(321) “神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。”

先日母が他界しました。『他界』ということは「別の世界へ行った」ということですよね。実際、母は「死んでしまって『無』に帰してしまった」わけではなく、私たちが生活している『この世』よりもずっと素晴らしい「悩みも苦しみもない『天国』」へ移されたわけです。実に羨ましい限りです。 神は私たち人間を「滅ぶべき者」としてではなく「永遠に存在する者」としてお造りになりました。本来私たち人間は「永遠に神との親しい交わりの中に生かされ、愛と喜びと平和に満たされて生きるべき存在」でしたが、私たちが『神』よりも『自分自身』を人生の王として生きることを選んだため、神と隔絶されて「この世の与える『一時的な満足』に慰めを見い出す存在」へと成り下がったのです。 ところが神は私たちへの深い愛の故に、私たちをもう1度本来の「永遠に神との交わりの中で生きる存在」へと回復されるために、救い主キリストをお遣わしになられたのです。従って、このキリストを自分自身の救い主として受け入れる者は『永遠のいのちの祝福』にあずかり、彼を拒む者は「永久に神から隔絶され、『永遠の死』の苦しみにあえぐ」ことになるのです。 先日あるクリスチャンの女性がこんなことを言っていました。「以前私はよく周囲の様々なできごとに煩わされていました。都合が悪いことが起こると、『このまま物事がドンドン悪い方向へ行ってしまうのではないか』と恐ろしくなって、眠れなくなってしまうこともありました。でもある時ふと『神様は永遠に私から離れることがないのだから、何も心配する必要はない』ということが示され、『あぁ、この世でどんなことが起ころうとも、所詮永遠に続くわけではないのだから、問題ではない。本当に大切なものは、神様から与えられる永遠のものだけなのだ』と、深い平安が心にやってきたのです。」 あなたはこの『永遠の神との関係』の中に、もう生かされていますか?

2018年12月2日「自分の願いではなく…」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「自分の願いではなく…」      (02/12/2018) ◆にせ預言者を見分ける[マタイ7:15-23] ・「にせ預言者」は見分けにくい[15節]が、『実』によって見分けることができる。 それは「社会的に良い影響を与えているかどうか」ではなく、「神のみこころを行っているかどうか」。 ・律法学者たちは『教え』を知っていたが、イエスは『神の心』を知っていた。 ◆イエス・キリストに似せられる[ヨハネ15:4-6] ・「イエス・キリストに似せられる」とは、行いや品性(外見)の猿マネではない!それは「キリストを通して御父を 知っていくこと」の結果として起こる、私たちの内面の変化。 キリストに似た者 = 「父のみこころが成し遂げられることが、自分の最大の願いとなっている者」[ヨハネ4:34] ・これは「自分に死んでいる(自分が無い)」というよりは、「『自分の願い』を相変わらず持ってはいるが、それ以 上に『父の心』を求めている」(そっちの方が良いものであると知っているから)ということ。[マルコ14:36] ◆今週の『暗唱聖句』: [マルコの福音書 14章36節・後半]   Outline of the sermon      “Not what I will, but …”      (02/12/2018) ◆How to distinguish “false prophets”.[Matthew 7:15-23] ・It is not Read more…

(320) “明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。”

多くの人が「自分の将来」を知りたがります。そして様々な占いなどに頼って一喜一憂するわけですが、実際は占いの結果が良ければ良かったで「本当にそうなるのだろうか?」と心配したり、結果が悪ければ「そんなはずはない!」と言いながら、どうしても不安がぬぐい去れなかったりしてしまいます。結局不安な気持に陥るのであれば、占ったりしない方が良かったのではないでしょうか? 神様はどうして私たちに「将来を知る力」を与えなかったのでしょう?恐らくその理由は、私たちに『今』を精一杯生きて欲しかったからではないでしょうか。「将来を知りたがる人」というのは大抵「現状に満足していない人」です。きっと『今』を喜べないから『将来』に希望を見い出そうとするのでしょう。でも前述のように、確証のない未来を思い浮かべてみても、結局は「今を喜ぶ」という人生に至ることはできません。 私は「人の将来というものは、『今』の積み重ねによって造られる」と信じています。神様は私たち1人1人の人生を既に決めてしまっているのではありません。もちろん私たち1人1人のために『最高の計画』を立ててくださっていますが、それは「私たちがどんなに適当に暮らしていても成就する」という類のものではなくて、「私たちが神のみこころを捜し求めながら、日々自分が生み出し得るベストをささげて生きて行く」中で開かれて行くものに違いありません。そういう意味では、もしあなたが試練の中にあるならば、それはまさに「神から与えられたテスト」であって、神はきっとあなたがその試練の中で『逃げ腰』に生きるのか、それとも「神に助けを求めつつ『前向き』に進んで行こうとするのか」をご覧になっているのです。そしてそれら1つ1つの試練は、私たちが『更に優れた将来の自分』となれるようにと備えられた、神の愛の証なのです。

(319) “わたし(イエス・キリスト)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

英語で『ライフ(Life)』というと、日本語で言う『いのち』と『人生』という全く別の2つのものの両方を表す意味があります。私たちは『いのち』と聞くと「生物学的・医学的ないのち(生命)」を思い浮かべ、『人生』と言われたら「人間1人1人に与えられた生き様」を想起します。 聖書は、イエス・キリストを救い主と信じる者には『永遠のいのち』が与えられると教えています。これを前者の「生物学的ないのち」として理解する人の中には「この世で80年生きるのだって退屈なのに、『永遠のいのち』なんてもらっちゃったら、退屈で仕方がない!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし実際は、この『永遠のいのち』という言葉で表現されているものは「神と共に生きる人生」のことであり、それはイエス・キリストを信じた瞬間から与えられ、この世においても日々成長して行く「生き生きとしたいのち」であり、永続的にもたらされる『喜び』『平安』そして「天地創造の神に100パーセント受け入れられている」という充足感に満ちた日々を生きることなのです。 多くの人々は「お金」「家庭」「生きがい」などといったものが人生を豊かにすると思っているようですが、実際に私たちが心の奥底で激しく欲しているものは「尽きることのない喜び」「状況に左右されない心の平安」「自分は確かに必要とされている、という確信」そして「何かを失ったり、失敗したりしても、相変わらずありのままを受け入れられている、という確固たる安心感」ではないでしょうか?神がイエス・キリストを通して私たちに与えようとしておられる『永遠のいのち』には、まさにそういったものがすべて含まれているのです。

2018年10月28日 「『永遠のいのち』を味わう」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『永遠のいのち』を味わう」     (28/10/2018) ◆究極の選択[マタイ7:13-14] ・第1義的(未信者に対して) ― イエス・キリスト以外に救いはない!(実に狭い) 『恵みによる救い』:「信じるだけでいい」 = 「信じること」以外に何も貢献できない。 ・第2義的(クリスチャンに対して) ― 『自分』主導vs 『神』主導。[マタイ10:39]      せっかく与えられた『永遠のいのち』(神との一体感)を、日々味わっていますか? ◆『永遠のいのち』を味わう 広い道:「この世の祝福」を追求する道(誰もが当たり前に求めている)。『霊』ではなく、『肉』を満足させる生き方。 狭い道:『永遠のいのち』を満喫する道。「神だけが与えることのできるもの」を追求する生き方。 ・永遠に続く平安・喜び・自由。100%受け入れ合う関係 ⇒ 人間が皆、本当に必要としているもの。 *必要なことは「信じること」のみ。払う代償は、『自分』(この世が自分に提供するもの)。[ヘブル12:2] ◆今週の『暗唱聖句』: [ピリピ人への手紙 2章21節]   Outline of the sermon     “Experiencing ‘eternal life’.”     (28/10/2018) ◆Our ultimate choice. [Matthew 7:13-14] Read more…

(318) “小羊(イエス・キリスト)のいのちの書に名が書いてある者だけが、そこ(天国)に入ることができる。”

1912年のある夜、至上最大の豪華蒸気客船『タイタニック号』が北極海に沈み、多くの犠牲者を出しました。「沈没することはあり得ない」とまで言われていたタイタニック号であっただけに、その反響は当時ものすごく大きなものでした。 この大惨事の後、リバプールにあった「ホワイトスター観光事務所」の入り口には、この豪華客船に乗船していた方々の家族や友人たちが殺到しました。何故ならその入り口の両脇に、片方には「死亡者リスト」、もう一方には「生存者リスト」が貼り出されたからです。そして更なる死亡者・生存者が確認されるたびに、事務所の係員が出てきては、その名前を書き足すのでした。『生存者リスト』に自分の知り合いの名前が書かれるのを見た人々は歓喜し、『死亡者リスト』に書かれるのを見た人々の顔には絶望の涙が流れたのです。 実はこの話は何も『他人事』ではありません。聖書ははっきりと「やがて来る世の終わりには、『小羊のいのちの書』にその名が書いてあるか否かで『天国行き』もしくは『地獄行き』が決まる」と書いてあります。そしてこの『小羊のいのちの書』に名前が書かれるかどうかは、私たちの学歴や業績とは全く関係がなく、ただ「あなたの罪の身代わりに十字架にかかって死なれた『イエス・キリスト』を、自分の救い主として信じているかどうか」にかかっているのです。 タイタニック号の大惨事で生き残ったかどうかは、それぞれの学歴や業績とは全く関係ありませんでした。(もっとも、そうとうのお金と暇が無ければこの船には乗れなかったでしょうが…)しかし乗船していた全員に共通していたことがあります。それは、自分たちがそんな大惨事に直面しているなどとは夢にも思っていなかったことです。あなたも「『世の終わり』なんて来る訳がない。どうせ死んでしまえば何もかも同じ。今さえ楽しければ、それで十分!」と思っているでしょうか?『その日』は思いがけない時に訪れてくるものなのです。もし今日その準備をすることができるのだとしたら、それを怠ることは賢いことと言えるでしょうか?