メッセージ
2021年2月14日 「人の基準と神の基準」
礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「人の基準と神の基準」 (14/02/2021) [マルコ 3:20~30] ◆人の基準 [20~22節] ― 『家』は恐らく、1章29節にも出てきた「シモンとアンデレの家」。 ・「イエスの身内の者」にしても、「律法学者たち」にしても、イエスに関する評価は「自分が不利益をこうむりたくない」という『自己防衛』から出ていた。一方イエスはそのようなことを恐れず、常に『神の国の真理』を証しすることにフォーカスを置いていた。[Ⅱコリント13:8] ◆神の基準[28~30節] ― この28節は驚くべきことば! ・例えば「神様のバカヤロー!」と叫んだとしても、神はそのようなことを気になさるお方ではない。 ・「聖霊を冒瀆する」とは、特定の行為ではない。聖霊は人々の内側に働きかけ、「周囲で起こっていること」や「心に思い浮かんだこと」が『神からのものかどうか』(別の言葉で言うなら、『真理』かどうか)を見極めさせようとする。それは私たちが『信仰』によって常に『真理』を選択し、日々神に近づくように招くため。 ・「聖霊を冒瀆する」とは、この『聖霊が示す真理』に意識的に逆らうこと。[へブル10:28-29] 人が悔い改めることなく、敢えて「神に逆らう選択」を続けるなら、その人は「自分の選択の結果」として『滅び』に向かうことになる。 ✰今日のキーワード:『捨て身』で従う ◎学びを深めるための質問 ①『自己防衛』のために、正しい道を知っていながら別の道を選んで後悔した経験があれば分かち合いましょう。 ②「どれほど神を冒瀆することを言っても赦される」のは何故だと思いますか? ③「聖霊を冒瀆する者」とならないために、私たちが心に刻んでおくべきことは、一体どんなことでしょうか? Outline of the sermon “Criterion of man and God.” (14/02/2021) [Mark 3:20~30] ◆Human criterion. [Verses 20-22] ― From Mark Read more…
聖書
(426) “神は私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。”
『養子縁組』というものがありますよね。今はどうなのか定かではありませんが、ひと昔前までは『養子』というものは「もらわれっ子」と呼ばれて、よくいじめの対象になったものです。でもよく考えてみると、『養子』というものは、子供を持つことを望んでいた夫婦が子供に恵まれず、自らが探して、いくつかの選択肢の中から選んで自分の子供とするわけですから、選ばれた側の子供からすれば、「もらわれっ子」というレッテルどころか、『愛され、選ばれた者』という素晴らしい尊厳を持つべき存在ではないでしょうか? イエス・キリストを自分の救い主と信じた瞬間から、私たちは『神の子ども』とされる、と聖書は約束しています。更に聖書は「神は私たち1人1人を愛をもって選んでくださった」とも言っているのです。これは『養子縁組』と少し似ていますが、むしろそれ以上のことです。神は人間の親とは違って、私たちの隠れた欠点や弱さも全てご存知の上で、それでも私たちを愛し受け入れ、しかもご自身のひとり子イエス・キリストのいのちの代価によって私たちを罪と滅びの淵から救い出してくださったのです。ですから仮に私たちがどんなに「思惑と違った、期待外れで出来が悪い子」であったとしても、神は決して私たちにあきれ果てたり見捨てたりすることはありません。神があなたに期待することは、品行方正になることでも、「自分はそんな立派な者ではないのに…」などと卑屈になることでもなく、ただ『神に選ばれた子供』としての自覚と尊厳とをもって、平安と喜びに満ちて生きることなのです。
メッセージ
2021年2月7日 「『選び』ということ」
礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「『選び』ということ」 (07/02/2021) [マルコ 3:13~19] ◆『選び』ということ [13~15節] ― ルカによると、イエスは前夜徹夜で祈りの時を持った。[ルカ6:12-13] ・聖書に見られる「神の選び」に関して、特に「選ばれた理由」を自分の中に捜す必要はない。アブラハムとその子孫(ユダヤ民族)は『全世界の祝福の基』として選ばれたが、バプテスマのヨハネは「神は石ころからでも『アブラハムの子孫』を起こすことができる」と言った。大切なのは「選ばれたこと自体」よりも「その目的」を理解すること。 ・イエスは12使徒を「ご自分のそばに置くため」に選ばれた。それは『宣教や霊的戦い』のために整えるため。「神のわざ」のために遣わされる前に、私たちがそれらのわざを『キリストの心』で行えるよう整えられる必要がある。 ◆イエスの態度 [16~19節] ・イエスと出会うことによって「新しい名」を与えられた弟子たちがいた。ペテロは「揺れ動く葦」から「堅固な岩」に変えられ、「『雷』のように怒りっぽかった」ヨハネは『愛の使徒』と呼ばれる者へと変えられた。 ・「イエスと出会うと変われる」というよりも、「イエスを通して『創造主なる神』との交わりの中で『神のかたちを帯びた本来の姿』へと回復されて行く」ということ。私たちはそのように変えられて、キリストと共に遣わされて行く。 ✰今日のキーワード:『祝福の基』となる ◎学びを深めるための質問 ①神が「特定の人を選ぶ」のは『えこひいき』でしょうか? そうでないとすれば、どうしてそう言えるのでしょうか? ②イエスが、ご自分がお選びになった人々を「みそばに置かれた」のは何故だと思いますか? ③「キリストと出会ってから変わってきた」と思える点はありますか? 『傾向性』で言えば、どのような点ですか? Outline of the sermon “What does ‘appointed’ mean?” (07/02/2021) [Mark 3:13~19] ◆“Be appointed”. [Verses 13-15] ― According to Luke’s Read more…
メッセージ
2021年1月31日 「神を求める理由」
礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「神を求める理由」(31/01/2021) [マルコ 3:7~12] ◆人々の飢え渇き [7~10節](人々はイスラエルの国中、また国境の向こうからもイエスの許へやってきた!) ・ユダヤ人は「遠慮深い日本人」と違って、なりふり構わずイエスに迫って行った。そんな彼らの必要にイエスはいつも喜んで答えた。「苦しい時の神頼み」という言葉があるが、確かに人々は『苦しみ』の中で神を求める。『苦しみ』自体が神から来るわけではないが、人が神を求めるようになるために、神は敢えて『苦しみ』が人を襲うのを許されるのかもしれない。 ◆イエスの態度 [11~12節] ・イエスは『悪霊』や「癒された人々」に対し、しばしば「誰にも知らせないように」と戒めた。悪霊たちはイエスが『メシヤ(神の子)』であることをよく理解していたが、彼らの証言を聞く『人々』は「霊的に盲目」だったので、彼らの証言を正しく理解できないことをイエスはよくご存じだった。[ヨハネ6:14∼15] ・私たちが通常持っている『神観(メシヤ観)』は、「自分のために何かをしてくれる存在」。しかし「神が私たちに知って欲しいと願っておられるご自身の姿」とは、「絶対的な愛と信頼の対象としての、『良い父』」である。 ✰今日のキーワード: 神の前で『幼子』になる ◎学びを深めるための質問 ①「苦しい時の神頼み」的な信仰は、良くないことでしょうか? また、どうしてそう言えるのでしょうか? ②イエスが「自分のことを知らせないように厳しく戒めた」のは何故でしょう? 私たちも黙っているべきでしょうか? ③天の父は、私たち1人1人に「どのような心で」ご自分のことを求めて欲しいと願っておられるのでしょう? Outline of the sermon “Why do you seek God?” (31/01/2021) [Mark 3:7~12] ◆People are hungry for Jesus. [Verses 7-10](They came from Read more…
聖書
(425) “しかし、成長させたのは神です。”
私たちは当たり前のように、種を蒔くと芽が出て成長して行くことを期待しますが、これって結構スゴイことですよね?あんなに小さな粒がやがて美味しい実を実らせる木に成長することもあるなんて、つくづく神様のみわざって素晴らしいなぁと感動させられます。 さて、私たち人間も、誕生してからは常に『成長』をし続けているわけですが、単なる「肉体的成長」だけでなく、「精神的・霊的(神との関係における)成長」も人生には欠かせない要素です。そして神様は私たちが「精神的・霊的」に健康に成長するために、いくつかのヒントを与えてくれています。 まずは『正しい環境』です。聞いたところによると、ある種の魚は入れられている水槽の大きさに応じて成長するそうです。小さな水槽に入れたままだと小さなままで、大洋に放してやると本来成長すべき大きさにまで成長するそうです。私たち人間も「正しい友人」と共に「正しい職場」で「正しい役割」を担っていくならば、本来神様が私たちを形造ってくださったフルサイズの人生を送ることができます。 次に『正しいフォーカス』です。現代は「競争社会」と言われますが、本来人間は「他と比べる事」によって成長するのではなく、「与えられた役割に没頭すること」によって、神が本来与えてくださっている才能を開花させることができるのです。 そして『変化への準備』。私たちは「成長」は求めますが「変化」を恐れます。必要な成長のために神様から送られる『変化』を避けることなく、神様は良いお方だと信じて敢えて適応して行く姿勢が求められます。 最後に『正しい期待感』。聖書は「人の内面的成長」のことを『実を結ぶ』と表現しています。そしてご存知のように、美味しい木の実がなるのには時間がかかります。「桃栗三年柿八年」。長い時間をじっくり待ち続けるためには「ワクワクしながら楽しみにしていること」が欠かせません。 まだ2021年は始まったばかり。これらのことを心に留めながら、神様が私たち1人1人のために抱いてくださっている『フルサイズへの自分』へと成長し続けて行きましょう!
メッセージ
2021年1月24日 「『善』と『悪』の見分け方」
礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「『善』と『悪』の見分け方」(24/01/2021) [マルコ 3:1~6] ◆律法にかなっているのは?[4節] ・ユダヤ社会の律法理解では、「安息日の労働」は禁じられており、「病人の治療」は『労働』とみなされていた。 ・イエスは「労働か否か」というあやふやな基準ではなく、「善を行う(いのちを救う)こと」か、それとも「悪を行う(殺す)こと」かという『絶対的基準』で彼らに迫った。しかし彼らは「黙って」、ただイエスの行為のみに関心を払った。 ◆イエスの「怒り」と「嘆き」 [5~6節] ・パリサイ人たちにとって『善』とは「律法を(自分たちの基準で)守ること」であるにもかかわらず、イエスが安息日に 人を癒した結果、律法に逆らって「イエスを殺すこと」を計画し始めた。このように「自分たちの都合に合わせて『善悪』、そして『神』や『律法』までも定義しようとする態度」 に、イエスは深い「怒り」と「嘆き・悲しみ」を抱いた。 ・神が求めておられるのは、「形だけの良い行い」ではなく、『関係』である。相手(それが『神』であっても「人」であっても)に直接尋ねることもせずに、自分の経験や勝手な思い込みによって「良い行い」をしようとしても、それは神を喜ばせない。神が喜ばれるのは、私たちが「ご自身との『愛の関係』」、また「人々との『愛の関係』」に生きること。 ✰今日のキーワード: 『関係』は 『善行』に先立つ ◎学びを深めるための質問 ①パリサイ人たちは「律法を守ること」に関して、どのような点において間違っていましたか? ②一般的に言われる『善行』と、イエスが教えられた『善を行うこと』には、どのような違いがありますか? ③なぜ『関係』は『善行』に先立つのだと思いますか? 真の意味の『善行』を行うには、何が必要でしょう? Outline of the sermon “How to distinguish ‘good’ from ‘evil’.” (24/01/2021) [Mark 3:1~6] ◆Which is lawful?[Verse 4] ・In Jewish Read more…
聖書
(424) “あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。”
あるファイターがインタビューで「チャンピオンになるために最も重要な事は何ですか?」と尋ねられた時、こう答えたそうです。「それは、もう1ラウンド戦おうとすることだ。」 様々な分野で成功を収めている人々は、当然それぞれの分野で別々の秀でた素質や能力を持っていたと思われますが、恐らく全ての『成功者』たちが共通して持っていたと思われる資質があります。それは「途中であきらめない『粘り強さ』」です。イギリスの有名な詩人『トマス・グレイ』がその傑作『田舎の墓地で詠んだ挽歌』を発表するまでには、何と75回もの原稿を積み重ねたそうです。またアメリカの劇作家『S.N.バーマン』は、最初の作品が売れるまでに11年かかったそうです。あのイギリスの有名な作家である『サマセット・モーム』は、その初期10年間の執筆活動で得た売り上げは、たった500ドルでした。またイタリアの有名なオペラ歌手『エンリコ・カルーソー』はデビューのために12年間の訓練を要しました。そして「アメリカ音楽を作り上げた作曲家」として知られている『ジョージ・ガーシュウィン』は、その作品が初めて(たった5ドルで)売り物になるまでに、100もの作品を作曲していました。 これらのエピソードから学べることは、たった1つ。仮にあなたの夢がすぐに実現しなくても、簡単にガッカリしたり落ち込んだりする必要はない、ということです。それを執拗に続け、その中で更に熟達して行けば良いのです。毎日が学習です。私たちは失敗や試練を通して学ぶのです。冒頭で述べたファイターがインタビューに答えたように、「もう1ラウンド戦い続けること」ができる人こそ、勝利を手にすることができるのです。 もしあなたがあきらめてしまうなら、神様はもはやあなたを通して何もすることができません。しかしあなたが「粘り強く」前に進み続けるならば、神様はあなたを助けることがおできになるのです。
メッセージ
2021年1月17日 「キャンプ場での証し礼拝」
礼拝全体の様子をYouTubeで観る 1月15~17日に2泊3日の『JCFファミリーキャンプ』が行われました。今回の動画はその中で行われた日曜礼拝の様子です。
聖書
(423) “自分の走るべき道のりを走りつくし…任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。”
生物学的に「生きている」ことと、真の意味で「生きていること」との間には大きな違いがあります。そして「真の意味で生きる(自己最高の人生を送る)」ために不可欠なものと言えば、それは『自分の人生の目的を知ること』と、『それを成し遂げようとする断固たる決意と継続力』ではないでしょうか? 実を言うと、私は30代になるまで、これが分かりませんでした。私は19歳の時にクリスチャンになり、「神と共に歩む人生」を満喫しているつもりだったのですが、真の意味で「自分はこのことのために生まれて来た!」というものを見つけてはいなかったのです。もちろんクリスチャンとして「イエス・キリストにある永遠のいのちについて人々に伝える」という強い使命感は持っていたのですが、恐らく自分の考えや能力に頼りすぎて肩に力が入り空回りしていたのでしょう。 「かぎりなくやさしい花々」などの詩画集で有名な、首から上しか動かせないクリスチャンの詩画作家『星野富弘さん』は、こんなことを言っています。「いのちが1番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」 今私は人生を最高にエンジョイしています。自分の『ライフワーク』を見つけたからです。それは「他の人を生かすこと」、すなわち「他の人が『自己最高の人生』を送るための助けをすること」です。私は『人』が大好きです。そして『人』がその持ち味を生かして輝いている様子を見ると、何よりの幸福感を感じます。もし自分が関わる人々の間で少しでもそのためのサポートができたら… そんなことをいつも考えながら日々を生きています。朝ごとに「神様、今日私が出会う人々に、その人が輝くための手助けができますように。」と祈りながら1日を始めるようにしています。そしてまた、人が『自己最高の人生』を送るためには、「主イエス・キリストとの出会い」が、何が何でも必要であると固く信じてもいるのです。