(520) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたし(キリスト)はすでに世に勝ちました。”

 私たちは、自分に都合が悪いことが起こったり、負いきれない重荷を負わされそうになった時、つい「誰かのせい」にしたくなるものです。親のせい、子供のせい、先生のせい、友だちのせい、社会のせい、などなど。けれどもそんなことをしても問題が解決しないのは明らかですよね。  第2次大戦のさなか、ビクター・フランクルはナチスの強制収容所に入れられました。収容所の職員たちは彼から文字通り『すべて』を取り上げました。妻や子供たち、衣服を含むすべての所有物、そして結婚指輪さえも取り上げられたうえで、すべての自由を奪われて拘束されました。しかし「たった1つだけ」決して取り上げられずに済んだものがあったのです。彼は手記の中で「それらすべての悲惨な状況の中にあっても『自分の態度』を自分で選ぶことのできる自由だけは決して奪われることがなかった」と書いています。  私たちには「明日何が起こるか」さえも分かりません。というか「今日これからどんなことが起こるか」も分かりませんよね?私たちは自分を取り巻く環境をコントロールすることはできませんが、それらの環境に対して「どんな態度で」対応するかは選ぶことができます。その環境に打ちのめされるか、それとも成長の糧とするか。恐れに押しつぶされるか、それとも更に深く神に頼ろうとするか。『創造主である神』という方を個人的に知るようになると、自分の身の上に起こる出来事すべてが「このことが起こるのを神は許されたのだから、必ず背後に良いご計画があるはず」ということが信じられるのです。

2023年2月12日 「神の御使いとは?」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「神の御使いとは?」      (12/02/2023) ◆神の御使いとは?   ・『御使い』の原語の意味は、ヘブル語でもギリシャ語でも「メッセンジャー」、すなわち「人々に『神の御告げ』を伝える存在」。『御使い』は「神に仕える超自然的な存在」であり、性別・結婚関係などはない。[マタイ22:30]   ・『御使い』は人間に優った存在(Ⅱペテロ2:11)だが、私たち同様に『自由意志』を持ち、彼らの1部は神に反逆したことによってさばかれ、「堕天使(悪霊)」となって今も悪さを続けている。彼らに悔い改めの機会が与えられていないのは、私たちと違って「神の国の真理」をよく知っていたにも関わらず、神に反逆したからに違いない。 ◆御子イエスは、御使いに優っている [へブル人への手紙1章4~14節]   ・この段落には多くの旧約聖書(主に詩篇)が引用され、御子イエスが御使いに優っていることが示されている。中には難解な箇所もあるが、[13節]などは主イエスがご自身の「メシア性」を裏付けるものとして引用した箇所であり、『へブル人への手紙』の宛先であった「ユダヤ人たち」にとっては、これらの引用から「イエスは確かに   『神の御子』であり、『御使い』とは決定的に異なるはるかに優れた存在なのだ」ということを確認できたはず。   ・「御使いについて学ぶこと」はそこまで重要ではないかもしれないが、「御使いの存在」を通して私たちは、神の私たち人間に対する深い関心を再認識することができる。[14節,ルカ15:10] ✰今週のチャレンジ: あなたのために『御使い』をも遣わされる神をどう思いますか? ◎更に深い学びのために  ①今まで『御使い』とはどのような存在だと思っていましたか? 今回の学びを通してそれが何か変化しましたか?  ②もしユダヤ人たちが「イエスは御使いと同じような存在」と思っていたとしたら、それはどうしてだと思いますか?  ③「御使いとの遭遇体験」を誰かから聞いたり、自分が体験したりしたことがあるなら、分かち合いましょう。 Outline of the sermon       “The angels of God.”      (12/02/2023) ◆What is “the angels of God”?   ・They are “messengers” sent from God to serve Read more…

(519) “こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、…神の家族なのです。”

 1月20~22日の週末に「ニュージーランド在住日本人クリスチャンの集い」が行われました。ニュージーランド全国各地から100名弱の日本人クリスチャンたちが集い、実に圧巻でした。中には「自分が住む都市や町でたった1人の日本人クリスチャン」という方々もおられ、一緒に『日本語で』聖書を読んだり、『日本語で』神様を賛美したり、『日本語で』聖書のメッセージを聴いたり、『日本語で』一緒にお祈りしたりするだけで、胸がいっぱいになって涙にむせぶ場面が多々ありました。初めて会った同士がたくさんいたにも関わらず、あたかも「旧知の友」であるかのように深い心の思いを分かち合う姿は、見ていてとても心を打つものでした。  日本語には「遠くの親戚よりも近くの他人」という言い回しがあります。確かにイザという時、「血はつながっていても、普段全く付き合いのない親戚」よりも、「たとえ血のつながりはなくても、普段から付き合いのある他人」の方が頼りになることが多いでしょう。しかし聖書には『神の家族』という表現が何度か出てきます。これは「血のつながり」こそありませんが、「創造主である神」を共通の『父』とする「霊のつながりを持った家族」という意味合いがあり、たとえ初めてあったばかり同士(時には「会ったこともない同士」)であっても、お互いにことばには表せない『親しさ』を感じることができるのです。  今回の集いでは「同じ日本人同士」ということもあり、そこには特別な『仲間意識』があったと思いますが、私たち家族は今までに様々な国々で「他国人同士であっても家族のような親しさ」というものを体験したことがあります。肌の色も、話す言葉も文化も違う者同士なのに、「同じ『父なる神』に愛されている存在」というつながりが、私たちを引き寄せてくれたのです。  「唯一の創造主である神を信じて生きる」って、本当に素晴らしいことなんです!

2023年2月5日 「神はご自身を現される」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ    「神はご自身を現される」    (05/02/2023) ◆神は語られる [へブル人への手紙1章1~2節前半]   ・旧約聖書の時代、神は預言者たちを通して「多くの部分に分け、多くの方法で」語られたが、『終わりの時』には御子を通していわば全てを語られた。語られた内容は、旧約聖書の時代は基本的に『約束(「やがてその日が来   る」というような)』であり、それらすべてが御子イエス・キリストによって成就した。[マタイ13:17]   ・神が『語られる』のは、主に「ご自分が何者であるか」を知らせるため。それ故、私たちが神に向かって「お語りください」と祈る時は、単に「導きが欲しい」「御声が聞きたい」という『自分の願い』のためではなく、「神にご自身を啓示する機会を与えている」ということを理解しておくべき。[ヨハネ1:1-3] ◆御子イエスこそ、神の本質の完全な現れである [へブル人への手紙1章2節後半~4節]   ・イエスは『生ける神のことば』として「神ご自身の現れ」としての人生を生きられ、その上で弟子たちを聖霊によって遣わされた。[ヨハネ20:21-22] そして今日イエスは「父なる神の右の座」に着かれ、祭司として私たちのためにとりなしてくださっている。   ・イエスが御父から片時も離れることなく『父のみわざ』を行われたように、私たちも聖霊によって片時も御子から離れることなく『御父の栄光』を現す人生を辿って行こう![ヨハネ15:5, 8] ✰今週のチャレンジ: この世にあって『神の栄光の現れ』として歩みたいですか? ◎更に深い学びのために  ①旧約聖書の時代から今日に至るまで、神は「どのようなこと」を、「どのような方法」で人々に語っていますか?  ②どのような点で、「御子イエスは『神の本質の完全な現れ』である」と言えるのでしょうか?  ③現代に生きる私たちに、御父はどのようなことを期待しておられますか? そのためにできることは何でしょう? Outline of the sermon       “God reveals Himself.”      (05/02/2023) ◆God speaks [Hebrews 1:1-2a]   ・All through Old Testament period God spoke to people Read more…

(518) “すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いを守ってくれます。”

 年を重ね、様々な責任を負うようになるにつれて、『大きな決断』を迫られる機会が増えてきます。しかもそれらの決断を「できるだけ早く」しなければならないようなプレッシャーを感じることが多いのではないでしょうか。そのような時にぜひとも気を付けなければならないのが、「疲れていたり、体調が悪い時には、重大な決断は下さない」ということです。  「そんなことを言っても、タイムリミットが迫っているんだから…」とおっしゃるかもしれませんが、冷静に考えてみてください。急いで誤った決断をし、その後始末に追われるのと、多少決断が遅れて責められたとしても正しい決断をするのとでは、どちらが優っているでしょう?当然後者ですよね?そのためには自分が今どのような体調や精神状態でいるかをしっかりと見極め、休息の時間を取り、神の前に静まる時を持つべきです。  現代の『疲れ』というのは、単に休息を取れば癒される「肉体的な疲れ」よりも、「考えなければならないことに追い立てられる『精神的な疲れ』」の方が多いと思います。『神への信頼』とは、「神は良い方で、私のために良い計画を持っておられ、私が自分自身よりもむしろ彼に頼るなら、最も良い道へと導いてくださる」と信じて、自分自身を委ねることです。「自分で何とかしなければ」という風に固く握ってしまっている手を放して、全能の神の御手に自分自身を委ねるならば、深い安息を体験できるだけでなく、正しい決断へも導かれることをきっと経験できるはずです。

2023年1月29日 「へブル人への手紙」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「へブル人への手紙」     (29/01/2023) ◆「へブル人への手紙」の特徴   ・今年は『へブル人への手紙』を学んで行く。この書は紀元1世紀に世界(特にヨーロッパ)に離散していた「主イエスや使徒たちと直接会ったことのないユダヤ人クリスチャン」を対象に書かれている。しばしば『神殿・聖所』に関する言及があるのは、これらの人たちが直接は『エルサレム神殿』を見たことがないことを示している。   ・『へブル人への手紙』の1つの大きな主題は、『永遠の大祭司であるキリスト』である。彼の「神と人との唯一の仲介者」としての役割をを詳しく描写するために、旧約聖書が多く引用されている。 ◆なぜ「へブル人への手紙」を学ぶのか?   ①旧約聖書の背景がない私たち『異邦人クリスチャン』にとって、この書を学ぶことは「神の救いのご計画」を更に深く理解するためにとても有益だから。   ②新約聖書(特にパウロ書簡)は、どちらかというと「救われた者に相応しい行いの規範」的な傾向が強い。しかし『へブル人への手紙』はむしろ、「そのような行いに至るための動機」を私たちの内側に生み出してくれる。   ③旧約聖書の時代においてユダヤ人たちが「地上の全ての民族を祝福するために選ばれた者」であったように現代において私たちも「全世界の人々を祝福するために神がお選びになった存在」だということを確認できる。 ✰今週のチャレンジ: 神の祝福を運ぶ『選ばれた存在』という自覚を持っていますか? ◎更に深い学びのために  ①『へブル人への手紙』を通読したことがありますか? この書に対するあなたの印象はどのようなものですか?  ②『へブル人への手紙』の主題は何ですか? また、この書には何故旧約聖書が多く引用されているのでしょう?  ③『へブル人への手紙』を学ぶことにどんな益がありますか? また、あなたはどんな期待感を持っていますか? Outline of the sermon      “The book of Hebrews.”    (29/01/2023) ◆Some characteristics of “Book of Hebrews”.   ・This year we are going to read Read more…

(517) “すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。”

 私たちの日々の生活の局面には『変化』が付きものです。職場や学校、家庭やその他の人間関係において「変わらないもの」は何1つありません。人によって多少の差はあるにしても、私たちには「様々な環境に『慣れる』」という能力が備わっています。と同時に、「せっかく慣れ親しんだ物や環境が失われることを嫌う」という傾向性も持っています。「不安定さ、不確実さ、予期せぬ出来事」というものに対する心備えが出来ていないのです。しかし実際には「不変な世の中」などは存在しません。生きていれば『変化』は避けられないのです。  ある意味『変化』は「突然」しかも「思わぬ時に」やってきます。仕事場での異動、肉親の死、自然災害など。そしてこれらの『変化』は私たちの人生をぺしゃんこにしてしまうこともできますし、また私たちを大きく成長させるきっかけになることもあります。そしてそのどちらになるかは「変化の種類」によるのではなく、「私たちの側の選択」にかかっているのです。  この世界で唯一『不変』なもの、そして私たちが真に「人生の不動の礎」として頼ることができるのは、天地創造の神だけです。そして、この世に変化が付きものなのは、この『不変の神』が、私たちを「誤ったものに頼ること」から守ろうとしておられるからに違いありません。神は、私たちが日頃頼ってしまっている様々なこの世のものが「実は全く頼りにならない」ということをよぉくご存じなのです。  「この世のものは全てはかないのだから、『世捨て人』のように生きなさい」と言っているわけではありません。ぜひ1日1日を大切に、目の前にある責任や人々を精一杯大切にして、全力を傾けて生きてください。ただ、1つのことだけ忘れずに。創造主なるまことの神だけが、あなたが『人生の拠り所』とすることができる唯一のお方なのだということを!

(516) “私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。”

 イエス・キリストは、その『教え』や『みわざ』の卓越性のゆえに「近寄りがたい存在」というような印象を与えますが、決してそんな存在ではありません。彼は『神の子』として地上に来られましたが、あくまで『人』として生きられたのです。勝手なイメージで美化しすぎることなく聖書が描く「イエス・キリスト」を観察するならば、彼がいかに「人間臭い」かが見えてきます。イエスは私たちと同じように1人の女性から生まれました。私たちと同じように疲れを感じ、のどが渇き、お腹をすかせました。腹を抱えて笑い、怒り、涙を流しました。そして時には仲間たちと酒を飲みながらどんちゃん騒ぎもしました。  そんな中で聖書が伝えるイエス・キリストの素晴らしさは、ご自身の体験を通して「私たちの痛みを分かってくださる」ということです。私たちは深い悩みや心の痛みの中にいる時、あまりの辛さのゆえに、周囲の慰めに対して、「あなたたちになんか、この私の痛みが分かるわけない!」と毒づきます。しかし実際は、「誰かにこの辛さを分かって欲しい」と心底思っているのです。ただ、うわべや口先だけの慰めに嫌気がさしてしまうだけなのです。しかし、聖書をじっくり読めば分かることですが、イエス・キリストは実に「筆舌尽くしがたい悩み・苦しみ」を経験された方でした。自分に与えられた使命を家族にさえ理解されず、人々は「イエスご自身」ではなく、「イエスから受ける利益」だけを目当てに近づいてきました。親友は無残に殺され、信頼していた弟子には裏切られ、社会的リーダーたちからは敵視され、ついには『十字架刑』という極刑に処せられて殺されたのです。あなたの知り合いに、これほど惨めで悲惨な人生を歩んだ人はいるでしょうか?  このイエスが、十字架刑から3日目によみがえられ、今日も生きて私たちとともに歩んでくださるのです。私たちの悩みや痛みを完全に理解してくださるのです。何故ならご自分が「同じように試みにあわれた」からです。このイエスこそまさに、あなたが必要としている『救い主』なのです!

2023年1月15日 「神は良いお方」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「神は良いお方」     (15/01/2023) ◆神は、どんなふうに『良い』のか?   ・神は『良い方』である。神は初めこの世界(私たちを含め)を「良いもの」として造られた。[創世記1:31] それを私たちが台無しにしたにも関わらず、私たちを罪と滅びの渕から救い出すために、ひとり子をこの世に送り、十字架の代価によって贖い、私たちを再び『ご自身のかたち』に生きるように回復してくださった。これが「神の良さ」!   ・私たちは、この「神の良さ」を表現するように召されている[エペソ2:10]が、自分の力ではできない。[ローマ7:18-20] 『良い行い』というのは単なる「善行」のことではなく、1人1人の生き様を通して現される「神の良さ」のことである。そのために「キリスト・イエスにあって」造られた。すなわちキリストが日々聖霊によって「御父の臨在の中」で過ごしていた、その模範に倣う。何故なら御父だけが『良い方』だから。[ルカ18:19] ◆『神の良さ』を日々味わう   ・主イエスと私たちとでは『神の良さ』の理解度が大きく違う。まず「神が良い方であること」をじっくり味わうことから始めよう。[詩篇34:8] それにはまずスローダウン。イエスは決して「行動に急ぐ」ことはなかった。次に「みことばを心に満たす」。これが御父に近づく秘訣である。イエスは「わたしが道・真理・いのち。わたしを通してでなければ父の許へは行けない」とおっしゃったが、『みことば』もこれと同じである。[詩篇119:105,ヨハネ17:17,6:63] ✰今週のチャレンジ: 神が『良い方』であることを、どれだけ知っていますか? ◎更に深い学びのために  ①あなたが個人的に「神は良い方である」と言う時、それは神のどんな『良さ』について言っているのでしょう?  ②[エペソ2:10]をじっくり読みましょう。ここで言う『良い行い』とは何ですか? どのようにそれは成就しますか?  ③あなたが更に『神の良さ』を味わうために、どんなことができますか? それをぜひ今日から始めましょう! Outline of the sermon      “The good Father.”    (15/01/2023) ◆How much “good” is our God?   ・God created everything “good”(Genesis1:31) because He is “good”.  Read more…

(515) “たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。”

 ある子供が近所の森に『キノコ狩り』に行ったそうです。よくありがちなことですが、彼はキノコ探しに夢中になって、どんどん森の奥の方に入って行き、ふと気が付くと全く見覚えのない場所に迷い込んでいて、自分の家の方向がまるっきり分からなくなってしまったそうです。少年は物凄く不安になりました。幸いその森はそれほど広くはなかったので、何とかかんとかやっとのことで家に辿り着けたそうですが…  それから何日か経って、その子供はもう1度『キノコ狩り』に行ったそうです。懲りない性格ですね。そしてまた前回と同じようにキノコ探しに夢中になってどんどん森の奥に入って行きました。しかし今回は迷うこともなかったし、不安になることもなかったそうです。何故でしょう?実は、今回は少年のお父さんも一緒に来ていたのです。少年はキノコ探しに夢中になりつつも、常にお父さんが見えるところにいることをちゃんと確認していたのです。  聖書の中には多くの「神の約束」がありますが、恐らくそれらの中で最もすばらしくて力強い約束は、「共にいてくださる」ということだと思います。私たちはできることなら「何の問題もない人生」を過ごしたいと願いますが、残念ながら神を信じていても信じていなくても問題は起こります。「神様が私を愛してくれているなら、どうして問題なんて起こるの!」と文句を言いたくなるかもしれませんが、ある面『問題のない人生』は、『成長のない人生』です。神は私たちの人生に『困難』が起こることを容認することを通して、私たちを「成長させる」とともに、『私たちと神との関係』というものを、より深く豊かなものとしようとされているのです。