2025年9月7日 「『喜びの知らせ』を告げ知らせる」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『喜びの知らせ』を告げ知らせる」   (07/09/2025) [ルカの福音書 2章1~20節] ◆ついに『時』が来た!(10~11節)   ・アウグストゥスは「メシアがベツレヘムで生まれる」という預言のことなどもちろん知らずに、本籍での住民登録を命じた。神は私たちの思いを超えて働かれる。また羊飼いたちは、この住民登録から除外されるほどに身分が低かった。そんな取るに足らない者たちに、御使いたちはビッグニュースを伝えに来た!   ・御使いたちは「この民全体のため」に良い知らせを告げに来たが、『幼子』のための場所はなかった。[ヨハネ1:11-12] しかし今日、このメシアのために「場所を用意する者」には、『神の子ども』とされる特権が与えられる! ◆証人となる(15~20節)   ・羊飼いたちは、ただ単純に「自分たちに告げられたこと」を知らせた。彼らは現代の『キリストの証人』である私たちのモデルと言えるのではないか?彼らが通ったプロセスは…      ①聞く ⇒ ②信じる ⇒ ③行動する ⇒ ④体験する ⇒ ⑤喜びに満たされる ⇒ ⑥証人となる   ・私たちがキリストを証するのは、「誰かにそう言われた」とか、「そうしないといけない」とかではない。内側から溢れ出るものである。もっともっと『キリストにある喜び』に満たされよう。その秘訣は「神のみことばを聞く」ために静まり、聞いたみことばを「単純に信じて実践」し、神が自分を通して働かれるのを「体験する」ことである! 今日の要点: 動機は、「喜び」 ◎更に深い学びのために  ①『メシア誕生』という歴史的出来事のため、「住民登録」「羊飼い」「飼葉桶」はどんな役割を果たしましたか?  ②「救い主イエスのために場所を用意する』という事は、どういうことですか? またどんな祝福があるでしょう?  ③「キリストの証人となる」ということと、「私たちの心の『喜び』」とは、どのような関係性がありますか? Outline of the sermon   “Bring Good News of great joy.”   (07/09/2025) [Luke 2:1~20] ◆“The time” has come!(Verses 10~11)   ・Augustus had no Read more…

(623) “あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。”

 子供が生まれる前と生まれた後とでは、『夫婦の関係』は大きく変わるものです。子供が生まれる前は、夫婦はお互いの顔だけを見つめていれば良いわけですが、子供が生まれるとどうしても「自分では何もできない弱い存在」である子供が生活の中心となり、いつの間にか夫婦はお互いを「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになりますよね?  さてここで気を付けなければならない事があります。それは、「父親と母親とでは、子供に対して抱く思いが異なる」ということです。まず母親に関して言うならば、「子供はいつまでも子供でいて欲しい。いつまでも自分を必要としていて欲しい」と考えます。それは女性というものがそもそも「小さくて可愛らしい存在に惹かれる」ということから来ています。  ところが父親は、これと全く違います。父親は子供が生まれた瞬間から、「コイツが大きくなったら、こんなことやあんなことを一緒にしよう」と思うのです。また、父親は子供が一人前になり、独り立ちする日を待ち望みます。すなわち「頼もしい存在」になって欲しいと望むのです。なので、しばしば子供に厳しく当たったり、重荷を負わせたりすることもあります。「可愛い子には旅をさせよ」ということわざは、恐らくそんな父親が最初に言い始めたのではないでしょうか?  それでは、私たちの『父なる神』はこれらのどちらなのでしょう?『父』というからには「父親と同じような性質」なのでしょうか?聖書を読む限りでは、確かに父親的な面が多くみられますが、母親のように「いつも自分に頼って欲しい」という部分もあります。私たち人間にはできないことが、神にはできます。当然私たちは、ある分野では神に頼るべきです。と同時に、神は私たち1人1人に「ユニークな才能」を与えておられます。神は私たちがそれぞれその「才能(聖書では『賜物』と呼んでいる)」を見出して(親がその助けをする場合もあるかもしれません)、その分野で才能を開花し、その人でしかできないような素晴らしい成果をあげる人生を送って欲しいと願っておられます。  私の妻は「子育ての中で『神様の心』について多くを学んだ」と言っていました。「神様と私たちの関係」と、「親と子供の関係」には密接な関りがあるのです。

2025年8月31日 「『救い』の鼓動」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『救い』の鼓動」   (31/08/2025) [ルカの福音書 1章57~80節] ◆バプテスマのヨハネの誕生(57~66節)   ・『ヨハネ』は、「主(ヤハウェ)は、慈しみ深い」の意味。   ・ここで、天使ガブリエルの預言(20節)が成就した。そしてザカリヤの口から賛美と預言が溢れ出た! ◆ザカリヤの預言(67~80節) ― 「私たち」に関して語られている部分と、『幼子』に対して語られている部分がある。   ・「アブラハムに誓われた誓い(73節)」は、直接的には[創世記22:16-18](『子孫』は単数形=主イエス)を指している。また、「敵の手からの救い(71節)」の『敵』とは、悪魔のこと。私たちの『敵』は、「一緒に住んでるあの人」でも「自分を迫害する人」でもなく、「神に敵対する『サタン』」である。騙されてはならない!パウロも自分が福音宣教の召された時のことをこう証ししている。(使徒26:17-18)   ・主イエスは、この「悪魔のしわざを打ちこわすため」に来られた。(Ⅰヨハネ3:8) そしてバプテスマのヨハネは、その道を備え、「罪の赦しによる救い」を宣べ伝えるために生まれた。   ・神が何千年も待ち望んでおられた「人類の救いの計画」、そして「憎むべきサタンのしわざを打ちこわす時」が  迫っていた。この『救いの鼓動』の興奮を一緒に味わいながら、引き続き「ルカの福音書」を読む進んで行こう! 今日の要点: 神のことばは成就する! ◎更に深い学びのために  ①やっと口が利けるようになったザカリヤから飛び出してきたのが賛美と預言だった事は、何を表していますか?  ②[68~75節]は、「私たち」に関して、また「神様」に関して、私たちにどのようなことを教えていますか?  ③[76~80節]は、「幼子」に関して、何を語っていますか? またそれは人々にどんな励ましを与えたでしょう? Outline of the sermon   “Beating of ‘Salvation’.”   (31/08/2025) [Luke 1:57~80] ◆Birth of John the Baptist. (Verses 57~66)   ・The meaning of “John” is: “the LORD is merciful”.   ・[Verse 20] is the Read more…

(622) “様々な試練に遭う時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい。”

 「『神は良いお方だ』というなら、なぜ人生には試練が襲ってくるのだろう?」と考える方がいらっしゃるのではないでしょうか?確かに「好きな女の子につい嫌がらせをする幼い男の子」でもなければ、わざわざ大切な相手を辛い目に遭わせることはしないはずですよね?  ただ、ここでちょっと考えてみたいのは、『良い出来事』を「良かった」と感じられるのは、『辛い出来事』も経験したことのある人だけではないか?ということです。毎日『良い出来事』ばかりを経験していたとしたら、それが当たり前になってしまって、それらの『良い出来事』を「良い」と感知することがなくなってしまうのではないでしょうか?ですからある意味「試練がある」ということは、「当たり前の事」になりがちな平穏な日々を改めて感謝するため、ということができるかもしれません。  また、「試練は人を成長させる」という面もあります。今も行われているかどうかは定かではありませんが、私が子供の頃、農家の方々は『麦踏み』ということを習慣的に行っていました。成長途上の麦の苗の上を踏んで歩くことによって、1度踏んづけられた麦が更に強く育つようにするためです。我々人間も同じように、試練を経験することによって更に強く成長することができます。私は鎖骨を骨折したことがありますが、聞いたところによると、1度折れた骨は、もう1度を同じ部分が折れることはほとんどないそうです。それはその骨折部分の周囲を補強するような形で新しい覆いが形成されるからです。私たちも人生の中で『痛み』を経験すると、後に同じような痛みを経験している人を慰めたり支えたりすることができるように成長するのではないでしょうか?  最後に、『試練』は私たちに、「人は1人で生きるようにはできていない」ということを思い出させてくれます。日本人はしばしば「自分の弱さや問題を他の人に打ち明けるのは『恥』」と考えてしまいがちですが、苦しい状況に陥った時は、必ず周囲の人々の助けを求めるべきです。神が私たちに最も求めておられることは「互いに愛し合い、励まし合うこと」です。私たちがそれを学ぶために、神様は時に私たちが「1人では乗り越えられない試練」に遭うことを許されます。苦しい時には、独りで我慢しようとはせずに、家族や友人に分かち合って、支え合いましょう。

2025年8月24日 「神に祝福された人」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「神に祝福された人」   (24/08/2025) [ルカの福音書 1章39~56節] ◆女性たちの信仰告白   ・驚いたことに、エリサベツは既にマリアが『神の子』をみごもっていることを知っており、しかもマリアの状況を知りつつも「あなたは女の中で最も祝福されている」と言った!またマリアも、自分が直面している困難を知りながら「どの時代の人も私を幸いな人と呼ぶでしょう」と言った!一体『真の幸い』とは、何なのだろう? ◆『神の祝福』とは?   ・この「祝福された・幸いな人(英語ではどちらもBlessed)」という語を聞くと、主イエスの『山上の垂訓』の最初の部分が思い出される。[マタイ5:3-12] 私たちは『幸い』というと「この世で良い目にあうこと」を考える。その視点で   考えると『幸い』とは思えないこれらの人々だが、主イエスは「彼らが後に地上で、または天において受ける神からの報い」を思って『幸い』とおっしゃった。神の視点では「地上で既に受けている良い目」は『祝福』ではない。   ・考えてみると、「この世で物質的に豊かな人」は、神を見出しにくい。恐らく「目に見えるこの世の豊かさを追求する人」は、サタンに足をすくわれやすいのだろう。箴言の記者はこう書いている。[箴言30:8-9] この2人の敬  虔な女性たちから、「自分を通して『神のみわざ』が現されること」こそが『幸い』であることを学び取ろう! 今日の要点: 「足りなさ」を喜ぶ ◎更に深い学びのために  ①エリサベツとマリアの姿から私たちが見倣うことのできる「信仰的態度」には、どんなものがありますか?  ②「この世で良い目を見ること」が必ずしも『神の祝福』とは言えないのは、どうしてだと思いますか?  ③神の視点における「真に祝福された人生」とは、どのようなものですか? あなたはそれを求めたいですか? Outline of the sermon    “Those who are ‘blessed’ by God.”    (25/08/2025) [Luke 1:39~56] ◆Two faithful women.   ・Elizabeth said, “Blessed are you among women!”  And Mary responded like: “from now on all Read more…

(621) “私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。”

 まず質問です。皆さんは「神様はすべての人に『平等』に接する」と思いますか?  「もちろん、そのはずです!」とお答えになる方が多いのではないかと思います。実際聖書には「神は良い人にも悪い人にも同じように太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と書いてあります。  では次に、複数のお子さんをお持ちの方々、また学校の先生や保母として働いておられる方々ににお尋ねします。皆さんには『お気に入りの子供』という存在がいらっしゃるでしょうか?「そんなことはあってはならない」と思うかもしれませんが、実際は「あの子のひと言や笑顔に励まされる」という『特別な存在』がいることが多いのではないかと思います。  聖書には、英語で『God’s favor』(日本語では「神の恵み」と訳されていることが多い)という言葉が出てきます。これは通常日本語に訳せば「神のお気に入り」という意味です。つまり神にも「お気に入りな存在」があるのです。ではそれはどんな人たちなのでしょう。聖書によるならば、それは人間の側の能力や容姿などにはよらず、「心の姿勢」、すなわち「絶えず神を求め、神に近づこうとする人」に向けられています。  日本の文化や社会においては「出しゃばる者」は嫌われ、「出る杭は打たれる」ということわざもあります。しかし神様はむしろ、「もっと積極的にわたしを求めて近づいて来なさい!」と呼びかけておられるのです。神にとっては「遠慮がちにうつむいてモジモジしている人」よりも、「図々しいくらいに大胆にご自身に近づく者」を「わたしのお気に入り」として受け入れてくださるのです。  神は、ご自身にとって最も大切な存在であった『ひとり子キリスト』をも私たちの身代わりとして十字架の上に差し出してくださいました。そんなお方に対して「私になんかもったいないから結構です」というような態度は、かえって失礼に当たるのではないでしょうか?

2025年8月17日 「神の恵みのみわざ」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「神の恵みのみわざ」   (17/08/2025) [ルカの福音書 1章26~38節] ◆驚くべき告知(30~33節)   ・ガブリエルの告知は驚くべき内容に満ちているが、今日注目したいのは、30節のことば。『恵み』というと、何か「身に余る良いこと」というイメージだが、この場合のマリアにはあてはまらない。ここでの『恵み』は、むしろ「神が自分を通して『己の能力を超えたこと』をなさる」という意。パウロは次のように言っている。[Ⅰコリント15:10] ◆マリアの応答(38節)   ・一体この時のマリアの心境はどのようなものであっただろう?彼女に負い切れないほどの困難が襲って来るの   は目に見えていた。しかし、最終的にこの驚くべき告知に対してマリアが示した応答は、「おことば通りにこの身になりますように」だった。一体何がマリアにそうさせたのか?   ・彼女は理屈で納得しようとはせず、ただ『言われた事』を信じた。アナタは「自分にはとてもそんな信仰はない」と言うかもしれない。しかしそんな私たちが「神のひとり子が自分の身代わりに十字架にかかった事」を信じられているというのも『神の恵みのわざ』に他ならないのではないだろうか?そして神は今日も私たちを通して「あり 得ない恵みのみわざ」を成し遂げるために、理屈抜きにご自身のことばを信じる者を探しておられる。 今日の要点: 自分で自分の限界を決めるな! ◎更に深い学びのために  ①御使いガブリエルの告知には、どのような「驚くべき内容」が含まれていますか?  ②告知を受けた時、またその後の「マリアの心境」を想像してみましょう?そこにはどんな困難がありますか?  ③神が私たちの人生を通して『恵みのみわざ』をなさるために、私たちはどのように備えることができますか? Outline of the sermon    “Receiving ‘God’s favor’.”    (17/08/2025) [Luke 1:26~38] ◆Amazing message.(Verses 30~33)   ・There are amazing contents in Gabriel’s message.  Let’s look at verse 30.  “Favor of God” sounds sweet but doesn’t look so sweet Read more…

(620) “あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。”

 この半世紀のうちに『生活ペースの速さ』がどれほど変わったかには、目を見張るものがあります。私が小学生の頃、テレビのスイッチを入れてから画面がくっきり映るようになるまでには15秒くらいかかりました。恐らく今の若い人たちは1秒以上は待てないのではないでしょうか?もちろん「電子レンジ」などというものは存在せず、食べ物を温めるにはまずやかんでお湯を沸かし、そのお湯を使って温めるので、何十分もかかりました。  もちろん「便利になること」は良いことでしょうが、そのために失われてきている『大切なもの』があるのも確かです。その1つが『忍耐(待つ力)』です。ある人は「物事を成し遂げるのに大切なのは『努力(ハードワーク)』だ!」とおっしゃいますが、それだけでは「何か」が欠けています。大切なのは『たゆまぬ努力』、すなわち「努力し続けること」です。  ここに面白い統計結果があります。一般的に日本の学生は「数学の力」に優れていると言われますが、ある調査グループがアメリカ人と日本人の小学1年生を集めて「ちょっと難しいパズル」に挑戦させたそうです。結果としてパズルを解けた子供は1人もいなかったのですが、「あきらめるまでにどれくらい粘ったか」を測ったところ、アメリカの小学生たちは平均10分以下だったのに対し、日本人の小学生たちは15分程度粘ったそうです。幼い頃から培われているこの1.5倍の粘り(忍耐力)が、日本の学生の数学の力に影響を与えていると調査グループは発表したそうです。  天地万物の創造主であられる神は、『愛の神』であるのにもかかわらず、私たちが困難に直面するのを許されます。なぜなのでしょう?それはこのお方が意地悪だからではなく、私たちがそれらの困難を通して『忍耐』を学び、より優れた人格へと向上させるためではないでしょうか?  『即席』に惑わされることなく、「待つこと」を通して『忍耐』を培って行きましょう!

2025年8月10日 「神のみわざを見極める」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「神のみわざを見極める」  (10/08/2025) [ルカの福音書 1章18~25節] ◆不信仰な私たち   ・天使のお告げを信じられなかったザカリヤは無理もないが、ガブリエルは「ザカリヤ、あなたの願いが聞き入れられたのです」と言っている。自分で祈っていたはずなのに、いざそれが叶った時に信じられないことがある。   ・ところで、ザカリヤが「口をきけなくされた」のは、彼の不信仰のゆえの、神からの罰なのだろうか? ◆神の最善(18節)   ・この「話せない期間」、ザカリヤの内側でどんなことが起こっていただろう?SNSなど無い時代、彼のコミュニケーション能力は大幅に制限されたはず。恐らく彼は「神のことば」を読み、「悔い改めて神に祈る」時間をたくさん   取ったに違いない。その証拠に、1章の後半で子供が生まれ、ザカリヤの口が開かれた時に最初に出て来た言葉は「神への賛美と預言」であった!   ・『神の最善』という時、私たちは「その時に自分に都合が良いこと」を考える。しかし私たちにとっての本当の意味での『神の最善』とは、「今よりもっと神を知り、神に近づくこと」ではないだろうか?ザカリヤとエリサベツの人生に起こったことは、後にマリアの信仰をも助けた。神は周囲の人々も含め「私たちの最善」を行う方なのだ! 今日の要点: 昨日よりも神に近づいているだろうか? ◎更に深い学びのために  ①ザカリヤの立場に自分を置いてみましょう。あなたならどのような反応をすると思いますか?  ②「神は良いお方で、最善以外はなさらない」と言う時、それはどのようなことを含んでいると思いますか?  ③私たちが「神が私たちの周囲で行っているみわざ」を正しく見極めるために、どんなことに注意すべきですか? Outline of the sermon    “Ascertain ‘God’s Work’.”    (10/08/2025) [Luke 1:18~25] ◆We are of little faith.   ・We can’t laugh at Zechariah for his “little faith”.  It is very common among us that even we pray Read more…

(619) “私のことばに耳を傾けてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。”

 皆さんは『お祈り』というものをしたことがあるでしょうか?私はクリスチャンになる前にも祈ったことのある記憶があります。でもそれらは全て「お願い」でした。「神様、私にOOをください。その次は~をしてください」といった感じです。  クリスチャンになってしばらくしてから、『祈り』とは単に「お願い」だけではないことが分かってきました。「感謝」「賛美」「告白」など、「神様に対しての語りかけ」は全て『祈り』と呼べるわけです。  聖書に登場する人物、特にダビデ王などは、よく神様に愚痴をこぼし、自分の命を狙う敵に対する呪いさえも口にしました。そして神はそれらのことばを黙って聞いていてくださったのです。  私たちは「神に祈る」という時に、つい「お利口さんな態度」で振舞ってしまいます。まあ日本人は礼儀正しい民族ですから、それはそれで良いのかもしれませんが、神様は私たちの心をご覧になる方ですから、カッコつけないで、正直で素直に心の内にある思いを口に出す方が良いのではないでしょうか?  今の時代は大変便利であると同時に、ストレスもとても多い時代です。仕事や人間関係から来るストレスで心にうっぷんが溜まり過ぎて、精神的に病む人も多いのではないでしょうか?そしてそれらのうっぷんを吐き出すために、高いお金を払ってカウンセリングを受ける人もいるのかもしれません。  良い知らせがあります!この天地をお造りになり、私たちをこよなく愛していらっしゃる神様は、私たちに「お行儀のよいお祈り」だけでなく、御前に来て「心に溜まったうっぷん」を吐き出しても良いとおっしゃるのです。そして神様は「優れたカウンセラー」として、それらの愚痴に黙って耳を傾けてくださり、私たちを責めることもなく、もう1度前に進んで行けるように癒してくださるのです。ぜひそのような『祈り』をもって神に近づいてみることをお勧めします!