(69) それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちの暮らしている社会は、いつも私たちが「何をしているか」を問います。私たちはいつもその成長過程の中で、他の人と比べられてきました。「何故お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいにできないの?」「どうしてオレが言った通りにやらないんだ!」などなど。私たちは何とか周囲の期待に応えようと『ガンバル』のですが、その期待を満足させられることは滅多になく、悩んだり、落ち込んだり、燃え尽きてしまったりするのです。 この混乱に唯一終止符を打つことができるのは、「私たちの行為に関わりなく、ありのままの私たちを愛して下さっている神」と出会うことです。そしてそのことは『イエス・キリストの十字架の意味』を知ることから来ます。私たちの人生の土台は、次の2つのパターンしかありません。「イエス・キリストを通した神の恵みの目線で自分を見るか」または「自分の行ないを磨いて、自分に自信をつけていくか」です。実を言うと、神の私たちに対する評価も、ある『行為』に基づいています。但しそれは「私たちが何をしたか」ではなく、「イエス・キリストが何をされたか」 なのです。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、彼の私たちに対する「真実の献身的な愛」を示すためでした。彼はどんなに失敗ばかりで役立たずな私たちでも決して見放すことなく、あきれてしまうことなく、一緒に人生を歩んで下さるのです。 イエス・キリストと共に人生を歩き始めると、それまで心に溜めこんできた心の痛みや誤った価値観から徐々に解放され、それまで自分でも気付かなかったような新たな可能性への道が開けて行くのを体験します。キリストは、私たちが「この世の王であるサタン」から奪われてきたものを、1つ1つ取り戻させて下さるのです。私たちは本来、「出来不出来」で評価されるために生まれてきたのではなく、全能の神の尊い御手によって「ありのままを喜ばれ、愛されるため」 に生まれてきたのです。