2025年10月26日 「『当然のこと』とは思わずに」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『当然のこと』とは思わずに」   (26/10/2025) [ルカの福音書 4章14~30節] ◆『メシア』としてのイエスの自己紹介(14~21節)   ・とてもエキサイティングな場面。イエスは故郷ナザレで安息日に会堂へ行き、イザヤ書の『メシア預言』に目を留められてそこを読み、「今日、この聖書のことばが実現しました」と言われた!さて、人々の反応は? ◆故郷での迫害(22~30節)   ・一体何が起こったのか?何故ナザレの人々はイエスに対して憤ったのか?   ・恐らくイエスを幼い頃から知っていた彼らは、「この子は優れているから、きっといずれ故郷に貢献してくれるに違いない」と思っていたことだろう。しかしイエスに裏切られたようなことを言われ、憤ったに違いない。   ・私たちは「当然こうあるべき」と期待していたことの当てが外れると、戸惑ったり怒ったりする。ユダヤ人たちもパウロが異邦人宣教へと向かったのを見て、怒り狂って迫害した。   ・これらの『当然』という意識は、しばしば「私たちと神様との関係」をなまぬるくする。[黙示録2:3-4,3:15] イエスが例を挙げた「旧約時代に神のみわざを体験した異邦人たちの信仰告白を見てみよう。[Ⅰ列王記17:24,Ⅱ列王記5:15]   ・あの「キリストと初めて出会った感動」を思い起こし、『初めの愛』に固く立ってこの週も熱く歩んで行こう! 今日の要点: 『初信』に帰る ◎更に深い学びのために  ①「神は当然この祈りに答えてくださる」と思ってたのに、そうならずガッカリしたり怒った経験をシェアしましょう。  ②自分が主イエスにある救いの素晴らしさを初めて真に体験した時と比べて、今はどんな点がどう違いますか?  ③日々『初めの愛』を保って生きて行くために、どんな工夫ができますか?アイディアを分かち合ってみましょう。 Outline of the sermon  “Don’t take it for granted.”  (26/10/2025) [Luke 4:14~30] ◆Jesus revealed himself as “Messiah”. (Verses14~21)   ・It is very Read more…

(628) “何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。”

 『杞憂』という言葉をご存知でしょうか?「心配しても仕方ない事を思い煩うこと」を指して使います。古代中国の「杞の国」のある人が「もし天が落ちてきたらどうしよう?」と心配して夜も眠れなかったという出来事に由来しています。  考えてみると『思い煩い』のうちのほとんどは「心配しても仕方ない事」ではないでしょうか?そもそもそれらの多くは「自分ではどうしようもないこと」です。たとえ心配したところで、自分ではどうしようもないのですから、心配するだけ無駄です。むしろ『心配事』は時には私たちの健康さえ害するのですから、まさに「思い煩いは百害あって一利なし」です。  また、もしその『思い煩い』が「自分で何とかなること」(例えば「来週のテストをどうしよう…」とか?)ならば、思い煩っている暇があれば、適切な行動を起こせば良いのです。  イエス・キリストは人々に教えて、「咲いてもたった数日で枯れてしまうような野の花さえ、神はあんなにも美しく装ってくださるのだから、ましてや愛する人間たちに良いものを備えてくださらないはずがない」と教えました。言わば、私たちが「思い煩う」のは、私たちの心が『創造主なる神様』から離れてしまっているからです。  神は、ご自身と私たちとの「不信仰の罪によるギャップ」を、ひとり子イエス・キリストの十字架における代償によって埋めてくださいました。それほどまでに私たち人間を愛しておられる方が、私たちに良くしてくださらないわけがないのです。私たちに必要なことは「思い煩うこと」ではなく、「これほどにも愛してくださっている『父なる神』に信頼し、敬うこと」なのです。

2025年10月19日 「イエス、悪魔の試みを受ける」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「イエス、悪魔の試みを受ける」  (19/10/2025) [ルカの福音書 4章1~13節] ◆3つの誘惑   ・「御霊に導かれて荒野に行き、悪魔の試みを受けた」ということは、この出来事は『神のみこころ』であったと言える。では何故、神は御子イエスを敢えて『悪魔の試み』へと追いやったのか? ⇒ 私たちへの『模範』のため。   ・ここに登場する「3種類の誘惑」は、天地創造以来の悪魔の常とう手段。[創世記3:6]    ①食べるのに良さそう(食欲) ②目に慕わしい(全ての国々を「見せて」) ③賢くしてくれる(人々の注目) → [Ⅰヨハネ2:15-16] ◆「あなたが神の子なら(なのだから)…」   ・この直前にイエスはバプテスマを受け、御父から「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけられたばかり。そして悪魔はその呼びかけを受けて、「あなたが本当に神の子だと言うのなら…」と挑戦している。   ・旧約聖書には「メシアに関する約束のことば」も数多くあるので、イエスは『神の子』としてそれらを引用できたはず。しかし「私たち」にも適用させるため、イエスは敢えて一般の人々に語られた箇所を引用したのだろう。   ・悪魔は私たちに対して「神の子としての権利」に注目させようとするが、イエスはむしろ『みことば』(神の子としての使命や責任)を固持した。私たちも『神の子』として「父なる神のみこころ」の真っ只中を生きて行こう! 今日の要点: 神の子としての「特権」と『使命』 ◎更に深い学びのために  ①何故御霊はイエスを「荒野における悪魔の誘惑」へと導いたのでしょう?  ②悪魔は主に、私たちをどのような点で誘惑しますか? 自分が誘惑に惑わされやすい点と比較してみましょう。  ③神の子としての「特権」と『使命』がぶつかり合った経験があれば、互いに分かち合ってみましょう。 Outline of the sermon  “Jesus was tempted by the devil.”  (19/10/2025) [Luke 4:1~13] ◆3 temptations.   ・God led Jesus Read more…

(627) “自分の日を正しく数えることを教えてください。”

 ある人がこんな夢を見たそうです。目の前に天使が立ち、「神様が毎朝あなたの銀行口座に1440ドルを振り込んでくださいます。あなたはそれを好きな事に使うことができます。但しそれは貯めておこうとしても翌日まで持ち越すことはできないので、その日のうちに使わなければなりません。そして翌朝にはまた新しく1440ドルが振り込まれます」と言われたのです。  この人は不思議に感じながらもとても喜んで、翌朝目が覚めると自分の銀行口座を確かめてみました。ところがそのような金額は全く振り込まれた形跡がなく、ガッカリして神様に祈りの中で文句を言ったそうです。すると神様からお答えがありました。「1ドルを1分に換算してごらん。わたしはあなたに毎朝24時間、すなわち1440分を与えている。あなたはこの時間を自分の好きなように使うことができるんだよ。」  私たちはそれぞれ、能力や姿かたち、財産などは1人1人異なっていますが、時間だけは全員に等しく1日1440分ずつ与えられています。私たちはこの1440分を自分の好きなように使うことができます。こんなことを言った人がいます。「『時間』というものは、神様から私たちへの素敵な贈り物である。そしてその『時間』をどう使うかによって、私たちは神様へ素敵な贈り物を捧げることができるのだ」と。

2025年10月5日 「ルカの福音書とマタイの福音書の違い」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「ルカの福音書とマタイの福音書の違い」  (05/10/2025) [ルカの福音書 3章21~38節] ◆イエスのバプテスマに関する記述(21~22節)   ・マタイの記述の方が詳しい。[マタイ3:13-17] 「何故イエスもバプテスマを受ける必要があったのか?」という疑問を持つユダヤ人読者を納得させられる描き方。一方、ルカの記述は「イエスと御父との個人的関係」として捉   えられている。これは異邦人読者が「この救いのみわざはユダヤ民族のためだけではない」と理解するため。 ◆系図に関して(23…,38節)   ・マタイとルカそれぞれの福音書の系図を比較すると、名前が一致していないものが多い。これは「ユダヤ人の   系図は、必ずしも『血のつながった実の父親の名』を記していない」ということに由来すると思われる。   ・マタイの福音書[マタイ1:1]では、イエスが「アブラハムの子孫・ダビデの子孫」であることを明記している。これはユダヤ人たちがイエスを「来たるべきメシア」と認めるために非常に重要。   ・一方ルカは、「イエスは、『神』から発し、ヨセフの子として育てられた『神の子』である」ということを示している。あくまで「神の性質を持つ方が、人間としてこの世に現れた」ということに意味を持たせようとしている。   ・復活の主との「個人的な出会い」を切望したトマスのように、『神との個人的関係』を求めよう![ヨハネ20:24-29] 今日の要点: 『個人』として、イエスを見つめる ◎更に深い学びのために  ①ルカとマタイの福音書とでは、どんなところが違いますか? そこに著者たちのどんな意図が汲み取れますか?  ②「イエスのバプテスマ」と「イエスの系図」に関して、あなたはどちらの記述が好きですか? どうしてですか?  ③イエスはどうしてわざわざトマスのために、もう1度弟子たちの許を訪れたのだと思いますか? Outline of the sermon  “Difference between Book of Luke & Matthew.”  (05/10/2025) [Luke 3:21~38] ◆Description of Jesus’ baptism. (Verses 21~22)   ・Matthew wrote Read more…

2025年9月28日 「罪の赦しを得させる悔い改め」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「罪の赦しを得させる悔い改め」  (28/09/2025) [ルカの福音書 3章1~20節] ◆ヨハネのバプテスマ(3節)   ・当時のユダヤ世界にはいくつかの『バプテスマ』が存在した。使徒パウロがエペソで宣教活動を行っている時  に、このようなやり取りがあった。[使徒19:1-5] では、ヨハネの行っていた「悔い改めのバプテスマ」とは何か? ◆「悔い改め」の本質(ルカ24:45~48節)   ・イエスは私たちを「罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝える証人だと言った。では「悔い改め」の本質とは?   ・ヨハネは彼からバプテスマを受けようとしてやってきた群衆に言った。(7~10節) 「『自分の父はアブラハムだ』という考え」とは、「『個人として』ではなく、『選ばれた民の1員として』神に認められよう」とする態度。今風に言えば「クリスチャン・ホームに生まれたから」「ずっと教会に行っているから」「神の存在を信じてるから」などなど…   ・「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか?」 ⇒ 次のような3つのステップを踏む。    ①生まれつきの自分は『罪人(ズレ人)』であり、神との関係から外れて「死んでいる」と認める → [方向転換]    ②イエス・キリストは神から遣わされた『神の子』であり、罪人である自分の代わりに十字架で死んだと信じる。    ③自分の努力で神に近づこうとせず、キリストの代償と神の恵みのゆえに、日々『神との関係』に生き始める。 今日の要点: 自分ではなく、キリスト ◎更に深い学びのために  ①ザカリヤの子ヨハネは、何のために神に遣わされた人物でしたか?  ②『悔い改め』とは、どんな意味ですか? 何故イエスを信じる前に、そのプロセスが必要なのでしょう?  ③あなたはこの『悔い改め』を経験し、神の前に「悔い改めにふさわしい実」を結んでいますか? Outline of the sermon  “Repentance for the forgiveness of sins.” (28/09/2025) [Luke 3:1~20] ◆John’s baptism. Read more…

(626) “すべてのことにおいて感謝しなさい。”

 最近、原因不明で治療法の無い『運動神経麻痺』に冒されてしまった1人の牧師の手記を読み、大変感銘を受けたので、その1部をここに抜粋したいと思います。  「現在の自分の体の状況を思う時、神に感謝できないことがたくさんある。まず、自分でシャツのボタンを留めることができない。分厚くて重い上着はもう着ることができない。そもそも服を着るために右手を頭の高さまで上げることさえできない。文字を書くこともできなくなったし、右手では食べることもできなくなった。仕方なく不器用な左手で食べているのだが、最近ではそれさえもおぼつかなくなってきた。そしてそのように『段々とできなくなってきている事』がたくさんあるのだ。それでは一体現在の私に、何か『神に感謝できること』があるだろうか?そう考えてみたら、実にたくさんあることが分かった!主よ、今朝も目覚めさせてくださってありがとうございます!まだ寝返りが打てることを感謝します!寝床から起き上がれることを感謝します!そしてトイレまで歩いて行けること、また何とか自分で歯を磨けることもありがとうございます!朝食を食べることができて、何とか自分で着替えることができること、そして自分で運転もできることを感謝します!歩くこともできるし、誰かとしゃべることもできるし… もうこうして挙げていったらキリがない!このような境遇に陥ったことで、神は私に『できないこと』ではなく、『できること』に思いを向けることを教えてくださった。神が与えて下さっている『小さな喜び』をたくさん見つけることを私は日々教えられているのだ。」  あなたが、今日「神に感謝できること」は、何ですか?

2025年9月21日 「たとえ理解できなくても…」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「たとえ理解できなくても…」  (21/09/2025) [ルカの福音書 2章41~52節] ◆「父の家にいる」(46~49節)   ・「お父さんお母さんは、心配して捜していた」の言葉に対し、「自分の父の家にいることは当然」と少年イエスは答えた。恐らくラビたちとの問答を通して初めて「自分が天の御父から遣わされてきた」と確信したのだろう。   ・私たちも、この『御子イエス』の贖いのみわざによって『神の子』とされている者であり、また主イエスによって「遣わされている」存在である。私たちもいつも「遣わしてくださっている方」の許にいるべき。[ヨハネ12:26] どこにいても、何をしていても、「主イエスの名によって成す」という意識を持とう! ◆マリアは心に留めていた(50~51節)   ・この時イエスの両親は、イエスの言葉の意味が理解できなかった。しかしマリアは「心に留めておいた」。それ   が後にイエスが公生涯へと旅立って行った時、彼を最後まで理解する大きな助けとなったことだろう。   ・昨日のリトリートでは「御声を聞く」というテーマで学び、また実践した。ある人は「聞いたけど、意味がよく分からなかった」という事があったかもしれない。でもその言葉を「心に留めて」おくべき。後に分かる時が来る。   ・『神のことば』は「神の時」に「神の方法」で成就する。「自分の力で成し遂げよう」としないように気を付けよう。 今日の要点: イエスと共にいる ◎更に深い学びのために  ①どのようにして、「主イエスと共に歩んでいる」という意識を保つことができると思いますか?  ②「みことばを聞いたその時には理解できなかったが、後で分かった」という経験があれば分かち合いましょう。  ③この出来事の後、イエスはどのような思いで30歳まで両親と暮らしたと思いますか? Outline of the sermon  “Even if I don’t understand.”  (21/09/2025) [Luke 2:41~52] ◆“In my Father’s house”(Verses 46~49)   ・Young Jesus said to his Read more…

(625) “天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”

 日本ではようやく暑さの峠を越えた頃でしょうが、南半球のこちらクライストチャーチでは、桜が見頃を迎えています。  考えてみると、日本からニュージーランドに来て『創造主なる神』に気付く方々が多いようです。恐らくその大きな理由の1つは「美しく壮大な自然」に触れることが多いからではないでしょうか。ニュージーランドでの生活は、時間がゆったりとしているのに対し、レジャーがそこまで多くないので、そこらじゅうにある『遊歩道』や『自然公園』をのんびりと歩く機会が多く、そこで様々な美しい花々や小動物たちを見かけます。また、日本のように夜のネオンサインが激しくないので、星空も美しく、また車で1時間も走れば、壮大な山々や湖を眺めることもできます。それらの「神の被造物」を見る時に、『創造主なる神』を肌で感じ、またその神の美的センスや優しさを思い浮かべて、この方の御手に身をゆだねて生きて行きたい、という気持ちが芽生えるのではないでしょうか?  しかも聖書は、「神はこの天地を造り、そしてその中でも最高傑作品として、私たち人間をお造りになった」と教えています。これらすべての「美しい大自然」にも優る存在として、神は私たち1人1人を創造され、そして慈しんでおられます。自分を卑下したり、粗末に扱ったりせずに、「神に造られた傑作品」として1日1日を全力で生き、『神の栄光』を表現する人生を歩んでいきたいものです。