲むこと」は人にもできるが、「水をぶどう酒に変えること」はできない。しかし、この重労働 に携わった者にしか「神の力あるわざを目の当たりに体験すること」はできない。 ・彼らにとっての真の試練はこの「重労働そのもの」ではなく、「何故それをしているのか分からない」 ということ。しかし「主が言われたから…」という『信仰の従順』があってこそ、奇跡が起こる。 ◆ 神お1人ですべてができるが、あえて神は「私たちと共に」それをなさることを望まれる。 ③ 神のわざは最上級 [10節] ・神は『ピンチヒッター』でも『尻ぬぐいしてくださる方』でもない。彼がわざをなさる時、私たちは 思わず「こんなことなら、初めから神様に出番を与えておけば良かった!」と叫びたくなる。 ・しかし『時(カイロス)』がある。神は「私たちの都合に合わせる方」ではなく、「最善のことを最善 の時になさる方」。[ヨハネ7:6]   ➝  何故? ④ 神がわざをなさるのは『ご自身の栄光』のため [11節, イザヤ42:8] ・神は私たちが『わざ』に注目することを望まれない。(サタンや人々に注目させないため) ◆『神のわざ』は、神ご自身の私たちに対する愛、そしてそのみことばが真実であることを証しするため。 [マルコ16:20] ★イエスは今日も「私たちと共に働く」ことを願っておられる。そして、それと共に「すべての良きものは彼から来ることを私たちが決して忘れることがないように」と切に願っておられる。 Read more…

(12) しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、 主には、彼を立たせることができるからです。

おできを治すにはメスを入れなければならないように、心の傷をいやすには、まず自分で『傷口そのもの』としっかり向き合うことが必要です。ショッキングな出来事と遭遇したとき、それによって打ちのめされてしまうか、それともその出来事を栄養源として成長できるかは、「その出来事がどれほど悲惨か」ではなく「どのような態度でそれに対処するか」にかかっています。 このような局面を踏み台にして前進する人々は、まず「この出来事によって、自分の中のどんな『計画』『希望』『夢』が脅かされているか」をしっかりと把握します。そして「どこがすっかり破壊されていて、どこが未だ修復可能か」を明らかにし、そこから「回復・成長」のための青写真を描いて行きます。 「そんなこと言っても、このことが起こってしまったからには、もう決して元通りには生きられない…」そのように考えてしまうのは、極自然なことです。『人生の危機』が突然訪れると、人は誰でも少なからず不安定になるものです。でもそれは同時に「自分の中に潜んでいた、今まで気づかなかった新たな可能性の扉を開かせるチャンス」にもなり得るのです。「今はまだそんな風に考えられない」としても大丈夫。無理をせず、ただ「私は決して倒されることはない」と信じて下さい。何故なら、私たちの神は、ご自身の名を呼ぶ者が倒されることのないように支えることができる方だからです。

2011年4月3日 神の前に出るために

(2月22日のクライストチャーチ地震後、現在臨時礼拝場所で集っているため、メッセージ録音器具がありません。メッセージのあらすじは以下のとおりです。) 説教あらすじ「神の前に出るために」(03/04/2011) ◎[ヨハネ1:43-51] *この箇所から、3つのことを学ぶことができる。 ① 神の見方と人の見方は違う[44節] ◆イエスが選んだ弟子たちは、無学な田舎者が多かった。[使徒4:13] ・神の前に、家柄や学歴などは問題ではない。[Ⅰサムエル16:7] ◆ナタナエルは、イエスがメシアだとは信じられなかった。[46節] ・これは当時の指導者たちの間でも同じ。[ヨハネ7:50-52] ◆イエスの目には、たとえ指導者たちであっても「救いを必要としている罪人」であり、姦淫の女でさ えも「自分の命を引き替えにしても惜しくない存在」。 *私たちもこの方との「個人的な出会い」を通して、彼と同じ目で人々を見られるようになろう。 ② イエスの心は「神を畏れ敬う者」に引き寄せられる[47-48節] *この「いちじくの木の下」で何があったかは分からないが… ◆『ほんとうのイスラエル人』という描写から予測できる「ナタナエルの人物像」[ルカ2:25] ・母国イスラエルの回復を願い、神の名がおとしめられているのを嘆いていた人物。 ◆日本の現状を見て、私たちにできることは「何故このようなことが起こったのか?」を追求すること ではなく、「身を低くして、主のあわれみに訴えかける」こと。[Ⅱ歴代誌7:14] ③ イエスは、ご自身を求める者に報いてくださる[マタイ6:6] ◆イエスは私たちの「隠れた小さな祈り」に応えてくださると共に、私たちには思いもよらないような 大いなるみわざをも備えておられる。[50節] ・神にとっては「応えられない大きすぎる祈り」も「見逃してしまうような小さすぎる祈り」もない。 ★神を欺くことも、神の前で自分を取り繕うこともできない。ありのままで神の前に出、心を注ぎ出して祈ろう。もし心に責められることがあるなら、「イエス・キリストの十字架による和解」を受け入れよう。 考えてみましょう ・あなたが「神と同じ視点」を持つことを妨げているものは何ですか? ・日本のためにとりなすために、私たちはどのような心で神の御前に出るべきでしょうか?