(269) “初めに、神が天と地を創造した。”

どういった理由かは分かりませんが、「聖書は非科学的な書物である」と思い込んでいる人がいるようです。聖書を専門的に学んでいる者として、そのように言う人は「聖書のことをよく知らないで言っている」と判断せざるを得ません。事実、科学的な発見が進むにつれて「何千年も前から聖書に書かれていた記述は事実であった」ということが次々と証明されているのです。 大昔には、地球は巨大な動物または巨人に担がれていると信じられていました。自分たちの住む地上が空中にプカプカ浮かんでいるなどとは誰も信じられなかったのです。しかし聖書の中でも最も古く、BC1500年頃に書かれた『ヨブ記』という書物の中には「神はこの地を何もない上に掛けられた」と書かれています。この事実が科学的に発見されたのは実にそれから3000年以上も経ったAD1650年のことです。天地を造られた神は、当然の事ながら誰よりも先にそのことを知っていたのです。 また新約聖書の「ヘブル人への手紙」には、「神は目に見えないものを用いて、目に見えるこの世界を造られた」と述べられています。この世界の目にみえるすべてのものが、目に見えない微粒子である『原子』というものによって構成されていることが科学的に知られるようになったのはつい最近のことです。 そして「地球は平面ではなく球体である」ということを自らの大航海によって証明した、皆さんもよくご存知の『コロンブス』は敬虔なクリスチャンで、彼は旧約聖書のイザヤ書にある「神はこの丸い地上の遥か上空に住まわれる」という記述からヒントを得ました。この聖書の記述はBC700年頃に書かれたもので、歴史上始めて「地球は球体かもしれない」と提唱したアリストテレスよりも300年以上前のものです。コロンブスはその航海日誌の中で次のように書いています。「この思いを私の心に抱かせたのは、他ならぬ『天地の造り主である神』である。確かに彼の御手が私の上にあるのを感じる。神は聖霊によってご自身の聖なるみことばを通し、私にこの確信を与えてくださったのだから。」 もし今度どこかで「聖書は非科学的だ」などと言う人に出くわしたなら、ぜひ優しく教えてください。「でもね、多くの偉大な科学的発見は、実は聖書をヒントにして見い出されたらしいよ」と。

(268) “あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。”

「神を信じたら、人生は問題がなくなる」と期待して、信仰の道に入る人がいます。しかし実際には問題はなくなりません。むしろ信仰の故に試練が増すかもしれません。それでは『神を信じること』を通して何が変わるのでしょうか?それは、私たちの視点が「私たちの周囲の状況を変えてくださる神」から「周囲の状況を通して私たち自身を造り変えてくださる神」へと移行させられるのです。 もちろん神様は私たちを愛しておられるので、しばしば私たちを不必要な危険から守ってくださいます。しかし神様が求めておられるのは、私たちが単に「安全で苦労のない人生を歩むこと」ではなく、「日々神に信頼し、そのみこころを求め、神から与えられている潜在能力を最大限に生かして生きるようになること」なのです。そのために神は、敢えて私たちが人生の試練に遭遇することを良しとされ、時間をかけてじっくりと私たちをご自身の『最高傑作』へと造り上げていかれるのです。 錬金術師は、鉱石が純金となるためにどれだけの時間火の中に置かれていなければならないかを知っていますし、陶器師も土の塊がどれだけ窯の中にいなければ美しい作品へと仕上がらないかを知っています。もし「熱くて可愛そうだ!」と言って中途半端なタイミングで取り出してしまったら、すべてが台無しになってしまいます。 神様はどんな錬金術師や陶器師よりも優れた知恵と深い愛をもって私たちを「ご自身の最高傑作」へと今日も造り変えてくださっています。神様が与えておられる『試練の火の温度』や『取り出すタイミング』は絶妙で完璧です。ですからぜひ、試練の中にあって「早く過ぎ去ること」ばかりを考えないで、「このことを通して神様が私に与えてくださっているレッスンは何だろう?」と思いを馳せてみると良いと思います。

(267) “主の良くしてくださったことを何1つ忘れるな。”

ある警察官が町内を巡回していると、1人の男が非常にガッカリした顔つきで公園のベンチに座っているのを見かけました。ちょっと心配になった警官は男に近づいて話しかけました。「何か心配事があるんですか?」男は答えました。「はい。実は数ヶ月前に祖父が亡くなり、私に500万円の遺産を遺してくれたんです。」警官は答えました。「あまり落ち込む原因には聞こえませんが?」「いや、話を最後まで聞いてください。」男は続けました。「実はそれに続いて先月にも伯父が亡くなり、私に1000万円近くの遺産を遺してくれたんです。」「なるほど、数ヶ月のうちに2人も身内の方が亡くなられたのは残念ですが、でもやはりそこまで落ち込むほどのことではないように聞こえますが…。もしかして、まだ他にもどなたか亡くなられたとか?」「そこなんです!」男は力を込めて答えました。「今月はまだ、誰も私に遺産を遺してくれていないんです!」 世の中には「物事の否定的な面」しか見ることができずに、自分で人生を暗くしてしまっている人たちがいるものです。あなたはそんなワナに捕まってはいませんか? 聖書は「神が良くしてくださったことを何1つ忘れるな!」と命じています。これは何も神様が私たちに「恩を着せよう」としているわけではなく、私たちの心が「下向き・内向き」にならないようにするためです。神様は『恵み』と『憐れみ』に満ちた方なのです。『恵み』というのは、「私たちには受ける資格がないのに、神様が敢えて与えてくださっているもの」(愛、赦し、平安、解放、喜び 等々)を指し、『憐れみ』というのは、逆に「私たちが当然受けるはずであったもの(罪に対する罰、神の怒り、さばき 等々)を神様が受けないで済むようにしてくださっていること」を指します。 古い讃美歌に「神様の恵みを1つ1つ数えてご覧なさい」という内容のものがあります。私たちが日々の神の祝福を1つ1つ見つけていく時に、私たちの心は「上向き・外向き」にされて行き、周囲に希望を振りまいていけるようになるのです。

(266) “主の御告げ ― 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたしの手の中にある。”

多くの人は「新しい自分になりたい!」と願う一方で、『変化』を嫌います。「悪いところを改善したい」と切望しますが、そのために払う犠牲は最小限に食い止めたいと思うものです。 私たちが神を信じ神に従うようになると、しばしば「安楽な人生」ではなく「試練に満ちた人生」に直面します。きっと多くの方々は「こんなはずではなかった。何かが間違っているのではないか?」と感じるのではないでしょうか?でも心配はありません。それらは起こるべくして起こっているのですから。 聖書は「神の御手の中に委ねられた私たちの人生」のことを、「陶器師の手の中にある粘土」にたとえています。陶器師が自分の目指す『最高傑作』を造り出すために行う最初のプロセスは、まず粘土を十分にこねて、中にある空気などの不純物を追い出すことです。そうしないと、作品の形が出来上がって窯で焼くときに、中の空気が膨張して、せっかくの作品が壊れてしまうからです。同様に、私たちは「こねられている時」は、やがて出来上がる形が見えていませんから、ただ居心地が悪いだけで、その手の中から逃げ出したくなるかもしれません。でも「神様は良い方だから、きっと最終的に素晴らしい結果を生み出してくださるに違いない」と最後まで信じて神の御手の中にとどまり続けるなら、私たちは自分の思いを超えた神様のみわざが自分の人生を通して成し遂げられるのを体験できるのです。 偉大なキリスト教指導者の1人が次のように言っています。「単に問題から逃れることだけを求めるのではなく、むしろその問題を解決できる者となることを求めなさい。自分の人生に有益な環境を求めるだけでなく、周囲の環境さえも変えることのできる者となることを求めなさい。同じ事を繰り返しながらより良い結果を求めるだけでなく、思いもよらない結果を得るために新たなことにチャレンジしなさい。何故なら、更に偉大な結果を得るために当然払うべき犠牲を払わないことは、何の成長もない人生のために時間を浪費していることと同じなのだから。」 変化を恐れないで、『良き神様』に信頼して、その力強い御手の中にとどまり続けましょう!

(265) “何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる。”

  「神様に願い事をしたのに叶えてもらえなかったこと」に対して文句を言う人たちはたくさんいますが、「神が願い事を叶えてくれてしまったこと」に文句を言う人はあまりいませんよね?「そんな人いるわけないじゃん!」と思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか? こんなことを言っていた人がいました。「神様がすべての私の祈りを叶えてくれなくて本当に良かった。でなければ、私は何度も間違った人と結婚していたに違いない」と。あなたは「あの時のあの祈りが文字通り答えられてしまっていたら、とんでもないことになっていた」と思い当たることは全くないでしょうか? 私たちはしばしば『自分の本当の必要』を理解していません。この天地万物を造り、私たちをも生み出してくださった神様は「最高に良いお方」ですから、私たちの『最善』だけを願ってくださっています。ですから、私たちが『最善以下』を祈り求めている時は、その祈りに答えないでいることをじっと耐えておられるのです。 そもそも『祈り』とは何でしょう?私たちは『祈り』と『願い事』をほとんど同じ意味で用いますが、実はこの2つは全く別のものです。『祈り』は言わば「神様とのコミュニケーション」であり、私たちが『神様』という方をより深く知るために欠かせない営みです。私たちは『祈り』によって神様に近づき、その大きな愛に触れ、私たちのありのままを受け入れていただくことによって、深い平安を体験することができるのです。その上で私たちは「この方が与えてくださるものこそ、私にとって最高に『良いもの』なのだ」と確信し、『神のみこころ』を求めるようになるのです。 神様は、求める者には喜んでご自身の『みこころ』を「聖書のことば」や「祈り」を通して私たちに教えてくださいます。その『神のみこころ』に従って私たちが「願い求める」なら、神は「待ってました!」とばかりにその『祈り』に答えてくださる、これが聖書の約束なのです。

(264) “私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。”

1899年、アメリカの『特許局』が閉鎖に追い込まれそうな時期がありました。何故なら当時の最高理事であったチャールズ・ドゥエル氏が「可能性のあるすべての発明品は、発明尽くされた」と発表したからです。もちろんこのコメントは現代の文明発展から見れば「あきれるほど愚かしい」ものですが、もしかすると私たちの思いの中にも同様な『勘違い』が蝕んでいることがあるかもしれません。 私たちはしばしば自分自身に「そんなことは無理」「自分にそんな資格はない」「時間の無駄だ」「失敗したらどうする?」などと否定的なメッセージを送り続けることがあります。それはあたかも自分がやっと入れるサイズの箱の中に自分で閉じこもっておきながら「誰が自分をこの箱の中に閉じ込めたのだろう?」と問うているようなものです。 こんな話があります。生まれつき体の不自由な男の子がいました。母親が医者に診せたところ「これは今の医学では手の施しようがない」という診断でした。やむなく母親はその子を「車輪付きの木かご」に入れて、どこに行くにもそれを引きながら連れ回していました。やがて男の子は困ったことを始めました。体を激しく揺らして木かごを倒すのです。その度に母親は倒れた木かごを起こし、徐々に重くなる息子を抱き上げて木かごに戻さなければなりませんでした。同じような出来事が何度も繰り返された後、ある日同様に倒れた木かごから転がり出た男の子は、自分の足で立って木かごを起こし、自分でその上に這い上がったのです!やがてこの男の子は普通に歩けるようになったそうです。 もしかするとしばらくの間だけなら「箱の中に住む」のは居心地が良いかもしれません。しかし神はあなたを「箱の中で生きる」ようにはお造りになりませんでした。むしろ「神が与える果てしない可能性の中に生きる」ようにデザインされたのです。「箱の中」に閉じ込めたのは誰でもありません。他ならぬあなた自身なのです。ですから恐れないでその箱から破り出て、「不可能を可能にされる神」がお定めになった『フルサイズの人生』へともう1度チャレンジしてみましょう!

(262) “恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。”

私自身は確かめたことはありませんが、聞いた所によると聖書の中には『恐れるな』という表現が365回出てくるそうです。それはあたかも神様が私たち1人1人に毎日「恐れる必要はないんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。 聖書の神は、ただ単に「気休め」のつもりで『恐れるな』と言ってくださっているのではなく、ちゃんとした根拠をもってそう語りかけてくださっています。その根拠というのは、「あなたはわたしのものだから、必ずわたしが守る」という約束に基づいているのです。 私たちすべての人間はこの『創造主なる神』によって造られました。ですから元来私たちは全員「神のもの」です。しかし神は敢えて私たちがご自身にとってどれほどに価値有る存在であるかを示すために、私たちのために代価を支払ってくださいました。『贖う』ということばは「代価を支払って購入すること」を表す古い表現です。そして神様は私たちを『贖う』ために、ご自身のひとり子(イエス・キリスト)のいのちを支払われたのです。私たち1人1人は、この天地万物を造られた唯一まことの神の前に、それほどに価値有る存在なのです! 「私には自分がそれほどの価値がある者とは思えない。」あなたはそうおっしゃるかもしれません。実際、この世の多くの人々や社会は「能力」「財産」「経歴」などによって人間の価値を測り、しばしば自分自身の足りなさを認めたくないがために他の人をこき下ろそうとしたりします。しかし『人間の真価』を正しく評価することができる存在は、私たちをお造りになり、しかも私たちの「隠れた行いや可能性」さえをもご存知の神様以外にあり得ないのです。彼が私たちに対して下す評価の前には、他の人々の評価などは全く注目するに値しません! もし今日あなたが「自分自身の内なる声」や「周囲の人々の声」から注意をそらして、「あなたはわたしのものだ。恐れるな。」と呼びかけてくださる『創造主なる神のことば』に心を向けるなら、あなたは正しい自己評価を持って残る人生を雄々しく歩んで行くことができるのです。

(261) “先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。”

あるコメディアンがこんなジョークを言ったそうです。「私が結婚する時に、ぜひ欲しいウェディング・ギフトは『結婚式の録画ビデオ』です。というのは、結婚生活がいよいよ破局に陥った時、1人きりで部屋にこもってそのビデオを逆回しに再生し、独身だった自分に戻って再び自由を謳歌するためです!」 このジョークを聞いて思わず笑いそうになってしまいますが、実際は私たちは過去に戻って人生をやり直すことはできません。いやむしろ、そのような「後ろ向きの姿勢」で生きていたら、決して豊かな未来を迎えることはできません。私たちは「過去に憧れる」のではなく、「過去から学ぶ」べきなのです。私たちはしばしば「あぁ、こうなることが初めから分かっていたなら…」と言ってしまうことがありますが、もしそのような体験から何かを学び将来に生かして行かないなら、今後何回も同じ事を繰り返して言うことになるのです。「あぁ、もしあの時夫(または妻)に対して冷たい仕打ちをする代わりに、ただ赦すことができてさえいたら、今頃もっと豊かな結婚関係を築けていたかもしれないのに…」「もしあの時あの子を産んであげられていたら、今頃私の人生にはもっと喜びと平和がもたらされていたかもしれないのに…」 あなたの優しい良心は、そのような後悔の念にさいなまれてしまってはいませんか?「もしもあの時 …」「もしもっとこんな風に …」と。 あなたをお造りになり、今日もあなたをご自身の愛の内に招いておられる神は、聖書を通して次のように語りかけておられます。「イエス・キリストの十字架における身代わりの死によって、あなたの罪は赦された!」「わたしはあなたの罪をぬぐい去り、それらを2度と思い出さない」そして冒頭のように「過去のことを思い出すな。見よ。わたしは新しい事をする」と。 自分の手に届かない『過去』は「神様の全能の御手」にお任せし、過去の失敗から学んだ経験を生かして、神様が用意してくださっている『未来』に向かって今日も前進して行きましょう!

(260) “しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。”

私たちが生きている今の時代は、一見便利で豊かに見える反面、時代について行けない人を置いてきぼりにしたり、役に立ちそうもない人を切り捨てたりするむごい側面もあります。生産性・効率性を追求するがあまり「1人の人のためにじっくり待つ」という姿勢が愚かしく思われ、「他の人に頼むから、アナタはもういい!」と切り捨てられた経験からなかなか立ち直れない人も少なくないのではないでしょうか? このような時代であるからこそ求められるのは「誰のことば(評価)に耳を傾けるか?」ということです。自分勝手な視点からしか物事を見られない『人間の評価』なのか、それとも「あなたを形造り、あなたの真価をご存知である『創造主なる神の評価』」なのか、これが私たちの生き方(価値観)を大きく左右します。 『神の恵み』は、私たちの能力や才能によっては勝ち取ることができません。むしろ自分の弱さを認め、「神は良い方であり、決して私を辱めたり見捨てたりなさらない」という信頼の許に神に近づく者に注がれるのです。イエス・キリストは「もしあなたがたが私を信じるなら、あなたがたは『真理』を知るようになる。そしてその『真理』はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。人々のことば(評価)はその人の主観に基づいた一過性のものであって『真理』ではないのですから、恐れるには足りません。 人のことば(相対的評価)に振り回されるのはもうやめて、神のことば(絶対的・不変的評価)に耳を傾けつつ、あなたを通して働く神の豊かなみわざを待ち望む者になりましょう!

(259) “ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。”

聖書は「人間は生まれながらの罪人である」と指摘します。そしてそれは人類の始祖『アダムとエバ』以来、私たちの人間性の中に「罪を犯す傾向性」として巣食っています。 『アダムとエバ』が最初に犯した罪は「禁断の木の実を食べたことである」と描写されていますが、そのことを神から指摘された2人は早速その罪性を「自分の落ち度を他人のせいにする」という行動によって表現します。私たち人間はこんなに昔から「自分の非を簡単には認めない」という頑なさを固辞しているのです。 私たちが神の愛を知るようになり「神に喜ばれる者になりたい」と思い始めると、神はまずこの私たちの『頑なな心』から造り変えようとなさいます。ところが神はいつでも私たちの『自由意志』を尊重される方なので、無理やり私たちの心の中に入り込んでくるようなことはなさいません。私たちが自分から心を開いて「神様、こんな私を憐れんでください」と助けを求める時、神は喜んで私たちの心を優しく修復してくださるのです。 私たち人間は、どういうわけか自分の落ち度を責められると、自動的に『自己防衛スイッチ』が入り、言い訳をしたり、他人に罪をなすりつけたりしようとします。神はその性質をよくご存知だったので、敢えて私たちの罪をまず「十字架におけるイエス・キリストの身代わりの死」によって帳消しにし、もはや責められるところのない者としてくださった上で、私たちが恐れずに「自分の欠点や弱さ」を神の前に素直に告白できるようにしてくださったのです。 実際は、神の前に隠すことの出来るものは何もないのですが、神は敢えて私たちが幼子のように素直になって抱えている問題を自分から素直に告白できるようになるのを待っていてくださるのです。ですからもはや自分を無理に飾ることなく、ありのままの姿で神の前に進み出て、心のありのままを告白し、神に喜ばれる者へと変えていただきましょう。