(546) “神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”

 この聖書の言葉は、クリスチャンたちの間で最も好まれている箇所の1つです。この世にあってキリストを信じ、聖書の教えに従って生きる時、単にこの世に順応して生きていれば味わうことのない試練や困難にしばしば直面します。そんな時にこの聖句は信仰者たちの間で大きな励ましとなっているようです。  ところで「すべてのことがともに働いて益となる」とは、どのようなことでしょうか?  「重曹」や「小麦粉」をそのまま食べて美味しく感じる人はあまりいないでしょう?しかしそれらに他のいくつかの材料を加えて混ぜ合わせ、オーブンで焼くなら、私たちの体に「益となる」美味しい食べ物が出来上がります。同じように、この箇所にある「すべてのことが」の『すべて』には、必ずしも「楽しいことや望ましいこと」だけでなく、「困難・不公平な扱い・痛い経験」など『すべて』が含まれています。それらの「一見好ましくない事」も含めた『すべて』が神の御手の働きによって絶妙に織りなされて『益』とされるのだ、というわけです。  旧約聖書に出てくる『ヨセフ』という人物は、親から特別な寵愛を受けていたことから兄弟たちに疎まれ、外国に奴隷として売り飛ばされてしまいます。その後かれは数々の苦難に直面しますが、最終的には大国の権威者に任命され、母国で苦しみにあえいでいた家族を救うことになります。何十年振りかに兄弟たちと対面したヨセフは彼らにこう言います。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良きことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」  念を押しておきますが、これは「神を愛する人々、神のご計画にしたがって召された人々」、すなわち『神を信じ従う人々』に対して語られている言葉です。あなたもこのような『逆転』を与えてくださる神に信頼する歩みを始めてみませんか?

(546) “キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。”

 かつて『男性は火星から、女性は金星から』(原題『Men Are from Mars, Women Are from Venus』)という本がベストセラーになりましたが、この本の著者であるジョン・グレイの意図したところは、「他の人を本当の意味で理解するには、単に表面に現れている所ではなく、その人の視点で人生というものを見直す必要がある」ということです。そして当然のことながら、これは至難の業です。というわけで、どんな人間関係の中でも「誤解」や「意見の食い違い」というものが起こります。これは避けられないことです。大切なことは、そのような「意見の食い違い」が起こった時にどのように対処するか、という知恵です。  日本人としてありがちなことは、「相手に受け入れられたいあまり、自分の本心を隠して、いかにも相手の考え方に同意しているかのように振舞おうとすること」です。これは『その場しのぎ』としては使えますが、長期に続く関係(結婚関係など)のためには、後に大きな悲劇を生む原因になりがちです。そもそも創造主なる神は私たち1人1人をユニークに造られたのですから、「全てにおいて一致できる相手」などはおよそ存在しないのです。そういう意味では『性格の不一致』というものは「離婚の理由」になるべきではないのです。  私たちは互いに「同意できないことがある」ということを理解しつつ、それを恐れずに相手に伝えられる関係を築いて行く必要があります。たとえ多少の口論は生じても、最終的には「自分はこう思ってはいるけど、あなたがそう思うことも理解しようと努力します」と言えるのが、精神的な『大人』と呼べるのではないでしょうか?  真に麗しい人間関係とは、お互いがお互いの『ありのまま』を表現できて、たとえそれが自分とは違っていたとしても、それを責めたり無理に変えようとしたりせず、その『違い』を尊重しつつ、むしろその『違い』を楽しみ、また互いに生かし合うことのできる関係です。このような関係を築ける人は、自分自身も周りの人々をも成長させることのできる人なのです。

(545) “これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。”

 上記の聖書の言葉によると、『悪い者(悪魔)』は私たちに「火矢を放つ」と書いてあります。一体どんな「火矢」を放ってくるのでしょうか?それは必ずしも「病気・災難・呪い」といった類というわけではなく、恐らくもっと日常的に私たちを悩ませる「心配事・落胆・家族や友人とのいさかい」などかもしれません。  聖書は私たちに、そんな時には『信仰の盾』を取れ、と教えています。『盾』とは本来兵士たちが戦場で敵の攻撃を防ぐために使う道具ですが、それらはただ「持っているだけ」では役に立ちません。敵の攻撃から身を守るために「構えて」いなければならないのです。敵である悪魔が私たちの人生・生活を脅かそうと様々な「火矢」を放ってくる時、私たちはこの『信仰の盾』を構えている必要があるのです。  では「信仰」とは、どんな(何に対する)信仰なのでしょう?「自分自身の経験や能力」に頼ることでしょうか?決してそうではありません。残念ながら、私たちの敵である悪魔は私たちのこと弱点を熟知しているので、私たちが『自分自身』に頼っている間は隙だらけなのです。そうではなく、この『信仰』は、私たちをこの上なく愛してくださっている『全能の神』に対する信頼です。このお方はご自身に信頼して助けを求めてくる者を決して拒むことのできないお方なのです。ですから私たちは「主よ。このような恐れや不安の中で、私はあなたを見上げ、あなたに信頼します!」と告白し、『信仰の盾』を掲げるのです。  イエス・キリストは悪魔の攻撃を受けた時、「聖書のことば(神の約束)」を引用することによって対抗し勝利しました。私たちもキリストの模範に倣って、『聖書のことば』を引用することによって「神に対する信頼」をアピールできるなら、それ以上のことはありません。悪魔の攻撃は、「神に全き信頼を置く者たち」に対しては無力なものとなるのです。

(544) “正しい人は7度倒れてもまた起き上がる。”

 「決して失敗しない人」など、この世には1人もいません。人生で成功を収めた人たちは皆、「失敗から学んだ人たち」です。残念ながら実に多くの人々は『自分の失敗』を素直に認めようとせず、他の人にその責任やしりぬぐいをなすりつけようとします。しかし、このような態度でいると「失敗から学ぶこと」ができません。  統計によると、『自分の失敗』を素直に認めるのが早ければ早いほど、その失敗から大切なレッスンを学べる確率が高いそうです。ですから『自分の失敗』に気付いた時に自問すべき質問は、「ここから何が学べるだろう?」「同じ失敗を繰り返さないためにどうしたら良いだろう?」「この失敗とは別に、何かうまく運んでいる点はないだろうか?」などです。  神は私たちを「他の人と比べて優れた人物となるため」に造られたわけではありません。神は私たち1人1人を「自己最高の人生を歩むため」に造られたのです。そしてその目標に至るために大切なことは、「日々成長すること」です。自分の失敗の責任を他の人に押し付けている間は、決して成長することはできません。  有名な自動車会社『フォード・モーター』の創設者でありクリスチャンでもある『ヘンリー・フォード』は、失敗から学び続けて成功を収めた教訓から次のような言葉を遺しています。「『失敗』とは、単に『もう1度挑戦する』ための機会にすぎない。但し『前回より少しだけ賢く挑戦する』ための。」 『失敗』を恥とすることなく、「成長の機会」として積極的に学んで行きましょう!

2023年9月24日 「キリストの現れ」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「キリストの現れ」   (24/09/2023) [へブル人への手紙 9章23~28節] ◆人として現れたキリスト(26節後半)  ・『新しい契約』の担い手として自分自身をささげるため、神の御子が『人』となって地上に現れた。「その時に自分もいたかった」と思うかもしれないが、あなたがその場に居合わせたとしたら、信じただろうか?[ヨハネ1:11] ◆キリストの3種類の現れ  ・キリストは2000年前に「肉体をもって」現れただけでなく、私たち1人1人の人生にも現れてくださった。[24節] この「神の御前に現れてくださる」という表現は興味深い。私たちそれぞれがキリストを「個人的な救い主」として受け入れる時、私たちの『Representative』として神の前に現れてくださるのであろうか?  ・今日特に注目したいのは[27~28節]!すべての人間には「1度死ぬことと死後にさばきに会うこと」が定まっている。イエスも私たちと同様に1度『死』を味わわれた。しかし『死』は「罪を知らない方」をとどめておくことはできず、イエスは3日目によみがえられ、今日も生きておられる。  ・そしてもう1つ、私たちには更に待ち遠しい『キリストの現れ』がある。それはいつの日かご自分を待ち望む者たちのために、キリストが栄光に満ちた姿で現れてくださること。私たちは「この希望」の故に救われているのである! ✰今週のチャレンジ: あなたの『希望』は、どこにありますか? ◎更に深い学びのために  ①キリストの「3種類の現れ方」とは何ですか? あなたにとって最も印象深い『現れ』は、どれですか?  ②キリストは「神の子」でありながら、何故『死』を味わわれたのでしょう? その『死』は何をもたらしましたか?  ③私たちがまだ体験していない「キリストの現れ」とは何ですか? それはいつ・どのように起こりますか? Outline of the sermon    “Appearances of Christ.”    (24/09/2023) [Hebrews 9:23~28] ◆Christ once appeared as “a human”.(Verse 26b)  ・Someone would say, “I wish if I was there when Christ lived as Read more…

(543) “妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。…夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。”

 意外に感じられるかもしれませんが、聖書には「夫婦に関する教え」がかなり多くあります。その中でも有名なものの1つが上記の「夫は妻を愛せ。妻は夫に従え。」というものです。しかもその「愛し、従う」という夫婦の関係が「キリストと教会(人々)の関係」にたとえられているのです。面白いですよね?  聖書で教えられている『愛』というものは、いわゆる男女関係における『恋愛』とは異なり、無条件で一方的に注がれるものです。地上でこの『愛』に近いものは「親が子供のために注ぐ愛」ではないでしょうか?この『愛』は相手が自分に対して期待通りに応えてくれるかどうかに関わらず注がれるもの、まさに「キリストの愛」とはそういった性質のものです。  ところが『従う』ということに関してはどうでしょう?誰かに従うためには、相手に対する『信頼』が必要です。相手を心から信頼していなければ、本当の意味で「従う」ことはできません。それでは私たちはどのようにして「キリストを信頼する」ことができるのでしょう?  『信頼』というものは自然発生的に生まれるものではなく、しばしば相手から「勝ち取る」ものです。そしてキリストは「十字架上における身代わりの死」というものによって私たちにご自身の「命がけの愛」を明らかに示すことによって、私たちからの『信頼』を勝ち取ろうとされました。それでも「信頼し従うか否か」は私たちの選択です。私たちがこの「キリストの命がけの愛」に応えて「キリストに信頼し従うか否か」は、私たちの今日の選択によるのです。