(455) “愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。”

 『愛』とは、何かロマンティックな感覚ではありません。『真の愛』とは、『行動』です。  「愛の宣教団」の創設者として知られる『マザー・テレサ』は、太平洋戦争直後の1948年にカルカッタを訪れ、まず最初に5人の孤児を集めて「青空教室」を始めました。不潔な生活をして病気がちだった彼らに「衛生管理」を教えるためです。やがてこの生徒数は40人以上に膨れ上がりました。そしてその後これらで訓練された若者たちを中心に、有名な「死を待つ人の家」の働きが始められたのです。ごみ溜めの中で、飢えと病のために死にかけている人々を拾って来ては、その最後のひと息まで全力を傾けて世話をする彼らに、死に行く人々は口々に「どうして私たちのような者にこうまでしてくださるのですか?」と尋ねました。返って来る答えはいつも同じでした。「愛のゆえです。」  忙しく働くことで自分自身の存在価値を見出そうとするような時代になっています。しかし「忙しく走り回ること」はしばしば「助けを必要としている人に気付いてあげられない」、もしくは「たとえ気付いたとしても、助けようとしない(または『邪魔者』と感じる)」ような人々を育てて行きます。まさに『忙』とは、「『心』が『亡びる』」ことなのです。  ロシアの文豪『トルストイ』の著作に「愛のある所に神あり」という短編があります。神はいつでも「私たちと一緒にいたい」、「私たちと共に働きたい」と願っておられます。そしてそのような機会を捜しておられるのです。私たちがふと足を止めて周囲を見渡し、助けを必要としている人に手を差し伸べるなら、あなたはその時「神は確かにおられる」という深い確信を体験できるに違いありません。

2021年9月12日「イエスを誰だと言うか?」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「イエスを誰だと言うか?」(12/09/2021) [マルコ 8:27~9:1] ◆イエスを誰とするか? [29~33節]   ・「イエスが誰であるか」という認識と、「イエスに対してどういう態度で生きるか」ということとは深い相互関係がある。『キリスト(メシヤ)』の原意は「油注がれた者」であり、旧約聖書では「祭司・王・預言者」などに用いられた。ユダヤ人たちは、この「ローマ支配から解放してくれる『王』」として『キリスト』を待ち望んでおり、ペテロも例外ではなかった。しかし実際は、イエスは「地上での王国」ではなく「永遠の神の王国」をもたらす『キリスト』だった。 ◆「キリストにある」自分 [34~38節]   ・イエスはサタンが人類を「偽りの満足」にいざなおうとしているのを知っておられた。そこで敢えて厳しい言葉で「真の最善な歩みから引き離そうとする誘惑」を、ご自身に従おうとする者たちから断ち切ろうとしておられる。   ・「自分のいのちを救おうとする」とは、「自己実現のために神を利用しようとする生き方」。一方「イエスのためにいのちを失う」とは、「神の計画実現のために自分を差し出す生き方」。『自己最高の人生』は「神主導」でこそ実現する。この「自分を捨て」とは、「キッパリと捨てる」という人生を賭けた決断。[へブル12:1~2] 「どっちつかずの人生」ではなく、主イエスにフォーカスした「キリストの名を帯びた者にふさわしい生き方」 をしようではないか! ✰今日のキーワード: キリストにある自分 ◎更に深い学びのために  ①あなたは、イエスを誰だと言いますか? また、それは何故ですか?  ②サタンは人々の願いをかなえることがありますか? もし「ある」とすれば、それはどんな場合だと思いますか?  ③神が私たちに望んでおられるのはどんな人生ですか? また、それはどのようにすれば実現するのでしょう? Outline of the sermon     “Who do you say Jesus is?”     (12/09/2021) [Mark 8:27~9:1] ◆Recognize who Jesus is. [Verses 29~33] Read more…

(454) “死と生は舌に支配される。”

 日本のことわざにも「口はわざわいの元」と言われますが、私たちが肯定的な言葉を日々口にするか、または否定的なことばかり言っているかは、私たちの人生を大きく左右します。「どうせ私なんか…」とか、「そんなの無理~!」という言葉を連発しているなら、できるはずのこともできなくなっていき、将来の可能性をドンドン狭めていくことになるのです。  日頃どんな言葉を口にしているかは、もはや私たちが無意識に行う『癖』のようになっており、否定的・消極的な態度を改善していくには、外側からの助けが必要です。そして私たちにとっての「最強・最善の助け」とは、全能の創造主なる神であり、また彼の口から出た『聖書のことば』です。キリストの使徒パウロは、「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです!」と宣言しました。彼の人生は試練の連続でしたが、むしろ彼はそれらの試練を体験することによって「自分の思いではなく『神のことば』に信頼する」という基本姿勢を確立して行ったのです。  私たちの人生を決定する要因は、「私たちの人生に起こる出来事」が20%、そして「それらの出来事にどう対処するか」が80%だそうです。そしてこの『どう対処するか』は、「私たちの心の態度」に起因しています。そして私たちの心の態度を形作るのが、「日々どのような言葉を発しているか」なのです。そのような意味でも「日々聖書の言葉に触れること」は、私たちの人生をより積極的・肯定的に引き上げて行く大きな力となるのです。

2021年9月5日 「信仰を働かせる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「信仰を働かせる」(05/09/2021) [マルコ 8:22~26] ◆実物教育   ・ここでの癒しは、7章の終わりの記事同様、他の癒しの記事と比べ特徴的。①癒しが段階的であり、②途中でイエスが質問している。これは他に類がない。イエスの特別な意図(弟子たちへの『実物教育』)がうかがえる。   ・この盲人を「村から連れ出した」とあるが、きっと弟子たちは一緒にいたに違いない。舟の上でイエスに叱られた弟子たちは「自分たちには弟子の資格がないのでは?」と落ち込んでいたことだろう。そんな彼らをイエスは「今は分から(見え)なくても、徐々に分かる(見える)ようになる」[ヨハネ13:7]と励まそうとしていると思われる。 ◆信仰を働かせる [24~25節]   ・イエスの癒しのわざの多くは「床を取り上げて歩け」とか、「手を伸ばしなさい」などの『行動を促す言葉』が伴っている。そしてイエスは「あなたの信仰があなたを癒した」とおっしゃった。『信仰』とは単なる受け身的な態度ではない。生きた信仰は『行動』に駆り立てる。[ヤコブ2:17~18]   ・今回の癒しのわざを通してイエスは弟子たちに「神があなたの周囲でなさっているわざを、霊の目を開けてしっかりと見なさい!」と教えたかったのだろう。そしてこの『実物教育』は今日の私たちのためでもある。 ✰今日のキーワード: 信仰の活用 ◎更に深い学びのために  ①「自分の信仰の足りなさ」に落ち込んだことはありますか? そこからどのようにして回復しましたか?  ②「神のわざ」に関して、以前は分からなかったのに、今は分かるようになったことがあれば分かち合いましょう。  ③あなたの日々の歩みの中で、「もっと信仰を働かせるべき余地がある」と思えるのは、どんな分野ですか? Outline of the sermon        “Work of faith.”        (05/09/2021) [Mark 8:22~26] ◆Actual education.   ・Here Jesus took a special process for healing such as: Read more…

(453) “すべてのことにおいて感謝しなさい。”

 次の文章の空欄に、あてはまることばを入れてみましょう。 「私の人生は絶対にもっとマシになるはず!もし私の体型が    だったら…、顔が    だったら…、親が    だったら…、配偶者が    だったら…、友人関係が    だったら…、収入が    だったら…」  考え出すとキリがありません。でもついつい考えてしまいますよね?そんなアナタに1つの提案です。  この「もし    だったら、ずっとマシなはずなのに…」という思考パターンを、「私の人生を少しはマシにするには、どうすれば?」という思考へとシフトしてみるのはどうでしょう?そうすると、少なくとも次の3つの変化が起こり始めるはずです。   ①それまで「後ろ向き」だった自分の人生に関する視点が『前向き』になる。   ②現時点で自分に与えられている物・資質・人間関係などに対する関心が高まる。   ③「感謝の心」が湧いてくる。  誰であっても「自分が持っていないもの」に気を取られている間は、感謝の気持ちはほとんど湧いてきません。ところが一旦「今の自分に何が与えられているか」を意識し始めると、驚くほど多くのものを見つけることができ、自然に『感謝の心』が湧いてくるのです。「飲み水があること」「太陽が昇ること」「雨風をしのげる場所があること」「思い浮かべることのできる知り合いがいること」などなど、普段は『当たり前』と思ってほとんど忘れてしまっているようなことがたくさんありますよね?  聖書が教えてくれている『神様』という存在も、それと似ています。いつも私たちの近くにおられるのに、私たちが他のことにばかり気を取られているので、ピンチになったり痛い目にあった時だけ「文句を言う相手」にされたり、「お願い事の対象」にされたりしているのです。何だかちょっと可哀そうな気がしませんか?  神様はあなたを愛しておられ、いつもご自身の祝福であなたの人生満たしたいと願っておられます。ただあなたの心が「後ろ向き」だったり「うつむいて」いたりしている間は、その祝福を見つけたり受け取ったりすることができません。上記のように、ちょっと『思考パターン』を変えてみる、これが「神と共に歩む人生」をスタートするきっかけとなるのです。

2021年8月29日 「信仰の目」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「信仰の目」 (29/08/2021) [マルコ 8:11~21] ◆信仰の性質 [11~12節]   ・パリサイ人たちは「イエスを試そうとして『しるし』を求めた」。サタンも荒野において「イエスを試そうとして『しるし』を求めた」。それ故このようなパリサイ人たちの態度に対し、イエスは(霊において)深くため息をついた。   ・一見「しるしを求めること」は信仰的な行為に思えるが、たとえ『しるし』を見ても、信じない者は信じない。ある意味『しるし』は私たちが「自発的に信じること」の妨げとなる。これは神の願う信仰のスタイルではない。 ◆「信仰の目」を養う [15~18節]   ・ここで「パリサイ人やヘロデのパン種」とは、『この世からの不敬虔な影響力』を象徴している。この世は私たちを「目先の必要」によって惑わし、神に求めさせる。そして「思い通りにしてくれない神なんか要らない」という結論へと導く。この場面でも、『霊的な話題』をしているイエスに対し、弟子たちは「目先の必要」に固執している。   ・弟子たちが悟るべきだったのは、必要なのは「パン」ではなく『イエス』なのだということ。『優れた信仰』は「神との出会いの経験の積み重ね」によって育まれる。[詩篇103:2] 『12』や『7』は神を想起させる数字。ここでイエスがおっしゃりたかったのは「どのような場面でも、そこに関わっておられる神の御手を見よ!」ということ。 ✰今日のキーワード: 神の御手捜し ◎更に深い学びのために  ①どうして「しるしを求めること」が「信仰的な目を養うこと」の妨げになることがあるのでしょう?  ②あなたが陥りやすい「この世のパン種」は、どんなことですか? それに対しどんな対策が考えられますか?  ③あなたが見つけたことのある「日々の生活の中での神の御手」について、互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon        “Our spiritual eyes.”        (29/08/2021) [Mark 8:11~21] ◆Nature of faith. [Verses 11~12]   ・“Seeking signs” sounds like “faithful”, Read more…

(452) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。”

 前回『成長』について述べましたが、「成長を目指すこと」と「人からの評価を期待すること」は全然別なことです。『成長』とは、いわば「より上を目指して全力を尽くす」ということです。そしてそれは「肉体や能力における成長」などの『外面的成長』と、「品性や人格的成熟度」に現れる『内面的成長』の両方を含みます。  「神が私たちの創造主であると信じる」ということは、単に「困った時に神頼みする」ということではありません。「最高・最善であるお方に造られた存在」として自分を見つめ、また取り扱うということです。ですから「成長を目指す」とはすなわち、「この偉大な造り主に恥じない生き方をしようとすること」と言えるでしょう。たとえ誰も見ていないところでも、たとえそれが1円の得にもならなくても、「すべてをご存じで、すべてをご覧になっておられるお方を笑顔にさせる」、ただそのことを目指して、持てる力・知識・善意をフル活用して1つ1つのことに対処する。これが「成長を目指す」ということです。その結果として人々の評価を受けるとしたら、それはオマケのようなものです。  大変残念なことに、最近は「そこそこの仕事をしておけばオッケー!」というような風潮が増えているように思います。もちろん「上司の命令は絶対。残業手当が出なくても、残業は当然!」などという、人格を無視したような雇用態度はもってのほかですが、私たちを造り、私たちを愛し、常に私たちの『最高・最善』を期待して日々励ましてくださるお方を喜ばせるために、今日も「成長を目指して」進んで行きましょう!

2021年8月22日 「目の前の必要と永遠の必要」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「目の前の必要 と 永遠の必要」       (22/08/2021) [マルコ 8:1~10] ◆神は目の前の必要を満たす   ・この記事は6章に出て来る『5つのパンと2匹の魚の奇跡』とそっくり。恐らく「同じ奇跡を2度体験した人々」もいたことだろう。もしかしたら、「パンをもらうことを目当てにイエスについて回っていた人」もいたかもしれない。しかしイエスはそんなことは気にもかけず、「かわいそうに…」と再び奇跡をなさった。 ◆神は永遠の必要を満たす [ヨハネ6:26~27]   ・イエスは人々が肉体的に一時的に満たされることでは満足されなかった。彼が期待したのは、人々が『永遠に保つもの(神が真に与えようとしておられる「より優れたもの」)』を求めるようになること。[ヨハネ4:13-14]   ・私たちはつい『目先の必要』に気を取られて神に求める。悪いことではないが、神はそのような祈りに答えることを通して「もっと優れたものがあること」を知らせたいと願っておられる。そして私たちがその『真に優れたもの』に思いを馳せることができるようにと、「実物教材」として、この世の様々な事象をお用いになる。   ・このことを知っていたパウロは、エペソの教会のために祈った。[エペソ1:18-19] 私たちも、神がご自身の聖徒たちのために用意しておられるものにこそ思いを馳せながら、1日1日を進んで行こう! ✰今日のキーワード: 更に優れたもの ◎更に深い学びのために  ①2度も同じような「パンを増やす奇跡」を行われた主イエスの心の内にあったであろう思いを想像してみましょう。  ②イエスが人々に与えたいと思っていたものは、どのようなものですか? 人々は何故それを求めないのでしょう?  ③神が私たちのために用意しておられる『更に優れたもの』に目を向けるため、あなたにできることは何ですか? Outline of the sermon      “Temporary vs Eternal”      (22/08/2021) [Mark 8:1~10] ◆God provides our “temporary needs”.   ・There might be some Read more…

(451) “叱責を大事にする者は賢くなる。”

 賛否両論あるかとは思いますが、東京オリンピックでの日本選手たちの活躍ぶりは素晴らしかったですね!メダルを取った人も、残念ながら取れなかった人も、私たちの代表として競ってくださり、本当にありがとうございました。  さて、どの種目においても『金メダル』を取れるのはたった1人ですが、私たちの人生の目標は必ずしも1等賞になることではありませんよね?私たちの子供たちがまだ幼かった頃、よく彼らに言い聞かせたことは、「『昨日の自分』よりも『今日の自分』、そして『今日の自分』よりも『明日の自分』が、何らかの形で1歩優れた者となれるように努力しようね」ということでした。「成長できない人」は、『死人』だけです。生きている限り私たちは『成長』することができます。  ところで、私たちが『成長』しようとする時に経験する共通の『障害物』があります。それは、私たちの中にある「楽しくないことには敢えて挑戦しようとしない」という性質です。新しいことに挑戦したり、周囲が理解してくれないことをしようとする時、私たちはどうしてもためらってしまいます。ですからどうしても「今までやってきた慣れていることを、今までやっていた方法で、今までやっていた場所で、今までやっていた人たちと一緒に、今までやっていた通りに行うこと」に甘んじてしまうのです。しかしそれでは『成長』は望めません。  最近、素敵な友情を描いたドラマをいくつか観ました。それらの友人関係に共通していたのは、お互いに「耳の痛い助言」を言い合いつつも、相手が悲痛な思いでいる時に、そっと傍で一緒に泣いてくれることでした。それはまさに『私たちの友』となってくださるイエス・キリストの姿です。彼は私たち1人1人が、与えられている潜在能力をフルに発揮できるようにと、時には厳しく、そして辛い時にはそっと傍らにいて支え励ましてくださるのです。この方と共に日々『成長』して行きましょう!

2021年8月15日 「メシヤ到来」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「メシヤ到来」(15/08/2021) [マルコ 7:31~37] ◆この箇所の特殊性   ・一見なんの変哲もない「イエスの癒しのみわざ」のストーリーだが、よく観察すると『深い意味』が読み取れる。   ・32節の「口のきけない人」という語は、ここの他には『イザヤ書35章』にだけ出てくるが、この章は「メシヤ到来による神の支配の回復」が預言的に描写されている箇所。今日の箇所にも『メシヤ到来』が暗示されている。 ◆メシヤ到来 [33~35節]   ・イエスはわざわざこの人を群衆の中から連れ出した。「深く息をして」のギリシャ語は、ローマ8章にも出て来る(「被造物のうめき」「御霊のうめき」など)。これは強い感情を表し、イエスの並々ならぬ意気込みを感じさせる。またイエスはアラム語で『エパタ』と言われた。他にイエスがアラム語を用いたのは、少女をよみがえらせた時。   ・次に『開け』は、単に「耳や口が開くように」というだけではなく「全人格的な解放」を命じている。それは35節で『舌のもつれ』に用いられているギリシャ語が「サタンによる束縛」を意味する語であることから分かる。   ・イエスのみわざは「ご自分がメシヤであることを証しする」ため。[ヨハネ10:24-26] しかしユダヤの指導者たちはそれを悟らなかった。イエスは今日も私たちをあらゆる「サタンの束縛」から解放する『真のメシヤ』である! ✰今日のキーワード:束縛からの解放 ◎更に深い学びのために  ①他の癒しのわざを描いた箇所とこの箇所ではどう違いますか? またそれはどのようなことから分かりますか?  ②イエスが『真のメシヤ』であることはどうして分かりますか? ユダヤ人たちには何故分からなかったのでしょう?  ③イエスは今日も「束縛からの解放のわざ」を行われます。あなたはどのような『束縛』から解放されたいですか? Outline of the sermon     “Messiah is revealed!”     (15/08/2021) [Mark 7:31~37]  *This story looks like common as the work of Jesus.  Read more…