聖書
(514) “これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。”
1日1日は神からの贈り物です。1日でも浪費してしまうことは、実にもったいないことです。皆さんは誰かから『贈り物』をもらった時どうしますか?まず贈ってくれた人に感謝し、ワクワクしながらその贈り物の包みを開けて、その中身を楽しみますよね?私たちは1日1日をそんな風に楽しむことができるのです。 忙しい日々を送っていると、つい「時間を無駄にしないように」と考えて『計画的』に時間を過ごそうとします。そのこと自体は悪いことではないのですが、それが高じると常に「先のことばかり」を考えてしまって、『今目の前にあること』を存分に楽しむ余裕を失ってしまうことが多くあります。常に「より生産的であろう」とするがあまり、自分の心の中はドンドン余裕がなくなって、その日のノルマをこなすことで精いっぱいで、次の日が来るのが恐ろしくなってくることさえあるのではないでしょうか? この新しい年、そのような悪循環から脱出してみませんか?朝目覚めたらまずゆっくりくつろげる場所に行き、新しい1日が与えられその日を生きるためのいのちも与えられていることを神に感謝する時間を取りましょう。そして今日という1日が神からの贈り物であり、神が用意してくださっている感動や驚きがあちこちに散りばめられていることを期待しつつ、ゆっくりと心の余裕をもって『宝探し』のような気持ちで過ごしてみましょう。1年を通してそのような態度で過ごすことができたなら、年の終わりには昨年の終わりとは全く違った気持ちに変えられているに違いありません。
メッセージ
2023年1月1日 「聖書・キリスト・そして聖霊」
礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「聖書・キリスト・そして聖霊」 (01/01/2023) ◆聖書にはどんなことが書いてあるのか? ・聖書には、まず「神について」書かれている。「創造主・全知全能・祝福といのちの源・悪と妥協しないお方」として、そして何よりも「人を創造し、常に人と関わろうとする存在」であると述べている。次には「人とは何者なのか」が書かれており、「神を離れては真の存在意義を見出せない存在」として描かれている。また新約聖書に関して言うならば、「神と人との仲介者として世に来られた『神の子キリスト』」を中心として書かれている。 ◆キリスト=神のことば ・イエス・キリストは、何故この世に来られたのか?それは聖書が示しているのと同様、「神とは誰か」「人とは何者なのか」をもっと分かりやすい形で私たちに示すためだった。まさに「神のことばが人となられた」のである。 ・「キリストにあって歩む」とはすなわち「神のことばである聖書」に沿って歩むということ。しかし私たちが『ことば』というものに注目して生きようとする時、どうしても律法的になりやすい。この「律法的になること」から私たちを守ってくれるのが、「聖霊の働き」である。[Ⅱコリント3:6,ローマ8:3-4] ・この新しい年、「キリストにあって歩む」ために、①キリストが成し遂げられた歩みに憧れ、②「御父が望むことを行いたい」という願いをもって聖霊の導きを待ち望み、③聖霊の導きを確信したら、迷わずに実行して行こう! ✰今週のチャレンジ: 聖霊に導かれたら、迷わず従おうとしていますか? ◎更に深い学びのために ①「聖書にはどんなことが書いてあるのか?」と尋ねられたら、あなたはどう答えますか? ②イエス・キリストが、「神のことばが人となられた存在である」と言えるのは、どのような視点からでしょう? ③律法的になることなく、神のみことばを実践していくために、どうすればいいですか? Outline of the sermon “Bible, Christ and the Spirit.” (01/01/2023) ◆What does the Bible talk about? ・First of all the Bible talks about “who ‘God’ is”. Read more…
聖書
(513) “からだの明かりは目です。ですから、もしあなたの目が健やかなら全身が明るくなります。”
『ビジョン』とは、神から与えられる「まだ見ていないものを見る」能力です。「単なる希望や夢」は誰でも持つことができ、ただ漠然と思いの中に抱いているだけですが、『ビジョン』はより具体的であり、いつも「心の目で見ている」必要があります。 旧約聖書の時代に神がアブラハムに「あなたは大いなる国民の父(始祖)となる」とおっしゃられた時、彼は既に75歳であり、しかもまだ子供は1人もいませんでした。普通に考えるなら「不可能」ですよね?きっとアブラハムも初めはそう考えたことでしょう。しかし神はアブラハムを宿営の外へ連れ出して星空を眺めさせ、「あなたの子孫は、今あなたが観ている空の星のように地に増え広がるであろう」とおっしゃいました。アブラハムは、ただ『聞く』だけでなく、『見る』必要があったのです。実際彼が1人目の子供を授かるまでにまだ20年以上もかかったのですが、アブラハムはきっと夜空の星を見上げるたびに、神の約束を思い起こしていたに違いありません。 いのちあるものを生み出すためには、何よりもまず、内に「身ごもらなければ」なりません。そしてそれはあたかも「心のキャンバスに描く」ようなものなのです。それを日々じっと見つめながら、今できることに全力を尽くすのです。 偉大な彫刻家ミケランジェロは、他の人には単なる石の塊にしか見えないものの中に『ビジョン』を見、「私はこの中に閉じ込められているものを解放してやらねばならないのだ」と言って次々と作品を作り出していったそうです。神様は私たちの人生の中にも『傑作』を閉じ込めています。来たる2023年、私たちは神様が見せてくださる『ビジョン』を共に見つめながら、この「自分の内に秘められた神の傑作」を解放するべく、ひたすら励んで行きましょう!
聖書
(512) “ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。”
これは実際にあった物語です。 ある日の午後、1人の少女が骨董品屋の前に立ってウインドウから覗き込んでいました。そして意を決したようにドアを開けて中へ入って行くと、きれいな青いビーズを結んだネックレスをつかんで、カウンターにいる店主のところへ持って行って言いました。「これなら絶対に気に入ってもらえること間違いなし!おじさん、これをきれいに包んでね。お姉ちゃんへのクリスマスプレゼントなの。お姉ちゃんは去年ママが死んじゃってからずぅっとアタシの面倒を看てくれていて、とっても感謝しているの。だから今年のクリスマスには絶対にステキなプレゼントをするって決めていて、ずっと探してたの。でもこれに決めた!」 「お嬢ちゃんはいくら持ってるのかな?」店主は女の子に尋ねました。彼女はポケットから何枚かのコインを取り出してカウンターに置くと言いました。「アタシが持ってるお金、ぜぇんぶ持って来ちゃった。」 店主は女の子には見えないようにネックレスの値段を確かめると、女の子を見つめて「お嬢ちゃん、お名前は?」と尋ねながら、奥の部屋へと向かいました。女の子は大きな声で、「ジーン・グレイスよ!」と答えました。店主はきれいな包装紙に包まれたネックレスを女の子に手渡しました。女の子は礼儀正しくお礼を言うと、とても嬉しそうに帰って行きました。 クリスマス・イブの晩、最後の客を見送った店主が店じまいの支度をしていると、1人の若い女性が息を切らしながらやって来て、見覚えのある包装紙に包まれた品物を彼に手渡して言いました。「この品物を売った相手を覚えていらっしゃるでしょうか?」 「ええ、覚えてますとも。ジーン・グレイスという可愛い女の子でしたよ。なんでも大切なお姉さんへのプレゼントだとか…」女性は恐る恐る「これって、本当はおいくらする品なのですか?」 店主は「いやぁ、こういった品物の値段は、売り手と買い手との間の秘密なんですよ。」と答えました。女性はもう1度尋ねました。「でも、私の幼い妹が一体どうやってこんな高価な品を購入できたと言うんです?」 店主は開きかけた包装紙をもう1度丁寧に包み直してその女性に手渡しながらこう言いました。「あなたの妹さんは、他の誰も支払えないほどのとても高価な代金を払って買ってくださったんですよ。彼女の持っていたすべてを支払ってくださったんですから。」 神は最高の代価である「ひとり子のいのち」を支払って、私たちを買い取ってくださいました。それがクリスマスの物語なのです。言葉に表せないほどのこの高価な贈り物のゆえに、神に心からの感謝をささげましょう。
メッセージ
2022年12月18日 「キリストにある者」
礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「キリストにある者」 (18/12/2022) ◆「キリストにある」とは? ・聖書は「キリストにある」の意味を説明してはいないが、『キリストにある者』の祝福ついて多く語っているので、その代表的なものを見ながら「キリストにある」ということの意味を探って行こう。 ①罪の赦し[ローマ8:1] ― 神の目から見て私たちは、「キリストにあって『罪なき者』」とされた。[Ⅱコリント5:21] ②新しく造られた者[Ⅱコリント5:17] ― 神はキリストの故に私たちを御手の中でキリストのごとく造り変える。 ③神の子ども[ガラテヤ3:26] ― 私たちはキリストにあって『神の子』であり、神の目に特別な存在。[ピリピ4:19] ④互いに1つとされる[ガラテヤ3:28] ― キリストにあって「同じ神の国のいのち」に生かされている。[ローマ12:5] ・これらから『キリストにある』とは、「神は私たちを『キリストを通して』見つめておられる」ということだと分かる。私たちは「キリスト無しでは『死んだ者』であり、キリストにあってのみ『生きた者』」。[ローマ6:11,コロサイ3:3-4] ◆日々『キリストにある者』とされる ・私たちは既に「キリストにある者」とされているが、それを日々自覚する必要がある。[コロサイ2:6-7] 「キリストにある者」の生き方は、主イエスが『ぶどうの木のたとえ』を用いて教えてくださった。[ヨハネ15:4-5] キリストこそ「神の国の民」としての私たちの『いのち』。キリストにつながって歩むなら、必ず『キリストの実』が結ばれていく。 ✰今日のみことば: コロサイ人への手紙 2章6節 ◎更に深い学びのために ①『キリストにある』とはどういうことですか? また『キリストにある者』にはどんな祝福が与えられているでしょう? ②『キリストにある者』でありながら、①のような祝福を味わっていないとしたら、どんな原因が考えられますか? ③あなたにとって2022年は「キリストにあって」どんな年でしたか? また2023年をどんな年にしたいですか? Outline of the sermon “Being ‘in Christ’.” (18/12/2022) ◆What is Read more…
聖書
(511) “あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。”
皆さんは朝目覚めた時、きっと「今日はどんな服やアクセサリーを身に付けようかなぁ」と思うことでしょう。ぜひその時に「外面的に身に付けるもの」だけでなく、『内面的な身支度』にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか?「今日は人々に対してどのような態度を示そうか?」「ポジティブな態度でいようか、それともネガティブな姿勢で?」「協調性を心掛けようか、それとも批判的に?」「自己中心的に行こうか、それとも他の人のために役に立つ者でいようか…」などなど、いろいろ考えられますよね。 「でも、人に親切にしてばかりでは、いいように利用されてしまうのでは?」と思うかもしれません。実際そういうこともあります。しかしたとえ多少損をすることがあったとしても、他の人に親切な態度で接することは優れたことです。それには次の2つの理由があります。 ①神が私たちに対して恵み深く親切に接してくださっているから ・ある有名な詩人は「人が親切な心で生きている時、最も『神の素晴らしさ』を反映している」と言いました。言い換えるなら「互いに親切な態度で生きるために」神は私たちをお造りになられたのです。 ②自分の心の奥底で「他の人から親切にされたい」という願いがあるから ・イエスの最も優れた教えの1つは「他の人にしてもらいたいと思うことを、あなたもしてあげなさい」です。『黄金律』とも呼ばれています。私たちが他の人を冷たくあしらう時、その人もあなたに対して冷たい態度を取るでしょう。しかし逆に親切な態度で接するなら、親切な反応が返ってきます。日本のことわざに「情けは人の為ならず」と言われている通りです。 実際私たちが他の人に親切な態度で接することを習慣にするならば、それは単に人間関係を円滑にするだけでなく、私たち自身の心をも豊かなものへと成長させていくのです。「人をも富ませ、自分をも豊かにさせる」、これが神様が私たち1人1人に望んでおられることなのです。
聖書
(510) “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。”
どんな人でも『傾向性』というものを持っています。「物事を良い方向に取るか、悪い方向に取るか」「冒険を好むか、現状維持を好むか」「高いセルフイメージを持っているか、自分を低く見積もることが多いか」などなど。どちらが優れているかということに関係なく、これらの『傾向性』というものは長い年月をかけて培われたものなので、変えたいと思っても簡単に変えられるものではありません。しかし同時に「これは自分の性格なのだから、変えようがない!」とあきらめてしまう必要もありません。神はイエス・キリストを通してご自分に近づく者を、『新しく造られた者』としてご自分にふさわしい姿へと造り変えてくださるのです。 聖書は私たちが神を信じて生きて行く様子を「信仰による『歩み』」と表現しています。言うまでもなく『歩み』というのは、移動手段の中でも最も「ゆっくりな」方法ですよね。神様は私たちを飛行機に載せて運ぶようなことをしないで、「一緒に歩もう!」と言ってくださるのです。では、神と共に歩む「新しく造られた者としての歩み」とは、どのようなものなのでしょう? 私たちの『性格・傾向性』というものは、「自分に対して強い影響力を持っていた人々」、また「いつも触れていた情報」によって育まれてきました。それらの多くはきっと「自分で選択する余地がなかったもの」だったのではないでしょうか?ですからこれからは自分の『思い』を切り替えることによって、「神からの語りかけである『聖書の言葉』」、そして「同じ神を信じて『歩んでいる』人々」と触れる時間を多く持つようにするのです。衣服の頑固な汚れを落とす時に「漂白剤に浸して」おくように、私たちの『思い』を「神のことばである『聖書』に浸しておくと、おのずと神が私たちに望んでいることが身に付いて行き、肩の力を抜いて『新しい目標』を目指して歩んで行けるようになるのです。