
聖書の神を表現することばで、よく『恵み』とか『あわれみ』とかが用いられますよね?どちらの言葉からも「優しくて寛容」といった印象を受けますが、一体この2つの言葉には何か違いがあるのでしょうか?実は厳密に言えば、あります。
『恵み』というのは、別の言い方をするならば「無償の」という意味で、更に深い意味を付け加えるならば「本来受けるに値しない人が受けることができる」という祝福です。ですからある意味私たちが不完全な者でありながら神様から受ける祝福はすべて『恵み』と呼ぶことができるわけです。この世に生を受けることも、太陽や酸素が与えられていることも、日々活動する力や知恵が与えられていることも、全て「神の恵み」によっているわけですね。
一方『あわれみ』というのは、「本来私たちが受けなければならない罰や災難を免れる」という祝福です。いうなれば「見逃してもらう」ということですね。これはしばしば『弱者』に対して注がれるものかもしれませんね。生活保護であったり、被災地支援だったり、子供や孫の無邪気ないたずらを大目に見たりなど、私たちも日常で経験することがあるのではないでしょうか?きっとこれらは「神のかたちに似せられて造られた」という人間に潜在的に備わった性質でもあるのかもしれません。
そしてこの神の『恵み』と『あわれみ』が最も顕著に表されたのが、「イエス・キリストの十字架」です。神に対する私たちの不信仰や不従順、そして神がこよなく愛しておられる『人々(自分自身を含む)』を不当に扱ったり、傷つけたりしてしまう私たちが、当然受けるべき『罰』をキリストが代わりに受けてくださったことによって、私たちは神の前に「赦された者」となり『神の子』として受け入れられる。これこそ究極的な『恵み』であり、神の『あわれみ』の表現です。
人間が作り上げた『宗教』のほとんどは、「自分の力や努力・修行によって『救い』を勝ち取る」というものです。しかし聖書は「人がそのようにして『救い』を勝ち取ることができるなら、そのような人は必ず、神が最も嫌う『高慢』に陥る」と警告しています。本来『救い』というものは、神の『恵みとあわれみ』によって一方的に与えられるものなのです。
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