聖書

(74) “私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。”

  人生が自分の願ったとおりに進んでいるときに「幸福な気分」を味わうことは誰にでもできます。しかし、実際人生がそのように進む瞬間はどれほどあるでしょうか?自分が置かれている状況に関わらず幸福感を味わうことができる秘訣はないものなのでしょうか? あるプロ野球の2軍のコーチがこんなことを言っていました。「若手選手の中で、やがて1軍で活躍する選手と、ずっと2軍のままで終わる選手の違いは、『技術の差』ではなく『意識の差』である。」 ある選手は、1軍から2軍に行くように言われた時、「2軍に落とされた」と言います。つまり自分が2軍行きを命じられたのは、自分のせいではなく、1軍のコーチに見る目がなかったからだ、と責任転嫁をするのです。こういう選手に限ってエラーをすると、道具のせいにしたり、グラウンドの整備が悪いからだと文句を言うのです。しかし別の選手は、「もう1度自分を鍛えなおす絶好の機会が与えられた」と、先輩やコーチの助言によく耳を傾け、熱心にトレーニングを重ねます。こういう選手ほど、やがて活躍するようになるものです。 すなわち、『幸福感』は状況に左右されるべきものではなく、自分で管理すべきものだということです。 私たちから『幸福感』を奪う3つのものがあります。 ①   欲張る心 : ないものねだりばかりしている人は、神が既に与えてくださっているものを楽しむことができません。もちろん『向上心』を持つことは良いことです。しかしゴールばかりに気を取られて、「成長の過程」を喜ぶことを忘れてしまうと、幸福感は失われてしまいます。 ②   恐れる心 : 悪魔はいつも、私たちが神様のことを忘れて「目先のものを追求すること」に熱中させ、結果として「根拠のない恐れ」(もしOOを失ってしまったらどうしよう。もし~が起こったらどうしよう。など)の中に捕らえることを狙っています。恐れは私たちから「平安」や「人生のしっかりした土台」を奪い取ります。 ③   『幸福感』を誤った場所に見出そうとすること : 「人は人生の初めの50年を『安定した生活を得るため』に使い、残りの日々を『人生の意義を見出すため』に用いる」と言われています。本当にそれが人生の正しい用い方でしょうか? 人生の本当の満足(幸福感)は、私たちをお造りになり、私たちに人生そのものを与えてくださった神との関係から来るのです。私たちはイエス・キリストを通して神との関係の中に生きるとき、恐れから解放され、現状を喜ぶ心が与えられ、正しいフォーカスを持って生きることができるようになります。

By Ken, ago
メッセージ

2013年4月21日「エゴー・エイミ」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ          「エゴー・エイミ」       (21/04/2013) [ヨハネ18: 1-11]  *この部分での「ヨハネの福音書ならでは」の特徴が2つある。    ①「ゲッセマネの祈り」[マルコ14:36]の描写がない。  ②「ユダによる口づけ」の場面がない。 ◆なぜ「ゲッセマネの祈り」の描写がないのか?   ・この「ゲッセマネの園(オリーブ山の一部)」はイエスのお気に入りの場所だった。[1~2節,ルカ21:37, 22:39-40]    いつもイエスの側にいたヨハネは、もしかしたらイエスのこのような祈りをひんぱんに見ていたのかもしれない。   ・[11節] も、ヨハネだけの表現。ヨハネは確かに「ゲッセマネの祈り」を知っていた。しかし、彼にとってはむしろ この「心の定まったイエスの姿」が、より印象に残ったに違いない。 ◆イエスの主体性   ・「ユダの口づけ」は、暗がりの中で人々にイエスを見分けさせるため。しかしこの場面では、むしろイエスは自ら    「あなたがたが捕らえようとしているのは、他ならぬこのわたしだ!」と名乗り出ている。[4~5節]   ・「それはわたしです(エゴー・エイミ)」という表現は、ヨハネの福音書にしばしば登場する。イエスは人々に真理を    示すのに「哲学的な教え」ではなく、ご自身を指し示した。(「わたしが『いのちのパン』『世の光』『道・真理・いのち』」など)   ・私たちは『神』をイメージする時、ほとんどの場合「自分の都合に合わせた理想」に基づいて造り上げる。しかし    神の真の姿(性質)を知るためには、イエスを見なければならない。また、聖書を読む時、つい「道徳的な教え」    「幸福の秘訣」などに注目するが、イエスは言われた。[ヨハネ5:39-40] 聖書は本来イエスに注目させるため。 ☆今日もイエスは、私たち1人1人に向かって次のようにおっしゃっている。 『エゴー・エイミ』「あなたがずっと求めてきたもの、『それはわたしです』。」       Outline of Read more…

By Ken, ago
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2013年4月14日 「イエスのごとく生きる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「イエスのごとく生きる」     (14/04/2013) [ヨハネ17: 24-26]  *「イエスの祈り」 最終回。 深い真理が含まれている。 ◆「わたしのいる所に一緒におらせてください!」 [24節前半]   ・「イエスのおられる所」とは?= 『神の御座の右』 [へブル12:2]   ・神が下さった『新しいいのち』は、キリストと共に天にある。それ故私たちは「天からの視点」でこの世の出来事を捉えないと、神のわざを体験できない。[コロサイ3:1-4] ◆私たちは「キリストと同様」 [Ⅰヨハネ4:17] ・私たちはキリストによって1度『天に属する者(死んだ者)』とされ、「天にある新しいいのちに生きる者」として この地に『天から』遣わされている者だ、ということを知らなければならない。 ・[25節] この世は(天からの介入がない限り)天にあるものを悟り得ない。それ故神は御子を遣わされた。[ヨハネ3:13] ◆「キリストのごとく」歩むために、私たちの何が新しくされなければならないのか?     ①行動?➝ No!  ②意識?➝ △  ③人生の主導権 ➝ YES!    ・神に対する『献身』。あくまで「自主的」な従順が必要。イエスでさえもこの『従順』を学ばれた。[へブル 5:8-9] ◆ヨブの物語    ・サタンは『愛』を信じない。それ故ヨブが神に従順なのは「何か理由があるから」と主張した。 そこで神は『賭け』に出た。サタンのするに任せ、手出しをせず、じっとヨブの「自主的な信仰」を見守った。 ・今日も神は、私たちの『愛』、「◯◯にも関わらず 信じて従う心」に賭けておられる! ☆イエスのごとく、この地にあっても『世』に同化することなく、『天に属する者』として、 自らの自由意志で、この地上の「従順のレース」を走り切りましょう!     Read more…

By Ken, ago
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2013年4月7日 「人となられた神」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「人となられた神」     (07/04/2013) [ヨハネ17: 20-23]  *ここから正真正銘「私たちのための祈り」 ◆中心ポイント [21節前半]   ・「御父とイエスとが1つであるように、私たちが1つとされる。それが『お互いを見つめること』によってではなく、『神とキリストとの関係』に依存することによって始まり、また完成される」ということ。 [23節前半] ◆「御父がイエスにお与えになった栄光」 = 『神の子』としての栄光 [22節]    ・神は「私たちとイエスとを天秤にかけた」のではなく、イエスの地上での生涯を通して「私たち1人1人とどんな 関係をもって生きることを望んでおられるのか」を示され、そしてそこに至るための道を備えられた。 ・ピラトや祭司長たちは「群衆の目」ばかり気にしていたため、真理を見失った。真理を見出す道は『人々』では なく、『神のまなざし』を常に意識し、しかも「子とされている」という事実をしっかり心に刻んでおくことにある。 ◆「神がイエスを遣わされた」とは?[21節後半,23節後半]   ①神はこの世(私たち)に関心があり、関わろうとしておられる。   ②「抑圧的な形」ではなく、「誰もが(警戒せず)優しい心で受け入れられる形」で来られた。   ③神はあくまで『私たちの自由意志(信仰)』を尊重される。 ☆神はイエスを通して、ご自分についての十分な情報をくださった。それにどう応えて生きるかは、あなた次第。     Outline of the sermon    “God became human.”     (07/04/2013) [John 17: 20-23]  *Now Read more…

By Ken, ago
聖書

(73) 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

私が通っていた幼稚園は『恵み幼稚園』という名前でした。それはキリスト教会の付属幼稚園だったわけではなく、「お寺の付属幼稚園」そして園長先生はお坊さんでした。毎朝お寺で「ありがたいお話し」を聞いてから1日がスタートするのですが、その中で、私が卒園してからもずっと覚えていたお話は「お釈迦様はいつでもあなたのことをご覧になっています」というものでした。私は当時「鼻くそをほじるクセ」があったので、この「お釈迦さまがいつも自分のことを見ている」ということは、『見守られている』というより、むしろ『監視されている』という気分がして、とても辛かったのを覚えています。 ところで「恵み」とは一体何でしょう?少なくとも次の3つのことを含んでいると思います。 ①一方的に与えられる物。 ②自分の努力によってではなく、神の憐みによって与えられる物。 ③自分の力で奮闘している間は手が届かず、「もうダメだ」と思った時、いつの間にか手にしている物。 聖書には次のような言葉があります。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ここで言う『へりくだる者』とは、自分の弱さ・足りなさを認め、「神なしには決して成し遂げることはできない」と考える者です。それと反対に『高ぶる者』とは、自分の力で成し遂げることによって「名誉を我がものにしたい」と望む者であり、このような人たちにとっては「神からの恵みを受け取る」ことはおろか、プライドの故それを求めることさえできないのです。 使徒ペテロは「恵みにおいて成長しなさい」と言っています。私たちが「恵みにおいて成長する」には、それを『受け取る』経験を重ねる以外にありません。そしてそれを受け取るには、神の愛と約束を信じ、日常生活の中で神が与えて下さっている物を見出し、それを感謝し、またあなたが助けを必要とする場面でそこに神が介入してくださることを期待し待ち望む姿勢が必要です。実際、「神の恵みなしに私たちが生きることのできる日」なんて、1日だってありはしません。そしてまた、私たちの必要を満たすために、神に「足りない」などということも、決してないのです。

By Junko, ago