(422) “ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。”

2021年、明けましておめでとうございます。昨年は皆さんにとってどのような1年でしたでしょうか?多くの方々にとっては「コロナに翻弄された1年」といった感が強いのではないかと思います。今年中にはぜひワクチンが開発され、もう少し自由の利く暮らしができるようになると良いですね。 さて、「1年の計は元旦にあり」と言われます。確かに年の初めに何らかの計画を立てるのは良いことであると思いますが、その『計画』も、立て方によっては「希望を与えるもの」というよりは、「束縛感を与えるもの」ともなりかねません。何故なら、それらの目標が明確であればあるほど、『達成感』を与えてくれる可能性とともに、『挫折感』または『劣等感』にさいなまれる原因となることもあるからです。『元旦』と言えども、所詮は単に「12月31日の翌日」であるわけで、むしろ「1日1日を精一杯生きること」を重ねて行くうちに、結果として365日後に何かが達成できているものではないでしょうか? 先日『多発性硬化症』を患っている知り合いにお会いした時、「昨年はあなたにとってどのような年でしたか?」とお尋ねしたところ、「いやぁ、しんどい1年でしたね」との返事。そこで「その『しんどい1年』を、一体どうやって乗り越えてきたのですか?」と重ねてお訊きしたところ、次のように答えておられました。「ともかく、1日1日を神様に頼りながら、『どうか神様、今日1日を精一杯生き切ることができるだけの力をお与えください』と祈りつつ、何とか乗り越えることができました。」 私たちは誰も「明日の事さえも分からない、弱くて限りある者」です。1年後のことを考えながら生きているなんて、もしかしたら傲慢な生き方なのかもしれません。また、自分の年間目標に固執するがあまり、今目の前にいる「助けを必要としている人」を見逃してしまうかもしれません。ならばむしろ、「『今日1日を精一杯生きる』ということを積み重ねていく」というような目標をもって2021年を歩き始めてみてはいかがでしょうか?

2021年1月3日 「脱・律法主義」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「脱・律法主義」 (03/01/2021) ◆人は何故律法主義に陥りやすいのか?  ・「今年の目標」なるものを立てるのは良いが、それに縛られて自分自身を追い込み、達成して優越感に浸ったり挫折して落ち込んだりする。それが本当に神の望んでおられる生き方なのだろうか?  ・主イエスは、しばしば律法学者たちの「形式的な信仰」を痛烈に批判した。[マタイ23:25~26] それは人間的な力で自分を向上させようとし、「内なる神の働き」をないがしろにしていたから。  ・私たちも『律法主義』に陥ると「御霊による喜び」が失われ、伝道も実を結ばない。人々は『本物』を求めている。 ◆イエスと私たちの何が違うのか?  ・「正真正銘の『本物』」は、主イエスただ1人。私たちと主イエスとの違いは「神との関係の深さ」にある。    イエスは「天の父が良いお方であること」をよく知っており、他の何よりも「御父との親密な関係」をいつも求め、そしてその『御父との交わりの中に生きる喜び』を私たちにも体験させるために、十字架への道を忍ばれた。  ・「天国の素晴らしさ」は、「妨げられることなく、いつもこの『御父&御子との親しい交わり』の中に浸れること」。 今年のJCF年間聖句: [詩篇34:8] ✰今日のキーワード: 神様に魅了される ◎学びを深めるための質問  ①自分のことを「ダメなクリスチャン」だと感じることはありますか? それはどんな時ですか?  ②あなたにとって『天国』とはどんな場所ですか? どんな点で『天国』へ行くことが楽しみですか?  ③「神が良いお方であること『味わう』」ために、神があなたにどんなことを望んでいるのか、祈り求めてみましょう。 Outline of the sermon    “Get out of ‘Legalism’.”   (03/01/2021) ◆Why do we tend to be “legalistic”?  ・There is Read more…

(421) “東方の博士たちは、その星を見て家に入り、母マリアとともにいる幼子を見つけ、ひれ伏して礼拝した。”

先週は『クリスマス』でしたので、今回はクリスマスについて書きますね。 その夜、その幼子は最もみすぼらしい環境の中で生まれました。しかし天においては天使たちの間で歌声が響き渡りました。幼子が生まれたのは家畜小屋でしたが、ひと際明るく輝く星が、遠い国から賢者たちを導き、礼拝がささげられました。この幼子の出生は『普通』とはかけ離れており(処女降誕)、また彼の『死』も大変特殊でした(十字架での磔)。彼の『死』は当時の罪人の扱いとしては最悪のものでしたが、神の目から見るならそれは「全人類の罪のための贖いを達成するため」の『この上ない代価』でした。彼を十字架にかけた人々は、その恐ろしさに震えることもありませんでしたが、大地は彼らの足元で震えわななきました。 イエス・キリストは、その生涯のたった3年半の間人々を教え歩いただけで、1冊の本も書き著さず、何の組織も本部も形成することはありませんでした。しかしその生涯から2千年経った今、人類の歴史の中で「最も影響を与えた存在」として認められ、「人生教訓の尽きることのない源」とみなされ、「人々の救いのかなめ」として敬われています。 『クリスマス』と「プレゼント」とが切り離せないものと思われている現代、ぜひ覚えてください。『クリスマス』とは、神が人類に「唯一無二のプレゼント」であるひとり子イエス・キリストを『救い主』として与えてくださったことを記念する日であるということを!

2020年12月27日 「脱・習慣的信仰生活」

説教をYouTubeで観る 説教あらすじ 「脱・習慣的信仰生活」(27/12/2020) [マルコの福音書 2章18~22節] ◆何のための『断食』か? [18~20節]  ・ヨハネの弟子たちは「師であるヨハネの死」を悼んで断食をしていたが、パリサイ人たちは「宗教的習慣」として週に2度断食していた。新約聖書では『断食』はいつも「主への祈りや礼拝」と結び付けて行われている。「宗教的習慣」として特定の形で行うものではなく、個人個人の「神との関係」において、「時・理由・方法」を選んで行う。  ・イエスはご自分を『花婿』と表現し、のちに来る「ご自身と教会(人々)との新しい関係」に関して暗示している。 ◆新時代の到来 [21~22節]  ・「新しいもの」と「古いもの」とを一緒に用いることはできない。古い「宗教的習慣」に捕らわれていると、イエスによってもたらされる「ただ1度のいけにえによる完全な罪の赦し」を理解することはできない。  ・今の時代に生きる私たちも、「個人的なイエスとの明確な出会い」を体験したなら、必ず生き方が変わるはず。 *『新しい年』が来ようとしている。「形式的・習慣的にイエスに仕える」のではなく、 1人1人がそれぞれの「創造的・ユニークな形」で、主イエスに仕えよう! ✰今日のキーワード: 新しい皮袋 ◎学びを深めるための質問  ①断食をしたことがありますか? どういう理由・方法でしたか? 断食を通して新しく学んだことは何ですか?  ②あなたが主イエスと出会ってから、「新しくされた」と実感できることは、どんなことですか?  ③2021年を迎えるに当たって、神様から受けているチャレンジがありますか? もし無いなら、求めてみましょう。 Outline of the sermon    “Get out of ‘customary Christianity’.”   (27/12/2020) ◎[Gospel of Mark 2:18~22] ◆What is “fasting” Read more…

(420) “あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。”

単に「心配すること」は全く状況を好転させません。『心配』したからといって、借金は返済できないし、問題は解決しないし、よく眠れるようになるわけでもありません。当然のことながら、上記の聖書のことばのように、「心配すること」は私たちの寿命を延ばしてくれるわけではなく、かえって寿命を縮めることになりかねません。 聖書には次のようなことばもあります。「主に信頼する人々は、揺るぐことなく、とこしえにながらえる。」 「神はご自身に信頼する者を全き平安のうちに守られます。」 これら2つのことばの両方に共通していることばは『神への信頼』です。『心配』とは、単に「神への信頼不足」の表れなのです。では「心配する人々」は一体誰に信頼しているのでしょう?それは『自分自身』です! 神の目から見るならば、「心配している私たち」はあたかも「親の存在をすっかり忘れて迷子になっている幼子」のようです。私たちは青年期の頃から徐々に「自分は大人だ。自分は1人でも生きて行ける!」と思い込み始め(ある意味では正しいのですが…)、すべてのことを『自分の力』で解決しようとやっきになります。しかし実際は「本当の大人」は、必要な助けを適切な時に適切な人から適切な方法で受け取ることのできる人です。 神は初めに人類を創造された時から、私たちが1人で生きるようには(特に「神なし」に生きるようには)お造りになりませんでした。人は神を見失ったとたんに「心配や不安」に襲われるのです。人生の拠り所を『自分自身』から『創造主であり、全人類の父である神』へと移す時、変わることのない「神の平安」が私たちの心を満たすようになるのです。

(419) “わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。”

聖書は、「神はご自分のかたちに人をお造りになった」と教えています。「神のかたちに」とはもちろん、神は私たちのように目や鼻や口があるという意味ではなく、「創造主なる神に似て、『創造的な思考を持つ存在』として造られた」ということを表しています。本来私たち人間は「ただ与えられたものを消費して生きるだけ」のような『受身的な存在』なのではなく、1人1人がそれぞれの創造性を用いて「自分だけのオリジナル」を生み出すことのできる『他者への影響力を持った存在』なのです。そのことをすっかり忘れて、ただ「流されるだけ」の生き方をしているなら、その人は生物学的には生きていても、その実死んでしまっているのです。 イエス・キリストは、ご自分と私たち1人1人の関係を「ぶどうの木とその枝」にたとえて、「枝が幹から離れては実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしを離れては何も生み出すことができない」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストを通して『創造主なる神』からのいのちの栄養をいただいてこそ、真の意味で『生きる』ことができ、また「実を結ぶ」ことができるのです。ご存知のように、どんな木の実も『幹』からなるのではなく、1つ1つの『枝』に実るのです。もし私たちがこの『創造主なる神』にしっかりとつながって生きるなら、神は私たち1人1人を通して「自分だけのオリジナル」を生み出させ、周囲に良い影響を与え合いながら互いに向上していくことができるのです。

2020年12月13日 「イエスが来たのは…」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「イエスが来たのは…」(13/12/2020) [マルコの福音書 2章13~17節] ◆登場人物紹介 [14~16節]  ・「アルパヨの子・レビ」:『マタイ』?『ヤコブ』?   ・「取税人や罪人たち」:人々の間でさげすまれていた。  ・「パリサイ人」:『パリサイ』はヘブル語で「分離する」。律法に従わない人々(異邦人や罪人たち)からの分離。   *イエスは罪人たちと「共に食事を」していた。神のみこころは『分離』ではなく、『共にいる(インマヌエル)』こと。 ◆わたしが来たのは… [17節]  ・「医者を必要とするのは…」は、当時のことわざ。「わたしが来たのは…」が示しているのは、    『正しい人』:自分を「正しい」とするパリサイ人たちを指す。    『罪人』:パリサイ人たちが言うところの「罪人」だけではなく、パリサイ人たち本人をも指している。  ・イエスは『罪の赦し』のために来た。(「奇跡を行うため」ではない!) たとえ今の状態が「きよく」なくても、神に渇き神を求めてイエスの許に来る者は、この『罪の赦し』を受けるにふさわしい。[使徒10:15]  ・そして実は私たちも、イエスによって「罪人の許」に遣わされている![ヨハネ20:21~23] ✰今日のキーワード: 罪人を招くために ◎学びを深めるための質問  ①パリサイ人たちとイエスとでは、どんなところが違いますか?どうしてそのような違いが生じるのでしょう?  ②あなたはパリサイ人とイエスとのどちらに似ていますか? また、どうしてそう思うのですか?  ③あなたはイエスによって誰の許へ遣わされていると思いますか? その「イエスの召し」にどう答えますか? Outline of the sermon    “Jesus came to call who?”   (13/12/2020) ◎[Gospel of Mark 2:13~17] ◆Those who Read more…

(418) “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。”

 私たちには「過去を変えること」はできません。神はもちろんそのことをよぉく知っています。ですから神は決して私たちが既に犯してしまった過ちを責め立てることはしません。「お前が今人生に苦労しているのは、お前の先祖の罪の呪いだ」とか、「神は以前のお前のだらしない生き方を覚えているから、もはやお前の未来を祝福することはできない」などという言葉や考えは、『決して』神から出ているのではなく、むしろ私たちと神との関係を壊そうとする悪魔からやって来るのです。  聖書は「イエス・キリストは悪魔のわざを打ち破るためにこの世に来た」と教えています。悪魔が私たちを責め立てる、いくら後悔しても決して取り戻すことのできない過去の失敗から私たちを切り離し、「神によって新しく生まれた者」として、ただ前だけを向いて生きるように思いを新しくしてくださるのです。ですから、私たちが「希望を抱いて」日々を生きることができるかどうかは、私たちの才能や成績によるのではなく、「誰のことばに(心の)耳を傾けて生きるか」によっているのです。あなたは『悪魔のささやき』に耳を傾けますか?それとも聖書が証しする『神のことば』に耳を傾け、そのことばを頼りに人生を建て上げていきますか?

2020年12月6日 「なりふり構わぬ信仰」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「なりふり構わぬ信仰」(06/12/2020) [マルコの福音書 2章1~12節] ― 「罪の赦し」と「病の癒し」  ・[1~4節]「背景」:この『家』は恐らく「シモンとアンデレの家」。当時のパレスチナの家は通常ひと間で、屋根は毎年張り替える簡易な造り。そのため屋根に上がる階段もある。  ・[5節]イエスは「彼らの信仰を見た」。「神に向かって行こうとする、行いを伴った信仰」は『罪の赦し』に値する。  ・[6~8節]一方、律法学者たちは、罪の赦しを宣言するイエスの言動を「神への冒瀆」と考えた。イエスのなさる「奇跡的なみわざ」や「心の中を読む取る力」がイエスが神から遣わされていることを示していたのに、彼らは「自分たちの神学(思い込み)」に支配されていた。  ・[9~11節]イエスの目的は『罪の赦し』であり、病の癒しは単にそれに伴うしるしでしかなかったが、ご自身に『神の権威』が与えられていることを頭の硬い律法学者たちにも分からせるために『癒し』も行った。  ・[12節]群衆は「イエスをあがめた」のではなく、「神をあがめた」。彼らは「力あるわざ」の真意を理解していた。  ・[へブル11:6] 「神を求め、神に近づく」 これこそ『悔い改め』。神はこのような人々に心を惹かれ、彼らの罪を赦し、その信仰に喜んで報いてくださる。 ✰今日のキーワード: 神は『信仰』を見る ◎学びを深めるための質問  ①イエスはどんなことから「彼らの信仰を見た」のでしょう? また、どうして『罪の赦し』を宣言したのでしょう?  ②群衆に見えて、律法学者たちには見えなかったものは何ですか? どうしてそのようなことが起こるのでしょう?  ③神はあなたのどのような『信仰』をご覧になっていると思いますか? また、どうしてそう思うのですか? Outline of the sermon    “Faith without regard for appearances.”   (06/12/2020) ◎[Gospel of Mark 2:1~12] ― “Forgiveness of sins” and Read more…