(145) “私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

江戸幕府初代将軍『徳川家康』の遺した有名な言葉に、「人生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」というものがあります。確かに人生にはそういった面がありますが、しばしば我々は『不必要な荷物』をも負って人生の道のりを歩いていることがあるのではないでしょうか? ローマ帝国時代、オリンピックに出場する走者たちは、毎日多くのおもりを身体に巻きつけてランニングをすることによってトレーニングをし、レースの当日にはすべてのおもりを外して伸び伸びと走ることによって優れた記録を残したそうです。この時もし走者が相変わらず『おもり』のいくつかをつけたまま本番のレースに臨んだとしたら、それは愚かなことだと思います。 イエスは「金持ちが天の御国に入るよりは、ラクダが『針の穴』を通るほうが易しい」とおっしゃいました。『針の穴』というのは文字通り「糸を通す穴」のことではなく、旅の途中でしばしば出くわす「狭い通り道」のことで、そこではいちいちラクダに背負わせているたくさんの荷物をいったん外さなければ通ることができなかったのです。 私たち家族が今から20年前に神様から「海外宣教師になりなさい」とお声をかけていただいたとき、私たちは所持品をすべて整理しなければなりませんでした。私たちは決してお金持ちではありませんでしたが、自分たちが所有していた物の多さに愕然とさせられたものです。しかし面白いことに、所持品が減っていけばいくほど、身も心もドンドン軽くなっていくのを感じました。最終的にはいくつかのスーツケースと段ボール箱だけになり、「人生で本当に必要なものは、実はわずかなのだ」ということを痛感させられたのを覚えています。(現在はニュージーランドに来て再び物が増えつつありますが…) 私たちが人生のレースを走る上で「栄冠を勝ち取るために邪魔になるもの」は、しばしば「レース場に置かれている数々の障害物」ではなく、「レース中に私たち自身が負い続けている余分な重荷」が原因になっているのではないでしょうか?

2014年10月26日 「天と地をつなぐもの」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「天と地をつなぐもの」     (26/10/2014) [コロサイ 3:1~4]  ◆天にあるものを思う[2節] ・「天にあるもの」とは? ― 神ご自身(キリスト)[1節,詩篇73:25] ・イエスは「宝を天に蓄えよ」とおっしゃった。[マタイ6:19-21] ①イエスのことばは私たちに『救いの確信』を与える。 ②『天に蓄えること』の意義は、「私たちの思いを更に深く天とつなぐため」。[21節] ◆地上にいる私たちが、どうやって天とつながれるのか?[3~4節] ・それは「私たちのいのちであるキリスト」。彼に対する『信仰』が私たちを天とつないでいる。[ガラテヤ2:20] ・天に辿り着いたらもはや『信仰』は必要ない。そして地にあって私たちは信仰により「いっさいの権威が与えら れているキリスト」(マタイ28:18)とつながれている。何も心配しなくてよい。むしろ『思い煩い(不信仰)』は『罪』。 [ローマ14:23] ・私たちが「共におられるキリスト」に思いを馳せて生きているときは『まことのいのち』によって生かされており、 「自分のことで頭がいっぱいになっている時」は『古いいのち』によって生きている。[Ⅱテモテ2:8] ◆『復活の主』にあって生きる ・今の私たちは「十字架にかかられたキリスト」ではなく、「よみがえられたキリスト」のいのちに支えられて生き ている。それ故私たちがこの地上にとどまっている最大の意義は、「この『復活の主』を、ことばや行いを問わ    ず人々の間で表現していく」こと。 ✯あなたの思いを、内なる『復活の主』から遮るものは何ですか?   Outline of the sermon     “Set your minds on things above.”  (26/10/2014) [Colossians 3:1~4]  ◆Set your minds on things above.[Verse 2] ・What are “things above”? ― Read more…

(144) “私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。”

2014年10月5日早朝、クライストチャーチ日本人キリスト教会の創始者の1人であられるベティ・ラウンドヒルさんが天に召されました。94歳でした。彼女はご主人のケン・ラウンドヒル先生と共に、日本での40年間の宣教師としての働きを終えてから24年前にニュージーランドに来られ、このクライストチャーチJCFを始められたのです。彼女が70歳の時です。70歳と言えば『隠居』の年であり、わざわざ何か新しいことを始めることは至難のわざであったに違いありません。しかし彼女は、クライストチャーチで不自由な英語を駆使しながら苦闘している日本人妻たちや留学生たちを見て、じっとしてはいられなかったのでした。 聖ルカ国際病院の名誉院長であられる日野原重明教授は次のように言っています。「新しいことを創められる人は、いくつになっても老いることがない。」 ベティ先生はまさにその94年間の生涯を「神と人に対する情熱を持って走り続けた女性」だったのです。 実を言うと彼女が亡くなられた前日(10月4日)は私の長男の結婚式でした。ある方々にとっては「息子さんの結婚式の直後に大切な方が亡くなるなんて、とんだ災難でしたね」ということになるのかもしれません。しかし私にとっては『とんだ災難』ではなく、むしろ「お祝い事が2つ重なった」と言えると思います。何故なら、私はベティ先生が今どこにおられるのかよく分かっているからです。彼女は今、老いて不自由になった肉体を脱ぎ捨てて、天国の神のみもとで「古びることのない、新しいからだ」をいただいて、喜びに満たされているのです。 もちろん「地上での別れ」という寂しさがあることは否定できませんが、私たちには『再会の希望』があります。そしてこの地上での残された人生を、ベティ先生に倣って「最後まで力強く走りぬく」という使命を全うする責任も与えられています。あなたもこの『死の向こう側にある希望』を抱きながら、地上の人生を精一杯走りぬく力を、神様からいただきませんか?

2014年10月12日 「本体であるキリスト」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「本体であるキリスト」     (12/10/2014) [コロサイ 2:16~23] *今日の要点は、「私たちの『キリスト者』としての真価はどこから来るのか」ということ。 ◆私たちの誤り ・私たちの真の評価は、「日々の生活の中でどのようにキリストと関っているか」にかかっている。[16~17節] ・『罪』とは? = 1つ1つの行為ではなく、その選択基準を自分の中に設定してしまっていること。 自分の良心に照らし合わせて「善いか悪いか」ではなく、「内なるキリストを喜ばせるか、悲しませるか?」。 ということは、最優先事項は「神(キリスト)を知ること」。[ヨハネ17:1-3] ・「この世の生き方」[20~21節]とは、必ずしも「自分だけ得しようとして、他人を顧みない」ということではなく、 「この世で誉められようとする生き方」をも含む。イエスを憎んだのは、人生の落ちこぼれたちではなく、「自分 は正しい人間だ」と自負していた人たち。彼らの生き方こそ、イエスから見れば「この世の生き方」。 このような人々に対して、イエスは言われた。[ヨハネ5:39-44] ◆神からの栄誉を求めて生きる(どのようにしてイエスのもとへ行けばよいのか?)    ①悔い改め ・「自分自身の中には、神に評価してもらえるようなものは何もない」ことを認め、憐れみを乞う。    ②懇願 ・『真の人間』として生きるためには、何が何でも「自分にはイエスが必要である」と認め、聖霊によって イエスに人生を支配していただくよう真剣に求める。    ③日々の明け渡し ・日々「イエスこそ自分の人生の主である」ことを宣言し、「従いますから、導いてください」と告白する。   Outline of the sermon       “Reality in Christ.”    (12/10/2014) [Colossians 2:16~23]  ◆How can we evaluate our “Christian life”? ・It is not how much we are following Read more…

(143) “あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。”

あるお母さんが息子をお友だちの誕生会に送って行った時、別れ際に息子にこう言いました。「ちゃんと良い子にして、楽しく過ごすのよ。」 すると息子が不満そうな顔をして答えました。「そんなの両方は無理だよ。ねぇ、どっちか1つにしてくんない?」 何故か私たちは「正しく生きること」と「楽しく生きること」は共存しない、と思ってしまいがちです。しかし本当にそうでしょうか?例えばある人が「交通ルールなんてイチイチ守って運転していたら不自由で仕方がない!」と言って、制限速度や信号を無視して走っていたらどうなるでしょう?事故で怪我をしたり、警察に捕まったり、あるいは人身事故を起こして一生を後悔と自責の念で過ごさなくてはならなくなるかもしれません。交通ルールを守って正しく運転してこそ、私たちは快適にドライブを楽しむことができるのです。 聖書は「神は私たちを『神ご自身に似せて』造られた」と告げています。それは必ずしも「神にも2本ずつの手足や、目や鼻や口がある」ということではなく、私たち人間を「『聖さ』を求めて生きる存在として造られた」という意味に違いありません。だからこそ私たちが『みだらなお楽しみ』(深酒や麻薬、不倫など)に没頭している時、心のどこかで『うしろめたさ』を感じたり、「これではいけない!」という叫びにハッとしたりするのです。 『幸福感』というものは、私たちが自分の力で生み出すものではなく、私たちが神の望まれる通りに生きている時に、神の許から注がれてくる『祝福』なのです。私たちが『聖さ』を求めて生きる時、実は私たちはこの神からの祝福を受け取るための風呂敷を広げているのです。「正しく生きること」は決して私たちの楽しみを奪うものではなく、かえって私たちを「変わることのない喜びの道」へと導いてくれる道先案内人なのです。

2014年10月5日 「キリストとともに」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「キリストとともに」     (05/10/2014) [コロサイ 2:6~15] *『キリスト』という語が13回出てくる。特に「キリストとともに」[12節]という表現に注目! ◆『洗礼』の意義 ・「命令」「模範」「告白」の他に、『象徴』という意義がある。 ①罪ある、さばかれるべき古い自分は、キリストと共に十字架にかけられて死んだ。 ②キリストを救い主として信じた私たちは、キリストと共に「神の前に罪なき者」としてよみがえらされた。 ◆『だましごとの哲学』とは?[8節] ・「自分の力」を強調し、キリストと共に十字架につけられた『古い自分』を刺激して目覚めさせようとする教え。 ・悪魔は私たちの目を古い自分に向けさせ、罪責感に陥らせようとするが、私たちの債務証書は神の御手に よって既に十字架に釘付けにされた![14節] ◆キリストとともに ・「キリストと共に生きる」とは、「私たちがどう生きるか」よりもむしろ「神が私たちをどうご覧になっているか」とい うことと深い関係がある。キリストが私たちと共におられるが故に、御父はキリストをご覧になるのと全く同じ目 で私たちをもご覧になる。[Ⅰヨハネ4:17] ・私たちに必要なのは「努力」ではなく『自覚』。イエスが地上を歩まれた時、父なる神に認められるために「努力」 する必要はなかった。ただ「神のひとり子としての自覚」をもって歩まれた。私たちも同様である。「神の子とされ ている自覚」「王の王の子であるという自覚」そして「クライスト・キャリアーとしての自覚」を持って生きよう!   Outline of the sermon     “With Christ.”   (05/10/2014) [Colossians 2:6~15] *The word “Christ” appears 13 times.  Take notice of the expression, “with Christ”! ◆ Why “Baptism”? ・Because it is ‘commanded’, ‘modeled by Read more…

(142) “あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。”

ある人が懐中電灯に新品の乾電池を入れたまますっかり忘れて引き出しの中に1年以上放っておいたそうです。ある時引き出しを整理しているときにその懐中電灯を見つけたのでスイッチを入れてみたら、電気がつきませんでした。念のため中身を確かめたところ、乾電池は中身の液体が染み出してしまっていて使い物にならなくなっていました。引き出しは暖かな部屋の中にあり、周りには害になるようなものは何もなかったにも関らずにです。 乾電池は「暖かくて安全な場所に放置されるため」に設計されてはいません。イザという時に『用いられるため・使われるため』にデザインされ、作られたのです。私たちの人生に関しても同じことが言えます。聖書は私たちのことを「神と人とに仕えるために生まれた」と表現しています。私たちは居心地の良い場所で安穏と過ごすようにはデザインされていません。互いに愛し合い仕え合うようにと『愛の神』の御手によって心を込めて造られたのです。ところが私たちはしばしば自分自身のことに夢中になりすぎてそのことをすっかり忘れ、周囲に私たちの助けを必要としている人がいても「私は今自分のことで忙しいから、誰か他の人に頼んで!」とすげなくあしらってしまいがちではないでしょうか? 神様から与えられている貴重な1日1日を「ごめん、今ちょっと手が放せない!」というようなことでいっぱいにしてしまわないようにしましょう。神様が助けを必要としている人をあなたの側に送られたとき、喜んで助けの手を差し出すことのできる人は幸いです。

2014年9月28日 「イエス・キリストが中心」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「イエス・キリストが中心」     (28/09/2014) [コロサイ 1:24~2:5] *先週の『御子』ほどではないが、『苦』と『奥義』という2つの語が繰り返し出てくる。 ◆パウロの『苦しみ』とは?[24節] ・「キリストの苦しみの欠けたところ」とは、「キリストは『救いのみわざ』を完成できなかった」という意味ではなく その『福音』を「異邦人にまでも宣べ伝える」というわざをパウロに委ねられたということ。 ・パウロがもし「律法による救い」と宣べ伝えていたなら苦労はなかったし、また「ユダヤ人の中だけで」働いて いたなら、迫害を受けることもなかった。 ◆『奥義』とは?[27節] ・『奥義』 = イエス・キリスト。この方が私たちの内に住まわれる故に、すべての人は「ユダヤ人・異邦人の区 別なく、律法の行ないなしに救われる」という事実!私たちの救いは、ただこの方だけによる。[使徒4:12] ・教会(私たち)は「キリストが成し遂げられたわざ」のみに依存しているからこそ『キリストのからだ』と呼ばれる。 ◆イエス・キリストが中心 (主イエスを中心とした「3つの関係」) ①キリストを通して『神』を見る。[コロサイ2:9] ・「神とはどういう方なのか?」を知りたいなら、キリストを見ればよい。(毎日福音書を読もう!) ②キリストを通して『自分自身』を見る。[Ⅱコリント4:7] ・私たちはこの宝(キリスト)をお入れしているからこそ、尊い存在。この方を見失わないで![ヘブル13:5] ③キリストを通して『隣人』を見る。[ローマ14:1-3, 15] ・あなたにとって有益か否かではなく「主イエスが代わりに死なれたほどの人」だから。[ローマ8:33-34] ✯それほどまでにイエスが愛しておられるお互いのために、祈り合い、助け合って行きましょう!   Outline of the sermon   “Jesus Christ is the center!”  (28/09/2014) [Colossians 1:24~2:5] *There are 2 key words; “struggle” and “the mystery”. ◆What was Paul’s struggle?[verse Read more…

(141) “ことばが多いと愚かな者の声となる。”

2匹のガチョウが南へ下る旅の準備をしていると、1匹のカエルが近づいてきて、自分も一緒に連れて行ってくれるように頼みました。ガチョウたちが「一体どうやってそんなことができるのか?」と尋ねると、カエルは答えました。「簡単だよ。キミたち2匹が1本の枝の両端をくちばしにくわえながら並んで飛んで、ボクがその真ん中を加えていればいいのさ!」 2匹のガチョウはその言うとおりにし、3匹が見事なチームワークで大空を渡っていると、下から見上げていた人々が感動のあまり言いました。「これはスゴイ!一体誰があんな名案を考え付いたんだろう?」 これを聞いたカエルは、つい調子に乗って大口を開けて叫んでしまったのです。「ボクだよ、ボク!」(この後カエルがどうなったかは、お分かりになりますよね?) ほとんどの場合『聞くこと』は『語ること』に優っています。聞く耳を持たずに話してばかりいる人からは最終的に人々が離れていきます。神は私たちに「耳を2つ」そして「口は1つだけ」お与えになりました。あたかも「語るより2倍聞くように」と命じておられるかのようではありませんか! 私たちの人生は日々が新たな学習です。しかしもし私たちがいつも「自分が何を話すか」ということにばかり思いを巡らせていたら、多くのことを学ぶことはできません。ほとんどのレッスンは『聞くこと』からやって来るのです。事実、その人の成熟度は「どれほどのことを教えることができるか」ではなく、「どれだけ人々に対して聞く耳を持っているか」で表されます。 神様はいつでも私たちの祈りを聞き、私たちの心の叫びに耳を傾けてくださっています。そしてまた、私たちが人々のつぶやき、そして神からの語りかけに耳をすますことを期待しておられるのです。