2016年6月19日 「『御霊に導かれた歩み』とは?」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『御霊に導かれた歩み』とは?」    (19/06/2016) ◆「文字(律法)による束縛」ではなく、「御霊による自由」 ・「文字は殺し、御霊は生かす」[Ⅱコリント3:6] ― 律法学者たちは、文字に縛られてしまった。 ・目的地を目指すのに、「正確な地図に頼る」ことと、「道を熟知している案内人に頼る」ことの違いに似ている。 地図を見ながら歩くのは、結局自分の能力に頼るので、不安と緊張感がある。案内人に信頼して歩けば、 リラックスできるし、目的達成のみならず、歩く道のりを楽しむこともできる。 ◆「御霊に導かれた歩み」を妨げるもの[ローマ8:1-6] ・それは、『肉』(生まれながらの自分の傾向性)。しかしこの「肉の性質」に対して信仰によって『No』と言いつつ、 御霊に従って生きるなら、律法の要求は成就されていく。 ◆律法の集約[マタイ22:35-40] ― 「神」を愛し、「人々」を愛すること ・使徒たちによる言い換え [Ⅱコリント5:15,Ⅰヨハネ3:16] ・イエスによる描写 [マタイ25:31-40] ・私たちがもし『肉』にではなく『御霊』に従って生きていくなら、このような歩みが実現する。これは実は主イエス が初めから人々に示されていたもの。[ルカ9:23-24] ◆何故そんな生き方ができるのか? ①人にはできないことが、神にはできるから。[マタイ19:25-26] ・キリストの栄光が輝き出るのを体験するためには、私たちにできそうなことだけをしていたのではダメ。 ②聖霊との交わりの中で生きることに、それだけの魅力があるから。 ③「最高のゴールに到達する」という確信と希望があるから。   Outline of the sermon       “Living by the Spirit.”      (19/06/2016) ◆“Walk by the law” vs “Walk by the Spirit”. ・“The letter kills Read more…

(217) “主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。”

野生の鹿やシマウマなどの群れは、ライオンや虎などの野獣に襲われた時、生まれたばかりの赤ん坊をその場に置き去りにして逃げるそうです。これは彼らが自分の子供を大切にしないからではなく、次の2つの理由からです。第1に、赤ん坊は足手まといになるので、赤ん坊を連れて逃げると、自分自身も赤ん坊のいのちも危険にさらされるからです。そしてもう1つの理由は、赤ん坊はまだそれらの野獣を恐れることを知らないので、置き去りにしても野獣に見つかる可能性が低いからです。何故なら、野獣は獲物たちの『恐れの波長』を嗅ぎ取って追ってくるからです。 私たち人間の世界も同じです。私たちの人生を脅かす災いは、しばしば私たちの『恐れの波長』に引き寄せられて忍び寄ってきます。「もしかしたら悪い病気にかかっているのではないか?」「事故に遭ってしまうのではないか?」「これだけの貯金では足りないのではないか?」「いつか恋人に裏切られてしまうのではないか?」などなど。これらの恐れは私たちの人生に対する態度を消極的にし、お酒やドラッグへと走らせ、少しずつ私たちの人生を蝕んでいき、やがて破滅へと至らせるのです。 これらの恐れは一体どこからやってくるのでしょう?それは「私たちのいのちの根源である『神』から離れてしまっていること」から来ているのです。ある人々は「自分の人生は自分で切り拓く。『神』なんか要らない!」と言い、また別の人々は「神様は真面目で勤勉な人たちにはご利益をくださるが、自分のように弱く失敗ばかりしている者は見捨てられてしまうに違いない」という『誤った神観』を持っています。 聖書では、しばしば私たち人間と神との関係を「羊と羊飼い」にたとえています。羊は動物の中でも最も弱く依存的であり、羊飼いの優しく力強いケアなしには生きられない存在です。そして神は私たちにも、「自分の弱さや限界を素直に認め、神に信頼して生きるように」と願っておられるのです。生きていく上で試練や挫折が起こるのは、それらの経験を通して私たちが「私たちの人生の羊飼いである神」と出会うことができるためなのです。

2016年6月12日 「血による新しい契約」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「血による新しい契約」      (12/06/2016) ◆「旧[約]聖書」と「新[約]聖書」 ・翻訳の『訳』ではなく、契約の『約』 ― 「古い契約」と「新しい契約」。 ・「古い契約」とは? = 十戒や割礼などに代表される様々な律法。 血の注ぎかけによって『契約』として有効になった。[出エジプト24:3-8] ◆新しい契約 ・あきらめない神。[エレミヤ31:31-34] いつ成就した? → イエス・キリストを通して[ルカ22:15, 19-20](最後の晩餐・聖餐式) ・古い契約(律法)は、人間が連れてきた動物の血の注ぎかけによって有効にされたが、新しい契約は、父なる 神によって遣わされた「傷のない子羊キリストの血」によって有効とされた。[ヘブル9:11-12, 15] ◆「過越の祭り」の起源[出エジプト12:21-24]  イエスの十字架はこの時期に起こった!(非常に象徴的) ①かもいと門柱に塗られた血 ― 十字架を想起させる。 ②血は外側に塗られた(家の中からは見えない) ― 私たちが理解するためではなく、神に見せるため。 ③神の定めた方法に従った者なら、誰でも救われた。 ◆心に記された律法 [再び、エレミヤ31:33] ・『文字』ではなく、『御霊』。[Ⅱコリント3:6] 書かれたルールではなく、「人格を持つ聖霊」に導かれて生きる。   Outline of the sermon      “The new covenant in the blood.”     (12/06/2016) ◆ Old ‘Testament’ & Read more…

(216) “だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。”

幼い子供がお友だちに囲まれて誕生日を祝ってもらっている状況を思い浮かべてみてください(自分がお祝いしてもらった時の思い出でもいいですよ)。きっとその子どもはその日、何だか「物語の主人公になったような気分」を味わっているに違いありません。大人になるにしたがってそのような機会は減っていくかもしれませんが、何歳になっても「自分は価値のある存在である」という気分を味わいたいという欲求は変わらないはずです。 前述の聖書のことばの「養い育てる」という語の原文は「建て上げる,敬う,祝う,宝物のように扱う」というような意味を持っています。このように扱われて悪い気分になる人はいないのではないでしょうか? 私たちは皆上記のように扱ってもらうことを望みますが、と同時に親しい間柄において(夫婦や親子、親しい友人など)互いを「養い育てる」ことができたとしたら、どんなに人生が豊かになって行くことでしょう。誕生日や試験にパスした時などに「おめでとう」のひと言をかけてあげるのはもちろんのこと、ささいなことに関しても「あなたの存在を感謝してるよ」「あなたは私にとってかけがえのない存在だよ」と照れることなく伝えてあげられたら、相手はきっと心強く感じるに違いありません。 また私たちがそのような心遣いを必要としているのは、何も『お祝い事』の時だけではありません。何かに失敗したり、新たなチャレンジに尻込みしたりしているときに、影のようにそっと側にいてあげることは、どんな言葉にもまさって相手の心を力づけることでしょう。 神様は「自分を愛するごとくに、あなたの隣人を愛せよ」とおっしゃいました。神様にとっては、私たち1人1人がかけがえのない存在です。その私たちがそのように互いを喜び合い、祝福し合い、支え合う時に、天では大きな喜びが湧き起こるのです。

2016年6月5日 「救いの2段階」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「救いの2段階」       (05/06/2016) ◆2つの『救い』 [Ⅰペテロ1:8-9,2:1-2] ・『救い』には、2段階ある。 ― 言わば、神の子供としての「資格」と「実質」。 ・「罪の赦し」「永遠のいのち」「聖霊」などはすべて、イエスを救い主と信じた時点で与えられる。しかし神が与え る『救いの真価』は、私たちが「キリストの似姿(真の人間)へと完成される」こと。[ピリピ1:6] ・どちらの救いもただ「恵みと信仰」による。[エペソ2:8] すなわち「神のあわれみによる招き」に「愛と信頼」をもって応答することによって。 決して自力のガンバリで成し遂げるのではない。[ガラテヤ3:3] ◆「信仰生活」と「結婚生活」 類似点 ・結婚した時点で、紛れもない『夫婦』。しかし未熟なために同じ失敗を繰り返す。日々の小さな「愛と信頼」によ って「成熟した関係」へと成長する。途中であきらめたくなる誘惑に勝利する必要がある。 決定的な相違 ・神は初めから『完全な愛』で私たちを愛しておられる。また神は決して私たちをあきらめはしない。 ◆カギは『聖霊』 ・イエスを救い主として受け入れた時点で、聖霊は私たちの内に来られる。 [Ⅰコリント3:16] また聖霊は日々 『救いの完成』に向けて私たちを造り変えようとする。[Ⅱコリント3:18] ・しかし聖霊はイエス様と同様、私たちの「自由意志」を尊重する。私たちが聖霊に対して無関心な態度を取り続 けるなら、結婚生活と同様、関係はドンドン冷えていく。[Ⅰテサロニケ5:19,エペソ4:30] ✰特に初めの1年間、「御霊の声を聞き分け、愛をもって応答すること」を心がけよう!   Outline of the sermon       “2 levels of salvation.”      (05/06/2016) ◆Are there two “salvations”? [ⅠPeter1:8-9,2:1-2] ・There are two “levels” of salvation. ― In other Read more…

(215) “人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。”

あなたがもし、はしごを登って高いところの壊れた部分を修理しようとして、てっぺんまで登ってから、間違った方向にはしごをかけていたと気づいたらどうしますか?ガッカリしますよねぇ。登ったはしごが長ければ長いほどその落ち込みは激しいのではないでしょうか?それでも単なる『はしご』ならば、またちゃんとしたところにかけ直して登りなおせば済みます。 ところがこれが「人生のはしご」だとしたら、どうでしょう?半ばまで登った時点で「どうやらこのはしごは、間違ったゴールへ向かっている」と気づけば、また登りなおすことも可能でしょうが、終わりまで登りつめてから「しまった!はしごをかける場所を間違った!」では遅すぎます。 私たちはこの『人生のはしご』をそれぞれの「基本的価値観」に基づいて登って行きます。「食べ物の好み」や「学歴」また「職業」などはこれに含まれません。もっと基本的なもの、すなわち「どうしてそういう考え方をするのか」また「何故あえてそちらを選ぶのか」など、私たちの人生の方向性を左右する基準がこれです。 この『基本的価値観』は次のような3つの性質を持っています。 ①生涯共に過ごすパートナー ②状況や気分に左右されることのない『方位磁針』 ③時代の流れや他人の言葉などに振り回されるのを防ぐ『錨』 誤りのない「基本的価値観」に基づいて生きることは、人生において最も重要なことの1つです。そしてその「正しい価値観」を私たちに提供してくれるのが、私たちをお造りになられた『神』であり、またその神が私たちに与えてくださった「人生の取扱説明書」である『聖書』なのです。

(214) “愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。”

『怒り』という感情は、私たちに必要なものとして神から与えられているものですが、私たちはこの感情に「振り回される」のではなく、きちんとコントロールできる者でなくてはなりません。何らかのきっかけで怒りが爆発しそうになった時には、ぜひ自分自身に次の2つの問いかけをしてみてください。 ①「この出来事は、本当に自分の怒りをぶつけるにふさわしいことであろうか?」 ・多くの場合、私たちは物事や人々の「一面だけ」しか見ないで判断してしまいます。誰にでも失敗はあります。たまたまその人の悪い面を見てしまったからといって、そのことだけで相手を評価してしまわないように気を付けなければなりません。 ②「ここで自分の怒りを表すのが、最も良い時・場所・方法であろうか?」 ・頭に血が昇ってしまっている時にこのように自問自答するのは難しいことですが、感情のままに行動するのは真の人間らしさではありません。誰かに不当な扱いをされた時や、物事が思った通りに運ばない時、私たちが自問自答すべきことは「自分にはここで『怒りを表す権利』があるだろうか?」ではなく、むしろ「自分にはここで『怒りを表す権利を拒否するだけの度量』があるだろうか?」です。 私たちはしばしば「ここで黙っていては、相手から甘く見られる」と思いがちです。しかし真の強い人とは「落ち着いて判断する心」を持つ人です。そしてそのような強さは私たちを「要らぬ後悔の念」から救い出すことができるのです。

2016年5月22日 「『祈り』に関する神の真理」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『祈り』に関する 神の真理」    (22/05/2016) ◆『祈り』の基本概念 ・クリスチャンにとって『祈り』は、「神の子としてのいのちの営み」。決まった形式があるわけではない。 ・『祈りの課題』があるから祈るわけではない。神が「ご自身との交わり」へと私たちを招いておられるから。 ・「求める相手をどれくらい知っているか」 また、「求める相手とどれくらい親しいか」が祈る内容を左右する。 *『祈り』と「神との個人的な関係」には、密接な関わりがある。 ◆『祈り』の本質 ①祈りとは、「神に何かを求める」というよりは、むしろ「神を求める」ことである。 ・祈る内容は単なる『媒体』であって、重要なのは「祈りの中で神と出会うこと」である。 ②祈りの目的は「私たちの目標実現」ではなく、「神の目標実現」である。 ・神の目標 = 神の愛と正義による支配が地上にもたらされること。[マタイ6:33] 『祈り』は、この目標達成のために「天からのリソース」を引き出すためのツール。 ③祈りの原動力は「私たちの熱心さ」ではなく、「私たちの信仰」である。[マタイ21:22] ・神の心を動かすのは、神を『良い父』と信じて疑わない「幼子のような信仰」。(ダビデの信仰 [詩篇6:8-9]) ・時に神は頑として譲らない。 →  私たちをご自身の心に引き寄せようとして。 聖霊の助けをもらいつつ、『神の心』へと近づく。[ローマ8:26-27] ◎神は、ご自分と心を1つにして祈る『祈り手』を今日も捜しておられる! [Ⅱ歴代誌16:9]   Outline of the sermon       “God’s truth about ‘Prayer’.”      (22/05/2016) ◆Basic ideas of “Prayer”. ・“Prayer” for believers is ‘a natural activity as Read more…

(213) “あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。”

“コンフォート・ゾーン”という言葉があります。日本語に訳すと「居心地の良い場所」となるでしょうか。例えば普通の人にとっては「自分の家」「安心できる職場」「親しい友人たちに囲まれた状態」などがこの“コンフォート・ゾーン”にあたるでしょうし、またそこから1歩踏み出すのには少し勇気が要ります。 “コンフォート・ゾーン”は通常年齢と共に少しずつ拡げられていきます。例えば、生まれてから3~4歳までは母親の許で過ごしていたのが、幼稚園へ行くようになり、また小学校へ上がり、徐々に「学外活動」へも参加するようになり、やがて親元を離れて暮らすようになります。ところがこの“コンフォート・ゾーン”から踏み出すのを恐れ、「自分は学校へ行かず、ずっと家の中で家族と過ごしたい!」となると、その人の成長は止まってしまいます。 神が私たちの人生におけるご自身のご計画を成就なさろうとする時、神はしばしば私たちをこの“コンフォート・ゾーン”の外へと踏み出すように招かれます。何故なら、私たちが『現状維持』に満足しているうちは、神が私たちのために用意しておられる「ダイナミックな人生」を真の意味で体験することができないからです。そして実際、10年後20年後に自分の人生を振り返ってみる時、私たちが感動を持って振り返ることができるのは「コンフォート・ゾーンから踏み出した経験」であり、逆に深い後悔の念を感じるのは「コンフォート・ゾーンから踏み出る機会を拒んだ経験」なのです。 今から20年前、私たち家族は『宣教師』としての人生へと踏み出しました。3人の子供たちはそれぞれ6歳,4歳,1歳半でした。何人かの知り合いは、私たちのむこうみずな決断にあきれていました。しかし私たち家族が今喜びと感動を持って振り返るのは、神の祝福に満ちた『並外れた20年間』なのです。一方ある家族は「神が自分たちを宣教師として働くよう招いておられる」と感じていたにも関わらず、周囲の強い反対に負けてその道を断念し、大きな後悔の念にさいなまれつつ晩年を過ごした、と聞いたことがあります。 初めにも書いたように、「コンフォート・ゾーンから踏み出すこと」は簡単ではありません。しかしそれは決して単なる「危険な賭け」ではなく、「共に歩んでくださる神への信頼を行動に現すこと」なのです。そして私たちの『真実な神』は、ご自身に信頼して敢えて“コンフォート・ゾーン”から踏み出す人々に、特別の祝福を注いでくださるのです。