(350) “あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。”

ある女性が花屋に2種類の花束を注文しました。1つは最近新しい場所に新店舗を開いた友人のため、もう1つは別の友人のお葬式に贈る花束でした。ところがあろうことか、花屋さんの手違いでこれらの花束がそれぞれ逆の送り先へと送り届けられてしまったのです!葬儀の場所で受付をしていた人が、届いた花束に添えられていたメッセージを読むと、こう書いてありました。「以前よりステキな新しい場所への移転、おめでとうございます!」 私たち日本人は『死』という話題を極端に避けたがります。数字の『4』は「し」と発音されるため『死』を想起させるので、病院やホテルに4号室が無かったりするほどです。しかし、イエス・キリストを救い主と受け入れた人々にとって『死』はもはや「恐怖」ではなく、むしろ「希望」とも呼べるべきものです。何故なら聖書は彼らに『天国行き』を約束しており、そこには「もはや悲しみも叫びも苦しみもない」と書いてあるからです。まさに「もっと良い新しい場所への引越し」なのです。 もちろん、イエス・キリストを信じて生きる者にとって「天国へ行けること」は全てではありませんが、この地上において神との関係の中に生き、後の世では「神が私たちのために特別に備えてくださっている、今よりもずっと素晴らしい場所へ行ける」、こんなステキな希望を抱いてこの世での終わりを迎えられるなんて、素晴らしいと思いませんか?

(349) “イエスは彼に言われた。「良くなりたいか?」”

ある日イエス・キリストが神殿の中を散歩していると、38年もの間寝たきりで、人々の助け無しには生活できないでいる男に出会いました。表題の言葉は、その時にイエスがその男にかけた言葉です。あなたがその男だったら、どんな反応をするでしょうか? 答えは明らかなように思えますが、実際この男は体以上に心が病んでしまっていました。この病があまりにも長い期間続いたので「オレがこんなになってしまったのは、環境のせい、周囲の人のせい、世間の冷たい扱いのせい」のように感じてしまっていたのです。 私たちは皆人生において、少なくとも2つの責任を負っています。1つは「自分の態度に対する責任」、そしてもう1つは「自分の選択に対する責任」です。どんな人にも少なからず「嬉しくない出来事」が起こります。そんな時私たちは当然ガッカリしたり落ち込んだりしますが、もしその出来事から20年経った後も「あの時にあんな出来事が起こったばっかりに、私の人生はこんなになってしまった…」とクヨクヨしているとしたら、それはもはや『出来事そのもの』のせいではなく、『自分の選択』の結果なのです。何故こんなことが起こるのでしょう?それは『自分の態度』が「前向き」ではなく「後ろ向き」だから、すなわち「そのような出来事が自分の人生に起こった事を赦せないでいる」のが原因です。 私たちはしばしば『誰か』を赦せなかったり『起こった出来事』を赦せなかったりします。そして「赦さないでいること」によって自分を相手より優位においている気がしていますが、実際は『赦さないでいる相手の奴隷』になってしまっているのです。もしあなたが「赦せないでいる相手」が謝罪しに来てくれるのを待ち続けているとしたら、それは時間の無駄です! イエスはこの『38年寝たきりの男』に「起きて床を取り上げて、歩きなさい!」と命じられました。すると何と彼はすぐに治って歩き始めたのです。イエスは私たちの肉体的な病を癒すだけでなく、私たちの『誤った人生の方向性』をも矯正してくださる方なのです!

(348) “あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前を真っ直ぐに見よ。”

「照準を合わせる」というと、何か拳銃で狙い撃ちでもしようとしているかに聞こえますが、これは豊かな人生を生きる上でも大変重要なことです。どんなに美しい被写体を捉えていてもフォーカスがブレていてはステキな写真を撮ることはできませんよね? 私たちの『フォーカス』を狂わせるのは、必ずしもテクニックではなく、むしろ私たちの内面的な問題です。心の平安を失っていたり、何らかの思い煩いに捕らわれていたりすると、本来集中するべき目標に集中できなくなるのです。特に現代のようなスピード社会では「緊急を要する(と思い込んでいること)」を優先させるがあまり「本当に大切なもの」が軽んじられがちです。大抵の『緊急事項』は「本当に大切な事項」をちゃんと押さえておくなら、必ず後で取り戻せるものなのですが、逆に『緊急事項』に振り回されて「本当に大切な事項」を後回しにしてしまうと、取り返しのつかない失敗を犯してしまう危険性があるのです。 『天地創造の神様』を知るようになると、心の深い部分に静かな「平安の川」が流れるようになります。私もイエス・キリストを信じて生きるようになってからは、以前よりもかなり『楽観的』になりました。(まあ、妻の影響も多大にあると思いますが…)そうすると周囲で多少のことが起こっても「人生のフォーカス」がブレなくなってきたのです。そして1つ1つのことをじっくり丁寧に成し遂げることができるようになり、人生のクウォリティも上がってきました。私は皆さんにもぜひそのような「ブレのない人生」を送っていただきたいと心から願っています。

(347) “だれでもこの子供のように自分を低くする人が、天の御国で1番偉いのです。”

今週も「子供らしさから学ぶ内容」です。 ある時弟子たちがイエスに尋ねました。「先生、天の御国では一体だれが1番偉いのですか?」彼らの関心は、自分たち弟子たちの間で誰が最もイエスの評価を受けているかを知ることでした。これに対してイエスは、側にいた幼子を1人呼び寄せて上記のことばを言われたわけです。 一体イエス・キリストの目には『子供らしさ』がどのように映っていたのでしょう?それは恐らく次のような点であったと思われます。  ①『今』に夢中になれる ・子供たちの『創造性』には本当に驚かされます。私たち大人はつい「流行のおもちゃ」を買い与えようとしますが、彼らはその辺に転がっているガラクタでも様々な遊び方を『発明(?)』します。そして彼らの辞書には「ほどほど」という文字はありません。彼らは「トコトン・思い切り」遊ぶのです。たとえ周囲の大人が「あんなくだらないことをやっている」と蔑んだとしても、彼らは少しも気に留めたりしないのです。  ②すぐに仲直りできる ・幼い子供でも喧嘩や仲違いをしますが、同時に直ぐに仲直りもします。「ついさっき喧嘩していたと思ったら、もう一緒に仲良く遊んでいる!」とこちらが驚かされます。彼らはいつまでも相手を恨み続けたり、相手に迷惑をかけてしまったことをいじいじと悩み続けたりはしないのです。  ③親に対する無条件の信頼 ・幼子の親に対する信頼は絶対的です。「お父さんの言うことはいつでも正しい。お母さんはいつでも1番良い物をくれる」彼らはそう信じきって疑いません。そして私たちの天の父なる神は、私たちのそのような信仰を喜んでくださるのです。 最近はそのような信頼を裏切るような親が増えてきているようで、本当に心が痛みます。幼子の心が壊されかけていることを、神様は何よりも悲しんでおられるのではないでしょうか?

(346) “主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。”

私たちがまだ無邪気な子供の頃、児童公園に行くとまずブランコへ行ってひとしきり楽しんだ後、次はジャングルジムへ行って上り下りし、そしてまた滑り台へ向かって懲りずに何度も滑ってはまた登るを繰り返したものです。一方、同行した大人の方は「もうその滑り台をもう1回滑ったら終わりだぞ」とか「あと5分したら帰るからね」などと何とか制限を加えようとし、それに対して子供の方は「あと1回だけ、あと1回だけ」を繰り返しながら飽くなき抵抗をするわけです。 これらの「疲れを知らずに次の目標を追い続ける子供たち」は、一体いつの間に「(歪んだ)現実を突き付けて夢をあきらめさせる大人」へと『成長(堕落?)』してしまうのでしょうか?彼らは一体「何を得、何を失って」しまったのでしょう? 「攻撃は最大の防御である」と言われます。サッカーの試合などで終盤を迎えると、1点リードしているチームはしばしば同点に追いつかれることを恐れて『守りの体制』に入ってしまいます。すると負けている方のチームは「何としても得点しなければ!」と一斉攻撃をかけ、その防御の壁を見事に破ってしまうことがあるものです。すなわち『失うことを恐れない積極性』は『失敗を恐れる消極性』に優っているのです。 私たちの人生にも同じことが言えるのではないでしょうか?失敗や失うことを恐れるがあまり、新たな挑戦や積極的姿勢をあきらめて、早々と『守りの体制』に入ってしまう人は、神がその人に与えておられる「豊かな可能性」を花開かせることなく、悪くすれば「後悔に満ちた終局」を迎えることになるかもしれません。 神と共に歩む人生は、「失敗のない人生」ではありません。それは「失敗を恐れない人生」です。神があなたの『とりで』となって、決してあなたが致命傷を受けることがないように守っていてくださるからです。『真の成功・勝利』とは「何かを成し遂げること」ではなく、「いつも次の挑戦を目指して前進し続ける積極的姿勢」なのです。

(345) “友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。”

現在ここクライストチャーチでは、悪い『流感』が流行っています。大抵の場合まず子供が学校でウイルスをもらってきて、それが家族中にうつって行くというよくあるパターンです。 流感と同じように、私たちの「日頃の習慣」というものも周りにうつって行きます。専門用語では『精神的感染』というようですが、それは「腐ったリンゴを他のリンゴと一緒に置いておくと、他のリンゴも段々腐って行く」のと同様な現象です。 例えば、ある営業所に1人のとてもネガティブ思考の人がいて「こんな品物をどんなに宣伝したところで決して売れやしないよ」というような否定的な言動を毎日繰り返していたとしたら、その営業所全体の営業成績はドンドン落ち込んで行きます。またあるお店で販売員がいつも愚痴ばかりこぼしながら商品を販売していたら、お客の足はそのお店からだんだん遠のいて行くことでしょう。 私たち人間は『創造主なる神』のかたちに似せて造られました。ですから私たち自身の中には周囲に影響を与える力を持った『創造性』が内蔵されているのです。それは用い方によって良い影響も悪い影響も及ぼすことのできる力です。周囲を腐らせるバイ菌のような働きをすることもあるし、よどんでいる空気を一掃するビタミン剤のような力を発揮することもあるのです。 ではどのようにして『周囲を生かすビタミン剤』のような生き方ができるでしょう?2つの方法があります。まず1つ目は「友人を選んで付き合う」ということです。あなたの思いを『下向き』ではなく『上向き』にしてくれるような、互いに励まし合える人と多くの時間を過ごすことは大きな助けになります。そしてもう1つは「創造主である神と日々向き合いながら生きる」ということです。朝ごとに神様から「永遠に変わらない平安・希望・愛」を浴びせられながら1日をスタートすることは「創造主に似せられて造られた者」として欠かせない日課なのです。

(344) “神はあなたがたに、試練と共に脱出の道も備えていてくださいます。”

問題点を指摘し、文句を言うことは誰にでもできます。しかし問題点を見つけ、その解決法を探り、実際的な解決に至る人は、残念ながらあまり多くはありません。 20世紀初頭、オハイオ州の学校で用務員をしていた「ジェーム・マーレー・スパングラー」は1つの悩みを抱えていました。彼の主な役割の1つに「学校の廊下の掃除」があったのですが、実は彼は「埃アレルギー」だったのです。その当時『掃除』といえば「掃き掃除」しかなく、彼は毎日廊下を掃きながら「何とか埃を舞い上がらせずにキレイに掃除する方法はないものか?」と考えあぐねていました。するとある日彼が神に祈っている時に1つのアイディアがひらめいたのです。「埃を掃く代わりに、吸い込んでしまったらどうだろう?」彼は扇風機や枕カバーなどを使って「埃を吸い込んでキレイにするシステム」を開発しました。これが現在の『電気掃除機』の原型です。 私たちは人生の中で様々な問題や困難に直面します。そんな時私たちはつい「神様、どうしてですか?」と文句を言いがちですが、神は実はそれらの試練の中に「私たちを向上させるチャンス」を隠しておられるのです。そしてそれを見つけることができるのは、物事の否定的な面ばかりでなく、「神は良い方であり、私のために最善の道を用意してくださっている」と信じて生きる人たちなのです。

(343) “人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。”

基本的に私たち人間は『わがまま』な生き物です。ですから知らず知らずのうちに「世の中が自分の思い通りに動いてくれないこと」に腹を立てている自分を発見したりします。そんな時に私たちは大抵周囲のせいにしたり、世間をうらんだり、自分の生い立ちを呪ったり、果てには信じてもいない『神』を罵ったりします。 キリストの使徒パウロは、ローマにある教会宛に書き送った手紙の中で「近い将来スペインに行く予定があるので、その途中で必ずあなた方の教会に立ち寄りますね」と約束しましたが、それは決して実現しませんでした。何故なら彼はその手紙を書いた後、捕らえられて投獄されてしまったからです。しかしその投獄中に彼は現在聖書の中に遺されている多くの優れた書簡を書き綴ったのです。必ずしも「私たちの計画がくずれること」が「私たちの人生を不幸に陥れる結果」になるとは限らないのです。もしアナタが「人生が思い通りにならないことに対する不平不満」ばかりを思い巡らし、それらの『計画倒れ』から驚くべき祝福を生み出すことのできる神のわざを見つけることができないでいるのなら、それこそ「人生の大きな損失」です。 皆さんはあの美しい『真珠』がどのようにして作られるかご存知の事と思います。小さな砂粒などの「異物」が真珠貝の中に入り込んでしまった時、貝はその『痛み』の故にカルシウム分や有機質を分泌し、それらが何重もの層になって、やがてそれが美しい『真珠』となるわけです。言うなれば「想定外」のことが起こらなければ、あの美しい宝石は生まれないのです。 「苦しいときの神頼み」と言われますが、私たちは物事が自分の思い通りに進んでいる時には『神』の存在など忘れてしまうものです。しかし『神』はもしかしたら、そんな私たちにご自身を思い出して欲しくて、また私たちの人生を通して「私たちの思いを超えた豊かで美しいもの」を生み出したいがために、敢えて私たちの人生が「自分の思い通りに進まないこと」を許されるのではないでしょうか?

(342) “私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。”

皆さんは「こんな人になりたい」と思うようなモデルを持っていますか?または「自分が子供の頃はあの人のようになりたいと思っていた」というような歴史上の人物とか…。私は子供の頃『野口英世』に憧れて「大きくなったらお医者さんになって、奥地の人々を助けたい」と思っていました。幼い頃にいろりで手を大やけどするというハンディがありながら、その生涯を奥地医療にささげた彼に、心から尊敬の念を抱いていたのです。 現代の若者の多くが憧れるのは、どちらかというとそのような『歴史上の偉人』ではなく、「テレビや映画のスター」や「ユーチューバー」などになっているようです。ちょっと残念な気がします。でももしかすると若者たちがそのような存在に惹かれて行ってしまうのは、身近に「あんな人になりたい!」と思わせる存在がいないからなのかもしれません。 キリストの使徒パウロは「私のようになってください!」と言いました。それは何もエラぶった態度なわけではなく、彼自身が目標としていた存在(イエス・キリスト)に絶対の自信と信頼を置いていたからです。そして恐らく彼自身も、その目標としていたキリストに近づくごとに「大きな喜びと興奮」を味わっていたからに違いありません。実はその『喜びと興奮』は私自身も日々味わっているものなのです。 私たちの周囲の若者たちが「正しい目標に向かって進んで行くため」に、まず私たち自身が『優れたモデル』に倣いながら日々を歩み、次世代を担う人々が憧れるような存在へと成長して行こうではありませんか。

(341) “しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出てくる。”

もしあなたが自分の人生を評価するときに、「他人の人生と比べて一喜一憂している」とすれば、何かが間違っています。何故なら神様はあなたをユニークな存在としてお造りになり、あなたのために「他の人とは違うユニークな人生の計画」を持っておられるのですから。 神様は私たちの思いを超えて働かれる方ですから、神に従って生きる人生は時々私たちの考えとは違っていて戸惑うことがあるかもしれません。でも神様は良いお方ですから、あなたの人生をもてあそんだり台無しにしたりは決してなさいません。ただ彼は私たちに「信頼して従うこと」のみを要求しておられるのです。 上記のことばは、聖書に登場する信仰深い人物の1人『ヨブ』という人が遺した言葉ですが、ここから3つのことを学ぶことができます。 ①「神様は、あなたが今置かれている状況をよくご存知である」ということ。あなたが今体験していることは神様の深いご計画の1部です。神様がうっかり目を離している隙に起こってしまったアクシデントなどではありません。たとえ今起こっていることをあなたが理解できなかったとしても、神様にはちゃんと分かっているので、ただ信頼して従えば良いのです。 ②「神様は私たちを試す方である」ということ。私たちの人生には『予期せぬ試練』が起こることがあります。そしてそんな状況に直面すると私たちは「何か悪いことをしただろうか?」「神様がバチを当ててるのだろうか?」などと分析するのですが、そうではありません。この世の価値観に凝り固まっているアナタを「神のご計画を担う存在」へと練り直すために、しばしば神様は『試練』を用いられます。でも心配することはありません。神様はいつでもちょうど良いタイミングでそれを私たちの人生に送られ、またちょうど良いタイミングに終わらせてくださるからです。 ③「神は私たちを成長させる」ということ。美しい金銀や宝石が、初めはどれほどたわいもない原石だったか想像がつくでしょうか?同じように、神様は『試練』を通して「たわいもない私たち」を『輝く神の作品』へと造り変えることができるのです。神への信頼と愛情が増し加えられ、状況に左右されることのない平安と内側からあふれ出てくる喜びとに満たされて『豊かないのち』に満たされるのです。 あなたの人生を正しく評価し、また矯正することのできるお方は神様だけです。他の人々の評価を気にする必要はありません。かえって人々は、神様に磨かれたアナタを見て「まるで別人みたい!一体何が起こったの?」と尋ねるでしょう。その時あなたは言うのです。「あなたも人生を神様に委ねてみたら?」と。