2021年3月28日 「神の主権と人の役割」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「神の主権と人の役割」(28/03/2021) [マルコ 4:26~29] ◆「神の国」の原則   ・『神の国』とは「神の主権が及んでいるところ」。イエスを救い主と信じていても、相変わらず『自分自身』を「自分の人生の主権者」として生きているなら、実質上その人の許にはまだ『神の国』は来ていない。   ・このたとえ話は「神の主権の下に生きる人」に起こることを表している。私たちは自分の『一生懸命さ』によって神の働きに貢献することはできない。私たちはただ「種を蒔き、時が来たら収穫する」。ではその間はどうしていれば良いのだろうか?ただ手をこまねいて、指をくわえて待っているしかないのか? ◆『祈り』の役割   ・イエスが教えた『祈り』の中で、「御国が来ますように」という1節がある。これこそ、私たちが福音の種を蒔いた後、刈り取りを待ちながらしているべきこと。 ⇒ 「私が種を蒔いたあの人の上に『御国』がきますように!」   ・『祈り』とは本来、「神をこき使うため」にあるのではなく、「自らを神の主権の前にへりくださせるため」にある。私たちは『祈り』を通して、この「神の主権」というものをしっかりと知らされるべき。 (福音の)種を蒔こう!目を覚まして祈ろう!そして時を見極めて刈り取ろう! ✰今日のキーワード:分をわきまえる ◎更に深い学びのために  ①『神の国』とはどのようなものですか? 「神の国のみわざ」のために私たちはどんな貢献ができるでしょう?  ②『祈り』とはどんなものですか? なぜ主イエスは私たちに「御国が来ますように」と祈るよう命じたのでしょう?  ③あなたは「神の国の中」に生きていますか? だとしたら、神が今のあなたに望んでおられることは何でしょう? Outline of the sermon   “Sovereignty of God and our role.”  (28/03/2021) [Mark 4:26~29] ◆The principle Read more…

(431) “わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。”

キリスト教で最も大切な教えは、「愛すること」であると言われます。『愛』という言葉は現代であればどこでも用いられていますが、ほとんどの場合それは「男女の恋愛感情」を表現するものではないでしょうか。もし『愛』という言葉の真意がそのような「感傷的」なものであれば、キリストは『戒め』として「愛すること」を人々に命じたりはしないはずです。「愛すること」が命じられなければならないのは、それが「自然な感情として内側に湧き起ってくるもの」ではなく、「敢えて自らの意志で選び取って行かなければならないもの」だからに違いありません。 イエスは次のようにも人々に勧めました。「あなたの敵を愛し、あなたを憎む者たちに善を行いなさい」と。ここで気を付けなければならないのは、神は私たちに「無理な要求をしている」のではなく、「日々神の助けを受け取りながら生きること」を求めておられるのです。「敵を愛すること」も、「他の誰かを真実な愛(キリストが私たちを愛されたような愛)で愛すること」も、私たちが自然にできることではないのです。 多くの国々や文化(日本も含む)において「親同士が決めた結婚」というものがあります。時には「結婚式当日まで、新郎と新婦が1度も会ったことがない」というケースもあるわけです。一体そんな風に結婚して、夫婦として長続きするのでしょうか?ところが統計によると、このような形態の結婚の方が、いわゆる『恋愛結婚』で結ばれるよりも何倍も「破局に陥る可能性が低い」のです。それは何故でしょう? インドのある部族の若い女性が、全く会ったことのない男性と結婚することになったそうです。ある日結婚相手の男性から「結婚式の前にぜひ1度お会いしませんか?」という手紙が届きました。しかし彼女はその申し出を断って、次のような返事を書きました。「私は、『真の愛』というものは、結婚前に形作られるものではなく、結婚した後に育てて行くものだと信じています。私たち人間が生まれる時、私たちは父や母、そして兄弟たちを前もって選ぶことはありません。でも生まれた後で、共に暮らしていく中で『家族愛』を育んで行くではないですか。私は『夫婦愛』もそういうものだと思います。」 前にも書いたように、神は私たちに無理強いをなさっておられるわけではありません。人間は本来「愛し合う存在」として造られたのです。それなのに、私たちが神を離れ、神を忘れ、自分の心の赴くままに自分勝手に生きるようになってしまったがために、『愛すること』さえも「自分の欲求を満足させるための口実」へとおとしめてしまったのです。キリストはこの『愛する』ということを、本来の高潔さへと引き上げるために、世に来てくださったのです。

2021年3月21日 「正しい秤で量る」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「正しい秤で量る」(21/03/2021) [マルコ 4:24~25] ◆『秤』とは?   ・「聞いていること」(24節)とは、『神のことば』。みことばは、「神の国の価値観(神の心)」に基づいている。これを『真理の光』に照らしながらではなく、「この世の価値観」で理解しようとすると、そのエッセンスを受け取れない。   ・『秤』とは? ⇒ 物事を判断する基準。この「秤」がどれだけ「真理の光」に照らされているか、が問われる。 ◆正しい秤を持つ   ・「持っている人」とは? ⇒ 「真理の光に照らされた秤」を持っている人。神のことばを正しく素直な心で聞き、「この世の常識に従って自分の利益のために当てはめようとする心の態度」に対して『No』と言い、敢えて「神に喜ばれること」「人々のために真に益となること」に心を向けて、信仰によってみことばを実践して行こうとする時に、私たちの地上での歩みは「神の国の実」を結ぶようになる。   ・逆に、「この世の価値観」にこだわり、『真理の光』からズレた歩みを続けていると、「神の心」から遠ざかり、せっかく約束されている『神の国の豊かさを味わいながら生きる人生』を地上で体験できない。神は私たちが「救われる」だけでなく、「神の国の豊かさをもって生きる(『真理』を味わう)」ことをも望んでおられる。[Ⅰテモテ2:4] ✰今日のキーワード:正しい『秤』 ◎更に深い学びのために  ①「聞いていることに注意する」とは、「何を」「どんな態度で」聞くことを指しているのでしょう?  ②私たちが持っている『秤』とは、どんなものですか? それをどのように使うことが求められているのでしょう?  ③[25節]のことばは一見「不公平」なように聞こえますが、何故これが『神の国の原則』なのだと思いますか? Outline of the sermon      “Use the right measure.”     (21/03/2021) [Marki 4:24~25] ◆What is “the measure”?  ・“Words Read more…

(430) “神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。”

クリスチャンたちはよく、「キリスト教は『宗教』ではありません」という言い方をします。では一体『キリスト教』と「一般の宗教」とは、どこがどう違うのでしょうか? 1つの分かり易い説明は、一般の宗教では「善い行いが『救いの条件』である」のに対し、キリスト教では「善い行いが『救いの結果』である」ということです。キリスト教が教える『救い』は神の愛の故に全く無条件に与えられるのです。何故なら「救いの条件」は神の許から遣わされた御子イエス・キリストが私たちの代わりに全て成就してくださったからです。ですから、ただ「イエス・キリストが私の代わりに救いの条件を満たしてくださった」ということを受け入れるだけで、私たちは救われるのです。 ここで1つの疑問が生まれます。「もし『救いのための条件』を、キリストが既に身代わりに全て満たしてくださったのであれば、もはや私たちはどんないい加減な生き方をしても良いではないか!」ということにならないのだろうか?ということです。理屈としては確かにそうなのですが、結論から言えば、答えは『ノー』なのです。それは何故でしょうか? これはキリストを信じてクリスチャンとなった方々であれば誰しもが経験していることなのですが、「イエス・キリストによる救い」を受け取ると、私たちの内側に変化が起こり始めるのです。言ってみれば「神様が私たちの心にアクセスできるようになる」とでも言いましょうか。これは決して「神様がクリスチャンたちの心を意のままに操れるようになる」ということではありません。キリストを受け入れた後でも相変わらず私たちは自分たちの自由意思によって物事を決断し、行動を起こすわけですが、その心の内側に「神様に喜ばれる者でありたい」という願いが起こされるようになり、またそれが次第に強くなっていくのです。 キリスト教は、『宗教』ではなく、『関係』です。私たちを形造り、私たちをこよなく愛し、常に私たちの最善を望んでくださっている「唯一まことの神」との関係に生きる事なのです。

2021年3月14日 「真理の光」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「真理の光」 (14/03/2021) [マルコ 4:21~23] ◆『明かり』とは?   ・「明かりを持って来る」のは誰か? ― 『世の光』であるキリスト。では『明かり』とは? ⇒ はっきり見えていないものを照らして悟らせるもの = 「神の国の真理」+「真理であるキリスト」。   ・まずこの『真理』を受け取り、その『真理の光』によって物事を見る時に、新しい世界が見えてくる。 ◆『神の国の真理』   ①天地を造られた唯一まことの神がおられ、私たちを愛しておられる。   ②人は自分勝手な「罪の心」の故に、この神が分からず、その愛も体験できない。   ③キリストは、神と私たちを結ぶ道として来られ、私たちが悔い改めて神の許に立ち返ることを求めておられる。   ④私たちが神との個人的な愛の関係に結ばれる時、自分が何者であり、世がどのような場所であり、また神が 私たち1人1人を通して、どのように『キリストの光』を輝かせようとしておられるのかが見えてくる。   ・「人生の意味が分からない」、「自分の目標が定まらない」のは、この『光』が何か別のものでさえぎられているから。その「さえぎるもの」を見つけ、取り除いて行く。(「自分の力」によってではなく、『神の恵み』によって) ✰今日のキーワード:『光』を輝かせる ◎更に深い学びのために  ①このたとえで言われている『明かり』とは何でしょう? また「燭台の上に置く」とは、どんな意味でしょう?  ②私たち1人1人に与えられている『明かり』は、どんなことによってさえぎられてしまうことがあると思いますか?  ③私たちの人生の中で「真理を知ること」によって明らかにされるものには、どんなものがあると思いますか? Outline of the sermon      “The light of the truth.”     (14/03/2021) [Mark 4:21~23] Read more…

(429) “神は人に仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」”

神は全宇宙をお造りになり、また私たち人間を「ご自身のかたちとして」お造りになりました。ということはつまり、私たちには生まれつき『創造的思考』が備えられているわけです。神はご自身の「天地創造のみわざ」を6日間で完成され、あとのことは私たち人間にお任せになられました。いわば神はこう言っておられるのです。「子よ。私はあなたがこの地上で豊かな人生を送り、またこの世をすべての良きもので満たすために必要なものすべてを、あなたのために備えておいた。私が完成したすべてのものを正しく有効に用いて、あなたに与えた『わたしの似姿(創造性)』を大いに発揮するがよい!」 神は羊や綿花をお造りになりました。人はそれらを用いて羊毛や木綿を作り出し、素敵なファッションを創造しました。神は牛やヤギをお造りになりました。人はそれらの乳を用いてチーズや石鹸などを作り出しました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」とは、単に「たくさん子供を産んで増え広がりなさい」という意味だけではなく、「神が備えてくださっているものをフル活用して、初めからあった状態よりも拡大・向上させなさい」という指示が含まれているのです。そして、それを実践するためにはどうしても、神から与えられている『創造性』を発揮させなければならないです。 アインシュタインは「創作力は知識に優る」と言いました。人間は「知識を溜め込む」以上の存在です。獲得した知識を使って周囲の世界を、自分が生まれた時以上に『より良いもの』とすることができる存在として、私たちは生まれてきたのです。あなたが何者であろうと、どこに住んでいようと、何をしていようと、神はあなたが与えられている『創造性』を駆使して神の栄光を現し、また人々を祝福する者であって欲しいと願っておられるのです。

2021年3月7日 「たとえの目的」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「たとえの目的」(07/03/2021) [マルコ 4:1~20] ◆『たとえ』で話す理由   ・イエスの周りには様々な思惑をもって集まった群衆がいた。純粋に「神の国の真理を求める者」だけではなく、食べ物のおこぼれに預かろうとする者、隙を見てイエスを陥れようとする者もいた。そのような中でイエスは「本気で聞こうとしている者」だけが『神の国の真理』に至ることができるようにと、敢えて『たとえ』を用いた。   ・イエスの近くにいた人たちだけが『解き明かし』を聞くことができた。これは「えこひいき」なわけではなく、いわば「教会に来ている人たちだけが、みことばの解き明かしを聞く機会がある」というのと同じ。神が人を選り好みしているわけではなく、人々の側が「神に対する誤った態度」の故に機会を逸している。[ヤコブ4:8] ◆自分はどんな『土地』か?   ・このたとえ話には『種』と「4種類の土地」が出てくる。『種』は「みことば」、つまり『種』は完全に良いものである。しかし『土地』、すなわち「みことばを聞く私たちの態度」によって差が生じる。この後更に3つの『たとえ』が続く。その導入としてイエスはこの「種蒔きのたとえ」を語ることで、私たちに「自分はどんな土地か」を吟味させようとしたに違いない。神はいつでも『良い種』を蒔いてくださっている。『良い土地』になり、『良い実』を結んで行こう! ✰今日のキーワード:聞く耳 ◎更に深い学びのために  ①イエスは何故『たとえ』を用いたのでしょう? また『たとえ』はあなたの「聞く態度」にどんな影響を与えますか?  ②教会に来て「みことばの解き明かし」や「バイブルスタディ」に参加することは、どんな益をもたらしますか?  ③これらの『4種類の土地』について考えてみましょう。どのようにして『良い地』に変えられて行けるでしょう? Outline of the sermon      “Why parables?”     (07/03/2021) [Mark 4:1~20] ◆How do “parables” work?   ・Jesus was always surrounded by lots of variety Read more…

(428) “それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

『不動の信念』を持つことは多くの場合困難を乗り越える力となりますが、ある程度どちらでも良いことに関して融通を利かせられない『頑固さ』はしばしば人間関係を壊す原因となります。 どんな人でも、物事をつい「主観的に」見てしまうものです。ですから誰かから「キミ、それはちょっとおかしいんじゃない?」と指摘されると、「そんなことはない!そんな風に考えるそっちこそおかしい!」とガードを固くしてしまう傾向があります。でも、何も「いつも自分が正しくなければならない」わけではありません。大切なことは「自分がいつも正しいこと」ではなく、「自分が間違っていた時にそれを素直に認める謙遜な態度と、相手が間違っていた時にそれを責めることなく受け入れ、一緒に正しい道へ進んで行こうとする寛大な心」を身に着けて行くことです。 私たちは皆いくつになっても『発展途上』です。ならばいつでも「変化と向上」に対してオープンでいなければなりません。人は1人で生きて行くことはできません。より多くの人たちと「共に」生きて行くためには、より大きな「考え方の違い」を受け入れ合っていく必要があります。人の成長とは、「自分ひとりで何でもできるようになって行くこと」ではなく、「より多くの『タイプの違った人々』と一緒に歩んで行くことができるようになること」なのです。

2021年2月28日 「神の家族」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「神の家族」 (28/02/2021) [マルコ 3:31~35] ◆『肉の家族』と『神の家族』   ・この箇所は決して血縁関係を否定しているわけではない。肉の家族関係の中にももちろん神の摂理がある。しかし肉によって生まれる以前に、私たちは既に「神によって造られた存在」。そしてキリストを通して「新しく生まれた者」は、肉の家族を超えた「神によって生み出された家族」である。[ヨハネ1:12-13]   ・イエスは肉においては「ヨセフとマリアの子」として生まれたが、『神の子』としての自覚を持ってからは天涯孤独だった。そんなイエスにとって、神を自分の父として慕うようになった私たちは「心を許せる家族」となった。 ◆キリストを通しての人々との関係   ・教会における人間関係は、単なる「共通の価値観を持つ人のサークル」ではない。「キリストを通して神の子とされた『神の家族』」である。それは「キリストの故に互いがかけがえのない存在」とされた、切っても切れない関係。そしてこのような関係は、1人1人の『キリストとの親しい交わり』なしには起こり得ない。「神の家族同士の親しさ」は、それぞれの「キリストとの個人的なつながりの深さ」を反映する。 ✰今日のキーワード:キリストにある『家族』 ◎更に深い学びのために  ①「『肉の家族』以上に『神の家族』の関係が深い」と感じた経験があれば分かち合いましょう。  ②「他のクリスチャンとの関係」が『自分とキリストとの関係』と深い関わりがあると感じるのは、どんな時ですか?  ③JCFが『神の家族』として更に成長して行くために、あなたにはどんなことができますか? Outline of the sermon      “God’s family.”     (28/02/2021) [Mark 3:31~35] ◆“Family of flesh” vs “Family of God”.   ・It is God who planned you Read more…

(427) “夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。”

誰でも痛いのは嫌いですよね?どこかをぶつけて泣いている子供に母親が「痛いの、痛いの、飛んでけ~!」とやっている光景を、誰でも見たことがあるのではないでしょうか? ところが実際には、人生において『痛み』というものは、私たちの回復や成長のために不可欠なものなのです。考えてみてください。もし体のどこかが怪我や病気で蝕まれていたとしても、『痛み』を感じることがなければ体の異常に気付くことはありません。またその『痛み』を無視して無理を続けたとしたら、命を縮める結果にもなり得るのです。『痛み』は私たちに問題を自覚させ、適切な対処へと導いてくれます。神はその『痛み』が私たちの人生に訪れることを許されたのですから、そこには必ず「特別な目的」があるはずなのです。 興味深いことに、『痛み』というものは「抵抗しようとすればするほど激しくなる」という特徴があります。妊婦さんのお産の時に助産婦さんがよくするアドバイスは、「もっと力を抜いて」「リラックスして」です。陣痛を意識しすぎて恐れたり抵抗したりすると、かえって実際よりも痛みを強く感じて逃げ腰になり、結局お産も長引いてしまうのです。 では、どうしたら良いのでしょう?人生に『痛み(困難)』が生じた時は、無理にそれに抵抗しようとするのではなく、「神はこの『痛み』を通して、きっと私の人生において良いものを生み出そうとしておられる」と信じて、心配することなく落ち着いて対処するのです。神様は必ずその『痛み』の向こう側に、私たちがそれまで体験したことのない喜びや満足感を用意してくださっていますから。