(365) “あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、・・・保たれていますように。”

 もうずい分昔のCMですが、『シャット』というトイレの消臭剤のコマーシャルのキャッチフレーズで「クサイにおいは、元から断たなきゃダメ!」というものがありました。そりゃあそうですよね。いくら表面だけを取り繕っても、原因そのものが解決されなければ、いずれまた同じ問題が浮上してくるのは目に見えています。  世の中には『宗教』と呼ばれるものが数多くありますが、それらのほとんどは「修業や教育」によって人間の悪習慣や精神的弱さを『矯正』させようとするものです。まあ多少の効果は期待できますが、前述のCMのように、いくら外側に現れている症状だけを緩和しても「元を断たなければ」本当の解決とはなりません。  聖書は、人間の存在は「3つの部分」すなわち『体』『たましい(心)』そして『霊』によって構成されている、と教えています。そして1番内側にあるこの『霊』の部分(ココが私たちの創造者である『神』を認識する部分なのですが…)が、私たちの『罪』の故に生まれつき死んでしまっていて、私たちは神を認知することができないのです。その『霊』を再び生かすために地上に来られたのが『イエス・キリスト』です。私たちがこの方を個人的な「救い主」として信じるなら、私たちの『霊』は息を吹き返し、「創造主である神との豊かな関係」の中で生きる者とされるのです。  ところで、『信じる』とは一体どういった感覚なのでしょうか?一生懸命に「信じるぞ~、よぉしオレは信じる!信じま~す!!」と自分自身に言い聞かせることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。聖書は「幼子のようにならなければ神を信じることはできない」と書いてあります。つまり、幼子が全く疑うことなく自分の親の言うことを真に受けて喜んで従うように、素直な心で単純に「神様は良い方で、私を心から愛し慈しみ、私を救い、最善の道へと導いてくださる」と信じて、心を開き、神からの働きかけを受け取ることです。そうすると神はあなたの心の内にある『霊』の部分に触れて生き返らせ、あなたが自分の力ではどうしようもできなかった怒り・寂しさ・心の痛みなどを優しく癒し、内側から造り変えてくださるのです。「イエス・キリストを信じて生きること」は『宗教』ではなく、このような『神との関係』に生きることなのです。