2015年3月22日 「コミットメント」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「コミットメント」    (22/03/2015) ◆[ヤコブ4:8] ・「二心の人たち、心を清くしなさい」とある。すなわち『清い』とは「心が1つに定まっている」ということ。 ◆[Ⅰコリント7:32-34] ・この箇所は「結婚を抑制している」のではなく、「結婚生活」と「信仰生活」の類似点を示している。すなわち、 どちらもそれを優れたものとするためには「たった1人の相手に心を定める」必要がある。 ・モーセの十戒の初めの2つは、「ほかの神々があってはならない」「自分のために偶像を造ってはならない」。 またイエスが『最も大切な戒め』とおっしゃったのは、「・・・を尽くして、神を愛する」というもの。[マルコ12:29-30] ◆現代の偶像礼拝 ・旧約聖書において偶像礼拝は、もっぱら『霊的姦淫』と呼ばれた。 ・私たちが祈る時、『神ご自身』ではなく、「神が何かをしてくださること」を求めることがあまりに多い。神がしば しば祈りに応えてくださらないのは、その「何か」が『偶像』になってしまっているのではないか?[ヤコブ4:3-4] ◆コミットメント ・結婚生活において最重要なのは『コミットメント(互いに対する献身)』。これは信仰生活においても同じ。父なる 神は私たちに対する『献身のしるし』としてひとり子を献げられた。私たちの『献身のしるし』は、「神だけに献 げられるべき私たちの人生(心)の王座を、決して他のものに奪われないようにする」こと。 ◆『献身』を支えるもの ①共に過ごす時間 ― 『時間』は私たちに与えられている最も貴重なもの。これを十分に共有しているか? ②信頼 ― ・相手が良くしてくれたことを思い出す。 ・慌てて判断しない。(背後に必ず深い配慮があるはず)    ③「何が何でも愛し続ける」という確固たる決意   Outline of the sermon     “Commitment.”   (22/03/2015) ◆[James 4:8] ・It says, “Purify your Read more…

2015年3月15日 「『聖さ』を求めて生きる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『聖さ』を求めて生きる」    (15/03/2015) ◆『聖さ』とは? ・「聖い」と訳されているヘブル語『コーデシュ』 = 「分離する」 : ①罪から離れる  ②神に属する者となる ・イエスの時代の律法学者や、現代の宗教家たちは、①➝②の順に起こると思う。しかし、神の方法は違う。 ◆旧約聖書における神のわざ ・神は、到底潔白とは言えないアブラハムをお招きになり、その招きに信仰によって応えた彼の子孫を『ご自分 の民』とされた(②)。そしてその後モーセを通して「聖さの基準」を知らせた(①)。 ・しかし民は「神に属する民」という自覚を次第に失い、神からの警告にも関らず、罪に溺れるようになった。 ◆新約聖書における神のわざ ・神は、イエスによる贖いのみわざによって人々をお招きになり、招きに応じた私たちに『神の子とされる特権』 をお与えになった(②)。また信じる者に聖霊を与え、その導きに従う者を罪の習慣からさえも解放される(①)。 ・もし『神の子としての特権』に甘んじ、「聖霊による神との親密な関係」を軽んじるなら、『聖さ』は失われていく。 ◆[Ⅰペテロ 2:9-10] ・私たちは「選ばれ」「聖なる国民」とされ「神の所有」とされた。それは「胎児を慈しむ母親の愛」のような、また 「約束を必ず守る誠実な父親の愛」のような『神の憐れみ』による。まさにこれは「イエス・キリストの十字架」 において表現された神の愛。[ローマ12:1-2] ✯『聖さ』とは、この神の憐れみに圧倒された私たちが「神と共に生きること」を最大の喜びとして歩むこと。   Outline of the sermon     “Seeking ‘Holiness’.”   (15/03/2015) ◆ What is “Holiness”? ・Literal translation Read more…

(157) “神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか、”

『神のみこころ』などと言うと何だか堅苦しく聞こえますが、どんな人でも「自分は何のために生まれてきたのか」ということを人生に1度は考えることがあるのではないでしょうか?それが証拠に、これだけ文明的に発達しても、相変わらず「手相」「タロット」「星占い」などに多額のお金をつぎ込む人々が後を絶えません。 聖書は『天地万物の創造主である神』の存在をはっきりと主張しています。そしてもし本当に唯一の神がこの全宇宙そして私たち人間を造られたなら、そこには必ず『崇高な目的』があるはずです。そう、そこには私たち1人1人に対する「神のみこころ」というものが存在し、神は私たちにそれを知らせたいと思っておられるのです。では私たち人間に対する『神のみこころ』とは一体どのようなものなのでしょう? 私たちは自分の人生のことを考える時、どうしても「何をして生きるか」ということを真っ先に考えがちです。しかし実際は「何をして生きるか」ということはそれほど重要ではなく、むしろ「どんな思いでそれをしているか」の方が重要なのです。すなわち、もしあなたが勉強や仕事、また人助けなどを「誰かに気に入られるため」「誰かに認められるため」にしているとしたら、たとえその行為自体は立派なことだとしても『神のみこころ』を行っているとは言えないかもしれません。採用試験の面接の時、また誰かとの初デートの時、私たちはついつい無理して「自分以上の何者か」になりすまそうとしますが、後にはドッと疲れが出るだけです。けれども、誰に強いられなくても、誰に認められなくても、またたとえ失敗したり、損をしたとしても、そのことをやっていると深い喜びと充実感がある、そんな何かをあなたが持っているとしたら、それは限りなく、あなたにとっての『神のみこころ』に近いものなのかもしれません。 素晴らしいことに、この『創造主なる神』は私たち1人1人のことを私たち自身よりもよくご存知です。それ故私たちはこの神の前で「無理な背伸び」をする必要がありません。気に入られるために「媚びる」必要もないのです。神は私たちの正直さ、ありのままを喜んでくださいます。そしてありのままの私たちが「無理せず喜んでできる何か」を見つけて、それに全力を尽くすこと、それが『神のみこころ』を行うということではないでしょうか?

(156) “わたしの家は、祈りの家でなければならない。”

『祈り』というと、きっと多くの方々は「神様にお願い事をすること」と考えることでしょう。しかし実際は、祈りとははるかにそれ以上のものです。言ってみれば『祈り』とは、「神様に求めること」ではなく、「神様を求めること」なのです。静かな場所で、目を閉じ、この世のことから思いを離し、心を静めて、「神様の心と波長を合わせること」です。すると神様は私たちの心を癒し、平安を与え、天賦の知恵を与え、私たちを通してご自身のみわざを成し遂げてくださいます。 悪魔は私たちがこの「祈りの力」というものに目覚めることを極度に恐れています。それ故悪魔はいつも私たちを忙しくさせ、日常生活の営みの中に埋没させ、「祈りなんて気休めに過ぎない」と思い込ませることによって、私たちを祈ることから遠ざけることに成功しています。クリスチャンと言えども「食前の祈り」「出がけにドアを閉めながらの祈り」「日曜礼拝の開会の祈り」程度で「自分はちゃんと祈っている」などと錯覚させられています。 使徒パウロは、弟子のテモテへの手紙の中で「何かを手掛ける前に、まず祈りなさい。人々に何かを教える時は、まず祈ることを教えなさい。」と諭しました。 主イエス・キリストは、しばしば朝暗いうちから、時には夜を徹して祈りました。もしあのイエス・キリストにさえ祈りが必要であったのなら、なおのこと私たちが祈りを必要としないことがあり得るでしょうか? 『天路歴程』の著者ジョン・バンヤンは次のように言いました。「人がもし祈りを生活の一部とするならば、やがて祈ること以上の優れたこともできるようになる。しかしもし祈ることを軽視するなら、いつまで経ってもロクなことができるようにはならない。」と。 あなたも「祈る者」とされたいですか?

2015年3月8日 「教会の使命」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「教会の使命」    (08/03/2015) ◆『教会』とは? ・建物ではなく、人々。  ・単なる「志を共にする共同体」ではなく、『生き物』 [エペソ1:23] ・プログラム(活動内容)ではなく、「1人1人のキリストとの深い結び付き」が最も重要。 ◆教会の使命(呼び集められた目的) 「教会(私たち)がキリストのいのちに生かされ神と共に歩むことにより、 世の人々が私たち1人1人を通して神を見い出すようになること」 注意事項 ・私たちはつい「神のために何かをする」ということに目を向けがちだが、もっと重要なことは、 私たちが「神の望んでおられる者になる」こと。 Doing ではなく、Being。 ◆「神の望んでおられる者」とは? ①聖く純真な者 [Ⅰペテロ1:14-16,ピリピ2:14-16] ②互いの間での一致 [ヨハネ17:23] ③互いに愛し合うこと [ヨハネ13:34-35]      詳しくは、来週から ◆[ヨハネ15:5] ✯まず「日々キリストとつながり、キリストを通して更に神を知っていくこと」 から始めよう!   Outline of the sermon     “Mission of the church.”   (08/03/2015) ◆ What is “church”? ・It’s Read more…

(155) “夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。”

「ブルータス、お前もか!」とは、ジュリアス・シーザーが腹心の部下ブルータスの裏切りにあった時にもらした言葉としてあまりにも有名です。「信頼していた人からの裏切り」という経験は、その人の人生に実に長く深い傷をもたらすものです。 聖書の中ほどに『詩篇』という書物がありますが、その第55篇に、イスラエルの王ダビデが親しい友に裏切られたときの心の叫びが詠われています。そこには彼の落胆、怒り、うめき、そして憎悪さえも描かれています。 以前1人の青年が私たちのところに尋ねてきました。その顔は憂いに沈み、何に対しても無気力でした。彼は最も信頼していた友人に、大切な恋人を奪われたのでした。 詩篇の第55篇は『神への賛美』で締めくくられています。一体ダビデはどのようにしてこのような苦しみから立ち直ることができたのでしょうか?それは彼が神への信仰の故に次の2つのことをしたからです。 ①この苦しみを自分の心の中に閉じ込めてしまうことをしないで、勇気を持って神に打ち明けた。 ②「神は自分の代わりにこの重荷を負ってくださり、また自分を立ち直らせることができる」と信じた。 この詩篇の終わりの部分でダビデは次のように言っています。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しいものがゆるがされるようにはなさらない。」 私たちのところに来た上記の青年は、半年ほど私たちと生活を共にし、その中で自分の人生を神に全面的にゆだねる決心をしました。彼は今ではもうすっかり立ち直って、幸せな結婚をし、現在はキリスト教の牧師となって人々(特に若者たち)に希望のメッセージを伝え歩いています。

(154) “あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。”

私たちは「なすべきことが分かっているのに、しようとしないこと」は、神の前に正しくないと容易に理解できますが、「なすべきことが分かっていて、いつかしようとはしているけど、もたもたしていること」も神の前に正しくない態度であるとはなかなか気付きません。私たちは恐らくこう言うでしょう。「いや、やろうとは思っているんですよ。ただもうちょっと暇になったら、もうちょっとお金が溜まったら、もうちょっと子供が大きくなったら…」 神の祝福は、ただボ~っと待っているだけの人に注がれるのではなく、既に与えられているものを精一杯用いて人々の必要のために仕えている人に注がれるものです。例えば、今の時点で既に持っているものを用いて人々に施しをしているわけでもないのに「神様、困っている人々を助けてあげたいので、どうぞもっとお金を与えてください」と祈るのは、神の祝福を受けるために正しい順序ではありません。「でもお金が無けりゃ、何も与えてあげられないじゃないですか!」とおっしゃる人もいるでしょう。しかし実際はお金が問題なのではありません。そのような人は今までにそれらの困っている人々に『励ましの言葉』や『あなたの時間』、また「今まで試したことのないような自己犠牲」を与えたことがありますか? 神が私たちに望んでおられる愛し方は、私たちの都合やタイミングに合わせたものではなく、神の憐れみの心に合わせたタイミングや方法なのです。自分の都合や理屈を言い訳にモタモタしてしまう人が得ることのできるものは「せっかくのチャンスを取り逃がしてしまう」という苦い経験なのです。

2015年2月22日 「イエスを見つめて生きる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「イエスを見つめて生きる」   (22/02/2015) [Ⅰペテロ1:8-9] ここで言われているのは… 1. 私たちは肉眼でイエス・キリストを見ることができるわけではない。 2. にも関らず私たちはイエスを信じ、愛し、喜びに満たされることができる。➝ ではそのカギは何か? ◆日々「イエスを見つめて生きる」ための 3段階 ①「十字架を通して現された神の愛」に魅了される ・レビ記の『いけにえの規定』から学べること ➝ 「罪責感からの解放」と「神との関係の回復の喜び」 そして「2度と罪を繰り返すまい」という固い決意 = これが神が十字架を通して行われたこと [ローマ 5:8] ②生きる目標を天に置く [Ⅰペテロ1:5-9] ・この手紙を読んだ『迫害の真ん中にいる聖徒たち』にとって、「キリストに従うこと」は地上においてほとんど 益をもたらさなかった。おのずと彼らの思いは『真の故郷である天』に馳せられていった。[Ⅰヨハネ2:15-16] ③他の人の利益を求める [Ⅰコリント10:31] ・『何をするにも神の栄光のために』とは? ➝ 常に「周囲の人々の益」を考えながら行動すること [10:23-33] ・これこそが主イエスの歩まれた道。[ピリピ2:3-9] この「イエスの模範に従って歩む者を、神は祝福せずには おられない」ということを信じるのが、聖書の言っている真の『信仰』。[Ⅰペテロ1:8-9] ◆『神を愛する』とは?[Ⅰヨハネ4:20] ✯まず「イエスを通して現された神の愛」に魅了されよう!そしてこの方を喜ばせるため、まとわりつく邪魔物を振り払っていこう。その時、私たちは自分よりも他の人を優先することを学び、そこにおられる主イエスを見る!   Outline of the sermon Read more…

(153) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。”

3年ぶりに日本へ一時帰国しました。初めのうちはなかなか頭も体も日本の生活に慣れませんでした(季節も逆転しますから…)が、そのうちに生活のリズムを徐々に取り戻しました。故郷での生活を楽しみ始めた頃、1つのことに気付きました。それは「神様が見えにくい」ということです。 日本はニュージーランドと比べて、欲しい物(思い付く以上の物)が何でも手に入ります。言葉にも不自由しないし、とにかくいろいろと便利でスムーズです。そんな何不自由無い生活(?)を続けていると、知らず知らずのうちに「目で見えるもの」のペースにすっかりはまり込んでしまって、「あれも欲しい、これも欲しい」「あれはどうなった?これはどうしよう?」と『目に見えること』に始終気を取られて、それらのすべてを与えてくださっている『神様』のことをすっかり忘れてしまいそうになるのです。 日本にキリスト教が伝わったのはもう500年も前のことです。それなのに全人口に対するクリスチャンの割合は未だに1%にも満ちません。実を言うと第2次世界大戦後、クリスチャンの数は急成長したのです。ところがその後の高度経済成長の波が押し寄せたとき、その数は減少の一途を辿り、今に至っています。聖書によると、この地上は現在悪魔が支配しており、あらゆる物質的な豊かさをもって私たちの目を神様からそらしているということです。 今回の帰国中に初めて「東北大震災の被災地」を訪問してきました。同時期に震災に見舞われたクライストチャーチに比べて、東北の被災地はずっと「震災後の後片付け」が進んでいましたが、人々の心の中にはまだまだ震災の爪跡が大きく残っているのを感じさせられました。ところがそんな中、嬉しいこともありました。大きな自然災害を通して「神様を恨む人々」が増えているかと思いきや、実際はその逆に「新たに神様を見い出す人々」が続々と増し加えられていることを目の当たりにしたのです。震災からの復興に苦闘する中で、彼らは「目に見えるものに頼って生きること」がいかに虚しいかを学んだのだそうです。ついつい『物質的な豊かさや便利さ』に安住してしまいがちな私たちに対する大きな警告ではないでしょうか?

2015年2月15日 「神のみわざが現されるために」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「神のみわざが現されるために」   (15/02/2015) [ヘブル1:1-2a] ◆神はキリストを通して働かれる ・主イエスが地上におられた時代は、神は彼を通して働かれたが、それは現代も同じ。神は今も「私たちの内に おられるキリスト」(教会)を通して働かれる。[エペソ1:22-23] ◆この時代に、世が神のみわざを見るための2つのカギ ①私たちが日々キリストの愛の内に深くとどまる [ヨハネ15:9] ベタニヤのマリヤに見られるモデル [ルカ10:38-42, ヨハネ12:1-8] ・何よりもキリストに注目  ・みことばで自分を満たす  ・贖いのみわざに深く感動する ・人からどう思われようと、自分の最高のものを、イエスのためだけに使う。 ※イエスとの愛の関係を測るバロメーター = みことばを実行することが『喜び』になっているかどうか ②キリストがこの地上に来られたように、私たちも世に出て行く [ヨハネ20:21] ・自分が死んで、相手が生きるため(通常と逆) ・いつでも、どこでも 「イエスと共に」。(イエスの顔色(?)を伺いつつ…) ◆『ジャパンデー』参加の目的 「イエスを宿す私たち1人1人が『キリストのからだ』として1つの場所で共に 人々に仕えることを通して、神への愛を表現する」 ➝ もう1つの形の『礼拝』 ✯要するに、「ジャパンデーの現場に、イエス様をお連れすること」です!   Outline of the sermon     “To see God at work.” Read more…