(163) “あなたがたは、世にあっては患難があります。”

皆さんは、小舟で大海を旅したことはありますか?まあそのような体験をするチャンスは滅多にあることではないと思いますが、実は私と私の長男はそんな経験があるんです。私たちがバヌアツ共和国において宣教師として働いていたある日、7~8人乗りの貨物船(『小舟』ではありませんが…)に乗せてもらって、1日の道のりを旅するはずが、途中で大嵐に遭ってしまって、丸3日大海を漂いました。いやあ、実に忘れられない体験でした。 聖書に登場するエピソードで、イエス・キリストが12弟子たちと小舟でガリラヤ湖を渡る場面が出てきます。途中で嵐に遭ってしまい、弟子たちは非常に怯えてイエスに助けを求めます。するとイエスが風や波を鎮めてくださって事なきを得る、というストーリーです。 ここで私たちが学ぶことのできるレッスンは、「たとえ神が私たちと共におられても、相変わらず私たちは『人生の荒波』と出会う」ということです。イエスを信じていても私たちは病気になるし、経済的に困窮するし、様々な形で人生を脅かされることがあります。しかしそこにある『決定的な違い』は、それらの脅威に「キリストなしに立ち向かわなければならない」のか?それとも「キリストが必ずこの状況から私たちを救い出してくださるという確信を持ちつつ挑んでいける」のかという違いです。 私たちの人生を破壊するのは、実は出来事や状況そのものではなく、それらの出来事や状況を「どう受け止めるか」という私たちの心の態度です。もし私たちの心が『恐怖』に支配されてしまうなら、私たちは正しい判断力やすぐ側にある助けを見失ってしまい、荒海の中に飲み込まれてしまうでしょう。しかし「神は私と共におられる。神は必ず私をこの状況から救い出し、ご自身の栄光を現される」と固く信じてその状況に挑んでいくなら、必ず神が備えてくださっている『脱出の道』へと導いてくださいます。 あなたは1人で『人生の小舟』に乗りたいですか?それともキリストに同船していただきたいですか?

2015年4月26日 「『神の子ども』としての一致」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『神の子ども』としての一致」    (26/04/2015) ◆『神の子』としての一致(主イエスを受け入れた私たちは「神の子」とされた [ヨハネ1:12])   ①同じ方を『父』と呼ぶことによる一致 [ガラテヤ4:6] ・「神の子とされた特権」の1つは『相続人』(苦難も含めて)であるということ。[ローマ8:14-17] ・「神が善い父である」ということは「何でもお願い事を聞いてくれる」という意味ではなく、「私たちがフルサイズ の人生を生きるために必要なすべて(時には試練も)を与えてくださる」ということ。[ヘブル12:7-8] ・「状況から神を推し測る」のではなく、「神は最善以外なさらない」という大前提に基づいて状況を判断する。   ②同じ『いのち』を抱いていることによる一致 [Ⅰヨハネ5:12] ・妊婦が胎内に与えられた「新しいいのち」を決して忘れることなく『来たるべき日』を待ち望んで自制するように 私たちもキリストから与えられた『新しいいのち』に思いを馳せつつ聖く生きる。[ピリピ1:6,Ⅰヨハネ3:1-3] ・私たちが共に集まるのは、「同じいのちを抱いているもの同士」がそのいのちを喜び合い、またその成長に 有益なことを共に実践して行けるよう励まし合うため。[ヘブル10:24-25]   Outline of the sermon     “The unity as ‘the children of God’.”   (26/04/2015) ◆The unity as “the children of God”.(Those who received Jesus Read more…

(162) “自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。”

多くの人々は『人生の成功者』となるために「自分は何が得意か?」「自分にはどんなことが向いているか?」「自分の興味はどこにあるか?」など、ひたすら『自分』の中にあるものを追求します。 ある時、世界のトップ企業のリーダーたちが集まって会議をした時、1人のアメリカ人ビジネスマンがある日本の企業の代表に次のような質問をしました。「現代の商取引のために最も重要視されている言語はどれだと思いますか?」このアメリカ人ビジネスマンは、当然『英語』という答えが返ってくると期待していましたが、これに対して日本企業の代表は次のように応えたそうです。「それはやっぱり『お客様の話す言葉』でしょう。」 「立派な製品を造る」「優れたプロモーションをする」「その道に精通する」どれも大切なことです。しかし私たちの興味が『自分』に集中してしまっているとしたら、いわば「与えるものはあっても、受け取ってくれる人がいない」ということになってしまいます。人々が本当に求めているものは、私たちが「どんな物を提供できるか」ではなく「どれだけその人を心にかけているか」なのです。 イエス・キリストは「人がいかに生きるべきか」の模範を示すためにこの世に来られました。そして彼の人生をひと言で表現するなら、それはまさしく「他の人々のために生きた」ということです。聖書は「神の御姿であられた方が、ご自分のあり方を捨てることができないとは考えず、ご自分を無にして、人となられた」と描写しています。イエスがこの地上に人として来られたことそのものが既に「人々のため」だったのです。 「そんなことは無理だ!」とおっしゃるかもしれません。しかし実はこのような生き方は全然難しくないのです。全く簡単なことです。たった1つの『不動の決断』をするだけ、すなわち「私はもはや自分のために生きるのではなく、他の人々のために生きる」と固く決心するのです。この決断をする人が少ないのは「できない」からではなく、単に「したくない」からです。もしあなたが今日この決断をするならば、その瞬間から驚くほどに『人々のために生きるチャンス』に直面するようになることでしょう。

2015年4月19日 「『キリストの心』による一致」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『キリストの心』による一致」    (19/04/2015) ◆御霊の一致 [エペソ4:1-3] ・行動によるのでもない  ・考え方でもない  ⊚霊的な一致 ➝ どこから?[Ⅰコリント2:12, 15-16]   『御霊』 = 「キリストの心」 ◆「キリストの心」による一致 [ピリピ2:1-8] ・私たちの一致を妨げるのは、私たちが「自分自身」や「相手」にばかり注目しているから。 注目すべきは、『イエスの模範』      ①自分のあり方を捨て  ②当然の権利を主張せず  ③完全に『人』となり、完全に御霊に依存した ・「自分の力」ではキリストのように生きられない。これは御霊による。[ガラテヤ5:22-23] ・デボーションの時間は、「お勉強」の時間ではなく「主との交わり」の時。[Ⅰコリント6:16-17] 聖霊が私たちを「古い性質」から、キリストへと近づける。[Ⅱコリント3:17-18] ※聖霊の力に覆われるのを求める目的は「奇跡を行うこと」ではなく、「和解・一致」をもたらすため!   Outline of the sermon     “The unity in ‘the mind of Christ’.”   (19/04/2015) ◆The unity of the Spirit. Read more…

(161) “私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に記されていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。”

少し前になりますが、アメリカ大リーグに『ジョー・ディマジオ』という優れたプロ野球選手がいました。ある時記者が彼にこう尋ねたそうです。「ディマジオさん、あなたはどんな時も全力でプレーをなさっていますよね?平凡なゴロをさばくときも、どんなフライを追いかける時も、しかも自分のチームが大量リードをしている時でさえ、1つでも先の塁に進もうとされますが、そのエネルギーの源はどこから来るのですか?」 ディマジオ選手はこう答えたそうです。「私はいつも自分自身にこう言い聞かせるんです。『おいジョー、もしかしたら今日この球場に、今日初めてお前のプレーを観に来てくれている人がいるかもしれないぞ!』ってね。」 人生に対するこのような態度は、間違いなく周囲の人々に有益なインパクトを与えます。しかしこのような態度は自然発生的には私たちの心に芽生えては来ません。それには日々の強い動機付けを生み出す『不変のエネルギー源』が必要です。そしてそれは私たちを「ご自身のかたちに似るように」とお造りになった神からやってきます。 私たちが試されるのは、自分が絶好調であったり、準備万端な時ではありません。むしろ「問題が起こった時にどう対処するか」「日常生活の中で家族や同僚をどんな態度で扱っているか」「先生や上司がいないところでどう勤勉さを保っているか」、そして「周囲からの心ない批判や試練に出会った時にどう応対するか」などを『見られて』いるのです。私たちの心にスキができそうなこのような時にこそ、「たとえ他の誰もが敵に回っても決して私たちを見捨てることのないお方」との関係を固く保っていることが物を言うのです。

2015年4月12日 「真に一致するために」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「真に一致するために」    (12/04/2015) *「神が望んでおられる教会」になるための2番目の要素 = 互いの一致 [ヨハネ17:21] ◆私たちが求めるべき『一致』とは何か?[エペソ4:13,15] ・「神の御子に関する信仰と知識との一致」 ➝ かしらなるキリストへ ・私たちが真に一致するには、お互いを見ていたのではダメ。 『同じ方』に対する信仰と知識。 ◆キリストに関する知識    ①キリストは神の御子であり、神はキリストを通してご自身を現された。[コロサイ2:9, ヨハネ14:9]    ②キリストは私たちの罪のために死なれ、3日目によみがえられた。[Ⅰコリント15:3-4]    ③神はキリストを受け入れた者を神の子とされ、永遠のいのちを与えられる。[ヨハネ1:12, 3:16]    ④キリストは信じる者の内に住まわれ、聖霊によってご自身の豊かさを証される。 [コロサイ2:3, Ⅱコリント4:7, Ⅰコリント2:12] ◆真に意味のある人生 ・キリストを通して『神との関係』の中に生きるようになって初めて、私たちは「自分が何者なのか」「生きるとは どういうことなのか」を悟るようになる。[ピリピ3:7-8 パウロの証] ・イエスは誰よりも、あなたのことをよく知っている。あなた自身がまだ気付いていない潜在能力や未知の可能 性さえも。しかし悪魔は、あなたが本来持っている魅力や才能に気付かせまいと「人と比べさせたり」「気楽な 未知を選ばせたり」「自分の欠点にばかり注目させたり」する。 ◆一緒に集まる意義 ・人生の目的は「何かを成し遂げること」ではなく、「神があなたに与えた人生を『フルサイズ』に生きること」。 ・「更にキリストを深く知り」「イエスに対する信頼と愛を共に燃やし合う」ために、私たちは集まっている!   Outline Read more…

2015年4月5日 「聖書・聖霊・信仰」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「聖書・聖霊・信仰」    (05/04/2015) ◆『聖さ』に生きるために不可欠な3つのもの ー 「神のことば」「聖霊」「信仰」 ①神のことば [ヨハネ17:17] = イエスご自身[ヨハネ1:14] ・「イエスを通しての神との関係」とは、すなわち「神のことばを心に満たす」ということ。 テレビによる情報との比較 ・ある統計によると、人は1日平均4時間テレビを観る(1年の2か月分,18歳までに3年間分!) ・18歳までに観る暴力シーンは20万回以上。殺人の場面も1万6千件。 ・本当に重要な情報(真理)は私たちを聖め、自由にする。[ヨハネ8:32] ・みこころを求めようとする時だけ聖書を開いてもダメ。毎日の積み重ね。みことばで心を満たせ![詩119:11] ②聖霊 [ヨハネ14:26] ・聖霊の主な働きは、「いつも私たちと共におられ」「みことばを思い起こさせ、悟らせる」。 ・つまるところ、カギとなるのは『みことば』。 聖霊は「火種」であり、みことばが『薪』。    ③信仰 [マタイ7:24] ・『信仰』とは、聖霊のみことばによる促しに「Yes」と言って従うこと。[Ⅰコリント6:19-20] ・「御霊を悲しませる・消す」とは、何か特に罪深いことをした結果ではなく、「無視し続けた」結果。 (世の情報によって、御霊の御声が覆い隠されてしまっている) *使徒パウロの態度 [使徒20:22-24] ✯みことばを蓄え、聖霊の働きに心を開き、(無邪気な幼子のように)分かったことに素直に従おう!    Outline of the sermon    “God’s Word, God’s Spirit, Our Read more…

(160) “わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。”

先週末は世界中である1つのことが盛大に祝われました。何のお祭りだかご存知ですか?それは『イエス・キリストの復活祭』です。一般に『イースター』と呼ばれています。 イエス・キリストが十字架刑で殺されたことは有名です。この史実を疑う人はあまりいないでしょう。聖書によると「彼は私たちの背きの罪のために刺し通された」と描写されています。すなわち、本来私たちが自分の罪(神に対する不遜な心)のために神の罰を受けるはずであったのを、キリストが身代わりに受けてくださったのです。しかしこの『十字架上での死』以上に重要なのが、「イエスがよみがえられた」という事実です。聖書によるならば、彼は十字架刑(金曜日)から3日目(日曜日)によみがえって墓から出て来られ、数百人の人々の前に姿を現したそうです。 私たちの多くは「『死』とは人間の人生の最後の最後である」と考えています。すなわち「死の向こうは『無』なのだ」と。と同時に私たちは、親しい人が死んでしまった後、しばしばこんなことを言ったりします。「彼(彼女)は我々の心の中にいつまでも生きているんだよ。」しかしイエスは「心の中」ではなく、現実的に見える形でよみがえられ、私たちに『死の向こう側にある希望』を与えてくださったのです。 次は聖書の1節です。「罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私たちは皆「真の神を神と認めない罪」のために『死』に定められていますが、「イエスがその罪を自分の代わりに負って死なれ、またよみがえって下さった」と認め、今までの不信仰な生き方から方向転換して「神に信頼して生きる新たな生き方」を始めるならば、もはや『死』は人生の終わりではなく、単なる『永遠のいのちへの通過点』に過ぎなくなるです。

(159) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

「間違いを指摘されるのが好き!」という人はあまりいませんよね?誰でも耳が痛い忠告を聞くのは楽しい経験ではありません。しかし敢えてそのような忠告をしてくれる人がいなければ成長できないのも事実です。 何故私たちは『率直な意見』を聞きたがらないのでしょう?それは私たちがエゴの固まりだからです。それ故善意に満ちた助言に対し「拒絶された」と感じたり、「アイツは自分のことは棚に上げている」などと思ってしまうのです。私たちのこの『屈折した自己防衛』が砕かれない限り、私たちは人格的に成長することはできません。 「親ライオンが愛する我が子を谷底に突き落とす」のと同様に、神は時に応じて私たちの許に「聞きたくない助言を携えたアドバイザー」を送ってくださいます。それは神様が私たちをこき下ろしたいからではなく、かえって私たちが成長し『自己最高の人生』を送ることができるようにするためです。私たちがしばしば「耳が痛い助言」を聞かされるのは、神が私たち1人1人に心を配ってくださっている証拠なのです。 では、どのような心でそれらの助言に耳を傾けたら良いのでしょう?ぜひ次の4つのポイントに留意してみてください。①自分の未熟さを素直に認める。②成長への意欲を持つ(『現状維持』の心は助言を受け付けません)。③助言してくれる人の『善意』を信じる。④「私たちのありのままを喜びつつも、更なる成長を期待してくださっている神」に信頼して前進する。 私たちはつい「より優れた者となる」ことよりも、安易に「見栄えだけが優れている者になる」方を選んでしまいがちです。私たちの『屈折したエゴ』が後者を選んでしまいそうになる誘惑に負けないで、敢えて「耳の痛い善意の助言」に耳を傾けていきましょう!

(158) “わたし(イエス)が来たのは、羊(人々)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

最近心理学の専門家たちの間で急激に問題視されつつある「現代病」があります。専門用語では『FTT』と呼ばれるのですが、まあ平たく言えば「大人になることへの恐れ」とでも言いましょうか。要するに「人生に意味を見い出せず、大人として成長していくことに希望や喜びを失って」しまっているのです。あなたにも心当たりがありませんか? 聖書は「すべての人は天地の創造主である神によって、独自の目的を持って造られた」と主張します。ですから当然この神から離れていては『人生の目的・希望・喜び』といった、私たちが生きていく上での不可欠要素を見い出すことができないのです。また更に悪いことに、人の心の内に、神を敬わず「自分の人生の主人公は自分である。神の存在なんて、かえって迷惑である」などという『神に反逆する態度(聖書は『罪』と読んでいる)』がある故に、人は生まれつき神を認知することができず、生涯『迷える子羊』のように、目的もなくただ人生を浪費するしかなくなってしまっているのです。 イエス・キリストは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、それを豊かに持つためである」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストの十字架における身代わりの死によって罪の赦しを得、へりくだった心で神に近づくことによって『真に生きる意味・力』を見い出すことができます。キリストを通して『天地の創造主である神』とのいのちあふれる関係の中に生かされて初めて、私たちは『いのちの躍動感』を体験し、「大人へと成長していくことへの希望と喜び」にあふれて、『FTT』を克服することができるのです。