(258) “平和を求め、それを追い求めよ。”

すべての人が欲しているものの1つと言えば、それは『心の平安』ではないでしょうか?どんな状況の中でも変わることのない平安を保って生きる、果たしてそんなことが可能なのでしょうか? 「平安を保つ」ためにまず私たちが知らなくてはならないのは、「何が私たちから平安を奪っているのか?」ということです。悪魔が私たちを脅かすのにはいくつかの共通した方法もありますが、多くの場合、私たちは1人1人違った理由によって平安を奪われます。例えば、ある人は「やらなければならないことがいくつもある」という状況に陥ると途端にイライラしますが、別の人は「こんなにたくさんのことを委ねられている!」と逆に元気が出るかもしれません。私たちは1人1人違うのです。だからこそ「自分の弱点を知る」ことが必要です。悪魔は私たち1人1人をよぉく観察しており、どこを突けば良いのかを熟知しているのです。 ある聖書の専門家がこんなことを言っていました。「私は疲れてさえいなければ、大抵のことは順調にこなすことができる。ということはつまり、悪魔は私が疲れ切ってしまうのを待っているのだ。このことに気づいて以来、私は決して疲れ果ててしまうまで仕事をしないように気を付けている。みすみす悪魔に付け込む隙を与えないためだ。このような『自分の傾向性』に気付くまでは、「平安を保って生きる」なんて到底無理である。」 皆さんにお勧めします。イライラしたり、ガックリ落ち込んでしまった時は、その時のことをできるだけ詳しく書き留めてみてください。そして「一体何が原因で『心の平安』を失ったのか?」を探ってみましょう。自分の弱みが顕わにされることを恐れないで、正直な気持ちでこのことを行ってください。そしてその原因となるものをできる限り自分の生活から取り除くように心がけるのです。 イエス・キリストは、十字架上の死からよみがえられた後、まず弟子たちに「平安があるように」と語りかけられました。失われた平安は、必ず取り戻すことができるのです。死にさえ打ち勝つことの出来る方があなたと共にいてくださるからです。  

(257) “思いの一新によって変えられなさい。”

人生って「楽しいこと」ばかりじゃありませんよね?神を信じているか否かに関らず、困難や試練は容赦なく襲いかかってきます。ところで知っていましたか?それらの『人生の試練』に屈してしまうかどうかは、「その試練の大きさ」や「その人がどれだけ強いか」にかかっているのではなく、「その試練に立ち向かう態度」すなわち『心の持ち方』次第だということを。 ある人々は、人生の試練に直面すると「これはとても自分には乗り越えられない」とか「もしもう1度同じようなことが起こったら、あきらめるしかない」などと決めてしまって、ある意味困難が襲いかかって来る前に、既に『敗北宣言』をしているのです。私たちの『思い』のうちにある「あきらめムード」こそが、私たちを打ちのめす最も強力な敵なのです。 私たちはこのような『敗北に向かわせる傾向性』の代わりに、むしろ「この困難は私をより強くさせるための神からの訓練である!」「試練が大きいほど、それを乗り越えさせる神の助けは更に大きい!」というような『肯定的・積極的な心の態度』を培うべきです。そしてそのような心の姿勢は「神のことばに従って『自分の思い』を一新させること」からやってくるのです。

(256) “神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。”

誰でも「問題のない人生」を望みます。しかし実際は「生きている限り問題に直面する」というのが現実です。ですから私たちの問うべき質問は「自分の人生にも問題は起こるだろうか?」ではなく、「問題が起こった時に、どう対処するべきだろうか?」なのです。 あなたの人生に問題が生じた時、あなたは誰に頼るのでしょうか? 親?友だち?それとも自分自身? 聖書は私たちにもう1つの、そして他の誰よりも確かに信頼できる存在を紹介しています。それはこの天地万物を造り、今も支配しておられる『創造主なる神』です。そしてこの『神』は、「私たちがご自身の許に身を避け、信頼を寄せる時に、私たちを苦しみから救い出してくださる方である」と証言しています。 しばしば聖書は私たちに「試練を喜ぶように」と勧めています。常識的に考えれば愚かしく聞こえます。何故なら、この世の価値観は私たちに『安全』や『問題のない人生』こそ善であると教えるからです。しかし私たちをこよなく愛しておられる神様は、私たちをご自身の許に引き寄せるためであるなら、人生の問題をも用いることが出来る方なのです。 神と人々とを憎んでいる悪魔は、私たちが恐れたり悲観的になったりするのが大好きです。しかし私たちが試練の中でも神に信頼し喜んでいる姿を見ると、なす術を失うのです。すなわち私たちが、周囲の状況や己の限られた能力に頼るのではなく、「神に深く信頼することによってのみ得られる真の平安」を見い出しその中に憩うとき、悪魔が張り巡らしている「この世の奴隷とする呪縛」から完全に解放されることができるのです!

(255) “心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。”

オペラ史上最も有名なテノール歌手の1人に「エンリコ・カルーゾ」というイタリア人がいます。実は彼がまだ10歳の時、彼はレッスンの担当者から「キミは全く才能のかけらも無いから、この道はあきらめた方が良い」と言われたのでした。しかし彼の母親は息子の才能を信じて疑わず、貧しさの中で大きな犠牲を払いつつ、彼のためにレッスンの費用を捻出し続けました。そしてこの母親の励ましは、まだ幼かったエンリコの心に大きな自信と勇気を与え、歴史は『専門家の評価』ではなく『息子を信頼し続けた母親の評価』の方が正しかったことを証明したのです。 この世界はしばしば私たちを『見た目』だけで評価し、こき下ろします。だからこそ私たちは「自分を信じてあきらめることなく励まし続けてくれる存在」を必要としています。そして特に子供たちにとっては、まずその親たちがそのような存在であるべきなのです。下記に「子供の視点で書かれた『親たちへのお願い』」を列記します。 1.「ボクが上手にベッドメイキングできなかったり、上手に絵を描けなかったり、上手にボールを投げられなかったとしても、あんまりガッカリしないでね。だってボクの手はまだ小さいのだから。」 2.「あんまり早く歩かせようとしないで、アタシと一緒にゆっくり歩いてね。アタシの足はまだ短いのだから」 3.「ボクに少しずつ冒険をさせて、世界がどんなに大きいのか見つけさせてね。ボクの目はまだまだ見たことのないものがたくさんあるから。」 4.「少しずつ、でももっともっとたくさんのお手伝いをさせてね。そしてゆっくりと丁寧に教えて欲しいの。だってお手伝いは逃げないし、アタシにはまだまだ時間がたっぷりあるんだから。」 5.「そんなに1日中ガミガミ言わないで、自分がしてもらいたいのと同じように優しくしてね。ボクの心だってデリケートなんだよ。」 6.「誰かが言ってたけど、アタシは神様からアナタへの贈り物なんだって。それってホント?だとしたら、アタシはアナタにとって『大切な宝物』なのね!それじゃアタシがアナタの他の宝物よりももっと素晴らしく輝けるように、立派な大人へと育ててね。」

(254) “この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいない。”

誰でも1つや2つは、日々の生活の中で陥りやすい『悪い傾向性』を持っているものです。「アルコール依存」「浮気や不倫」「すぐ怒りが爆発する」「悪いうわさ話」「憎しみや嫉み」「盗み癖」「すぐ嘘をつく」「ギャンブル」などなど。ある人々は「親から受け継いだ悪習慣だから仕方ないさ」と言うかもしれませんが、聖書に照らし合わせるならば、これは「親からの遺伝」ではなく、むしろ「初めの人『アダム』から引き継いだ『霊的遺産』」、まさに「そう生まれついた性質」なのです。 『神のかたち』に造られた私たちは、誰でも「正しい生き方をしたい!」という願いを持っています。しかし私たちの始祖アダムが神に反逆して以来、私たち人間に染み付いてしまっている『罪の性質(自分を第1優先にしようとする性質)』が「神を喜ばせようとする願い」に戦いを挑み、勝利してしまうのです。私たちは「罪を犯してしまったから『罪人』となる」のではなく、「生来の『罪人』なので罪を犯してしまう」のです。 それでは、私たちにはもう希望がないのでしょうか?一生『罪の性質』の奴隷となり「神に喜ばれる者として生きること」をあきらめなければならないのでしょうか?キリストの使徒パウロは、次のように言っています。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、かえってしたくない悪を行っています。私は本当にみじめな人間です。だれがこの『死のからだ』から私を救い出してくれるのでしょうか?」「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します!なぜなら、キリスト・イエスにある『いのちの御霊の原理』が、罪と死の原理から私たちを解放してくれるからです。」 『霊的戦い』は、私たちの戦いではなく「神が勝利を与えてくださる戦い」です。神は私たちを『死のからだ』から『まことのいのち』に移すために、ひとり子イエス・キリストをこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかからせ、そして3日目によみがえらせてくださいました。それがこの週末に世界中の教会でお祝いされている『復活祭(イースター)』なのです!

(253) “正しい者は、自分の家畜(動物)のいのちに気を配る。”

ある人が休日に旅行に出かける計画を立て、旅行先で宿泊予定のホテルにこんな問い合わせをしました。「実は私が可愛がっている1匹の犬がいるのですが、一緒に泊まらせていただくことはできますでしょうか?しっかりしつけてあるので、決して他のお客様にはご迷惑をかけないと思うのですが…」 すると、ホテルの方から次のような返答が来ました。「当ホテルは開設以来30年が経ちましたが、未だに犬がタオルやベッドシーツ、また壁にある高価な絵などを盗んで行ったことはございません。また犬が酔っ払って暴れたり、ホテル代を払わずに帰ってしまったこともございません。ですから、もちろん犬がおいでになることは何の問題もございません。念のため付け加えさせていただきますと、その犬が、同伴される飼い主様の身元を保証してくださるのであれば、その飼い主様のご宿泊も心から歓迎いたします。」 神がこの天と地を創造された時、大地や人間だけでなく、すべての動物たちもお造りになり、「すべては非常に良い」と言われたことが、聖書には書いてあります。事実、多くの「寂しさを抱えた人々」や「傷ついた心」を動物たちは慰め、再び立ち上がる力を与えてきました。統計によると、ペットを飼っている人々の方が、そうでない人々よりも長生きし、病気も少なく、病気からの回復も早く、鬱になる割合も少ないそうです。 私は定期的に『盲導犬育成』の団体を支援していますが、盲導犬の主人に対する忠誠は、知れば知るほど感動させられます。神は私たちに、これらの動物たちに注目させることによって、「私たち自身の生き方」について何かを学ばせようとしておられるのではないでしょうか?

(252) “もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。”

前回に続いて『忍耐』についてです。現代は「インスタントの時代」です。このような時代にどのようにして子供たちに『忍耐(待つこと)』を身に付けさせることができるのでしょうか? 1.実物教育によって ・大抵の子供は植物を育てるのが好きです。ぜひ子供が好む花や野菜の種を一緒に蒔いて育ててみましょう。そして「どんな生き物も、成長するのには時間がかかる」ということを実体験させてあげましょう。 2.時間の流れを体験させる ・子供は『待つ』ために何か「見えるもの」が必要です。例えば「夕食は6時から」ということを学ばせるために、時計の針やタイマーが進んでいくのを見せたり、一緒に遊園地に行く日をカレンダーに記して、それまでの日々にチェックを入れさせたりするのです。子供たちが「待つこと」を嫌がる大きな理由の1つは、それがいつまで続くのかがはっきりしないからです。 3.ぬけがけ(ズル)を許さない ・我慢できない子供たち(大人もですが…)は、よく「横入り」をします。大切な会話をさえぎったり、おやつの時間をごまかしたり。緊急の状況以外は「時間や礼儀を守ること」を、自分でも模範を示しつつしっかりと教えましょう。 4.楽しく学ばせる ・子供は『ボードゲーム(すごろくなど)』が大好きです。そしてこれらのゲームは必ず「自分の順番を待つ」ことになります。素晴らしいことに子供たちは「自分は待たされている」などと感じることなく『待つ』ことを学びます。将棋や囲碁などに興味を持つようならしめたものです。『待つこと』を楽しく身に付けさせましょう。 5.褒美を与える ・もし幼児が、あなたが赤ちゃんにおっぱいをあげている間、自分の『空っぽのコップ』を持ちながら「お母さんがミルクを入れてくれる」のをじっと待っていられたなら、思いっきり褒めてあげましょう。子供がずっと欲しがっていた高価なもののために長い間一生懸命お金をためているなら、そのお小遣いが95%貯まった時に残りの5%を出してあげるのも良いかもしれません。 神は、私たちが「祈りの答え」を待ち望んでいるとき、私たちが「あきらめてしまうこと」を望んでいるのではなく、「最後まで待っていられるように励ましを与えてくださる方」です。私たちも同じように『待っていられる子供』を愛情をもって育てて行きましょう。

(251) “あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。”

こんなお祈りを聞いたこと(あるいは自分で祈ったこと)がありますか?「神様、どうか私に『忍耐』をお与えください。今すぐに!」 神様は恐らく、このお祈りに答えるために、敢えて「すぐには」この祈りをかなえないに違いありません。 現代は『スピード時代』です。私たちはテレビのスイッチを入れてからほとんど数秒しか待っていることができません。スーパーのレジでも、3人以上並んでいる列の最後尾につきたくはありません。でも気付いているでしょうか?この「忍耐のなさ」が私たちの心を蝕んでいることを・・・ 物事がそうなって欲しい時に、そうなって欲しいと思う通りに実現することができるお方は世の中にたった1人しかおられません。それは『天地創造の神』です。しかし驚いたことに、この神様は恐ろしいほど「忍耐強く」「寛容」であられ、私たち『人間の思い』がご自身の『みこころ』に沿ったものとなるまで、じっと待ち続けてくださるのです。そう考えると、ほんのささいなことですぐイライラする私たちって、ちょっと馬鹿げていると思いませんか? 神は私たちに「喜びと平安に満ちた人生」を送って欲しいと願っておられます。そしてこの『喜びと平安』は、私たちが「思い通りにならないことにどう対処するか」によって左右されます。私たちは神ではないので、周囲の状況を変えることはできませんが、自分の心の中に起こることをコントロールすることはできます。そのための秘訣をいくつかお教えしましょう。 ①「自分の中には変えられなければならない部分がある」とはっきり認める。自己正当化したり、言い訳を繰り返しているうちは、決して成長することはできません。  ②神に対して心を開き、心の内に「忍耐の実」を結んでくださるよう求め、神に信頼して生きる。  ③「次のことにとりかかること」よりも「現在の状況の中でベストを尽くすこと」に集中する。 聖書では『忍耐』のことを「聖霊が結ばせてくださる『実』」であると描写しています。ご存知のように『実』は一夜にしては結ばれません。でも心をこめて育てれば、素晴らしい実が結ばれます。一緒に「忍耐の実」を求めて、1日1日をじっくりと歩んで行きましょう。

(250) “光がある間に歩きなさい。”

カビは『暗闇』の中で大いに成長します。しかし光に当てたとたんに、カビはしぼみ、そして枯れます。 私たちの心の中にも『カビ』がはびこることがあります。イエス・キリストは次のように言われました。「光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。」すなわちこれは「人に知られたくない(公明正大でない)計画や行い」を抱いている状態のことです。(誰かのための『サプライズ・パーティ』を計画することは別ですが…) 『隠し事』はしばしば私たちの人生にダメージを与えます。カビのように、初めは小さくても、心の中の『暗闇』に閉じ込めておくことによってそれは徐々に大きくなり、私たちの心をさいなませ、悪い考えや習慣へといざない、最後には破滅へと追いやります。『隠し事』は私たちの心を『暗闇』へと追い込み、否定的な思いの虜へと陥れるのです。 では、どうすれば良いのでしょう?素晴らしいことに、聖書はその脱出の道をも教えてくれています。「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」もし私たちが勇気をもって『光の中』へと1歩踏み出すならば、すべてが変わります!その隠し事、そしてあなたの心を縛っている恐れや否定的な考えを神に告白し、明るみに出すのです。(必要ならば、信頼できる友人などに告げるのも良いでしょう。)いったん光が投じられたならば、カビがしぼんでいくように、あなたの心の中の暗闇は逃げて行き、あなたは「大いなる解放」を体験することでしょう! 悪魔はいつでも私たちを『罪の暗闇』へと閉じ込めようとします。ですから、もう「隠し事を持つこと」を止め、心の目を覚まして、いつも神に対して心を開いて、光の中を生きて行きましょう!

(249) “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。”

聖書に出てくるイエスの教えの中に「ある家の主人が3人のしもべたちにいくばくかのお金を託して旅に出る」というたとえ話があります。主人が旅から戻った時、3人のうち2人は「託されたお金を元にこれだけ儲けました。」と報告し、「良い忠実なしもべたちだ!」とほめられますが、最後の1人は託されたお金を全く活用しなかったために叱られます。そのしもべは主人にこう言い訳しました。「私はこわくなり、出て行って、あなたから託されたお金を地の中に隠しておきました」と。 『恐れ』は私たちの心の平安を失わせるだけでなく、私たちが自分の能力を活用することを邪魔します。「そんなことしている人、ほかに誰もいないじゃないか」「自分が本当にそれにふさわしいと思っているのか?」「もしそれをやって失敗したらどうするんだ?」などなど。そのようにして『新たな可能性の芽』を摘まれてしまっている人の何と多いことか! 敬虔な信仰を持っていた「イスラエルの王ダビデ」は、その生涯の長い期間を敵にいのちを狙われながら過ごしました。以下はそんなダビデの残した言葉です。「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。・・・それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」また彼は神に次のように祈っています。「聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」 「神になんて頼る人間は弱虫だ!」などと言う人があります。しかしこのダビデ王はイスラエル王国の歴史上最も勇敢で力強いヒーローとして知られています。「神に頼る」という行為は少しも「弱い者のすること」ではありません。むしろ「神によって与えられている能力を最大限に活用して生きるため」にどうしても必要なことなのです。逆にそれでも神を求めようとしないのは、「アイツは神になんか頼っている」と思われることを恐れる『弱虫』のすることではないでしょうか?