(175) “私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。”

私たちが神に何かを祈る時、「災いを与えてください」とは祈りませんよね?普通は「私を祝福してください」と祈るはずです。そこまでは良いのですが、私たちは自分のための祝福や成功を祈りはしますが、「環境が変わること」や「新しいことに挑戦すること」は好みません。『現状維持』が好きなのです。 神は私たち人間を愛しておられます。そしていつでも私たちを祝福したいと願っておられます。神は私たち1人1人を通してご自身の『栄光』(神の優れたご性質)を表現したいと望んでおられるのです。それによって全世界が神の偉大さを知るようになるためです。ですから私たちが「大いに祝福されること」が神のみこころなのですが、それを手にする人々は多くありません。何故でしょうか?それは、神がご自身の『大きな祝福』を携えて「この祝福を受け取るために今抱えているちっぽけなものを手放す勇気のある者はいないか?」と探し回る時、その『今抱えているちっぽけなもの』を捨てて大胆に神に向かって名乗りをあげる者があまりいないからです。 聖書に「信仰がなければ神に喜ばれることはできない」と書いてあります。『信仰』とは、まだ見ていないものを深く確信して大胆に行動を起こすことです。私たちはあまりにも『目に見えるもの』に捕らわれすぎてしまって、神が与えようとしている「私たちの思いを超えた祝福」を信じられないでいるのです。ですから私たちはこう祈るべきです。「神様、あなたが私のために用意してくださっている『大いなる祝福』を受け取ることができるように、私に信仰によって新しい1歩を大胆に踏み出させてください!」

(174) “愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し…”

どんなに親しい間柄にも『意見の食い違い』はつきものです。本当の意味での『豊かな人間関係』というものは、「自分の本心を隠して相手に合わせること」ではなく、むしろ「相手を恐れずに自分の本心を正直に打ち明けること」から始まります。ここで非常に大切になるのが「『意見の不一致』や『口論』を正しく解決することのできる能力」です。 ちょっとした口論が原因で夫婦関係や親子関係、そして親しい友人関係に亀裂が入ってしまうことがよくあります。どうしてなのでしょう?それは「口論のフォーカスを『元々の原因』から『相手の人格』へと移してしまうこと」に大きな原因があります。例えばよくあるパターンは「全くアナタはいつもそうなんだから!」とか「お前のそんなところは、お前のお袋にそっくりだ!」などという捨てゼリフで口論を終わらせようとすることです。そうではなく、むしろ「夕食に遅くなる時は、ちゃんと連絡して欲しいわ。せっかく出来たてのお食事を食べさせてあげたかったのに…」、または「昨夜のパーティの時、皆の前でキミに言われたことに、ボクはとても傷ついたよ」というように、問題の焦点をはっきりさせた発言をするのです。どちらの場合も双方に『怒り』『悔しさ』『驚き』などがあることに変わりはありませんが、少なくとも言われた方は「何をどう反省し、どのように自分の行動を変えたらよいのか」が分かるので、関係を成長させるきっかけがずっとつかみやすいのです。 大切なことは「口論に勝利すること」ではありません。「不一致の原因を突き止め、それを共に克服し、お互いの関係を成長させること」です。そして相手をおもいやる『愛の心』をもって、あなたの怒りの原因を正確に伝えるならば、あなたの言葉は相手にとってずっと受け入れやすいものとなるのです。

2015年7月12日 「神の豊かさを体験する」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「神の豊かさを体験する」     (12/07/2015) [エペソ3:16-21] ◆『神の満ち満ちた豊かさ』を体験するために ①「人の思い」に捕らわれない [20節] ・私たちが人生で価値あるものと思っているものは… 「自信」「財産」「技能」 etc ②この豊かさは「キリストのうち」にある [コロサイ2:9-10] ・神はイエスによってご自身を明らかにされた。御子が与えられた時に、すべてが与えられた。[ローマ8:32] ③『恵みの世界』に生きる [ヨハネ1:16] ― 恐ろしく、素晴らしい ・神の豊かさから受けるために、私たちにできることは何もない。 「信じること」と「求めること」だけ。 ・すべて「ただで」受けられる。 ➝ 「ただで」分け与えることを期待されている。[マタイ10:8] ④神の目的に従って [20~21節] ― 教会(私たち)とキリストとが並び称されている! ・私たちは『神の栄光(臨在)』を現すために造られ、選ばれ、また神の豊かさを受けている。 ・『神の栄光(臨在)』は「キリストのからだである私たち1人1人」が神の主権を認め歓迎するところに現され る。自分たちの評判や益を求めるところには、神の臨在は伴わない。[イザヤ42:8]   Outline of the sermon   “Experiencing ‘the fullness of God’.”   (12/07/2015) ◆To Read more…

(173) “私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。”

『信仰』というと、何だか分かるような分かんないような、あやふやなものといった印象があるかもしれませんね。1つの解りやすいたとえは、「盲導犬に信頼する盲人の感覚」でしょうか? なぜ盲人は盲導犬に信頼するのでしょう?それは盲導犬は盲人には見えないものが見えるからです。そして盲導犬は「いつ・どこで止まり、どちらへ向きを変え、どのタイミングでまた歩き出すのか」を、ハーネスを通して盲人に伝え、盲人はそれを注意深く受け取り、それに全幅の信頼を寄せて行動するのです。これが、もし「おかしいな。いつもはこの角でこんなに長く止まっていることはないのに…。これはきっと犬が何か勘違いしているか、または私に意地悪しているに違いない。こんな奴に従ってまごまごしているわけにはいかない。自分の感覚に頼って、もう行ってしまおう!」などと、盲導犬に逆らって進もうものなら、たちまち私たちの人生は危険にさらされてしまいます。 私たちが神に信頼して歩む人生もこれによく似ています。私たちには1秒先のことも解りません。そういう意味ではまさに『人生に関する盲人』のようなものです。それなのに私たちは無謀にも先を急ぎたがります。「なぜこのタイミングでこんなに長く待たなければならないのだろう?もっと早く進んでいきたいのに…」とじれったく思うこともあるでしょう。しかしそれは、今急いで先に進むと、何か危険が潜んでいるからに違いないのです。 神は時空を超えた方です。また彼は私たちを深く愛し、慈しんでおられます。誰よりも私たちの最善を望み、そして導いてくださる方なのです。ですから、盲人が盲導犬に深く信頼して、その歩みを任せているように、「神は私よりも優れた方である。また彼は私を愛し、私のために最善の道を歩まそうとしておられる」そう信じて、自分の感覚よりも『神の導き』を敢えて選んで進むこと、これが聖書の教える『信仰』なのです。

2015年7月5日 「人知を越えたキリストの愛」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「人知を越えたキリストの愛」     (05/07/2015) ◆[エペソ3:16-21] ・神は豊かな方である。また、私たちをその思うところを越えて満たすことのできる方である。 だからこそ「神に対する自分かってなイメージ」は捨てるべき。 ◆愛に基礎を置いている私たち [17節] ・私たちは「自分の能力や信仰深さ」にではなく、キリストを通して現された『神の一方的な愛』に依存している。 ・私たちの信仰の大きさによって神の愛の大きさが変化するわけではない。しかし「私たちがどこまで神の愛の 大きさを知り、それに信頼するか」が、「神の愛をどこまで体験できるか」を左右する。 ◆人知を越えたキリストの愛 [18~19節] ①『広さ』(制限がない)-人種・階級・能力を問わない。敵さえも愛する。 ・完全に聖い神が、罪だらけの『人の世』に、人となって来られた。[Ⅱコリント5:21] この愛の届ぬ所はない。 ②『長さ』(終わりがない)-決してあきらめない。あきれない。待ち続ける。 ・あなたの生まれる前から、あなたのすべての裏切りを知りながらも。[エペソ1:4] ③『高さ』(私たちを取り囲む)[詩篇139:1-6] ・神の守りは完全。神の許しなしには何も起こらない。「God is in control.」 ④『深さ』(罪のどん底からも救い出す)[ヘブル4:15] ・イエスは「罪と関係ない方」だか、罪人の痛みを知っている。その傷ついた手を、傷ついた者へと伸ばす。 ・何故? ➝ 罪の痛みを知る者ほど、キリストの痛み(愛の深さ)を理解できるから。[ローマ5:20] ✯今週もこの『キリストの愛の中』を共に進んでいきましょう!   Outline of the sermon   “The love of Christ that surpasses Read more…

(172) “神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。”

日本の昔物語に『彦一ばなし』というものがありますが、その1つに彦一が『隠れ蓑』を着ていわゆる「透明人間」になっていたずら三昧をするくだりがあります。いくらいたずらをしても何しろ姿が見えないわけですから、被害者たちは「目に見える周囲の誰か」を疑って互いに疑心暗鬼になってしまうわけです。 実は私たちの周囲にも同様に「私たちの目には見えないところで悪さをしている存在」がいます。それが聖書の教えるところの『悪魔』です。悪魔は何も「角がはえている黒装束の魔物」というわけでも「驚異的な力をもって私たちに襲い掛かってくる怪物」でもありません。むしろもっと巧妙に「思いの中に働いて私たちをだまし、私たちの自尊心や人間関係を破壊」しながら、私たちの心が『真の神』から離れていくようにと仕組んでいるのです。 では、そのような悪魔の巧妙な働きに対抗する術があるのでしょうか?もちろん、あります!そしてそのためには下記の2つのプロセスが必要です。 1.悪魔の存在を認める。 あなたが「『悪魔』なんてそんな馬鹿げたものはいやしない!」と言っている間はあなたは見事に悪魔の術中にはまってしまっています。透明人間に対して私たちがなす術を持たないように、悪魔の存在を認めない限り、あなたは悪魔のしわざに対して勝ち目はありません。 2.「キリストを通して現された神の愛」を受け入れる。 私たちがキリストを自分の救い主として受け入れるならば、キリストは私たち1人1人の内に住んでくださいます。そして聖書は次のように断言しています。「私たちのうちにおられる方は、この世のあの物(悪魔のこと)よりも力がある!」 この世ではいわば「神様と悪魔の勢力争い」が繰り広げられています。神は悪魔よりも優っている方ですが、私たち人間を「思い通りに操ろう」とはなさいません。あなたが『神の勢力』に入れられ、悪魔に対する勝利の人生を送るためには、あなた自身の決断が必要なのです。

2015年6月28日 「『内なる人』を強くされる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「『内なる人』を強くされる」     (28/06/2015) [エペソ3:14-21] *この箇所から3回のシリーズで学ぶ ◆神から出た私たち [14~15節] ・神は私たちを『神のかたち』に創造し、「神の子(家族)」として「神との関係の中で」この地に満ちて行くことを望 まれた。しかし私たちが自分から神との関係を断ったので、私たちは『神のかたち』を失ったまま増え拡がった。 ・神はキリストを通して私たちを『この世の王(サタン)』から取り戻し、本来の「父から出た者」へと再創造される。 ◆『内なる人』 [16~17節前半]                                             [エペソ4:22-24] ・私たちは今、聖霊の働きによって、「父の豊かさ」に満ちた『内なる人(神の子らしさ)』を形造られている。この 『内なる人』は御霊によってのみ成長する。「私たちのガンバリ(外なる人)」はそれを妨げる。[Ⅱコリント4:16] ◆『外なる人』をどうするか? ・私たちの『外なる人(古い性質)』は「土の器」のようなもの。[Ⅱコリント4:7] 『内なる宝』の輝きが現されるため には『外なる人』を磨いたり強めようとするのではなく、かえって「神にささげ」なければならない。 ・この世は「急がせる」ことによって『外なる人』を誘惑する。しかし神は「信仰によって待つ」ことを求めている。   Outline of the sermon   “Grow in your ‘Inner being’.”   (28/06/2015) [Ephesians 3:14-21]  *We will study this paragraph next 3 Sundays. Read more…

(171) “苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。”

『発明王エジソン』は、単に「発明の天才」であっただけではなく、「失敗に対処する天才」でもありました。ある日彼の実験室で大きな爆発音が起こり、エジソンが慌てて駆けつけると、彼の弟子たちが申し訳なさそうに言いました。「先生、これでもうこの実験に何度失敗したか分かりません。」するとエジソンはこう応えたそうです。「諸君、それらを『失敗』と呼んではいけない。『学習』と呼びなさい。何故なら諸君は既に『こうしてはダメだ』といういくつもの方法を経験によって学んだのだから。」 何かに失敗してしまった時に私たちが問うべき質問は「何でこんなことをしてしまったんだろう…」ではなく「この状況にどう対処することが最善なのだろう?」という問いです。失敗を責めることはかえって新たな失敗を生むきっかけになります。しかしその失敗を前向きに捉え、解決の糸口を捜そうとする態度は、私たちを成長へと導きます。 『成長』とは「目標地点」ではなく「そこに至るまでの道のり」のことです。神はもちろん私たちが「目標地点に達すること」を私たちと共に喜んでくださいますが、それ以上に、つまずいたり途中で転んでしまいながらも「目標地点を目指して1歩1歩進んでいく私たち」を大いに喜び、共に歩んでくださるのです。聖書が教える神は「怒りっぽくてあきれ果てる神」ではなく、「忍耐と赦し、そして励ましに満ちた神」なのです。

2015年6月21日 「聖書と『御霊のことば』」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「聖書と 『御霊のことば』」     (21/06/2015) ◆ことばに『力』がある ・ことばは私たちの『思考』をつかさどる。「ことば無しで考えること」はほとんど不可能。 ◆『御霊のことば』 ー 聖霊によって『力(いのち)』を与えられたことば ・聖書(みことば)と『御霊のことば』は、どう違うのか? 聖書は『武器庫』のようなもの。聖霊はここから自由に取り出して、適切に用いる。 それ故、聖書のことばを私たちの内にできるだけたくさん取り込んでおくことが重要。 ・みことばは『御霊のための滑走路』 - みことばのない所に聖霊の働きはない。 ◆『御霊のことば』を読み取る ・悪魔は「私たちの思い」の中に侵入し、私たちを邪魔して「祈りを盗もう」とする。私たちの力では勝てない。 ・「Do not think but Listen!」(神に思いを預ける) - しかし容易ではない。聖霊の助けが必要。 ・異言の賜物 [Ⅰコリント14:14] - 思いから『この世のことば』を追い出す。 ・『御霊のことば』は通常あまり長くはない。それ故聖書のみことばをコンファメーションのために用いる。   Outline of the sermon    “Bible & ‘Spirit-taught words’.”    (21/06/2015) Read more…

(170) “この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。”

ある家庭や個人に立て続けに不運が襲ったりした時、それらの人々のことを評して「あの家庭(家系)は呪われているに違いない」などと言う人たちがいます。とても悲しいことですが、実際ある精神科医のグループの研究によると、暴力癖のある人々の90%は自分が以前に誰かの暴力にさいなまれていた経験があるそうです。すなわち「誰かから受けた心の傷が、その人の性質に同様の習性を養ってしまう」ということなのでしょう。ですから親が何らかの中毒症状(アルコール・タバコ・麻薬、その他)を持っていた人たちは、他の人たちよりもずっと同様の中毒症状に陥りやすい危険性を持っていると言えます。 恐ろしいことにある種の宗教活動グループは、このような人間の弱さや傾向性を逆手に取り、「あなたの家系は呪われているからOOをしなければならない」とか、「その呪いを断ち切るためにはOOを購入しなければならない」などと人々を脅して入信させようとしたり資金稼ぎをしたりしているようです。これらは許しがたい行為です。 これらの私たちの弱さに関して、イエスは全く違った見解を示されました。彼は「それらのあなたがたの弱さは、単に神の偉大な力が現されるための機会の1つに過ぎない」とおっしゃったのです。言葉を換えれば「その問題がたとえあなたにとって大きすぎて乗り越えられないとしても、神にとってはあなたのために解決できないほど大きすぎる問題など存在しないのだ」ということです。 使徒パウロは「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は『新しく造られた者』である」と言いました。イエスにとってあなたの『過去』がどのようであったかは問題ではありません。イエスはあなたに『全く新しい未来』を用意して、あなたが彼のところにやって来るのを待っておられるのです。