(480) “隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。”

 『縁の下の力持ち』っていう言葉がありますよね?人目に立つところで働いているわけではないけど、実は「無くてはならない働きを担っている人」のことを指しているわけです。こういう働きの事を英語では「Behind the scene」と言います。「見えているところの裏側」という意味です。  例えば、コンサートや何かのイベントに参加した時に、私たちが注目するのは「華々しくステージの上で活躍している人たち」だけですよね?見えない所で多くの人たちが関わっていることに気付くのは、せいぜい何か問題が起きた時(マイクの調子が悪いとか、照明がおかしいとか…)だけでしょう。そして「全く裏方は何やってんだ!」と文句を言うわけです。問題なくプログラムが進んでいる時には、『裏方』の存在など気にも留めていないにもかかわらず。  聖書はそんな『縁の下の力持ち(裏方)たち』のために素晴らしいエールを送ってくれています。神様はまさにそんな「人目に立たない所で私たちが払った労苦」を決して見逃すことなく、正当に評価してくださるというのです。神の目には「隠れているもの」など1つもないからです。  ここで大切なことは、私たち自身も「神様は目には見えないから、信じない」などと言わず、『見えないけれども、そこにいてじっと見守ってくださっている神』にしっかりと思いを向けることです。神様は『目には見えない方』だからこそ、「人知れず行われたあなたの心を込めた行い」に目を留めてくださっているのです。ですから「どうせ誰にも気づいてもらえないから…」などと気落ちすることなく、いつでもどんな状況においても、自分ができるベストを尽くし、精一杯の心を込めて、喜んで『縁の下の力持ち』という価値ある役割を担って行きましょう!

2022年3月13日 「キリストに焦点を置く」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ        「キリストに焦点を置く」       (13/03/2022) [マルコ 12:35~40] ◆神の右の座におられるイエス [35~37節]   ・この36節の『』内は詩篇110:1の引用。初めの『主(ヤハウェ)』は「創造主なる唯一の神」を指し、『私の主(アドナイ)』も一般に『神』を指すのに用いられていたので、難解な箇所。それ故イエスの解説は非常に有用。   ・「神の右の座」とは、「王的・神的な力や支配権」を示すものなので、この『私の主』は通常『キリスト』を指していると解されていた。そしてイエスはこの箇所を用いて『キリスト(すなわち「ご自身」)』は『ダビデの子』以上の存在であることを教えようとされた。[参照:マルコ14:61-62,Ⅰコリント15:24-25]   ・イエスは「王として治める」だけでなく、私たちのための『永遠の祭司』として神の前にとりなしてくださっている。[詩篇110:4,ローマ8:34] イエスは私たちにとって「王なる祭司」。そして私たちも同様に召されている![Ⅰペテロ2:9] ◆律法学者たちの誤った態度 [38~40節]   ・律法学者たちの大きな誤りは、自分たちの関心を『神』や『隣人』ではなく、『自分自身』に向けていたこと。[ルカ18:10-14] 神に認められるのは「良い行い」によるのではなく、「私たちの心がどこに向いているか」。『祈り』の時だけでなく、私たちの日々の歩みの焦点を「王であり祭司である『キリスト』」に向けていよう。 ✰今日のみことば: へブル人への手紙 12章2節 ◎更に深い学びのために  ①36節でイエスが引用された詩篇の1節の真意はどのようなものでしたか?  ②「現在イエスが『神の右の座』に着いておられる」ということは、今の私たちにとってどんな意味がありますか?  ③律法学者たちの誤りとは何ですか? 同じ間違いに陥らないために、どんなことに気を付けたらよいでしょう? Outline of the sermon   “Focus your mind on Christ.”   (13/03/2022) [Mark 12:35~40] ◆Jesus is at the right hand of God. [Verses 35~37]   ・“Right hand of God” shows “Godly power Read more…

2022年2月27日 「『思い違い』に捕まるな!」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「『思い違い』に捕まるな!」     (27/02/2022) [マルコ 12:18~27] ◆サドカイ人たちの間違い [18節]   ・「サドカイ人」は上流階級に属し、代々祭司長を輩出しており、パリサイ人とヘロデ党の両方と対立していた。『モーセ5書』のみを信じ、霊的な世界よりもこの世的な事柄を重視し、「御使いも復活もない」と言っていた。   ・彼らのイエスに対する質問は、そんな彼らの「自分勝手な聖書理解」に基づいたもので、『真理』から大きく逸脱していた。同様なことは私たち自身にも起こり得る。「自分の思い込みや先入観」のレンズを通して聖書を読む   なら『神の真理』から大きくズレてしまう恐れがある。『自分の思い込み』を「聖書そのもの」や『神ご自身』よりも優先してしまうことほど「神を冒瀆していること」はない!◆「よみがえり」に関する真理 [24~27節]   ・「よみがえりのからだ」は『天の御使い』のようであって、今持っているものとは違う。[Ⅰコリント15:42-44, 50]   ・ここでイエスが『モーセの書』を引用したのは、サドカイ人のため。数千年前の存在であるアブラハムやモーセ、そして最近キリストにあって眠った私たちの家族たちも、神の前には『生きた者』である。[ルカ20:38] 私たちは勝手な思い込みによって『神の真理』を歪め、「いのちへの道」を閉ざしてしまわないように気を付けよう! ✰今日のみことば: テモテへの手紙 第1.1章15節 ◎更に深い学びのために  ①サドカイ人たちは、どうしてこのような『思い違い』をしてしまっていたのでしょう?  ②私たちが陥ってしまいやすい「神への冒瀆」とは、どのようなものですか? それは何故起こるのでしょう?  ③何故「復活は、ある」と言えるのでしょう? 「よみがえりの事実」は私たちの生き方にどんな影響がありますか? Outline of the sermon        “Do not be wrong!”        (27/02/2022) [Mark 12:18~27] ◆Why were they wrong? [Verse 18]   ・Sadducees only believed “Books of Moses” so they denied angels Read more…