(659) “わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。”

 通常ある活動や役割に長く携われば携わるほど、その活動や役割において熟練し、自信が付き、他に頼らずに自分で切り盛りできるようになるわけですが、面白いことに『クリスチャン』として生きる人生においては、その逆である場合があります。どういうことかと言うと、『クリスチャン』として「神との関係」の中で生きることが長くなればなるほど、自分の弱さに気付かされ、また「正しさや愛情深さ、そして聖さにおいてもっと成長したい」という願いも強まるにつれ、「自分の力では無理!神様の助けがもっと必要!」というようになって行くわけです。  神様を知らずに生きる人生においては、「向上心の目安」は大抵『自己満足レベル』、またはせいぜい「周囲に満足されるレベル」なわけですが、クリスチャンにとっての『向上心』は、「神に造られた作品としての完成レベル」を目標としています。クリスチャンになったばかりの頃はこのイメージはぼんやりしていますが、神様との歩みを重ねて行くに従って明らかにされて行き、ついには「これは自分の力ではどうしようもない。でも神様はこの『ご自身のご計画』を成し遂げられるために力を与えて下さる方だ!」という信仰が与えられ、自分自身を神の力強い御手に明け渡し、『自分を通して現される神のわざ』を体験する者とされて行くのです。  神はこのような「自分自身の真の『弱さ』に気付いた者」を通して、ご自身のみわざを現されるお方なのです。

2026年6月21日 「神との正しい関係」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「神との正しい関係」    (21/06/2026) [『3つの関係』において成長する](①神との関係 ②神の家族との関係 ③神の家族以外との関係)  ・[ヨハネ13:33-38] この箇所には『3つの関係』のすべてが登場しているが、今日はこのペテロに注目しよう。彼はイエスを深く愛しており、どこまでも付いて行こうと決心していたが、果たせなかった。イエスは「あなたは今は付いて来られないが、後には付いてくる」とおっしゃった。『後に』とは、聖霊が臨まれた後のこと。  ・[マタイ7:21-23] 「イエスの名によって悪霊を追い出し奇跡を行うこと」は当然『神のみこころ』だと思ってしまうが、それは違う。『神のみこころ』の主役は「わざ」ではなく、『神ご自身』。そこに『私』が混入するとズレてしまう。 ◆『自分主導』と『神主導』(ヨハネ7:6)  ・『神のみこころ』は、「私たちが行うもの」ではなく、「神の主導で成就されるもの」であり、それを成就なさるのは「神の御霊(最高の賜物)」である。また御霊が私たちを通して『神のみこころ』を成就なさるためには、私たちの側の準備が整っている必要がある。それはペテロのような「主に従おうという強い思い」ではなく、「あなたが望む時・望む方法でこの身をお使いください」という『明け渡し』である。これこそが「『神との関係』に生きる」ということ。  ・ここで大切なのが「神は良いお方で、最善以外はなさらない」という確信。これを正しく信じていないために私たちはつい「自分のことは自分でやった方が…」と独りよがりに先走ってしまう。『最良のお方』に明け渡して歩もう! 今日の真理: 神が注目されるのは『明け渡された心』 ◎更に深い学びのために  ①私たちが成長すべき『3つの関係』とは、どのようなものでしたか? もう1度「JCFの目標」を復習しましょう。  ②『神のみこころ』に関してどんな思い違いをしがちですか? 「みこころの成就」のためにどうすれば良いでしょう?  ③「神との正しい関係に生きる」とは、どういう事ですか? そのためにあなたに必要な変化は何ですか? Outline of the sermon   “Proper relationship with God.”   (21/06/2026) [Grow in “3 relationship”] ①Relationship with God. ②Relationship in God’s family. ③Relationship outside Read more

(658) “高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。”

 私がまだ聖書やキリストと出会う前は、『悪魔』と聞くと、「ホラー映画の世界」または「しっぽの先に弓矢の先のようなものが付いた、マンガの虫歯菌のようなもの」というイメージでした。ところがキリストを出会って『霊の目』が開かれてからは、自分や人々に対する悪魔の働き(主に『誘惑』)を見分けられるようになってきました。  悪魔(聖書では『この世の神』とか『暗闇の世界の支配者』と呼ばれている)は確かに実在します。しかしホラー映画の中でのように「無理矢理人間を操って殺戮を行わせる」というようなことはごく稀で、主に私たちの『欲』につけ込んで誘惑し、犯罪を犯させたり、人生を破壊したりします。いわゆる「魔が差す」というような感じですね。  聖書によると「悪魔の起源」は、ある非常に美しい天使が、そのあまりの美しさに「自分は神に取って代われるのではないか」と思って、3分の1の天使たちをそそのかして天の世界において反逆を起こし、神に落とされて『悪魔(他の天使たちは「悪霊」)』となった、と言われています。それ故悪魔は神に対し強い恨みの念を持ち、常に神のみわざの邪魔をしようとします。とりわけ悪魔は、「神が愛してやまない『人間』」に対して激しい嫉みを抱いており、人が神の祝福を受けることを妨げようとします。それは何か力づくでバリアを張るとかではなく、私たちの欲につけ込んで「嫉み」を起こさせたり「高慢」に陥らせたりすることによって、私たちの心が神から離れるように仕向けるわけです。  人は自力で悪魔に対抗することはできません。ある意味悪魔は私たちよりも遥かに賢くて優れているからです。悪魔の策略に対抗する唯一の道、それは「自分の人生を神に明け渡し、イエス・キリストを信じることを通して与えられる『神の国の権威』を用いること」によってです。そういう意味でも、私たちの人生にはどうしても『イエス・キリストによる救い』が必要なのです。

2026614 「神がJCFを通してなさろうとしておられること」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「真の『イエスの家族』とは?」   (07/06/2026) [ルカの福音書 8章19~21節] ◆肉による家族  ・聖書には『肉の家族』を重視する多くの記述がある(両親を敬う,妻を愛する,子供を正しく教育する…)。それ故もちろんイエスはここで「家族は軽視して良い」と言っているわけではない。むしろ『家族(母や兄弟)』が重要であるからこそ、その言葉を用いて「神のことばを聞いて行うこと」の重要性を説いているのである。ではその『真意』は? ◆霊による家族  ・キリストを個人的な救い主として受け入れた人は『神の子』とされ、また「イエスの兄弟」「神の家族」の中に招き入れられる。[ヨハネ1:12-13] そして驚くべきことに、神の国の視点では、この『霊的家族関係』は『肉による家族関係』に優っている。そしてこの家族関係は「神(御父)のことばを聞いて行う」ということによって特徴づけられる。  ・考えてみると、神にとってみれば「夫婦関係」よりも先に『教会がキリストの花嫁である』というアイディアがあり、「地上での『肉による家族』よりも先に、『キリストによる神の家族』という概念があったに違いない。  ・私たちは日々の「家族や夫婦の交わり」を通して、「本来の『神の家族』のあるべき姿」、また「本来の『キリストと自分の親しい関係』のあり方」を見直し、より「神が本来望んでおられる形」へと近づけて行くべきなのだ! 今日の真理: 「霊の家族」こそ『家族』の原型 ◎更に深い学びのために  ①[21節]のイエスのことばの『真意』は、どのようなものでしょう?  ②「教会がキリストの花嫁である」という概念は、『夫婦関係』のあるべき姿をどのように描写しているでしょう?  ③JCFが『神の家族』、『キリストのからだ』としてふさわしく機能して行くために、あなたにできることは何ですか? Outline of the sermon    “Jesus’ real family.”    (07/06/2026) [Luke 8:16~18] ◆Biological family.  ・Bible tells us the importance of “biological family” in many verses so Read more

(657) “失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。”

 「肉体において体験した記憶」というものは、身体に記憶されるのではなく、実は脳に記憶されるそうです。つまり、何度も何度も繰り返し練習したことは「身体が覚えている」と言いますが、その「身体が…」という概念自体が脳の働きだそうです。例えば「朝起きたら顔を洗って歯を磨く」などの習慣的行動から、「ピアノやバイオリンを繰り返し練習する」などの訓練に至るまでしっかりと脳に記憶されていて、たとえ一時的な記憶喪失などになったとしても、それらの記憶は失われずに覚えられていて「自然と体が動く」ということになるそうです。  『1万時間の法則』という言葉を聞いたことがあるでしょうか?心理学者によると、どんなことでも1万時間繰り返し練習し続けるなら、そのエキスパートになれるそうです。このことは「どんな人でも、努力して練習し続ければ、その道に熟練できる」という希望を与えると同時に、「あることに熟練するために、決して『近道』は無い」ということでもあるわけですね。ですから『才能』という言葉に惑わされないようにしましょう。「努力を継続できること」こそ、真の『才能』と呼べるのかもしれません。  これらのことは、私たちの「信仰生活」にも応用できます。信仰において成長するためには『祈り』『聖書通読』といったことは不可欠ですが、そのような新しい習慣は「イエスを信じた人には自動的に備わる」といったものではありません。初めのうちは自分で意識して「祈り」、また「聖書を開いて読まなければ」なりません。しかしあきらめずにそれを継続するならば、やがて牧師や宣教師たちにも劣らない「信仰の高嶺」に辿り着くことができます。これもまた、神が私たち1人1人に等しく与えて下さった『才能(賜物)』と呼べるのかもしれませんね。

2026年6月7日 「真の『イエスの家族』とは?」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「真の『イエスの家族』とは?」   (07/06/2026) [ルカの福音書 8章19~21節] ◆肉による家族  ・聖書には『肉の家族』を重視する多くの記述がある(両親を敬う,妻を愛する,子供を正しく教育する…)。それ故もちろんイエスはここで「家族は軽視して良い」と言っているわけではない。むしろ『家族(母や兄弟)』が重要であるからこそ、その言葉を用いて「神のことばを聞いて行うこと」の重要性を説いているのである。ではその『真意』は? ◆霊による家族  ・キリストを個人的な救い主として受け入れた人は『神の子』とされ、また「イエスの兄弟」「神の家族」の中に招き入れられる。[ヨハネ1:12-13] そして驚くべきことに、神の国の視点では、この『霊的家族関係』は『肉による家族関係』に優っている。そしてこの家族関係は「神(御父)のことばを聞いて行う」ということによって特徴づけられる。  ・考えてみると、神にとってみれば「夫婦関係」よりも先に『教会がキリストの花嫁である』というアイディアがあり、「地上での『肉による家族』よりも先に、『キリストによる神の家族』という概念があったに違いない。  ・私たちは日々の「家族や夫婦の交わり」を通して、「本来の『神の家族』のあるべき姿」、また「本来の『キリストと自分の親しい関係』のあり方」を見直し、より「神が本来望んでおられる形」へと近づけて行くべきなのだ! 今日の真理: 「霊の家族」こそ『家族』の原型 ◎更に深い学びのために  ①[21節]のイエスのことばの『真意』は、どのようなものでしょう?  ②「教会がキリストの花嫁である」という概念は、『夫婦関係』のあるべき姿をどのように描写しているでしょう?  ③JCFが『神の家族』、『キリストのからだ』としてふさわしく機能して行くために、あなたにできることは何ですか? Outline of the sermon    “Jesus’ real family.”    (07/06/2026) [Luke 8:16~18] ◆Biological family.  ・Bible tells us the importance of “biological family” in many verses so Read more

(656) “弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者(Christian)と呼ばれるようになった。”

 皆さんは『クリスチャン』と聞くと、どんな人物像が思い浮かびますか?「良い人たち」「宗教かぶれ」「非国民(って事はないか!)」などなど、様々な印象があることと思います。  『クリスチャン』を英語で書き表すと「Christian」であり、この末尾の『ian』は「Musician」「Magician」などにも使われる、いわゆる『専門家』または『それで生計を立てている』みたいな意味です。そして前半の「Christ」は『キリスト』のことであり、すなわち『クリスチャン』とは「キリストに依存して生きている人々」ということになるわけです。ある方々には「かなり変わった人たち」のように聞こえることでしょうね。  実際は『クリスチャン』の中にもいろいろなタイプがあります。例えば日本の『仏教徒』のように「元々生まれた家やお国柄がそうだから」という理由で『クリスチャン』を名乗る人もいれば、「何となく響きが良いから」という理由の『自称クリスチャン』もいます。でも『本物のクリスチャン』は、「自分にとって『イエス・キリスト』はすべてである」と自覚して日々を歩んでいます。正に『キリスト』が人生の中心となっている「Christian」なわけです。  この天地万物(私たち人間をも含めて)をお造りになられた『創造主なる神』は、愛と恵みに満ちた良いお方です。ですからこの神としっかりつながって生きるならば『良いもの』に不足することがないわけですが、残念ながら私たち人間は生まれながらこのお方をないがしろにした「自分勝手な生き方(罪)」に陥っています。数々の宗教は何とか神との関係を回復させようと様々な「修行や努力」を重ねるわけですが、私たち人間がどう逆立ちしても『神の基準』に達するはずがありません。そのギャップを埋めるために神ご自身が遣わされた「救い主」が『イエス・キリスト』なのです。この『イエス・キリスト』を通してのみ、私たちは「神からの良きもの」を日々受け取って生きることができるわけですから、必然的に『イエス・キリスト』が人生の興味や関心事の中心になるわけです。まあ結果として周囲の他の人たちにとっては少々異質な存在になっていくのもやむを得ないでしょうね。  ただ、そういうわけで『クリスチャン』は、他の人たちが体験していない「神からの良きもの」を受け取りながら生きているわけですから、自然と生き生きとして、また他の人たちにも優しくなっていくわけです。

2026年5月31日 「『聞き方』に注意する」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「『聞き方』に注意する」  (31/05/2026) [ルカの福音書 8章16~18節] ◆正しい聞き方  ・今日の箇所は、2週間前の「種蒔きのたとえ」の続き。16節の「明かり」の話も、17節の「隠れているもの」も同じものを指しており、それは「福音(神の国の真理)」のこと。また「(正しい)聞き方」は、『良い地』のこと。  ・『正しい聞き方』、それは「語っている相手の心を理解して」聞くこと。ここでは「主イエスの心」。主イエスはいつも「ただ聞いて納得するだけ」ではなく、『聞き従うこと』を求めておられる。また単に「自分の益のためにだけ聞く」ならば、真理を見極めることはできない。常に「周囲の人々に『光(みことば・真理であるキリスト)』を輝かせるため」に、熱心に聞き、その通りに生きようとするなら、「更に与えられて豊かに」なる。 ◆誤った聞き方  ・ユダヤ民族の始祖アブラハムは、「地上のすべての民族の『祝福の基』となるため」に選ばれた。[創世記12:1-3] しかし残念ながら、その子孫たちは「自分たちこそ選ばれた民」と高ぶり、その祝福を独り占めしようとしてさばかれた(持っていると思っているものまでも取り上げられた)。私たちは同じ失敗を繰り返さないためにも、この『神の国の真理』を自分が味わうと共に、その祝福を周囲の人々に積極的に分け与えて行こう! 今日の真理: 『福音(みことば)』は、「宣べ伝えらえるべきもの」 ◎更に深い学びのために  ①『正しい聞き方』とは、どのような聞き方ですか? 「正しく聞く」ために、どんな事に気を付けたら良いでしょう?  ②『誤った聞き方』とは、どのような聞き方ですか? アブラハムの子孫たちは何故失敗してしまったのでしょう?  ③『持っている者』として、「更に与えられる」ために、どのような態度で『神の国の福音』に対処するべきですか? Outline of the sermon    “Take care how to hear.”    (31/05/2026) [Luke 8:16~18] ◆Careful Listening.  ・This is a continuation of “parable of seeds”.  Both Read more

(655) “訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。”

 この天地を造られた神は、全知全能であり、私たちをこよなく愛してくださっている良いお方です。ならばどうしてこの世には『試練』というものが存在するのでしょう?私たちの人生には、つい「神様、あなたが私を愛してくださっているなら、どうしてこんな目に遭わなければならないのですか?」と言いたくなるような出来事がたくさん起こりますよね?そんな時は神様が「ちょっと席を外してしまっている」のでしょうか???  では逆に、私たちの人生が終始「ぬるま湯に浸かったような日々」だったとしたら、どうでしょう?私たちの人格はどのようになって行くでしょうか?恐らく「成長意欲の無い」「互いに助け合う精神の無い」「忍耐のかけらも無い」甘えん坊のような大人になってしまうのではないでしょうか?そして恐らく、神様を求めることもなく、当てもなくさまようような日々を送ってしまうに違いありません。  冒頭に書いたように、私たちの神は、「全知全能であり、私たちをこよなく愛してくださっている良いお方」ですから、私たちの人生に襲ってくる試練や困難は、全て「神がそうなることを許された範囲内」で起こっているのです。すなわち、私たちがそのような試練に遭遇することを通して、神は何か優れた麗しいものを私たちを通して(または「私たちの内に」)生み出そうとしておられるのです。  ですから、試練や困難が襲ってきた時には、「神様どうしてこんなことが?」と愚痴をこぼす代わりに、「神様、あなたはこの出来事を通して、私にどんなことを教えたいと願っておられるのですか?」と問うようにしてみるのが良いのです。