(411) “この方に信頼する者は慌てふためくことがない。”

 ある女性がリビングルームのソファに座ってくつろいでいました。するとどこから入ってきたのか1匹の小さなヘビが迷い込んできてリビングを横切り、彼女の座っていたソファの下に潜り込みました。恐れのあまり叫び声を上げながら彼女は入浴中の夫を呼びに行き、夫はバスタオルを腰に巻いた姿で箒の柄の先でソファの下を突っつき始めました。この騒ぎに気付いた彼らの飼い犬は、何事が起ったのか確かめようとリビングルームに入ってきて、恐る恐る夫の背後から近寄ると、たまたまその冷たい鼻先が、夢中でソファの下を突いている夫の足の裏に触れ、夫は「自分はヘビに咬まれた!」と勘違いして失神してしまいました。それを見た妻は、夫が心臓麻痺に襲われたと錯覚し、急いで救急車を呼びました。駆け付けた救命士たちが、その夫をストレッチャーに乗せようとしたその時、例のヘビがスッとソファの下から現れました。驚いた救命士の1人が思わず手を滑らせて夫は落下し、片足の骨が折れました。ねじれて折れ曲がっている夫の足を見た妻は、その場に卒倒してしまいました。そんなドタバタ劇をよそに、ヘビは何事も無かったのように再びリビングルームを横切り、外へ出て行ったそうです。  日本語にも「慌てる乞食は貰いが少ない」とか、「急いては事を仕損じる」などと言われていますが、慌てて事を行ってうまくいくことはとても稀です。むしろ状況はもっと悪くなるのが普通です。「私たちを愛し、全てを働かせて良き方向へと導いてくださる『全能の神』」に信頼し、何が起こっても慌てることなく、平常心で冷静な判断を下していきましょう。

2020年10月18日 「マルコの福音書・導入」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「マルコの福音書・導入」 (18/10/2020) ◆マルコの『福音書』 ― 今日から「マルコの福音書」をじっくりと読んでいく。今日はその導入。   ・「キリストの1番弟子」とも呼べる『ペテロ』は、福音書を書かなかったのだろうか? 実は「マルコの福音書」は「ペテロの福音書」とも呼べる性質を持つ。[Ⅰペテロ5:13]   ・「マルコの福音書」は4福音書の中で最初に書かれたものと思われており、最も短く簡潔で、他の福音書のような「イエス・キリストの伝記的」というよりは、まさに『福音』が中心。 ◆『マルコ』という人物   ・マルコは「十字架の出来事」以前から主イエスを知っていたと思われる。[使徒12:11~13]   ・当初はパウロには評価されなかったが、バルナバによって見出された。[使徒13:4~5, 13, 15:36~39] しかし後にはパウロにも認められるようになった。[Ⅱテモテ4:9~11,ピレモン24] 人は成長するもの。「待つこと」が大切。 ◎この「マルコの福音書」のシリーズを通して掴んで欲しいこと: ①主イエス・キリストをより深く知ること。  ②お互いの『使命』を発見すること。 ✰今日のキーワード: キリストにある『自分』 ◎学びを深めるための質問  ①あなたは年に何回くらい『福音書』を通読しますか? 4つの福音書の性質の違いを話し合ってみましょう。  ②今日の話から『マルコ』という人物に関してどんなことを知りましたか? 共感できるのは、どんな部分ですか?  ③これから『マルコの福音書』を毎週学んで行く上で、あなたが主に期待することはどんなことですか? Outline of the sermon     “Introduction of Mark’s gospel.”    (18/10/2020) ◆Gospel of Mark. ― From today on we are going to read “Gospel of Mark” every Sunday.   ・Even Read more…

(410) “あなたのうちにある神からの賜物を軽んじてはいけません。”

 19世紀の初めに『ルイジ・タリシオ』という人がいました。彼は楽器の販売人であり、また収集家でもありました。彼はしばしば人々に、自分がどれほどの素晴らしい楽器を所有しているかを自慢することはありましたが、決してそれらを人々の目に触れさせることはありませんでした。そしてとうとう彼が亡くなった後に、彼の財産を鑑定しなければならなくなった時、綿密な調査によって彼の自宅の屋根裏部屋に隠してあった246台もの高価なバイオリンが発見されたのです。その中には「世界的な名器」と評判の『ストラディバリウス』もありました。この名高い名器は何と、屋根裏部屋にあったタンスの引き出しの中にしまわれていたのでした。  このルイジ・タリシオの物語にも驚かされますが、実はこの時発見された『ストラディバリウス』、その後も収集家たちの手を転々とし、ようやく天才バイオリニストの手によって演奏に使われたのは、それから更に147年後だったということです。何ともったいないことでしょう!  神は私たち1人1人を、ご自身の『傑作品』としてお造りになり、それぞれに「特別な才能(賜物)」を与えてくださっています。私たちの使命は、神を知り、神の助けをいただきながらこの『賜物』が何であるかを見出し、それをフルに用いて人々に仕えることです。「人様の前に出せるくらい立派になってから…」などと言っていたら、その日その時はいつまで経ってもやって来ないかもしれません。あなたが持っている「人と違った興味や才能」は何ですか?それを『自分のためだけのもの』などと言って隠し持ち続けることをしないで、さあ、思い切って人々のために使い始めてみませんか?

(409) “神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。”

 人が「天国と地獄」というものを意識し始めるのは、一体いつ頃からでしょうか?私自身「いつ誰から教わった」という記憶はありません(一応仏教系の幼稚園に行っていたので、そこで何かしら教えられたかもしれません)が、ずいぶん幼い頃から『天国』や『地獄』ということについて考えていたような気がします。そして普通に「自分は絶対地獄には行きたくない。自分はまあまあ良い子だから、きっと天国に行けるに違いない」と思っていました。もっとも「天国とはこういう所」といったはっきりとしたイメージを持ってはいませんでしたが…  聖書は私たちにかなりクリアな「天国のイメージ」を与えてくれています。そして聖書が教える「天国と地獄の違い」というものは実に単純で、それは「神がいつも共にいてくれる場所」と「神が全く不在の場所」といった違いです。現在私たちが暮らしているこの地上は、言わばその中間的状態で、「神はそこにおられ、神の恵みや祝福は誰もがある程度は経験できるけれど、あふれるばかりの神の愛やその限りない慈しみをフルに体験することはできず、痛みや苦しみも混在する場所」と言えるでしょう。そしてこの地上にいる間に私たちが下す『ある決断』が、「肉体の死の向こう側にある永遠の住まい」を決定するのです。では、その『ある決断』とは、一体どんな決断なのでしょう?  イエス・キリストは、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とおっしゃいました。私たちを『死』へと導く「いのちの源である神を認めようとしない心」(聖書はこれを『罪』と呼んでいる)を悔い改めて、この私たちの『罪』のすべてを十字架の上に神の前に清算してくださった『イエス・キリスト』を自分の救い主と信じる者は、だれでも無条件で神に受け入れられ、「肉体の死の向こう側にあるいのち」へと迎え入れられるのです。これが私たちがこの地上で下す数多くの『決断』の中で最も重要で究極的な『決断』なのです。  『肉体の死』は、決して「すべての終わり」ではありません。むしろ「私たちの人生の本編の始まり」と呼ぶことができます。この『人生の本編』を味わうことなしに、永遠に神から引き離されてしまうのは、あまりにも悲惨であるというよりほかはありませんよね?

2020年10月4日 「死が終わりではない」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ  「死が終わりではない」   (04/10/2020) ◆死が終わりではない   ・ある哲学者は「すべての人生は『死』に向かっている」と言った。確かに『死』は「人類最大の敵」と言える。   ・「ヨハネの福音書11章」と言えば、『ラザロのよみがえりのストーリー』が印象的だが、この場面には珍しく主イエスの感情表現が多く描かれている。[32~38節] そしてイエスは言われた。[25節]   ・私たち『天国人』にとって「肉体の死」は、「永遠のいのち」によって完全に支配される瞬間である。[Ⅰコリント15:54,黙示録21:3~4] これが私たちに与えられている希望であり、神からの約束! ◆『天国人』の生き方   ・この「死を越えた希望」が与えられている私たちは、一体どう生きるべきだろうか?[Ⅰコリント15:58]   ・私たちはやがて全員が例外なく神の前に出る。私たちの全ての罪は既に主イエスの十字架のみわざによって覆われている(神の目には「罪なき者」)が、「私たちがキリストにあって行った信仰のわざ」は全て神の御前に覚えられている。恥ずかしがらず、大胆に行動しよう。地上では旅人、そして旅先の恥はかき捨て! ✰今日のキーワード: 地上では旅人 ◎学びを深めるための質問  ①あなたは「死を越えた希望」を持っていますか? それはどれほど確かで、あなたを興奮させるものですか?  ②『永遠のいのち』とは何ですか?自分の言葉で表現してみましょう。あなたは既にそれを持っていますか?  ③「全ての良きわざだけが神の前に覚えられている」という事実は、あなたの生き方にどんな変化を与えますか? Outline of the sermon     “Death is not the end.”    (04/10/2020) ◆Death is not the end.   ・Destination of all the lives on the earth is “death”.  “Death” is the greatest enemy of all human Read more…

(408) “富を得ようとして苦労してはならない。”

 現在の日常生活において周りを見回してみると、50年前には想像もできなかった品々が出回っていることに本当に驚かされます。パソコン、携帯電話、無料ビデオ通話、電子レンジ、デジカメ、カップヌードル、ペットボトル、挙げていたらキリがありません。そしてこれらのものは決して「珍しいもの」ではなく、もはや『生活必需品』になってしまっているわけですから、この半世紀ほど社会生活が変わった時代は無かったかもしれません。  家を1歩出るならば、そこは「お金を使う機会」に満ちています。昔は「買い物に行く」時以外は財布を持ち歩かなくて済んだのですが、今では「財布を家に置いてきた」となったら一大事、いやもしかしたら財布がなくてもスマホを使っていくらでも買い物が済んでしまう時代になっています。もはや私たちの人生は「お金を稼いで、それを使うこと」に費やされていると言っても過言ではないかもしれません。『ショッピング』は、様々な生活の営みのうちの1つでしか過ぎなかったのが、今や「生活そのもの化」してきてしまっているのではないでしょうか?そしてそのために「どれくらいお金を稼いでいるか」が自分自身の価値を測るバロメーターにさえなってしまっているかもしれません。  人間は本来、「物を売り買いする」ために生まれてきたのではなく、むしろ「互いに受けたり与えたりする」ために生まれました。よくよく考えてみると、売り買いできるもののうちで「どうしても必要なもの」はそれほど多くはありません。ある意味「あると便利だけど、無くても暮らせるもの」を私たちは欲しがるようになってきています。しかし私たちが生きるために本当に必要なものは、『思いやり』『優しさ』『平安』『誠実さ』『希望』『忍耐』『責任感』『信頼』『健康』『人生の目標』といったような、お金では買えない(「似て非なるもの」は買えるかもしれませんが…)ものであり、これらはすべて「人と人との関係」において育まれ、互いに提供し合うものです。ところがこれらのものを犠牲にしてまで「お金を稼ぐ」ことに時間と力を費やして身も心もボロボロにしてしまうとしたら、それは正しい生き方とは言えませんよね?  聖書が私たちに教える人生は、ずっとシンプルです。それは「神を愛し、人々を愛すること」というひと言にまとめられます。今あなたが時間と労力の大半を費やしているのはこのことに即しているでしょうか?ぜひ1度立ち止まってじっくり考え直してみることを心からお勧めします。

2020年9月27日 「聖書が教える『幸福論』」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「聖書が教える『幸福論』」(27/09/2020) ◆真の『幸福』とは?   ・ほとんどの人は「OOを得られれば幸福になれる」と思っている。しかし実際は、手に入れてしまった途端に物足りなさを感じるもの。『幸福感』は、「真に価値あるものを追求している時」にこそ体験できる。[ピリピ3:12]   ・私たちは1人1人「神の似姿」に造られた。[創世記1:26-27] そして『良いお方』に倣って、それぞれのために用意されたユニークな『良い行い』に歩むように望まれている。[エペソ2:10]   ・神は『アナタ』という人間を通してでしか成し遂げることのできない、ご自身の『良きみわざ』を既に用意しておられる。これを熱心に祈り求め、それを見出すなら、あなたは「神と共に生きる」ということを体験的に知るようになる。逆にそれを追求せずに生きるなら、それはアナタだけでなく、神の国にとっても大きな損失である。 ◆神との共同作業   ・「神が『私』という個人のために用意された『使命』に生きることによって得られる幸福感」、これこそ『天国人』に与えられている素晴らしい「神の国の祝福」の1つ。これはあなたにしかできない『神との共同作業』。   ・神は「どうしてもキミと一緒にやりたい!」というユニークなみわざを用意しておられる。それを求めて生きよう! ✰今日のキーワード: 神との共同作業 ◎学びを深めるための質問  ①あなたにとって『幸福』とは何ですか? また、あなたはどのような時に『幸福感』を感じますか?  ②「神が自分のためにユニークな人生の計画を持っておられる」と信じますか? それを祈り求めていますか?  ③「『自己最高』の人生を歩む」とは、一体どんなことでしょう? それは今の自分の歩みとどう違うと思いますか? Outline of the sermon    “What ‘happiness’ really is.”   (27/09/2020) ◆Seek for real “happiness”.   ・So many think, “If I get this and that, then I will be happy”.  In fact, once we Read more…

(407) “― 主のことば ―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”

 聖書を学ぶうちに分かってくることは、「人生における『幸福』や『成功』といったことがらは、創造主である神のみこころを知り、それに従って生きるかどうかにかかっている」ということです。聖書の神は、私たち1人1人を造られたお方であり、私たちの長所・短所や適性などをすべてご存じで、また私たちの人生にチャンスを与え、貴重な出会いを与え、ピンチの時に助けを与えてくださる方ですから、このお方を無視して生きるということは、ある意味「幸福な人生を自ら放棄しているようなもの」だと言えるのではないでしょうか?  「人生の成功」には次の3つのことが必要です。 1.神があらかじめ計画していた通りの『アナタ』になること。 2.神があらかじめアナタのために用意しておられた道を歩むこと。 3.神が日々アナタのために備えておられるものを受け取ること。  これら3つ全てのために、聖書のみことばの原則に従うことが必要です。聖書は「神は本来人間をどのような存在としてお造りになったか」、そして「人間はどこからどうやってその道を踏み外してしまったのか」、また「どうすれば、もう1度元通りの道へ戻ることができるのか」を教えており、またその『元通りの道(神と共に歩む道)』を歩み始める時に、「神がどのようにアナタの人生に関わってくださるのか」をも示してくれているのです。そして『真の幸福』とは、「何か良いものを得ること」ではなく(実際、1度得てしまったら、すぐに別のものを欲しくなるものでしょ?)、神が用意してくださっている素晴らしい将来に向かって進んで行く「日々のプロセス」なのです。

2020年9月20日 「『神の怒り』を免れた者」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「『神の怒り』を免れた者」  (20/09/2020) ◆不義に対する神の怒り   ・以前に「キリストの十字架は『神の愛の象徴』であるだけでなく、『神の義の象徴』でもある」と学んだ。聖書には随所に「人間の不義に対する神の怒り」が描かれているが、私たちはただイエス・キリストの十字架の故に、この『神の怒り』を免れている。   ・私たちは「一体神はどれほどの忍耐をもって、この怒りを忍んでくださっているのか」を理解しない限り、この地において『神の国の祝福』を伝えて行くことの緊急性が分からない。[ローマ9:21-24] ◆神の怒りを免れた者として ― 次の2つのことが求められている。   ①神に倣い、『怒り』をコントロールする [ヤコブ1:19-20]    ・私たちがこの世において「神の似姿」を証しするのは、『怒り』によってではなく『赦しと忍耐』によってである。善意を踏みにじられたりして悲しみや怒りに覆われそうになった時、「上からの忍耐」を神に求めよう!   ②福音を宣べ伝える [ローマ1:16-18]    ・「『神の怒り』を免れる術」を先に知らされた者として、「いつでも・どこでも・誰にでも」福音を宣べ伝えよう! ✰今日のキーワード: 「神の怒り」の免除 ◎学びを深めるための質問  ①あなたは「私たちの不義に対する『神の怒り』」をどのように理解していますか?皆で分かち合ってみましょう。  ②何故「人の怒りは神の義を実現しない」のでしょう? 「怒りを抑える」良いアイディアを分かち合ってみましょう。  ③「あなたはどうして福音を伝えたいのですか?」と尋ねられたら、何と答えますか? Outline of the sermon    “The objects of God’s mercy.”   (20/09/2020) ◆Wrath of God.   ・There are many places in the Bible where describes “wrath of God”.  They are all terrifying! Read more…